- 作者:桜林 美佐
- 発売日: 2012/09/28
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
メイド・イン・ジャパンは、軍部の素人的常識外れの要求に挑戦した軍需産業の職人魂である。
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何時の時代でも、国際市場で高額で取引される主力商品は武器である。
世界最大の産業は、軍需産業である。
平和産業は、売り上げ少ない、利益が乏しい、金にならない貧乏な産業である。
大金持ちになれるのは軍需産業で、小銭を稼ぐしみったれなのは平和産業である。
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兵器開発と共に科学技術は発達する。
軍需産業がなければ、新たな産業も革新的な新製品も生まれない。
人類は、新しい武器を造る事によって技術を磨き、豊かになってきた。
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科学技術の世界では、トップランナーとして最先端を極めなければ意味がない。
科学技術において世界一になるという事は、誰よりも先に「特許」を取得し、誰にも真似できない製造過程での「ノウハウ・企業秘密」を持つ事である。
誰よりも先に特許・ノウハウを獲得するには、巨額の資金、優秀な人材、最先端の機材、無駄な様な長い時間が必要である。
科学技術の世界では、1番に価値があって、2番以下には意味がない。
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ルール・法律・規則を作り決め定めるのは、近代以前であれば教会・国王・領主であり、近代の国民国家であれば国民に選ばれた政治家達であった。
ルール・法律・規則は、如何に自分達に多くの利益をもたらすかを念頭にして、その時々の国内外の変化によって改正、廃止、新設される。
ルール・法律・規則を「作る」過程では、人間の欲望や国家・組織の利益が強烈に現れ、恫喝や脅迫、妥協や譲歩といった陰湿な交渉が渦巻いている。
ルール・法律・規則を作るのは、中立公平な聖人君主や人徳溢れる賢者ではなく、その反対の人間達である。
故に、完璧で欠点のないルール・法律・規則などはあり得ない。
ルール・法律・規則は、権利や利益を主張する人間達の妥協の産物であり、権利や利益を主張しない者は生殺与奪の権を飼い主に奪われた羊の様に従うしかない。
生きる権利を主張し豊かさをもたらす利益を要求するなら、責任と義務を果たし、如何なる犠牲も引き受けてルール・法律・規則作りに参加しなければならない。
役に立たない自己満足的理想主義を念仏の如く者には、作る権利をはなく、要求も要望もせず、唯々諾々として守るだけである。
ドイツの諺「ソーセージとルールは作る過程を見ない方が良いい」
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日本の独創的にして斬新な武器を産み出したのは、軍部の科学技術力であった。
日本の自国防衛目的の軍国主義は、戦争犯罪とされた。
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1871年 岩倉遣欧使節団は、西欧列強を歴訪してその圧倒的な国力と強力な軍隊を目の当たりにして恐怖に戦いた。
帰国後。欧米列強の侵略に対抗できる軍隊を持つ為に、富国強兵の軍国主義政策を推し進めた。
軍国主義国家に生まれ変わる為は、根底から大変革を起こす徹底したイノベーションが欠かせなかった。
その為に、文明開化と地租改正と殖産興業を断行する必要があった。
国家防衛の為に、人口の5%しかいない武士という戦闘集団を解体して、全ての国民を兵士とする徴兵制度を導入した。
戦争に縁がなかった百姓や町人は、如何に御国の為社会の為と言われても徴兵制度に反対で、兵役を逃れる為にあの手この手を使い、万策尽きれば失踪して行方を誤魔化した。
日本が、外国の侵略を受け植民地となり、日本人が奴隷にされない為には、軍需産業を育成し、軍隊に強力な武器を装備させる以外になかった。
軍国主義化は、資源も資本もない日本の生きる唯一の防衛的手段であった。
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国際的な無線通信の主流であった「コヒラー検波器」は、通信距離が短いうえに安定しない問題があった。
