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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、縄文時代から日本が甚大な災害が多発地帯する列島である事が理解できない。
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 2021年10月12日 MicrosoftNews JBpress「何度も洪水が襲来する土地に、なぜ住宅街ができてしまうのか?
 © JBpress 提供 記録的豪雨で甚大な被害が出た岡山県倉敷市真備町(2018年7月8日、写真:ロイター/アフロ)
 (山根一眞:ノンフィクション作家)
 2014年8月、広島市の豪雨土砂災害では、関連死を含め74人の命が奪われたが、その災害現場の一つ、安佐南区の八木地区は阿武山の急峻な山裾に食い込むかのように住宅街が形作られている。
 なぜ、こういう場所に密集するほどの住宅地が形成されたのか。
 国際日本文化研究センター教授、磯田道史さんの、『天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災』(中公新書、2014年刊)にその解が記されていた。
 <八木地区の団地造成は1937(昭和12)年に三菱重工広島製作所の従業員団地の造成を相談されたことから、はじまった。そして、高度経済成長期には、グリコや雪印の牛乳工場の誘致とあいまって、団地化が急速に進んだ。>
 この3行を読み、「真備町(まびちょう)と同じじゃないか!」と口にしてしまった。
 岡山県倉敷市真備町
 支流で発生した「バックウォーター現象」
 広島市の豪雨土砂災害の4年後、2018年7月に見舞った西日本豪雨では、家屋の全半壊は約2万棟で3万棟近い家屋が浸水した。全国で死者・不明271人というおびただしい犠牲者が出たが、うち51人が死亡したのが倉敷市真備町だった。
 © JBpress 提供 泥の海と化した岡山県倉敷市真備町。(写真出典:国土交通省資料「平成30年7月豪雨災害の概要と被害の特徴」)
 真備町は、全域が海のように泥水で冠水しているニュース映像によって広く知られたが、報道では、洪水の原因は「バックウォーター現象」だと繰り返し伝えていた。
 真備町の東には高梁(たかはし)川が流れているが、その本流に小田川という支流が合流している。だが大雨により高梁川の水位が上昇したため、支流の小田川の水は先を遮られて合流できず逆流。水位が上昇し3カ所の堤防を決壊させて、真備町を泥の海にしてしまった。この逆流を「バックウォーター現象」と呼ぶ。
 © JBpress 提供 高梁川(右)と小田川(左)の合流点付近。水が引いた後は美しい水辺の光景だったが。このすぐ南には山陽新幹線の鉄橋が見える。(2020年7月13日、写真・山根一眞
 洪水発生後、「倉敷市(平成29年作成)洪水・土砂災害ハザードマップ(真備・船穂地区)」を見たところ、洪水被害が発生したエリアは濃い色で塗りつぶされており、洪水が発生すれば5.0m以上の水に水没することが警告として描かれていた。実際、西日本豪雨の洪水による浸水は真備町の4分の1で5mを超したので、ハザードマップ通りの災害だったのだ。
 © JBpress 提供 真備町の洪水被災地はハザードマップの想定洪水エリアと一致していた。(出典:国土交通省資料「平成30年7月豪雨災害の概要と被害の特徴」)
 ちなみに、オンラインの「重ねるハザードマップ」(国土交通省)では、10~100年に1回程度の降雨規模では、真備町の中心部の浸水は10~20m以上と示している。
 「5m以上」は「建物の2階以上」だが、「20m」は「建物の7階」だ。東日本大震災の被災地での津波の高さは、平地で20mを超えた場所は福島県富岡町(21.1m)という報告が一例あるだけなので、大雨による内陸部の洪水で東日本大震災並、さらに津波以上の洪水まで想定されているとは驚くばかりだったが、真備町はその危険がある場所と知った。
 家屋を襲う「洪水」の破壊力
 私が現地入りしたのは洪水発生からおよそ2週間後だったので水はすっかり引いていたが、復旧は容易ではないことを知った。
