🗡49〗─1─日本陸軍が考案した、ビタミン剤などのサプリメント、不洗米・乾燥野菜とインスタント食品・レトルト食品。~No.158No.159No.160 @ 

写真で見る日本陸軍兵営の食事

写真で見る日本陸軍兵営の食事

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本は、戦前から高度な科学技術を持ったもの作り国家であった。
 戦後の経済大国・科学立国・もの作り国家は、戦前の軍部が築いた基盤があってこその成果であった。
 戦前を暗黒時代と否定する日本人には、明日、未来はない。
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 『大日本帝国の発明』彩図社
 ・ビタミン剤の発明
 恐ろしい国民病
 脚気の治療法を探す
 戦前の日本には、2大国民病と呼ばれる病気があった。ひとつは結核、そしてもうひとつは「脚気」である。
 脚気はビタミンが不足することによって、心臓の働きが悪くなり、足がむくんで、最悪の場合は死に至るという病気である。
 栄養状況が良くなった現代では、脚気で死亡することはほとんどないが、戦前は違った。
 明治の初頭から日本では脚気が大流行し、毎年数千人から1万人以上が脚気で命を落としていた。当時はまだ脚気の原因がはっきりしておらず、治療法も確定していなかったため、重症化するとまず助からなかったのだ。
 とくにその被害が深刻だったのが、軍隊だった。日清戦争では、日本の陸軍は5,100人の死者を出した。そのうち、戦死者は1,100。残る4,000人の死因は脚気だった。
 当時、脚気の原因は「栄養不足説」と「伝染病説」の2つがあり、各々の説に立って世界中の研究者がその原因や予防法、治療法を探っていた。その中、脚気の原因がビタミン不足であることを突き止め、世界で初めてビタミンB1を発見し、ビタミン剤を発明したのが、東京帝国大学教授の鈴木梅太郎だった。
 米糟に予防成分が含まれることを発見
 鈴木は脚気の原因を探る際、あるエピソードを参考にした。
 脚気は江戸時代にも日本で流行しており、「江戸やまい」と呼ばれていた。なぜ「江戸やまい」なのかというと、不思議と地方から江戸に出てきた武士がかかったからである。
 鈴木はその原因が、白米食にあるのではないかと考えた。江戸時代の日本では、米を精米した白米を食べていたのは江戸ぐらいで、その他の地域は精米していない玄米を主食にしていたからだ。 
 鈴木はニワトリやハトを使って実験を始めた。一部には白米だけを食べさせ、残りには米糠や麦、玄米を与えてみた。すると、しばらくして白米だけを与えていたニワトリが脚気とよく似た症状を起こして死んでしまったのである。鈴木の読みは当たったのだ。
 明治43(1910)年、鈴木はこの研究をまとめると学会で発表。さらに研究を続け、米糠からオリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功し、ビタミンB1が脚気の予防に効くだけでなく、健康に不可欠なものであることを解明したのである。これは、現在の目から見ればノーベル賞級の大発見だった。
 報われなかったノーベル賞級の発明
 しかし、この世紀の発見は報われなかった。鈴木は明治44年にオリザニンの発見に関する発表を行ったが、「伝染病説」を支持する者が多かった日本の学会では興味を興味を示されず、ドイツの雑誌に小さな要約記事が載るだけで終わる。
 するとその4ヶ月後、ポーランドの生化学者カシミール・フンクが鈴木とそっくりの内容の研究報告をイギリスの生化学雑誌で発表した。
 翌年、鈴木の論文がドイツの生理学雑誌に紹介されたが、掲載がフンクの後だったため、鈴木は「真似」という汚名を着せられてしまう。このため、世界の化学の歴史のどこを見ても、ビタミンの発見において鈴木梅太郎の名前はほとんど見当たらない。ビタミンB1もフンクが発見者だとされている(フンクはビタミンという名前の名付け親でもある)。
 オリザニンは、脚気特効薬として三共から発売された。鈴木は臨床実験を呼びかけたが、脚気患者に対してはほとんど試されなかった。
 だが、カシミール・フンクの発表が欧米の学会で評価されると、日本でもようやく脚気が栄養不足によるものという認識が広まり、鈴木の発見も再評価されるようになる。
 大正13(1924)年には、鈴木はオリザニン発見で「日本のノーベル賞」といわれる帝国学士院賞。2年後には、オリザニンの製造法の発見に対し、帝国発明協会から恩賜紀念大賞が贈られている。
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 サプリメントの発祥は日本軍
 それは兵士の栄養管理から始まった。
 現在、世界中で愛用されている栄養補助食品「サプリメント」。
 栄養補助食品は、昔から似たものはあった。たとえば、肉体労働者が岩塩を舐めるなどというのも、栄養補助食品の原型だといえる。
 しかし、特定の栄養分を一定量摂取するために計算されて製造された近代的なサプリメントは、日本が最初につくったものである。
 そして、このサプリメントをつくったのは、戦前の日本軍なのである。
 驚くべきことに、日本軍は「特殊栄養食」と言われるサプリメントを携行していた。
 この「特殊栄養食」は、主にビタミン不足を補うために開発されたもので、現在の総合ビタミン剤と同様の効用を持つものだった。
 そもそもなぜ日本軍は世界に先駆けてサプリメントを開発していたのか?
