🍙5〗6〗─1─世界大恐慌。世界的な農業恐慌が発生し、農作物価格が大暴落した。豊作飢餓が貧しい農家に深刻な損害を与えた。台湾人の石垣島移住。・昭和4年~No.14No.15No.16No.17No.18No.19 @ ②

 
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
・昭和4年
 前年からの持ち越し、784万石。
 生産高、6,030万石。
 輸入量、127万石。
 移入量、763万石。
 供給量、7,705万石。
 消費量、6,946万石。
 人口、6,316万人。
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 1929年 農耕地の48%が小作地であった。
 日本農家の3分2が小作農か自小作農(主に自前の耕地で自作をしながら小作もする人)である。
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 世界的農振恐慌と異常気象によって、高利貸しによって借金漬けにさせられていた貧困農家の崩壊が始まった。
 政府や議会は、大企業の利益を上げ都市経済を立て直す事が日本を救う事になるとして、経済対策を実施した。
 都市部と農村部、重工業と農業などによって貧富の格差が広がり、零細農家や中小農家の貧困度は更に酷くなった。
 軍部は、崩壊し始めた農村部を救済する為に暴走を始めた。
 世界が非難する、日本軍国主義の本格的始動である。
 農村部の崩壊と農家の貧困が、軍国日本を戦争へと暴走さ、都市部に塗炭の苦しみをもたらし、多くの都市住民の命を奪った。
 日本が起こした戦争の原因は、農村部・農家にあった。
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 昭和4年10月24日 ニューヨーク市場の株価大暴落で、世界恐慌が始まった。
 余裕資金のない個人経営の中小銀行は、資金繰りが行かなくなり倒産した。
 個人投資家も。株価暴落で資産を失った。
 世界大恐慌の始まりである。
 アメリカ農家は、戦争景気で農産物輸出の増加に合わせて作付け面積を拡大させるべく大規模化を果たしたが、戦争が終わり輸出量の減少で規模の縮小を余儀なくされていた。
 銀行から融資を受けて大規模化を図った為に、多額の借金と利息が農家に重くのし掛かっていた。
 大規模化による大量生産で農産物は慢性的に供給過剰となり、価格を下げても売れ残り、農家の収入は激減した。
 アメリカ農業問題は、安い外国農産物輸入による収入減ではなく、大規模化する為に無理して行った借金であった。
 共和党のウィリス・ホーリー下院議員とリード・スムート上院議員は、農家救済目的の関税率改訂法案の作成に入った。
 両議員は、農業救済の為の関税法案に賛成を得る為に議会工作を行った。
 非農業産業を票田とする議員は、賛成票を投ずる見返りとして対象品目に工業製品を加える事を要求した。
 繊維業労働組合を支持母体とする議員は、労働者の職を守る為に、外国産生糸や外国製衣服も関税の引き上の対象にする事を求めた。
 繊維業界は、レーヨン(人造絹糸)が開発されるや、価格を下げて国際競争力を付ける為に原材料を高価な生糸から安いレーヨンに切り替え始めた。 
 日本の主要輸出品は絹で、日本農家の4割が蚕を飼い生糸を生産する事で現金収入を得ていた。
 日本人は、「良いモノは高くとも正しい評価を受けて必ず売れる」と盲信して、高品質の生糸・絹を生産して輸出していた。
 レーヨンの普及で対米輸出量は減少し、翌30年には44.6%も落ち込んみ、生糸相場も下落していた。
 国内消費分の農産物生産で生活できない中小農家や零細農家は、国際競争力のある生糸に生計を依存していた為に、レーヨン革命による安価攻勢の影響をもろに受け始めた。
 極一部の富裕層は高価な商品を少数購入したが、大多数の中産階級以下は安価なそこそこの製品を有るときに大量購入していた。
 一般消費者は、贅沢品の高価な商品ではなく、問題があっても安価な商品を購入した。
 アメリカ繊維業界は、高価な日本製生糸・絹を敬遠し始めた。
 全輸入量からすれば、輸入規制するほどの量が日本から輸入されてはいなかった。
 ホーリーとスムート両議員は、法案成立の為に、絹関税率100%設定を受け入れた。