 高台から見たある住宅は一見、被害がないように思えたが、カメラの望遠レンズで住宅を見ると、破れた2階の窓を通して反対側の開口部から先の外の景色が見えた。2階以上の高さで押し寄せた洪水が、窓を破りすべての家財を流し去ったのだろう。
 © JBpress 提供 洪水で被災した住宅。(2020年7月13日、写真・山根一眞
 51人もの命が奪われたのは、この洪水の力だったのか。
 「洪水」は津波のようなパワーで住宅を破壊することもあるのかと思った。
 2020年7月と10月、球磨川の氾濫によって大きな被害が出た熊本県人吉市球磨村を取材しているが、真備町同様、「洪水」は時に「陸の津波」と言えるほどの破壊力を持っているのは間違いなかった。
 © JBpress 提供 2000年7月、球磨川の洪水によって破壊された熊本県球磨村の住宅の一部。(2020年10月21日、写真・山根一眞
球磨川の洪水で破壊された住宅内の時計の針は洪水襲来時を指したまま止まっていた。  © JBpress 提供 球磨川の洪水で破壊された住宅内の時計の針は洪水襲来時を指したまま止まっていた。(2020年10月21日、写真・山根一眞
 真備町洪水に話を戻す。
 被災から半月後、倉敷市真備支所の前庭では、泥との格闘を終えた多くのボランティアが泥にまみれた長靴を洗うなどの姿が見られた。また、洪水で機能を停止した倉敷市真備支所の内部は東日本大震災津波取材現場で見た光景と同じだった。
 © JBpress 提供 厳しい猛暑の中、作業を終えたボランティア。(2018年7月27日、写真・山根一眞
 © JBpress 提供 「倉敷市真備支所は業務を行っていません」という掲示がある玄関から見た内部は、洪水のパワーを物語っていた。(2018年7月27日、写真・山根一眞
 大雨によって高梁川に合流する小田川が起こす「バックウォーター現象」を防ぐため、現地では河川の改修工事などを国に求めていたが、長いこと国の予算がつかず、また地元の反対があるなど複雑な事情から十分な対策工事が終わる前に大洪水が見舞い51人の命が失われてしまったのだ。
 繰り返し水害に見舞われてきた真備町
 私は、現地取材の際「真備町は昔から洪水に見舞われてきた地域だ」と聞き、その歴史を知る資料を探した。そして、岡山市内の小さな古書店で見つけたのが、1300ページからなる『真備町史』(1979年刊、真備町史編纂委員会編、非売品)だった。
 同書では、58ページを割いた「第四章 水害と治水」で江戸時代以降の水害の事情について詳細に書いており、真備町が繰り返し水害に見舞われてきたことを知った。いずれも高梁川小田川の堤防の決壊による洪水で、この地では数百年間に数千人、おそらく1万人以上が洪水で命を失ってきたようだ。そのため、各時代にさまざまな治水対策工事が行われてきたが、隣接する他地域が洪水防止のために行った大規模河川改修工事が、小田川の水量を増やすことになり、真備町側で犠牲者を増やしたこともあったようだ。
 水利用の「水利権争い」はよく聞くが、真備町は、水害防止の「治水権争い」も経験してきた地域なのである。
 一方、この地域では「ひとたび洪水が発生すれば多くの犠牲者が出る」という警告を後世に伝える碑がいくつかあるが、なぜそういう危ない場所が人口2万人を超える町、住宅地として発展してきたのか。
 取材で訪ねた真備町川辺の源福寺(曹洞宗)には、1893年明治26年)の大洪水の慰霊塔があった。台風に刺激された秋雨前線による大雨で高梁川の堤防が決壊。当時の川辺村では384世帯の大半が流され、残ったのは19棟のみだった(岡山県全体では491人が水死し流出破損家屋は1万3000戸にのぼった)。
 倉敷市歴史資料整備室は、こうも伝えている。
 <中国山地で盛んだった「カンナ流し」(砂鉄採取)の影響でかねてから河床に土砂が堆積し流水に支障を生じていた高梁川は水位膨張に耐えられず氾濫し,各所で堤防決壊・越水による大洪水を引き起こしました。>
 「カンナ流し」(砂鉄採取)とは、中国地方で発達した「たたら」製鉄に欠かせないものだ。それが名刀を産み各藩の軍事力を支える大産業となっていたが、「たたら」製鉄では燃料として膨大な森林伐採が行われ山の保水力を低下させ大洪水の一因となっていたが、川の水の流れにも影響を与えていたのだ。