鳥潟右一は、その問題を克服するべく明治1908(41)年に「タンタラム検波器」を開発し、明治1909(42)年には「鉱石検波器」を発明し、無線通信機の性能を向上させた。
1917(大正元・明治45)年には、年横山英太郎、北村政治郎ともに、TYK無線電話機を発明して無線電話を実用化した。
1917(大正6)年 無線通信の双方向通話に成功し、世界初の公衆無線電話を行った。
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加藤友三郎「金がなければ戦争ができない」
軍部は、戦争を知るには経済力が重要であるとして、軍需産業を育てる為に経済振興政策を後押しした。
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1911年 日本陸軍は、日露戦争で大陸を歩行して進軍する事の不便さを経験しただけに、近代戦における作戦・補給には自動車が欠かせないと考えていた。
フランスから最新のトラックを購入し、解体調査し研究を重ね、試行錯誤の末に国産の軍用トラック第一号「甲号自動化車」を完成させた。
欧米列強以外で、民族資本と独自技術で軍用トラックを製造したのは日本だけであった。
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安藤博は、大正3(1914)年に最先端技術である電子管、電波、その他電子技術を実験開発する研究機関・安藤研究所を設立した。
明治学院中学部1年生の時に、世界初の多極真空管を発明し特許を取得した。
世界発明史に、エジソン(米)→フレミング(英)→ド ・ フォレ(米)→安藤博(日)と銘記された。
安藤博は、明治35(1902)年に滋賀県の琵琶湖畔膳所(ぜぜ)町に生れた。
満8才の頃から、科学に興味を持ち、外国語が分からない為に日本語翻訳された科学雑誌を読んで専門的知識を吸収し、創意工夫して発明考案に没頭した。
大正9(1920)年に明治学院中学を卒業し、早稲田大学理工学部予科に入学し大正14(1925)年に早稲田大学理工学部を卒業した。
大正10(1921)年には、わが国最初の無線電話・無線電信の私設実験局(呼出・符号JFWA) の設置を許可した。
同年 テレビジョンの研究にも従事して日本初のテレビジョン放送を行い、遮蔽グリッド管とその回路、加速グリットを有するブラウン管、テレビカメラ内にある撮像管としての二次電子増幅管の世界創始発明等を含む多数の発明した。
大正11(1922)年に、早大出版部から無線放送の技術的方面を解明した「無線電話」を出版し、放送事業を開設する為に電波科学技術の啓蒙活動を行った。
同年 「ニュートロダイン」を発明した。
戦後。アメリカで発明されたトランジスターにも不可欠な部品として組み合わされ、高周波工学上不可欠な要部とされた。
大正14(1925)年 「ニュートロダイン」高周波増幅方式の寄生振動の阻止法を発明した。
ニュートロダインは、写真電送 (NE式その他あらゆる方式) に不可欠であり、ブラウン管式テレビジョンにも応用された。
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1918年 軍部は、軍隊の機動力を高める為には自動車化を急ぐべきとして、国産自動車の保護育成を目的として軍用自動車補助法を制定させた。
日本政府も、日本経済の更なる発展には自動車産業は優良分野として、軍用自動車の製造者に補助金を出した。
一部の自動車製造者は、軍用はなく民間用の自動車製造を夢見ていた。
最先端技術や有力産業は、例外なく軍用から始まって民用に移行する。
自動車産業も、潤沢な資金と最先端技術が優先的に投入できる軍需産業の中から生まれた。
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1923年 関東大震災。政府は、鉄道交通網が壊滅状態になり復旧には時間がかかる為に、復興の為の物資輸送を行うべくフォード・トラックを緊急輸入した。
アメリカ自動車業界は、日本を有力な市場と見て続々と進出してきた。
日本の白楊社など民族資本による弱小自動車メーカーは、職人的独自技術で自動車開発を進め優秀な自動車を売り出し、輸入されるアメリカの高級車に対抗していた。
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陸軍鉄道連隊は、震災で破壊された主要鉄道路線を短期間で復旧させた。
