🍙3〗4〗─1─国際連盟は、人口爆発を続ける日本で飢饉が発生する恐れがあると警告を発した。昭和元(1926)年。~No.8No.9No.10No.11No.12No.13 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
・昭和3年〜7年
 自給額 7,288万石。
 消費額 8,407万石。
 自給率 86.7%。 
 人口 6,045万人。
・昭和8年〜12年
 自給額 6,157万石。
 消費額 7,447万石。
 自給率 82.7%。
 人口 6,900万人。
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 ポール・クローデル(駐日フランス大使)「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ」
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 野坂昭如「ぼくはずっと、日本古来の食いものにこだわってきた。その中でも大事なのは『米』。戦争直後の飢餓体験が、ぼくの一生を決めているとさえ思う。食うことに追われ、どこに行ってもまず食べることを考えてきた。周辺で何人も飢えて死んでいくのを目にした。ぼくも死を覚悟した」
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 昭和初期。人口爆発に危機感を抱いた日本政府は、産児制限で人口増加調整を行っていた。
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 佐々木到一少将手記 1827年3月 第一回南京事件。「領事が神経痛の為、病臥中を庇う夫人を良夫の前で裸にし、薪炭車に連行して27人が輪姦したとか、三十数名の婦女や少女に至るまで陵辱され、現に我が駆逐艦に収容されて治療を受けた者が十数名もいる……」
 1928年5月 済南事件。「居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女16人が惨死体となってあらわれたのである。予は病院に於いて偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。手足を縛し、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの足袋で日本婦人たる事がわかった様な始末である……」
 中国における、中国人による日本人居留民への暴行・強姦。殺人事件は絶えなかった。
 1937年7月29日に発生した中国軍兵士による通州大虐殺では、更に陰惨で残虐な手段で約300人の日本人居留民が惨殺された。
 その惨状はこの世とは思えないほどの地獄であり、人の心を持った真っ当な人間ではとうていできない蛮行であった。
 それが、当時の中国であった。 
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 ニーチェ「病気は、健康になる為の一つの不器用な試みである。私達は精神をともなって自然を助けに行かなければならないのだ」
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 1926年 中南米諸国には、アメリカの侵略に対抗する政治的理由と日露戦争の勝利という白人への反発から、親日派が多く存在していた。
 日本の移民は、北米大陸から南米のブラジルを目指した。
 1926年1月5日 社会局長官長岡隆一郎は、人口爆発と食糧危機から、国を上げて海外移民に取り組む必要性を訴えた。
 中外商業新報「良質の移植法を送って、周密なる保護を加うるの必要がある。移植民も一時の出稼ぎの様な考へを捨ててブラジルの開発の為に、彼地に永住する決心と意気がなければならない、兎も角移植民の問題に関しては、政府も国民も政党政派の別なく協力戮力(りくりょく)してこれが実行を期したいと考える」
 12月 昭和元年 裕仁皇太子が、国家元首たる天皇に即位する。
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 日本の農村は貧しかった。
 農家は貧困のどん底にあったが、家族は助け合って幸せに生き抜いていた。
 困窮していた農家は、娘達を人身売買で都会に売っていたが、不幸とは考えなかった。
 貧しい中で、家族の絆を大事にしていた。