 それは日本軍が脚気に悩まされていたからだ。日清、日露戦争では、日本軍は多数の兵士を脚気にかかっており、日清戦争では4,000人もの兵士が脚気によって病死している。戦死が1,100人程度なので、いかに脚気がダメージを与えたか、ということである。
 明治44(1911)年、都築甚之助博士や、鈴木梅太郎博士の研究により、脚気は栄養障害(ビタミン不足)によって起きるということが、ほぼ判明した。ビタミン不足が様々な病気を引き起こすこともわかってきた。
 日本軍の兵食を担った経理将校
 このビタミン不足を解消するために、日本軍は「特殊栄養食」を開発したのだ。
 この開発を担当したのは、日本軍の経理将校で農学博士の川島四郎である。
 川島四郎は、明治28(1895)年、京都に生まれる。中学校を卒業後、陸軍経理学校に入学、陸軍で経理の仕事をしていく過程で、糧食の研究をするようになり、陸軍から東京帝国大学農学部に派遣され、栄養学などを学ぶ。
 彼は昭和16(1941)年に「戦闘糧食に関する研究」という文書を発表している。これは近年、発掘されたものなのだが、当時の陸軍の糧食の内容、食に関する考え方がつぶさに述べられている。
 その文書の中で川島は「兵士は1日4,200〜5,100キロカロリーを必要とするが、持ち歩ける荷物には限りがあるので、少ないことは承知しているが3,000キロカロリーにしている」と書いている。
 携行食というのは、行軍中や戦闘中で、炊事による食事がとれない時に、食べるものである。戦闘中などは食事どころではないケースも多いはずだが、それでも3,000キロカロリーを摂れるようにしていたのだ。
 兵士を救うサプリメントの開発
 そして川島は、カロリーの摂取とともに、必要な栄養分を摂取できる携行食の研究も進めた。特にビタミンは脚気などに関係するため、陸軍にとって死活問題でもあった。
 当初は、ビタミンを携行食の中に添加するということが考えられた。しかし、ビタミンは酸化しやすく、熱にも弱く変質が早いため、携行食に添加しても効果があまりなかった。
 試行錯誤を重ね、濃縮卵黄に各種のビタミンを入れ、糖衣にして丸薬にするという方法がとられた。ビタミンAとビタミンD脂溶性があるので、濃縮卵黄に非常にマッチしたのである。この「特殊栄養食」の登場で、兵士たちの脚気などの疾患は激減したという。
 アメリカ軍は、戦争中に日本軍の「特殊栄養食」を捕獲し、その成分を調べたところ、その完成度の高さに驚愕した。
 戦後、進駐軍アメリカ武官が、川島のところに3度も研究資料を貸してくれるように頼みにきた。川島は2度断ったが、「人類のために役立てる」と説得されて3度目に提供したという。アメリカはこの「特殊栄養食」をヒントに、ビタミン剤やサプリメントを開発、それが世界中に広がったのである。
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 アドレナリンの発見
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 破傷風菌の発見
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 オギノ式避妊法の発明
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 赤痢菌の発見
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 ペースメーカーの原理の発見
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 インスタントコーヒーの発見
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 うまみの発見
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 乳酸菌飲料の発明
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 抗生物質の発明
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 発明大国の原点は明治維新
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 最初の近代的な農地解放を実行