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 増加する人口に食糧を輸入する為の外貨獲得手段であった輸出産業は打撃を蒙り、多くの製造業は倒産に追い込まれ、失業者は町に溢れ、食べ物の欠乏によるひもじさが子供達を襲った。
 政府や政党や政治家には、世界大恐慌で急増する失業者と不足する食糧をどう解決するかという対応策を示す事が出来なかった。
 国民は、企業からの賄賂で女と酒で豪遊する腐敗して政治家に幻滅し、国民の事を考えず政権を取る事しか考えない政党に絶望した。
 日本の政党政治は、現実に対する対応能力をなくして国民の支持を失っていった。
 欧米の多くの学者は、人口増加と食料不足で侵略戦争に向かおうとしている軍国日本を格好の研究材料として観察し考察を加えていた。
 W・S・タムソン(マイアミ大学人口研究所)は、『世界人口の危険区域』の中で軍国日本は危険区域の一つに挙げている。
 日本は、内需拡大の国内産業と貿易の輸出産業を発展させても、人口爆破と食糧不足の解決に至らず、海外に新たな領土を拡大する為の冒険的行動を起こす可能性が大であると、警鐘を鳴らした。
 世界が平和を望むのならば、日本の為に領土の一部を譲渡すべきであると提言した。
 だが。欧米列強は、植民地の一部を日本に明け渡す事を拒否し、むしろ日本に土地を与えては帝国主義に走り危険があるとして拒否した。
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 1930年代 日本政府や朝鮮総督府は、朝鮮人の間で、国外では日本名を名乗った方が得をするとして改名希望者が多い為に、日本国民として自覚させる意味もあって禁止していた創氏改名を許した。
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 内務省は、街に溢れた失業者を救済する為に失業保険制度を立案した。
 渋沢栄一池田成彬らは、国指導による失業者救済事業や失業共済制度を支持した。
 財界は、企業利益を上げる事こそ失業者対策になるとして経済浮揚策を要求した。
 藤原銀次郎「景気好転以外に独自の失業対策はない」
 企業家の大半は、大学生の就職率が悪いのは、教室で愚にも付かない教養や基礎学問ばかり教えているからであり、即戦力として実社会に役立つ実学や儲かる技術を教える教育改革を提言した。
 資本家から政治活動費を賄賂として受け取っていた政治家は、財界の要求に従って全ての救済案を潰し、政府に対して大企業保護策を要求した。
 生活困難者の急増で、左翼・共産主義者コミンテルンの支持を受けて国家転覆の暴力革命を計画し、右翼・軍国主義者は軍部と結託して大陸侵略へと暴走した。
 昭和前期の悲劇の原因は、1920年の第一次世界大戦後に起きたバブル崩壊による経済破綻に伴う、失業者救済対策の失敗と貧富の格差の拡大による社会不安であった。
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 台湾人と大陸漢人は、別人である。
 使用する文字は同じ漢字だが、読み方は北京語と台湾語とでは違う。
 中国語の標準語が北京語になったのは、中華人民共和国中国共産党政府)が樹立された1949年以降である。
 日本に移住してきた台湾人は、反日的な大陸漢人朝鮮人とは違って親日的で日本と台湾の為に努力した。
 明治から昭和前期に、親日的台湾人達は日本各地に開放的融和的な明るいチャイナタウンをつくり、日本天皇を敬愛し、日本国を尊重し、軍国日本の大陸政策に積極的に協力した。
 台湾人若者の多くが、自由意志で日本軍に入隊し、日本人兵士と共に大陸漢人軍と戦った。
 日本人にとって、台湾人は頼りがいのある戦友であり、大陸漢人は心許せない敵であった。
 日本人は、中国共産党が扇動した大陸漢人の暴徒によって日本人居留民が幾度も虐殺されても、報復として台湾系チャイナタウンを襲撃しなかったし、台湾人に対して暴行や強姦や人殺しもしなかった。
 日本の台湾系チャイナタウンは、日本人に守られて世界で最も安全なチャイナタウンであった。
 世界各地に生まれたチャイナタウンは、閉鎖的排他的な暗い大陸漢人系チャイナタウンである。
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 2016年10月号 Voice「日台連携で世界市場へ 李登輝
 台湾と石垣島のつながり
 ……
 台湾から持ち込まれたパイナップル栽培
 そもそも、石垣島と台湾の密接な関係は、台湾が日本の統治下に組み込まれてから、間もなく始まった。台湾と内地を結ぶ航路が開設されたことで、石垣島は日台間の貿易や人の往来におけるハブ機能を担うことになった。
