🗡22〗─1─日本海軍は八木アンテナを装備したアメリア海軍に惨敗し滅亡した。~No.68 

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 日本軍部は、白兵戦精神主義で科学技術を軽視した為に敗北した。
 科学技術軽視の傾向は、現代日本にも根強く存在し、日本経済回復を妨害している。
 現代日本では、西洋礼賛主義と各種安全神話が根強い。
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 富士通JAPAN
 2020年11月6日
 軍事技術史に学ぶICT活用法
 第12回 電子技術の果たした役割 -電子技術こそ勝敗のカギ-
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 決断科学工房 眞殿 宏 氏
 1990年代初めNHKが「電子立国日本の自叙伝」と題する番組をシリーズ放映した。半導体を始め、TV・ビデオ機器、PCや電卓など当時世界を席巻していた日本の電子技術を紹介するものであった。記憶に残るのは、米軍の最新ミサイルまで日本製品が使われており、今や民生品がコストのみならず精度・性能でも軍需専用品に優ると解説していたことである。また、あの戦争に関わった技術者も健在で、戦時の苦労が今につながるようなコメントもあった。そんな中に、兵器本体は注目されるものの、裏でそれを支える電子技術には理解がなかったとのぼやきもあった。情報システム部門に在った私として「ICTも同じだな~」と共感をおぼえたものである。
 飛行機、戦車、潜水艦、いずれも第一次世界大戦戦場に登場、第二次世界大戦において戦略兵器に発展した。しかし、これらを分析してみると、電子技術を欠いたらただの金属の塊りに過ぎず、無用の長物になりかねないことが分かってきた。無線電話、レーダー、近接信管、航法支援システム、ソナー(音波探知機)などが装備されて、始めて戦略兵器がその真価を発揮したのである。今回はそんな角度からICT活用を考察してみたい。

 日本の電子技術
 マリアナ沖海戦時には空母・戦艦など主要艦艇には索敵レーダーは装備されていた。また陸軍も敵爆撃機を早期検知するレーダーを太平洋岸に設置し、空襲に備えていた。しかし、操作性・信頼性の点から「無い方がまし」が「無いよりまし」に変わった程度の存在だったし、高精度を要求される射撃管制用レーダーはモノにできていない。
 1945年10月占領軍が作成した報告書「日本での科学情報活動の調査に関するレポート」がある。調査団長はMIT学長のカール・コンプトン。そこには「およそOSDR(科学技術開発局;個々の兵器開発プロジェクトを管理する最上位機関)の計画に匹敵するような、レーダー研究は見当たらなかった。多数の研究機関に分散している科学者の能力向上や、動員、研究の分担に関する総合的な計画は皆無であった。(中略;陸海軍内部の軋轢と秘密主義批判)レーダーにおける日本の研究は、1942年当初の合衆国のレベルにくらべて、非常に低いレベルにある。しかし、個人による研究成果を見ると、日本も、現代的なレーダーを遂行する能力を内在していたことがわかる。日本軍の高官が、現代的な戦略兵器の中でいかにレーダーが重要であるかを早期に認識できなかったことが、レーダー開発の遅れの根本原因である」と結ぶ。
 具体的には、レーダーの心臓部である超短波発振管マグネトロンの開発、八木アンテナの存在、いずれも世界のトップクラスにあったが、縦割り・分断の研究開発体制、用兵側の攻撃優先思想、資材や熟練工の不足、稚拙な生産技術に依る性能のバラつき、操作や整備に関する教育・訓練体系の未整備、結果としての信頼性の欠如、に依りこれを生かし切れていないことを指している。電子技術戦は敗れるべくして敗れたのである。
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 日本人は、世界特に欧米より二歩も三歩も先を行っている夢のような最先端科学技術が理解できず潰してきた。
 戦前ではレーダーなどの電波技術であり、戦後では太陽光発電のような再生可能エネルギー技術、高速情報のインターネット技術、高速計算のコンピューター技術、高速通信の携帯電話技術、その他などである。
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 テレビアンテナの誕生ー八木秀次の発見ー     menu
 ポポフ無線通信アンテナの発明から30年後、1925年、八木秀次によって日本で世界に先駆け指向性アンテナの原理が発見され、八木アンテナが発明されました。アマチュア無線で良く使われているお馴染みの八木アンテナです。これが、いまでは、どの家にもあるテレビアンテナになっています。3本の素子を基本にして平行に並べ電波を効率良く受信・発信する構造のアンテナです。簡潔にして無駄のない八木アンテナは、はじめからほとんど改良の余地のない高い完成度をもち、超短波用アンテナとして外国の模倣を許さないものでした。
 八木アンテナは、八木秀次が私財を投じてかろうじて特許を取得したものの日本の科学界には西洋崇拝が強く「日本人の発明で重要なものはあり得ない」として当時の日本では、受け入れられませんでした。八木アンテナは、一部に知られただけで、それを記載した八木の論文は、日本では忘れられてしまいました。また、その特許も国から延長が認められず消滅してしまいました。そもそも*テレビやアンテナについての当時の日本の研究・開発は、世界的にリードしていたにもかかわらず科学界や国から認められず埋もれてしまい、大変惜しいことでした。特に精神主義をふりかざす軍人は、八木アンテナレーダーの有用性を頭から認めませんでした。しかし、彼の八木アンテナの論文は、海外で評価され超短波用高性能アンテナとして認められていきました。(*1926年に高柳健次郎がブラウン管式テレビの実験に成功している)