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 昭和2年 国際連盟は、『人口と天然資源』を出版して日本の危機を報告した。
 政府は、国際協調を国是として軍部の猛反対を無視し、日本の現状を知らせるべく国際連盟調査団の国内調査に全面協力した。
 軍部は国防重視から政府に不信感を募らせ、狂信的民族主義の若手将校は独立を守る為に暴走した。
 日本軍は、第一次山東出兵で大陸への侵略を開始した。
 軍部は、国防上の観点から、外国に依存しない日本を中心とした食糧自給論を主張した。
 農林省は、人口増加に見合う食糧増産が望めない以上は、外国農産物に依存し、食料を輸入するしかないと反論した。
 軍部は、論戦に破れ、全外地軍に対して内地からの食糧等の物資を当てにせず、駐屯地内外で食料を生産して自活する様に命じた。
 農林省は、軍部が懸念する様に、外国への依存度を増す事は国家の安全を脅かす元凶になるとして、日本・朝鮮・台湾で食糧増産を強権的に強制した。
 日本中心の食糧増産計画は、生産性の高い日本式農業技術の押し付けとなり、生産性は低くとも前近代的伝統農法に固執した地元民の反感を買った。
 地元無視の強引な食糧増産政策によって、反日感情は否応もなく東アジア全体に拡がった。
 昭和2年 浜口内閣は、人口食糧問題調査会を設置し、食糧不足には増産を、人口過剰には移民で解決しようとした。
 遼東半島の関東州で生産された僅かな米は、駐屯している関東軍の食糧にあてられ、日本への輸出はほんの僅かであった。
 祭祀王・昭和天皇は、稲を神聖視する天壌無窮の神勅に従い、御自身ら皇居・吹上御苑内に水田を開墾し、泥に塗れ汗を流して田植えと稲刈りの野良仕事を始めた。
 コメは、日本民族にとって、工業製品の様な金儲けの生産品ではない。
 皇室祭祀として重要な宮中の宗教儀式は、10月(旧暦9月)の神嘗祭と11月23日の新嘗祭である。
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 金融危機
 ホノルルで第2回太平洋会議が開催され、激増する日本の人口と人口過剰問題の解決が話し合われた。
 同会議は、人口過剰問題の解決策を提言した。
 「人口と天然資源との不均衡に対する救済は4つの部類に分ける。第一は国内産業組織の改造、第二は輸出産業の発展、第三は新しき土地に対する移民、第四は産児制限その他人口増加を止める諸方策である」
 外国との貿易を盛んにする為に輸出産業を発展させねばならないが、日本は資源を持たず製品の販売先も持っていない事を考慮し、早急に「原料の供給及び製造品の販路を充分に得る事が必要である」と指摘した。
 上田貞次郎(東京商大教授)『人口問題』
 「日本では人口が過去60年間に2倍したが、その結果として耕地の人口に対する割合は世界中何れの国よりも低くなっている。合衆国の一州サウス・ダコタと同じ広さの耕地で6,000万人の食物を産出しつつあることは驚くべき事実である。日本の農業は何れの国よりも集約的であり、食糧問題に関し最も差し迫った情勢を呈している」
 「(日本人の)心理的に見て諸外国の関税政策及び移民の禁止は日本人にとり絶えざる憤懣(ふんまん)の原因となっている。日本人は絶海の孤島に押し込められたと感じているのである」(イギリスやアメリカなど排他的ブロック体制を批判した)
 「抑々自国民の自然増加率を以って到底埋めきれない程の広大な領土を有しながら、之に縄張りをして他の増殖力旺盛なる国民の移住を許さぬということは種々の理由があるにしても、一応不条理極まると断定しなければならぬ」(人種差別的に排日運動を行うアメリカやカナダを非難した)
 「資源に乏しき国の人民がその豊富なる国に対して抱く所の不平不満は最も自然なものである。従って前者が後者に対して国土の一部を開放するならば、その実質的効果如何に拘らず、国際平和に役立つことは論を俟(ま)たない。……その再配分が考慮されないために武力に訴うるものが出来るのである。けれども資源を求めるものの側において戦争によって問題を解決せんとするはその犠牲はあまりにも大きい。欧州戦争の惨状はあまりにも生々しい。かくの如き思想の動き出すのは人身昂奮の結果であって、冷静なる判断の結果では有り得ない」
 日本の保守的軍国主義者は、欧米の植民地大国が、入植地と資源を公平に再分配するならば戦争という惨状は回避できると訴えた。
 だが。日本の軍国主義者らは、世界から締め出されて追い詰められ、移住先と資源と食糧を確保する為に冒険的領土拡大戦争へと暴走した。