 1930年代には台湾中部から大量の移民が石垣島へやって来た。彼らが主に持ち込んだのは、パイナップルの栽培と缶詰製造の技術、そして農作業を手伝ってくれる水牛たちである。
 当時の台湾では、すでにパイナップルの栽培が一大産業となっており、缶詰の製造輸出で財を成していた人も多くいた。ところが、多くのパイナップルの栽培や加工に携わる会社が林立したことで、台湾総督府は統合政策をを進めた。その結果、パイナップル産業に携わっていた人びとが新天地を求めて石垣島へやって来たのである。
 しかし、新天地のはずの石垣島での生活は困難を極めたようだ。台湾からやって来た人びとが開墾したのは、森林に覆われた丘陵地であり、焼き畑農業によってパイナップルを植える畑を確保していかなければならなかった。
 幸いにも、開墾された土地は肥沃で水はけも良かった。パイナップルの栽培に適していたこともあり、台湾の人びとに支えられた同産業は飛躍的に成長した。戦前の石垣島の経済を支える柱の一つとなったのである。
 記録によると台湾の人びとによって設立された大同拓植株式会社が、1937年に台湾からの移民を募集している。かなり郄待遇の条件が提示され、300人を超える申込者が殺到した。石垣島のパイナップル産業は80ヘクタールもの畑を開墾するに至り、成長を続けた。
 この大規模な開墾の一翼を担ったのが、台湾から持ち込んだ水牛である。水牛は1頭で人間の3人分、5人分の働きをするため、人力に比べて数倍のスピードで開墾を進めることが可能であった(台湾人の勤勉さを表すときに用いられる『水牛精神』は、こうした水牛の働きから来ている)。
 現在では、水牛が耕作に用いられることはないが、当時台湾から持ち込まれた水牛の子孫たちが石垣島付近の離島で水牛車を引っ張り、観光客を喜ばせているという。
 ところで、こうした台湾からの移民による急激なパイナップル産業の成長に、石垣島の人びとが脅威を感じたことも否定できない。開拓は厳しいかったものの、水牛を用いた台湾の人びとの農法は、その勤勉さや人数の急速な増加とも相まって、石垣島の人びとに『土地を奪われるのではないか』という脅威として捉えられた。台湾からやって来た移民との軋轢が生じたことも事実である。
 こうしたなかで、台湾の実業家が中心となって『台友会』と呼ばれる組織が結成された。台友会は、石垣島の人びととの対立をできるかぎり回避する相互理解の窓口となると同時に、台湾からやって来た人びとの結束と心の拠り所として大きな意義を果たした。これによって現地の人びとと台湾からの移民の軋轢は減少し、次第に融和が進んだのである」
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 台湾人や朝鮮人は、仕事を求めて日本に押し寄せ、日本都市部に台湾系チャイナタウンや在日朝鮮部落を作っていった。
 日本が強制連行しなくても、金儲けの為に朝鮮人や台湾人そして上海た天津などから大陸漢人が海を渡って日本に流れ込んでいた。
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 片岡義男「観光立国が日本で始まったのは、1930年、昭和5年のことだった。当時の日本に存在した鉄道省の外局として、国際観光局が創設された。国による機関として初めてのものであり、外国からの観光客を誘致する事業が、国策となった」
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・昭和5年
 前年からの持ち越し(古米) 703万石。
 生産量 5,956万石。
 輸入量 860万石。
 移入量 735万石。
 供給量 7,519万石。
 消費量 6,891万石。
 人口 6,405万人。
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 1930年 帝都復興祭。7年前に東京・横浜など関東に大打撃を及ぼした関東大震災から復興した事を祝って、盛大な祭典が執り行われた。
 江戸時代までの町並みは消え、最新科学技術と対震・防火基準によるビルや住宅が建ち並ぶ新しいモダンな首都・東京が出現した。
 労働不足を補う為に、女性の社会進出が促進された。
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 国際連盟は、恐慌対策として関税引き下げを協議していた。
