🍠28〗─7・B─関東大震災で清澄庭園に逃げた2万人が助かった。~No.95 

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 2023年5月31日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「関東大震災清澄庭園に逃げた2万人が助かった理由……「樹木の防火力」の歴史的事実
 福嶋 司
 大江戸線清澄白河駅の近くにある清澄庭園。池と緑のある静かなこの庭園が、関東大震災で2万人の命を救ったことはあまり知られていない。
 清澄庭園に逃げた人たちはなぜ助かったのか?その理由は池と、「樹木の防火力」だった。
 【*本記事は、福嶋司『カラー版 東京の森を歩く』を抜粋・編集したものです。】
 紀伊國屋文左衛門から徳川慶喜岩崎弥太郎の所有へ
 都営地下鉄大江戸線清澄白河駅で下車して歩くこと5分程度で清澄庭園に着く。
 一帯は深川界隈でも特に緑の少ないところで、清澄庭園は貴重な緑空間である。また、園の近くの霊巌寺には将軍吉宗の孫、白河藩主であり、「寛政の改革」を進め、大田南畝(おおたなんぽ)からその政治姿勢を「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と狂歌に詠まれたことでも有名な松平定信の墓がある。
 この清澄界隈に人が住むようになったのは寛永年間(1624~1643)の頃からである。
 徳川家康が現在の大阪から連れてきた漁民は佃島に住んだ。そこが手狭になったことから、漁民は対岸のヨシ原のこの地を開拓して新たに深川漁師町を作った。
 その後、清澄庭園の地域は一時、紀伊國屋文左衛門の別邸となった。紀伊國屋文左衛門と言えば、海の荒れた日が長くつづき、紀州からのミカンが江戸に届かず、価格が暴騰していた時に多量のミカンを江戸に運んだり、10万人が焼死した明暦の大火の後に木曾谷から多量の木材を江戸に運び大儲けをしたことでよく知られている。
 また、下総国(現在の千葉県など)関宿の藩主久世大和守の下屋敷として長く使われ、幕府崩壊後は徳川慶喜前島密の所有地となった。
 明治11年(1878)には三菱財閥を興した岩崎弥太郎が一帯の土地約三万坪を買い取って造園し、「深川親睦園」と名付けて社用に供した。その後、回遊式庭園を築造し、明治24年(1891)に現在のような清澄庭園が完成したという。
 このように、この場所は所有者を変えながら、長い歴史を刻んできたが、清澄庭園の歴史で特筆すべきは、関東大震災時のこの庭園のありようであろう。この庭園の森は、逃げ込んだ2万人もの人の命を救った。だがこのことはあまり知られていない。
 大震災と、この庭園の果たした避難場所としての役割について、文献をもとに少し詳しく紹介しよう。
 避難場所の選択が命の分かれ道に
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分44秒、相模湾震源とするマグニチュード7・9の大地震が発生、さらに二次災害として各地で火災が発生した。
 火事は3日間燃えつづけ、当時の東京市内の約半分の地域を舐め尽くし、東京市全体の62パーセントに当たる家屋が焼失した。
 行方不明者を含む死者は9万3886人に及んだが、死者の約90パーセントが焼死であったという。火災は熱旋風(熱竜巻)を発生させる。着火物を含んだ強風や火の粉が逃げまどう人びとを上から襲った。火災の熱風は地表も這い、衣服を焼き、髪も焼いた。着火飛来物は人の首さえも飛ばした。
 人びとは火に追い立てられて広い空地や樹木を持つ公園に逃げ込んだ。当時の東京市の人口は約248万人であったが、そのうちの70パーセント以上が公園などに避難して助かったという。
 しかし、逃げ込んだ場所の条件の違いが生死を分けた。
 ここで陸軍被服廠の跡地(現在の墨田区横網町公園一帯)と旧岩崎邸(現在の清澄庭園)の例を比較してみよう。