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 アジア最高の教育制度があった
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 欧米の知識を素早く吸収した
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 自国で鉄道を敷設した
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 電気を素早く行きわたらせた
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 内面つや消し電球の発明
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 無線電話の実用化
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 電子式レテレビの発明
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 テレビアンテナの発明
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 ファックスの発明
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 乾電池の発明
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 シャープペンシルの発明
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 クレパスの発明
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 フェライトの発明
 クォーツ(水晶振動子)の実用化
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 小型ディーゼルエンジンの発明
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 真珠の養殖法の発明
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 自動織機の発明」
   ・   ・   ・    学研 「歴史群像」太平洋戦史シリーズ 39 『帝国陸軍 戦場の衣食住』 
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 昭和編
 陸軍野戦糧食史 
 機材・糧食の改良
 『満州事変』の勃発で風雲急を告げる時代を迎え、各種兵器とともに各種の兵站機器材・糧食等も改良、充実が図られた。
 ……
 新型の各種携帯口糧
 続いて、陸軍糧秣廠開発の新型の携帯口糧について見ていこう。
 乾麺麭
 昭和6年になって、携行口糧のメインである乾麺麭(かんめんぽう、乾パン)は従来の大型サイズから、現在も市販されている乾パンと同サイズの小型乾麺麭に切り替わった。小さくしたメリットは、まず食べやすくなったことであり、携行にも便利になった。
 小型乾麺麭は、1食分の225グラムずつが袋詰めされており、疲労回復に役立つ金平糖が同封されている。
 携帯圧縮口糧
 携帯圧縮口糧は、補給困難時や生物戦・化学戦あるいは挺身講堂等の特殊状況下を想定して、大正13年より開発が始められ、昭和6年に制定された陸軍最新携行口糧である。
 主食は『膨張玄米』をペレット状に圧搾加工した圧搾米で、一食分ごとに防水紙で密封包装されている。
 食べ方は、そのまま食べるのはもちろんのこと、登山等に用いられる『アルファ米』のように湯や水をかけてふやかして食べたり、牛乳をかけて『シリアル』のようにして食べることも可能である。
 副食は、独立包装のされた砂糖・乾燥昆布・田麩(でんぶ)・乾燥梅干・シソで、それぞれ2〜3個に内包されている。そして、1食分の主食と副食が完全密封のブリキ容器に納められている。
 開缶は、コンビーフ缶詰と同じ方式で、缶蓋に付いているオープナー(缶開鍵)で巻き取って開ける。
 『缶入携帯圧搾口糧』は、満州事変で挺身隊に試験的に配備されて好評を博したほか、台湾軍でも試験が行われた。
 その後、『支那事変』等の戦訓を受けて逐次改良され、昭和13年には生産コスト節減のため、缶入れから防水紙製の箱に納める方式にかわった。