 その後、1941年太平洋戦争が起き、シンガポールを攻め落とした日本軍は、そこのイギリス軍のレーダーアンテナが八木アンテナであると知らされました。アメリカ軍も八木アンテナを装備し、攻め寄せる日本の飛行機を300km前からレーダーでキャッチし迎え撃ちました。アメリカ軍は闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦を撃沈し、日本軍は痛いめにあってやっとレーダーの威力とその重要性に気付きました。しかし、もう後の祭りです。日本はアメリカに破れ、無条件降伏しました。八木アンテナアメリカのレーダー等に使われ日本が負けたことについて当時の世間は、発明者の八木秀次に冷たく当たりました。
 八木秀次の世界的な発見・発明である八木アンテナを敵である英米は認め、それを活用し戦いに勝利しました。反対に日本は、日本人である八木秀次の発明を理解せず軽視しその結果敗北し、挙げ句の果てによけいな発明をしたとばかりに冷たくしました。自国の優れた発明を使いこなせなかったことを棚に上げて八木秀次個人を責めるのは、天につばをするようなものです。当時の政府要人や帝国陸海軍は、大和魂などの精神主義に陥っていたため先端科学を理解できず惨禍を招いてしまったのでしょう。そしてそれは、日本人の短絡性と同時に当時の社会の半封建的後進性を示しています。
 まだ、この話にはおまけがあります。
 八木アンテナの特許を政府は消滅させてしまい、また外国特許保有の財政支援もせず冷遇したため日本の八木アンテナ特許権は失われてしまいました。
 ところが戦後まもなくテレビが世界中に普及した時、八木アンテナも同時に全世界に普及しました。なぜならVHFテレビ電波を受信するには八木アンテナ以外にないのですから。もし、この時代この特許を日本が確保していたらおそらく世界に数億台のテレビと同数売れた八木アンテナから莫大な特許料が日本に入り、日本の戦後復興は大いに助けられたことでしょう。そしてもう一つ、もし、八木アンテナ発明と同時期の高柳健次郎の電子テレビ実験成功を評価し、研究支援を行ってテレビの発明・実用化に成功していたならば、日本は、テレビとテレビアンテナの両方を発明したことになります。そうなれば、その恩恵は測り知れないものになっていたでしょう。
 2001.1.19 戦後、初代日本アマチュア無線連盟会長 八木秀次博士25回忌に記す。
 参考書籍   「電子立国日本を育てた男」  松尾博志 著  文芸春秋社  
 八木アンテナを持つ八木博士の写真と記事へ←クリック
 (↑上山昭博氏の20世紀の発明品のカタログより)
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 経済大国の最先端技術は、軍事技術優先で、次が輸出産業技術で、内需の民生技術は最後であった。
 最先端技術のイノベーションは、ヒト・モノ・カネを量的に集中させ軍事部門で活発に起き、産業や民生はその軍事技術を応用していた。
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 西洋礼賛主義者は画期的な八木アンテナが理解できなかった。
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 科学技術軽視傾向は、戦前の日本以上にバブル経済以降の現代日本に強く、バブル経済崩壊後の日本経済が回復できないのはその証拠である。
 つまり、科学技術を軽視して滅んだ軍部・敗北した日本軍を批判する現代日本人ほど醜悪な存在はない。
 そして、現代日本人が最先端技術によるイノベーションができないのは当たり前の事である。
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 日本の再生を阻み妨害し貧困をさらに悪化させているのは、戦前否定の反戦平和リベラル派戦後民主主義世代である。
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 現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力に加えて、将来を見通し、未来を切り開く科学技術に対する思考力と実行力が乏しいか、ない。
 現代日本人が口にするイノベーションは、やり遂げようという意思のないお題目に過ぎない。
 その傾向は、後ろ向きな高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
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 八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語: Yagi-Uda Antenna)は、アレイアンテナの一種。通常、ダイポールアンテナを素子としており、宇田新太郎の主導的研究によって、八木秀次との共同で発明された。別称として、指向性短波アンテナや八木アンテナという名称が流通している(下記の名称についてを参照)。
 主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用される。

 軍事研究での八木・宇田アンテナ
 欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。例えば、アメリカ軍はレーダーと八木アンテナの技術を改良発展させながら戦争に活用して日本軍に大損害を与えた。さらに後には、アメリカ軍が広島市長崎市原子爆弾を日本に投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆撃機から投下した原子爆弾の核爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、八木・宇田アンテナの利用を確認できる。