その鉄道敷設技術は、後に泰緬鉄道を短期間で全線を開通させた。
日本の鉄道敷設能力は、世界のトップクラスであった。
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1933年 日本海軍は、欧米各国の海軍が開発を断念した酸素魚雷を独創的な創意工夫で実用化に成功した。
アメリカ軍は、日本製酸素魚雷を「ロング・ランス(長い槍)」と恐れた。
日本の科学技術力と開発能力は優秀で有り、日本は精神論のみで科学技術を軽視していたわけではなかった。
日本は、欧米列強に比べて、開発資金と生産資材が極端に不足していただけである。
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1942年 海軍は、太平洋の島嶼を占領する為に、陸軍から提供された95式軽戦車を改造して水陸両用戦車「特二式内火艇」を完成させた。
サイパンやパラオなどに、約180輌を配置した。
後継として一式中戦車を改造した「特三式内火艇」を開発して、19輌を実戦配置した。
終戦間際には、特三式内火艇を改造強化する「特五式内火艇」を計画していた。
陸軍は、最新兵器の強襲揚陸艇とその水上母船を南洋攻略に投入していた。
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日本の科学発展に重要な論理的合理的理科系思考を鍛えたのは、外国語における専門知識の読解力以前に、洞察・創造・開発の原動力となった日本国語による情緒的現実的文系思考であった。
日本の強みは、子供でも読んで理解できる文系思考の日本国語の転換力・翻訳力・表現力にあった。
つまり、外国語教育の前に日本国語教育を徹底的に行った事による。
単純単一なアルファベットによる合理的発想力ではなく、多種多様な和文字による情緒的想像力であった。
日本の科学技術の強みは、文系思考と理系思考ができる日本国語にあった。
日本の子供でも、外国語が分からなくても、日本国語の科学雑誌で最先端の科学技術の情報を読む事ができた。
日本国語の科学雑誌で全国の本屋で、興味がある者であれば大人から子供まで、男女を問わず誰もが自由に買って読む事ができた。
日本の科学治術力の基礎は、日本国語の科学雑誌が氾濫したからである。
それが、戦後のノーベル賞受賞者を誕生させた。
けっして、外国語の科学雑誌ではなかった。
もし、科学雑誌が日本国語ではなく外国語であったら、日本人は誰も読むどころか見向きもしなかった。
その結果として、日本人のノーベル賞受賞者は一人も出なかったであろう。
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昭和前期は、東京帝大卒業のマルクス主義的文系エリート官僚が、政治・国防・外交・経済など国策全般の方針を決める文系思考偏重時代で、世界を客観的合理的論理的読み解く理系思考を欠き、最先端の科学技術が理解できず、理解できないモノは価値があっても問答無用に切り捨てていた。
つまり、文系思考のエリート官僚は科学技術を理解する能力がなかった。
東北大学の八木秀次教授は、開発した「超短波受信用の指向性アンテナ」を使って新潟と佐渡を結ぶ警察用無線の実用化に成功した。
商工省と特許庁の革新官僚達は、有用性が実証されたにもかかわず、八木教授のアンテナ特許更新申請を、「重要な発明特許とは認めがたい」と特許の取り消し通告を行った。
エリート軍人官僚・幕僚も、現場・戦場無視の机上的文系思考で「こちらから電波を発射したら敵に居場所を教え、作戦遂行を破綻させる」として、電探(レーダー)開発と研究を潰した。
日本を支配していた文系思考のエリート官僚は、東京帝国大学卒業者による学閥を形成していたが、その中でも無数の派閥に分かれて主導権争いを繰り返していた。
軍国日本は、革新官僚(隠れ社会主義者)や転向組官僚(隠れ共産主義者)などが支配する官僚主導のマルクス主義的統制社会であった。
アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツ、ソ連は、軍国日本とは違ってレーダーの重要性を理解し実戦配備する為に研究開発を進めた。
日本人的発想は、負けると思わなければ勝つ、敗北すると口に出さなければ勝利する、と言う精神論であった。
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