 熱量食
 現在の『カロリー・メート』に似たもので、戦国時代の携行食である『兵糧丸』をヒントに開発された小容積・郄カロリー・高栄養の緊急用の糧食である。
 のちに、この『熱量食』を基にして、粉乳・水飴・ブドウ糖を主原料とした『軍粮精(ぐんりょうせい)』が登場する。
 不洗米・乾燥野菜とインスタント食品
 昭和6年頃より、水研ぎが不要ですぐに飯盒炊爨(はんごうすいさん)の可能な洗浄済みの『不洗米』が登場する。
 また従来は、兵員各自が精米を『靴下』に入れて携行していたが、専用の防水幌布製の『米携帯袋』が制定されている。
 副食(おかず)や味噌汁などの具材に使う乾燥食品も品種が増加され、野菜としてホウレン草・小松菜・人参・ゴボウ・蓮根・大根・椎茸がそろい、湯葉・若布(わかめ)・焼麩(やきふ)と合わせて10種類となった。
 そのほか、野戦での祝賀時に用いる祝い料理を詰め合わせた『口取缶詰』と呼ばれる缶詰が出現している。
 さらに、インスタント食品類では、インスタント調味料の元祖である『携帯粉味噌』『粉醤油』『醤油エキス』等に加えて、新たに、冬季・寒冷地での温熱給食用として、お湯を加えて作る『携帯甘酒』や『携帯濃厚汁(スープ)』、夏期・酷暑地での補充品目として、水を加えて作る『携帯ラムネ』や『携帯シトロン』などの粉末清涼飲料類が出現している。」
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 ウィキペディア
 乾パン
 乾パン(かんパン)は、保存、携帯の目的で固く焼き締めたビスケットの一種。
軍隊用の保存食であるハードタック(堅パン)に分類されており、日本人の嗜好に合せて作られている。
 概要
 堅パンの起源は古く、ヨーロッパではローマ時代に兵糧として支給されていた記載がある。現在では非常食として用途の他に、軍隊や登山者の携行食糧として用いられる。含水量が少ないため貯蔵性に優れており、特に多くの食料品が凍結してしまうような低温下においても平常時とほとんど変わらない状態を維持するため寒冷地における重要な糧食となっている。
 日本における乾パンの始祖は、天保13年(1842)、反射炉で有名な伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門担庵公が非常時に備え、保存できる軍用の携帯食としてパンを焼き始めたものである。外国文化の取り入れに熱心だった当時、水門藩は「兵糧丸」、長州藩は「備急餅」、薩摩藩は「蒸餅」と名付けた軍用パンを作り、非常時に備えていた。
 乾パンは、明治期の大日本帝国陸軍が欧米の軍用ビスケットを改良して作った携帯口糧であり、「重焼麺麭 じゅうしょうめんぽう(重焼=(回数を)重ねて焼いた、麺麭=パン、すなわちビスケットのこと) 」と呼ばれた。1枚の大きさは後述する大型乾パンほどのサイズであった。のちに「乾麺麭(かんめんぽう、乾燥させたパン、の意)」と呼称され、昭和期には更なる改良が行われ、味形共に現在の小型乾パンと変わらないものとなり、名称/呼称も「乾パン」となった。
 包装を缶詰にしさらに保存性を高めた製品がある。缶詰の製品には糖分を補うため、唾液を出やすくする目的で、しばしば氷砂糖や金平糖が同梱されている。乾パンは小麦粉、砂糖、食塩、ショートニングなどにイーストを加えて発酵させた後、140ー150℃で焼き上げる。水分が少ないため、食感は最初は硬くて味のないビスケットのようであるが、良くかめば口の中に小麦の香ばしさと甘みが広がる。栄養価を高め食味を向上させるために、黒ゴマを加える場合もある。
 非常食用の物は平均2.3%ほど(メーカーにより割合が微妙に僅差する)ベントナイトを添加し、膨潤性(水分を含むと体積が増加する)を持たせて満腹感を持続させ腹持ちを良くしたものが多い。ベントナイトは珪藻土とともに加藤清正が熊本城の築城に際して篭城を想定して芋茎とともに非常食用の土壁としても利用した(※→芋茎#乾燥したもの(いもがら)を参照)。
 飢餓・大災害・戦災に遭った国・地域に対して、緊急援助物資として送られることも多い。燃料や水すら満足に確保できないほど困窮している状況下では調理の必要がなく、飲料水がなくてもある程度喫食できることでありがたがられることもあるが、困窮の程度があまりひどくない場合には味の面で不評を買うこともある(菓子として普及した戦後のものは、かなり美味になっている)。」