 ところで、八木アンテナ開発当時の1920年代には、大日本帝国の学界[要出典]や日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。このことをあらわす逸話として、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校がニューマン(Newmann)というレーダー手の所持していた技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。後に「ニューマン文書」(「ニューマン・ノート」)と称されるこの技術書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには、捕虜となっていたイギリス軍のニューマン伍長に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている[Note 1] 。
 なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、大日本帝国のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は1930年代後半に入って大日本帝国陸軍が防空を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒パルスレーダーである「超短波警戒機 乙」は、ナチス・ドイツからの技術導入で開発されたものであり、アンテナには無指向性のテレフンケン型(箱型)と呼ばれるものや、ダイポールアンテナが利用されていた。
 八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも戦後にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃管制レーダー(GL Mk.IIレーダー(英語版))のような、攻撃を目的とした射撃管制装置の場合、地上設置ではアンテナに仰角を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定航空機銃照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は、敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。
 日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦の後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーを模倣して対処したが、英米の製品と比べ相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧(艦砲射撃の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった。
 機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載した月光一一型
 また、第二次世界大戦後期には連合国側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは航空機に搭載する場合、素子が突起物となって空気抵抗が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型のパラボラアンテナの開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑えるレドームの技術開発にも成功し、重爆撃機による夜間の戦略爆撃に大きな成果を挙げている。一方、マグネトロンによるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった枢軸国側の夜間戦闘機は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した夜間戦闘機で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。
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 ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった
 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
 藤田 元信防衛装備庁 技術戦略部
 技術計画官付 計画室 戦略計画班長プロフィール
 岡部金治郎らの発明をきっかけとして、小規模ながら、日本国内でもマグネトロンの研究が行われていた。写真は、のちに戦艦「大和」にも搭載された二号二型電探(対水上用)に使われたマグネトロンの陽極と同等のもの。(public domain)
 {今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。
 最近、新著『技術は戦略をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した藤田氏は、75年前の海戦における日本の失敗を分析した上で、技術と戦略の関係を学ぶことの重要性を説く。}
 日本で無視され、米国が評価した技術
 ミッドウェー海戦は、お互いの艦艇を視界に入れずに戦った、史上初の海戦であったと言われています。そして、アメリカ軍の勝利に決定的な役割を果たしたのは、電波の反射を使って目標を探知する兵器である「レーダ」でした。
 レーダには、発振器とアンテナが欠かせません。じつは、アメリカをはじめとした諸外国のレーダ開発には、日本人の発明が利用されているのです。ご存知でしたか?