 ブラジルは、日本人移民を受け入れていたが、経済不況よって自国民の失業者が増加し、アメリカからの財政支援を受ける為に要請されていた外国人移民の制限を強化した。
 日本は、合法的に移民が出来るブラジルを失わない為に、ブラジル政府と交渉して日本人移民だけは唯一例外扱いとする事に成功した。
 だが。アメリカは、南北アメリカ大陸から日本人移民を排除する為に親日的なブラジル政府に圧力をかけた。
 2月19日 貴族院本会議で。菊池武夫議員(陸軍軍人)は、東京帝国大学美濃部達吉教授の国家法人説(ドイツ人法学者イェリネック)に基づいた「天皇機関説」を不敬に当たるとして非難した。
 昭和天皇は、「私は普通の人間と肉体の構造が同じだから神ではない」として、天皇機関説を支持していた。
 軍部は、天皇の権威を利用して独裁を強めるべく、天皇親政を掲げて天皇機関説を攻撃した。
 右翼は、天皇キリスト教絶対神に相当する唯一の神とするべく「現人神」と祭り上げた。
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 日本政府は、国際金融界の要請に従って「金本位制」を復活したが、国内の金が大量に国外に流失して景気は悪化した。
 浜口雄幸首相と井上準之助蔵相の緊縮財政は破綻して、昭和恐慌となり大不況となった。
 国際的生糸価格が暴落した為に、製糸工場の経営は苦しくなり、労働者への賃金不払いが社会問題となって労働争議が各地で起きた。
 生糸輸出は外貨獲得の主要産業であった為に、日本経済全体に悪影響を及ぼした。
 都市生活者は、先行き不安から生活費を貯蓄に回して消費を控えた為に、景気はさらに冷え込んだ。
 農村部の現金収入源であった繭価格が、国内外で値崩れした為に、家計の足しにしていた農家は大打撃を被った。
 隅谷三喜男編『昭和危機 其の歴史的意義と全体像』「失業者の数は1930(昭和5)年5月で37万8,515人、失業率は3.5%と報じられていた。これに対して『エコノミスト』誌は、失業者について次のような推定を試みていた。……120万ないし130万人をもって、30年上期末の失業者数と推定している。このような推定はその後いくつか行われたが、百二、三十万という数は、いずれかというと低目と考えられ、風見八十二などは300万を妥当と数字と記している」「労働市場への労働力の流出は、農家の2、3男層と若年女子を中心とする形態をとるようになった。したがって、恐慌に際し、政府が奨励し、雇用主が期待したのは、失業者の帰農であった。……事実、解雇労働者のかなりの部分は農村に帰ったのである。……だが、農家は本来的にこのような失業者を扶養していく能力を欠いていた。恐慌期には農村人口は多少増大したが。だが、その大部分はふたたび失業の待ちうける都市に還流していかざるをえなかった」
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 4月 ロンドン海軍軍縮条約調印。
 統帥権干犯問題が起きる。
 世界的な農業恐慌が発生し、農作物価格が大暴落した。
 借金漬けとなっていた中小農家は、生糸生産などの副収入で遣り繰りしていただけに深刻な打撃を被った。
 その影響は都市部の貧困階級にも及び、収入が引き下げられる亊で、これまで表面化しなかった貧富の格差が食の格差として顕在化した。
 5月13日 東京朝日新聞は、「お弁当のない子供たち、涙を誘うこの惨めさ」として東京板橋第三小学校児童の生活状態を報道した。
 文部省は、弁当を持ってこれない貧困家庭の児童を「欠食児童」と呼んだ。
 金持ちの児童は、弁当を持参して、空腹を大量の水を飲んで誤魔化す必要がなかった。
 貧富の格差は、同時に食の格差でもある。
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 この年は天候が良かった為に、米は大豊作となり、その他の農作物もっ予想以上の収穫となった。
 日本国内のコメ生産量、約1,000万トン。
 農家は、収入を得る為に大量の米や農作物を市場に出してが、供給増となって米価を含む農産物価格は下落して農家の収入は激減した。
 都市の貧困家庭は助かったが、中小農家は多額の借金を抱えて貧窮した。
 地主は、収入源となった零細農家である小作人に平年通りの小作料を徴収し、払えなければ農地を取り上げて追放した。
 小作人達は、行く当てがない為に、農業が続けられる様に小作料支払いの延期などを求めた小作争議を起こした。