 9月7日 国民新聞「外に出られず、内には激増、あたかも蓋をして下から煮やす鉄瓶の如く、将来沸騰点の危機を感ぜざると得ない状況にある」
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 日本は、独力で、アジアで最初の地下鉄を上野から浅草間で開業させた。
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 昭和3年 矢内原忠雄「朝鮮米は大部分移出向きとして生産せらるるが故に、朝鮮人の食糧そのものは外部より補充せられねばならない。鮮米の内地移出増加に伴いて、外米及び満州粟の朝鮮への輸移入激増せるは顕著なる事実である。故に内地食問題の解決上、朝鮮米の移入に依存すること大となればなるほど、朝鮮自身の食糧問題は深刻となる。結果より見て、内地人は品質優等なる朝鮮米を食い、朝鮮人は品質劣等なる外米及び満州粟を食うこととなっている。加うるに土地喪失農民離村に伴う朝鮮人の経済的な悩みは深刻を加えつつある。故に朝鮮米の移入増加を賀する者は、また思いをこの点に致さざれば不慮の鍋を招くであろう」(『人口問題』)
 日本人投資家は、食糧不足で米価が高騰している日本に朝鮮米を移出して一儲するべく、借金苦を抱える朝鮮人農民から低価格で優良な農地を奪った。
 農地を日本人投資家に二束三文で奪われた朝鮮人農民一家は、生きる為に職を求めて日本に密上陸して、都市部の貧困部落に入り込んで仕事を求めた。
 日本は、人口爆発を起こし過剰人口と食糧難に苦しみ、余剰人口は都市部の低賃金労働者か地方の鉱山労働者となった。
 低賃金の日本人労働者は、経済不況下で、職場を朝鮮人移住者に奪われる恐怖から、朝鮮人を軽蔑し差別した。
 朝鮮人差別は、明日の食べ物と失業の恐怖に脅え、その日暮らしを強いられている日雇いの貧困労働者階級に根強かった。
 日本人投機家は、日本の食糧問題の解消ではなく、目先の金儲けしか考えないだけに、無計画に大量の朝鮮米を日本国内に送り続けた。
 その結果。日本国内の米価は、安い朝鮮産米の大量移入で値崩れを起こした。
 日本の農家は、耕作地が小さい小規模農家や零細農家が大半で、都市の銀行家や金貸しに高金利で多額の借金をしていた。
 当然。米価が下落すれば収入は激減し、借金が返済できず利子は膨らんだ。
 借金苦で追い詰められた貧困農家は、男の子は軍隊に入れるか丁稚奉公に出し、娘や妻を都市の人買い業者に売り、そして先祖伝来の農地を都市の投機家に売って、金を工面して借金を返済した。
 借家住まいの都市住民と違って、農民は土地への愛着が強いだけに夜逃げが出来なかった。
 当時の日本は、諸外国の中でも社会保障の整備が遅れている国であった。
 日本は、国際ルールに従って、欧米諸国と同様に極一部の人間が勝者として富の大半を独占していた。
 社会の敗者は、これまた国際ルールに従って、救われる事無くさらなる極貧状態に追い詰められた。
 日本や朝鮮はもちろん世界中が、貧富の格差が当然な社会ルールとされる、弱肉強食・強者必勝弱者必敗の原始資本主義時代であった。
 社会の底辺に追いやられた敗者・弱者は、社会変革を期待してファシズム共産主義に走るか、人生に絶望してカルト的新興宗教に救いを求めて没頭した。
 人種差別や民族差別や階級差別は、社会の不満を解消する手段の一つとして「必要悪」とされた。
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 不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)。ケロッグ国務長官は、議会で「国境を越えて攻め込む事だけが侵略戦争なのではない。経済的に重大な影響を他国に及ぼすような事も、侵略に等しい」と説明した。
 つまり、資産凍結や経済封鎖(全面的な輸出禁止及び輸入禁止)をも侵略と見なし、外交交渉で打開できなければ、政府は経済的侵略に対して断固とした処置、武力を持って自衛戦争を発動すると明言した。
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 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。
 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。




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