 その代表的なものが、「八木・宇田アンテナ」と「分割陽極型マグネトロン」です。
八木・宇田アンテナは、その名前のとおり、八木秀次宇田新太郎という日本人研究者の研究成果でした。魚の骨のような簡単な構造で、優れた性能(鋭い指向性と高い利得)が得られることが利点です。いまでもテレビの受信アンテナとして広く使われているので、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。
 このアンテナは、日本では誰にも注目されなかったものの、1926年に英語で論文を発表したところ、米国で大いに賞賛されたと言われています。
 分割陽極型マグネトロンもまた、日本人研究者である岡部金治郎が、1927年に発表したものでした。
 分割陽極型マグネトロンは、それまでにアメリカで開発されていた単陽極マグネトロンでは不可能だった、高い周波数の発振(マイクロ波を発生)を可能としたうえ、高効率でした。レーダの実用化に向けて、性能を飛躍的に高める研究成果でした。
 早くも1920年代に、日本人研究者により八木・宇田アンテナと分割陽極型マグネトロンという、画期的な新技術が生み出されていたにも関わらず、日本陸海軍はその研究成果をレーダの開発につなげることはできませんでした。
 たとえば海軍では、「これからの海戦にレーダが必要かどうか」という議論が盛んになされた一方、事業化に進むための具体的な検討はずっと低調だったようです。一方、アメリカとイギリスをはじめとする諸外国では、これらの研究成果を早期に事業化し、通信機器やレーダの開発に応用していました。
 シンガポールの戦利品から発見
 1942年5月中旬、「シンガポールの戦利品で、現地で理解できないものがある。電波兵器のようなので、調査に来てほしい」との依頼を第5陸軍技術研究所から受け、日本電気東芝の社員からなる民間の調査団が組織されました。
 調査団が現地で調査したところ、件の電波兵器は、日本人が発明した八木・宇田アンテナであったことが判明しました。日本では誰も顧みなかった八木・宇田アンテナを、イギリスがみごとに兵器に応用していたことは、関係者にとって衝撃だったと言われています。
 同じころ、日本陸軍は、押収した文書(通称「ニューマン文書」と呼ばれる)の中に、YAGIという単語が出てくることを発見しました。そこで捕虜に質問したところ、「それはそのアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられ、そのとき初めて八木・宇田アンテナの存在を知ったとも伝えられています。
 じつは、日本の海軍技術研究所や陸軍技術研究所でも、小規模ながら、レーダ技術の研究は行われていました。ところが、軍上層部には、レーダの研究開発に対する理解者が少なく、レーダの研究開発は遅々として進まなかったと言われています。そのため、大東亜戦争の開始時点でも、日本のレーダは実用化にほど遠い段階にありました。
 ようやく、海軍で初めて実用レベルのレーダが作られたのは、開戦から数か月が過ぎた、1942年3月のことでした。このときは波長の異なる2種類のレーダが試作され、戦艦「伊勢」「日向」に搭載されました。それぞれに長所・短所があるものの、どちらも一定の機能・性能を有することが確認されました。
 ミッドウェーで払った高い代償
 1942年6月、ミッドウェー島に向かった日本海軍の空母機動部隊には、レーダを装備した艦艇は1隻もありませんでした。実験艦として、レーダを搭載していた戦艦「伊勢」「日向」は、ミッドウェー島から遠く離れたアリューシャン方面に派遣されていました。
 一方、ミッドウェー島付近で、日本海軍の空母機動部隊を待ち受けるアメリカ海軍の主要艦艇には、対空捜索レーダCXAMが装備されていました。さらに、ミッドウェー島に設置された固定式のレーダも稼動状態にありました。
 そのため、ミッドウェー島付近で日本軍の攻撃を待ち受けていたアメリカ軍は、日本軍の艦載機の接近をレーダでいち早く察知し、奇襲を避けることができたのです。
 レーダの実用化により、日本海軍の戦略の前提となっていた、空母と艦載機を中心とした奇襲攻撃は、もはや成立しなくなっていました。
 そのことに気がつかない日本海軍は、ミッドウェー島に有効な打撃を加えられなかったばかりか、反撃してくるアメリカ海軍の艦載機を直前まで発見できず、主力の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と約300機の艦載機、そして多数の熟練兵を失いました。
 こうして、日本軍は、自らのレーダの技術開発の深刻な遅れを、高い代償により知ることとなったのです。
 日本の戦略家が技術を学ぶ意義
 ミッドウェー海戦における日本の敗北は、一般に、機械故障による索敵機の発進の遅れや、現場の混乱を誘引した指揮官の判断に原因があると論じられています。確かに、偶然や現場での判断により左右された部分もあったでしょう。
 しかし、ミッドウェー海戦を、「技術」という観点で捉え直すとすれば、ミッドウェー海戦は、レーダ技術が、日本軍の戦略を破壊した戦いだったと総括できるでしょう。
 戦いの様相を一変させるレーダをいち早く取り入れ、使いこなしたアメリカ軍と、要素技術の研究において国内にアドバンテージを有しつつも、レーダの必要性の議論に終始し、事業化を推進しなかった日本軍の能力には、大きな差が生まれていたのです。
 日本でも、ミッドウェー海戦の後、それまで低調だったレーダの研究開発は、おおいに奨励されました。しかし、長年の蓄積を必要とする研究開発の遅れは、ついに取り戻すことができませんでした。