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 日本軍隊は、欧米の軍隊ほど人権を重んじ人間的人道的に兵士に優しくはなかったが、ソ連軍(赤軍)・中国共産党軍(紅軍・八路軍)などの共産軍や国民党軍などのファシスト軍ほど人権無視の非人間的非人道的で凶悪・凶暴な軍隊ではなかった。
 世界一と言われるほど、軍律や軍紀が徹底され統制がとれた軍隊であった。
 残念なのは、ノモンハン事件で日本軍と戦ったジューコフ将軍は、戦場の日本人将兵は優秀であったが、上層部の高級エリート軍人は無能に近かったと証言した。
 現場の中等教育以下出身である将兵は優秀であったが、後方司令部の高等教育出身である高級エリート軍人は無能であった、と。
 大抵日本をダメにするのは、西洋礼賛日本軽視の国際派高学歴出身のエリートであった。
 日本のエリート層の中には、自分の学識を見せびらかせ、自分の名声を上げ出世する為の功績作りに力を入れたが、日本の為、国の為、国民の為に行動しなかった。
 出世に邪魔になる他人の功績は否定し、出世を台無しにしそうな失敗・汚点は責任を取らず他人に転嫁して逃げた。
 日本に駄目にし悲劇をもたらしたのは、自分こそが最も優秀だと自惚れた無責任な成績優秀なエリート達であった。
 エリートの多くが国際派として天皇制度を批判し、旧態依然とした民族的社会の改革を主張し、日本国語・日本文化・日本伝統・日本芸能そして日本神道・日本仏教などが発展と進歩を阻害していると確信していた。
 日本でベンチャー企業が起業できないのは、それを潰そうとする強力なエリートの空気圧力が存在するからである。
 エリートの社会を支配する力が弱った時だけ、ベンチャー企業が創業して日本は飛躍的に発展した。
 それが、明治維新であり、敗戦後の混乱期であった。
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 現場が優秀であった好例は。
 シベリア出兵。
 戦場から、ロシア人避難学童、ポーランド人難民孤児、ロシア人・ユダヤ人難民を、赤軍・中国人共産主義者ゲリラ・反日朝鮮人テロリストらの攻撃を受け戦死者を出しながら救出し、軍調達の輸送船で安全な日本国内に送り届けた。
 日中戦争
 洪水地帯に取り残された中国人被災者数百万人を、ファシスト中国軍の攻撃の最中でボートやイカダで助け出し、限られた食料や医薬品を被災者に差別する事なく分け与えた。
 餓死地獄と化した飢餓地帯で生き残っている数百万人の中国人飢餓民を救援するべく、ファシスト中国軍や中国共産軍ゲリラの攻撃を排除して貴重な食料や医薬品を運び込み、飢餓地域を中国側の攻撃から防衛しつつ、餓死寸前にある中国人飢餓民の治療に全力を挙げた。
 生物・化学・毒ガス兵器のエキスパートである陸軍防疫部隊は、各地の被災地に入り寝食を忘れて奮闘し、一人でも多くの中国人の治療に当り命を救った。
 日本赤十字社従軍看護婦達も、敵味方関係なく、日本人・中国人・朝鮮人を差別する事なく平等に公平に分け隔てなく助けた。
 戦闘中であっても、日本軍兵士は、目の前にいる瀕死の状態にある中国人非戦闘員を助け、乏しい食料・医薬品・水を分けあたえていた。
 「日本軍兵士である自分は中国軍兵士の攻撃で戦死するが、兵士でもない一般市民の中国人は死ぬ必要はない」、と。
 日本の古典的「殺し合い原理」では、死ぬのはサムライ・武士であって、庶民は死ぬ事なく生きなければならない、とされている。
 何れの戦場でも、人道的貢献をして戦死した日本人兵士は全員が「靖国神社の軍神」として祀られた。
 日本人には、一人前の「人」として靖国神社を護る責任がある。
 日本軍の軍事行動は、例外なく、いかな理由があっても侵略戦争として完全否定されている。
 そして、人道貢献して戦死した日本軍兵士が祀られている靖国神社は戦争肯定施設として激しく攻撃され、廃社・廃絶を強硬に求められている。
 特に、日本人の反靖国神社運動が最も激しい。
 新聞・雑誌・書籍・テレビ・ラジオなどのマスコミで、日本軍の人道的貢献を正しく評価するところは皆無である。
 日本の歴史も、日本軍の人道的貢献を否定し、年表から抹消している。





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写真で見る海軍糧食史

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