 陸軍被服廠跡は隅田川沿いにあり、被服廠が赤羽に移転した跡地には公園の造成が計画されていた。当時は4ヘクタール以上の空き地で、周囲に鉄骨の板塀と幅1メートルほどの溝がある広場であった。そこに火から逃れて4万人もの人が逃げ込んだ。火事の延焼速度はそれほど速くない。人びとは長期戦になることを予想し、布団や家財道具を持ち込んだ。
 広い場所に避難し、ほっとしたのもつかの間、周囲から3回の高熱の熱旋風が襲来した。火は持ち込んだ布団や家財道具に引火し、外と内からの火で火の海となった。人びとは逃げ場を失い、結局3万8000人もの焼死者が出た。窒息死者と周辺の焼死者を合わせるとこの地域では4万4315人が亡くなったという。しかも、そのうち、性別判別ができた人は13・6パーセントしかなかったといわれ、火災のすさまじさを示している。
 一方、避難してきた2万人もの命を守ったのが旧岩崎邸、現在の清澄庭園である。
 清澄庭園
 © 現代ビジネス
 旧岩崎邸は陸軍被服廠の跡と同じ隅田川のほとりにあり、面積は約4・8ヘクタール、同じように周囲を民家に囲まれていた。しかし旧岩崎邸は中央部に池があり、邸の周囲を煉瓦塀と土塁が取り囲んでいた。さらに、土塁の上にはスダジイタブノキイチョウなどの木々が樹林帯を形成し、邸内にも多くの樹木が植えられていた。ここにも外部からの火災の熱が容赦なく襲ってきたが、その熱を周辺部の樹木が防ぎ、避難した人びとを安全に守ったのである。
 北村信正氏の『清澄庭園』のなかには被災状況と樹木の防火の効果を詳しく知る龍居松之助の話が紹介されている。その一部を引用しよう。
 「東南の両地境の塀にそって植栽されたシイが所々焼けており中にあるイチョウの如きは9月下旬には既に新らしく芽を出していた。(中略)内庭に入ってみたが、これはまた意外な大損害である。見渡す限り真赤で、庭木の青いものは殆んど無く、下草物が少しずつ青い色をみせてはいるが、それとて数える程である。殊にマツ、カエデの弱いのには呆れるの外なく、マツの如きは島にあるものや池水に接しているものまでまっかである。しかし園の北方から物すごい焔がおそい来った時、これらの庭木が死ぬまで奮斗してここに逃げこんだ人命を救ったことを思えば我々はこのまっかになっている立てる枯木に深く感謝せねばならぬ」(現代かな遣いに改めるなどした)。
 この話からは邸内の庭木が相当な被害を受けたことがわかる。しかも、周囲が鬱蒼とした樹木から構成され、それらが熱風を遮断して内部への流入を防いだことも明確に紹介されている。ここに植えられていた常緑樹の葉は厚く、落葉樹にくらべて多くの水分を含んでいる。木々は葉から水分を蒸発させ、熱を防ぎ、そして、葉は枯れたのである。
 樹木の種類によって異なる耐火性
 この例からもわかるように、樹木、樹林には大きな防火力が期待できる。
 そもそも防火とは、熱源ともののあいだに空間を設けて燃えないようにすることであり、燃焼物の排除と熱の遮断や水などで冷却する消防である。
 そのうち、燃焼物の排除、空間を作る防火対策はすでに奈良時代から意識されていた。天平宝字元年(757)に施行された養老令のなかの第二十二「倉庫令(そうこりょう)」では「凡倉。皆於高燥処置之。側開池渠。去倉五十丈内。不得置館舎」として、倉庫の周りに50丈(約150メートル)の空間を設けて類焼を防ぐための対応が求められている。
 また、樹木による熱の遮断や熱の冷却についてもすでに経験的に意識されていた。各地で見られる生け垣や屋敷林などはその効果を期待したものである。
 そのために植えられた樹木は地域で異なっていた。伊豆地方ではサンゴジュ、関東地方ではアカガシ、スダジイシラカシなど、東北地方ではヒバ、山陰の石見地方ではクロマツなどである。それらの木は「火伏木(ひぶせのき)」と呼ばれた。
 アカガシ
 © 現代ビジネス
 後述の自然教育園内の土塁の上に植えられたスダジイ、アカガシはまさに火伏せの役目を期待したものである。
 スダジイ
 © 現代ビジネス
 また、常緑樹ではないが、消火の働きをしたことがわかっているものもある。神社や寺に植えられたイチョウの大木がそれである。
 火災時に多量の霧や水を降らせ、建物を守ったことから「霧吹きイチョウ」、「水吹き公孫樹」、「火食いの木」などと呼ばれているイチョウが全国各地にある。イチョウは落葉樹であるが、葉が厚く、多くの水分を含んでいることから防火効果を発揮したものである。