 「技術」という観点から、ミッドウェー海戦の敗北へとつながったレーダの研究開発の問題点を考えると、以下の2点に集約されると考えられます。
 (1)未知の要素が多いレーダの研究開発に関し、上層部の理解が得られなかったこと
 (2)国内の科学技術イノベーションを国防に生かす仕組みが未成熟であったこと
 1930年代において、レーダの研究開発は未知の要素が多く、きわめてリスクの高いテーマの1つでした。技術的な内容を理解できる人間も、レーダが戦いにどのような効果をもたらすのか、という部分を論じることができる人間も、国内にわずかしかいなかったうえ、双方が対話をする機会も、ほとんどありませんでした。
 国内にどのような技術があり、どう育成し、どう活かすのか、といった長期的な視野で技術マネジメントを行うことができる、組織や人材が欠けていたと言ってもいいかもしれません。
 これらの問題点から、現代日本にも通じる教訓を得るとすれば、長期的な技術マネジメントの視点の欠如が、致命的な結果をもたらすことがあるということでしょう。
 様々な新技術が、市場や社会のあり方を支配するようになった現状を鑑みると、組織運営を担うリーダ、戦略家が技術を学ぶ意義はますます高まっているものと思われます。技術者もまた、自らの職責の範囲を超えて、技術が戦略に与えるインパクトについて、もっと意識すべきかもしれません。
 ミッドウェー海戦の敗北から75年、ビジネスの最前線に立つ一人ひとりが、技術と戦略の関係をいま一度考え直すことで、新たな未来が切り拓けるのではないでしょうか。
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 レーダーの歴史。
 発明
 八木・宇田アンテナを用いたレーダーを装備したメッサーシュミット Bf110
1887年、ドイツの物理学者であるハインリヒ・ヘルツが電磁波の人工的な発生と検出に関する実験を行った。電磁波の存在はイギリスの物理学者であるジェームズ・クラーク・マクスウェルによって理論的に予言されていたが、ヘルツの実験によってはじめて立証された。
 1904年、ドイツの発明家クリスティアン・ヒュルスマイヤー(Christian Hülsmeyer)はドイツとオランダで電磁波の反射で船を検出して衝突を避ける実演を行った。火花送信機とコヒーラー受信機、ダイポールアンテナにより距離5kmの船舶の探知を実用化し、英国において"Telemobiloscope"の名で特許を取得したが、海軍には採用されず、生産されなかった。後に彼は電波測距儀の特許を取得している。

 八木・宇田アンテナ
 1925年(大正14年)日本人の発明した八木・宇田アンテナ(以降、「八木アンテナ」)は、既存の技術に比べると非常に容易に指向性を得ることができる、実に画期的な技術だった。しかし、日本では全く反響が無く学会から無視された。一方欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを複数使用し各アンテナが受信した電波の位相差から方位を測定する短波帯の「CHレーダー」により目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した。
 なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。

 日本
 電波兵器たる「レーダー」の日本語訳としては、帝国陸軍の造語である「電波探知機」の名称・呼称があり、これは「電探(でんたん)」の略称とともに一般化している。この総称「電波探知機(電探)」をさらに陸軍では、電波の照射の跳ね返りにより目標の位置を探る警戒・索敵レーダーに対し「電波警戒機(警戒機)」(および「超短波警戒機」)、高射砲などが使用する射撃レーダーに対し「電波標定機(標定機)」と二種類に区分している。この「電波探知機」の名称・呼称は陸軍の開発指揮者である佐竹金次少佐(当時)が、ある会議で「電波航空機探知機」と述べたのが簡略化(「電波探知機」)されて普及したものである。
 しかしながら帝国海軍においては、警戒・索敵レーダーに対し「電波探信儀」の名称・呼称を使用していた。さらに、目標の電波探信儀が発した電波を傍受する一種の方向探知機に対しては、(陸軍の造語で狭義のレーダーを意味する)「電波探知機」(および「超短波受信機」。略称として「逆探」とも)称を充てており、「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」と混乱が生じている。なお、戦後は「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」が広く世間に定着したため、「(海軍称たる)電波探信儀」は廃れてしまっている。
 なお旧日本軍(陸海軍)のレーダー開発史においては、防空を主として重んじることから陸軍が先進的な存在であり、かつ陸軍上層部自体の理解も当初から高いもので、陸軍科学研究所において電波を通信以外の用途に利用する研究を開始したのは1932年(昭和7年)、航空機探知を目的とする狭義のレーダー研究を促進し始めたのは1938年(昭和13年)春、レーダー受信実験の成功は1939年(昭和14年)2月である。
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技術は戦略をくつがえす