 先に広島市の阿武山の伝承、土石流の原因=大蛇退治について触れたが、中国地方各地に伝わる八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の大蛇も、土石流や洪水を意味しているという説は一般的だ。天皇家三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は八岐大蛇を退治したスサノオノミコトが大蛇の尾からとり出したとされる。日本では神話の時代から、森林伐採や土砂掘削による「産業」の振興の一方で、山裾や河川の下流の人々を苦しめてきた。真備町も、そういう被害の歴史が続いてきたのだ。
 © JBpress 提供 真備町川辺の源福寺に立つ明治26年大洪水の犠牲者の供養石塔。昭和4年に建立されたが、塔の高さは約4m。この洪水時の最大水位という。(2018年7月27日、写真・山根一眞
 © JBpress 提供 真備町川辺の源福寺(曹洞宗)は明治26年の大洪水再襲来思わせる浸水被害を受けた。ボランティアの応援を得て土砂をかき出し床もあげた本堂内。(2018年7月27日、写真・山根一眞
 高度経済成長で進んだ団地化
 数百年にわたり大洪水に何度も見舞われてきた真備町。教訓も伝承もありながら、なぜここに大きな町が作られてきたのか。
 現地取材でこう聞いた。
 「水島工業地帯で働く人たちが住宅地として求めてやってきたからです。真備町は臨海工業地帯からクルマで30分なので、格好の通勤圏として人口が増えました」
 1960~70年代、瀬戸内海に面する高梁川の河口、倉敷市水島に重化学工業を中心とする水島臨海工業地帯が形成された。現在の総面積は2500ha(約756万坪)あり、石油精製、鉄鋼生産、自動車など200以上の事業所が立地している。岡山県が脱農業を目指して形成、ここは日本の高度成長時代を担う強力なエンジンとなった。
 当然、この工業地帯の就労者も増えたが、倉敷市には住宅の適地が少なかった。そこで注目されたが真備町だったのだ。
真備町史』は、「ここ数年間(註・1970年代)に転入者による新築、建売に入居するものが増加し、団地と称するものが町内に総数八十を越え、その戸数二、千〇〇戸を数える」と書いている。
 高度成長期の工業地帯の就労者の住宅地。
 磯田道史さんが書いていた「(広島市)八木地区では、高度経済成長期に工場の誘致とあいまって、団地化が急速に進んだ」とまったく同じ事情なのだ。
 八木地区では土砂災害の、真備町では洪水のリスクが高い地域だったが、その伝承や警鐘が希薄になっていたところに、大きな住宅需要が生まれ多くの人が移り住むようになったのだ。
 2014年8月の広島市豪雨土砂災害でも2018年7月の真備町水害でも犠牲者の約8割が70歳以上の高齢者だと伝えられたが、それらの住宅にはかつて高度成長期を支えた就労者たちが定年後も住み続けていたからなのだ。
 土砂災害、洪水災害の被害をなぞっていくと、単に大雨が増えたから、異常気象によるから、と、自然災害として簡単に片づけられるものではないことが見えてくる。山や川の経済利用、また経済活動を支える人たちの事情が被害を大きくしているのである。
 だからといって、「そんな所に住むからだ」と言ってはいけない。彼らは今日の日本を築くためにその場所に住むしかなかったのだから。
 こういう災害は「高度成長時代のツケだ」とか「負の遺産だ」とも言うべきでなない。60年代、70年代に彼らの努力があったからこそ、当時とは比べものもないほど豊かな日本が実現したのだ。そういう彼らが今、宿命的な災害の危険地域で余生を送っていることを忘れず、感謝をもって災害で不幸に見舞われないための支援や知恵をそそぐべきなのだから。
 【シリーズ】「経験のない大雨」災害時代の教訓
 (1)「写真では表現できない怖さです」目の前の川に氾濫が迫る恐怖
 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66616
 (2)求められる新たな発想と技術、果てしなく続く土石流との戦い
 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67134
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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