 では、樹種の性質によって火に対する強さ(耐火性)は違うのであろうか。
 山下邦博氏は「針葉樹と広葉樹の発火性の相違について」という論文のなかで、多くの樹種で実際の燃焼実験の結果を報告している。それによれば、炎を出して燃える有炎発火の開始温度は、常緑針葉樹が平均400度、落葉広葉樹が500~570度、常緑広葉樹が575~600度であった。
 また、無炎発火の温度ははるかに低く、常緑針葉樹は375~400度、落葉広葉樹は425度、常緑広葉樹は400~465度であった。常緑広葉樹は高い温度でやっと燃えはじめ、常緑針葉樹は他の樹種にくらべてはるかに燃えやすいこと、落葉広葉樹は中間にあることが示されている。
 東京23区内で「本当に安全」な避難場所
 では、どのような状態の森が防火に効果を持つのであろうか。
 関東大震災直後に当時の山林局技官、田中八百八氏が「大正の大地震及大火と帝都の樹園」、河田杰(まさる)・柳田由蔵氏が「火災ト樹林並樹木トノ関係」という報告書を作成している。それらのなかで安全であった避難場所や火に強い樹木、樹林のあり方を考察している。
 これによると、防火の観点からは、常緑樹を主体とした樹林帯で、枝葉が多くあり、階層を作っている森林が望ましいこと、避難場所としては、そのような樹林に囲まれた3万坪(10ヘクタール)以上の面積があると安全と結論している。
 樹木による枝葉の耐火性と熱遮断効果など延焼防止効果に着目した報告である。耐火力は難引火性・難燃性を示すもので、植物の含水量、蒸散力、熱伝導率などが影響する。一方、遮断力は植物の衝立てとしての火の遮蔽効果で、樹形、葉・枝の形、密度など樹木の形状的な特性によって決まる。
 1789年、私たち(福嶋司と門屋健)は関東大震災直後に先の山林局技官により調査された26ヵ所のうち、面積規模と形状を考慮して、数寄屋橋公園坂本町公園、湯島天神神田明神、深川公園、横網町公園築地本願寺浅草公園清澄庭園日比谷公園の10ヵ所を選び、現在の面積、樹林の現状、樹種などを調査して現状の防火力を診断し、「樹木の構成と配置からみた都市公園の防火機能に関する研究」として報告した。
 それによれば、耐火性、遮断力を総合評価して避難場所として安全と判定できたのは日比谷公園清澄庭園だけで、多くの人が亡くなった横網町公園、深川公園、築地本願寺浅草公園などは依然として不安な状態であることが判明した。
 また、その後、東京23区全域の防火力診断と避難場所になると考えられる場所を抽出するために「東京二三区内の樹林の防火力分布図」を作成し、診断を試みた。図はその結果の一部である。
 東京23区の防火力分布図の一部。中央部皇居から西に、東宮御所新宿御苑明治神宮など緑色で表示された大規模な森が見られる
 © 現代ビジネス
 緑色が樹林で黒が不燃建物地域、褐色が可燃建物地域、黄色が樹林を多く持つ住宅地である。この図の中央部に緑色の皇居があり、かつての大名屋敷や寺院などの大きな森の緑が見られる。その周りは不燃建物の黒が取り巻いているが、離れるに従い褐色の可燃建物地域が広がっている。
 山手線の内側と周辺には昔の藩邸跡、神社仏閣などの大規模な緑地があり、避難場所としての効果が期待できる反面、北区、荒川区練馬区、中野区、杉並区、大田区などでは森が少なく、あってもその面積が小さいため安全な避難場所となり得る緑地が少ないこともわかった。
 地震の二次災害として発生する火災では、家屋や電柱の倒壊により道路は遮断され、水道設備は使えなくなる可能性が高い。その場合、これらの植物や森が防火力を発揮することはまちがいない。
 公園や街路樹では美しさを求めてか、落葉対策か、あるいは電線に触れるからか、理由はさまざまだが、樹木の枝が剪定されていることが多い。枝の剪定は防火力の低下にもつながることを知り、どのような樹木配置と剪定方法が防火力発揮のために効果的なのかを考える必要があると強く思う。
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