 中小農家は、税金の上に、借金の支払いの為に、先祖代々の農地を都市の投資家や地主に売って小作人となった。
 農地が売れない東北地方の農家は、貧困と飢えの為に、やむなく娘を売って現金を工面した。
 豊作飢饉は、都市の下層労働者にとっては有り難い事であったが、農村の中小農家にとっては有り難迷惑であった。
 地方農民は、政権獲得の政争に明け暮る政党政府に絶望し、大企業からの政治献金で裕福な生活を送っている無能な政治家への期待を捨てた。
 政党政府は、日本経済全体を回復させる為には、外貨獲得が欠かせないとして輸出産業の再建に力を入れ、農業は消費するだけの国内産業として農村救済を後回しとした。
 政府は、農村恐慌下で追い詰められた農山漁村に対して、財政難を理由にして匡救予算を出さないかわりに、自己責任による精神主義的自力更生運動を推奨した。
 華族など特権階級は、欧米の上流階級やキリスト教会が行っているボランティア活動を見習って、貧困者救済の組織を作って活動を始めた。
 現場を知らない都会育ちの紳士淑女らは、現場に入って活動する事なく、下部組織を作って丸投げして喜んでいた。
 下部組織は、地元の地主やヤクザが取り仕切った為に、集まった募金が必要としている小作人などの零細農家にわたる事なく、使途不明金として消えていった。
 市町村の一部の役人も、地元の有力者や顔役と結託し、横領された金を不正に懐に入れていた。
 急増する欠食児童を抱える学校では、見かねた教諭が自己犠牲的に給料の一部を、民間有志が募金で集めた義捐金を、食費代に当てて給食を出した。
 軍部は、有能な兵士を得る為に農村支援に乗り出し、軍事費の増額を政府に求めた。
 政党政府は、国際的軍縮気運を理由にして軍事費削減を強行した。
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 欧米列強は、自国産業を保護する為にブロック経済政策を採用し、日本製品の輸入を制限すりる為に高関税をかけた。地域によっては、自国製品を売る為に日本製品の輸入を禁止した。
 日本製品の排斥地域は、全ての陸地で拡大された。
 日本経済は、外貨を得る手段が極端に制限された。
 日本は、産業を維持する為の原材料を外国に依存し、製品を国外に売って経済を維持していた。
 日本経済にとって、開放的自由貿易体制の維持を希望し、閉鎖的保護貿易体制を警戒した。
 日本に残されて外貨獲得の国際市場は、中国と満州だけであった。
 中国は、欧米列強との関係強化を図る為に日本製品ボイコット運動を展開した。
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 日本政府の都市経済重視・地方農業軽視政策が、昭和農村危機をより深刻化させ、貧困農家を地獄へと追いやった。
 中小農家や零細農家は、先祖からの僅かな土地を耕して生きる為に、娘を身売りし、息子を軍隊に送り出した。
 都市知識人は、そうした農家を軽蔑し、馬鹿にし、そして見捨てた。
 部隊付き若手将校は、日々、農民出身兵士を目の当たりにしているだけに、腐敗堕落している政党政府への義憤を募らせていた。
 昭和期の日本軍国主義は、貧困に喘ぐ地方の農村部から起きた。
 軍部は、農村救済の為に、やむを得ず、国際的反日世論を無視して大陸侵略策を採用した。
 世界世論は、日本の農村型軍国主義をナチズムと同類として、世界平和の為には根絶すべき対象とした。
 農村部の右翼は、軍国主義による軍備増強を支持し、生活圏拡大を目的とした大陸侵略を支持した。その冒険的拡張政策を妨害する政治家に対して、暗殺テロ行為を行った。
 これ以降。日本は、軍国主義に支配され、軍部独裁の暗黒時代に突入していった。
 世界から攻撃された、昭和期の軍国主義とは農村型であった。
 中国や韓国から、侵略思想と激しく非難されるのも農村型軍国主義である。

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 6月 アメリカ議会は、スムート・ホーリー関税法を成立させ、国内産業保護の為に輸入品3,300品目の関税を引き上げた。関税は、32年にさらに引き上げられた。
 ヨーロッパは、22年のフォードニー・マッカンバー関税法の制約を受け、対米輸出品を確実に売れる国際競争力がある高級品に特化して輸出していたが、そうした努力も不可能になった。
 日本産業は、安価で高品質品をアメリカに輸出していたが、全てに高関税がかけられて打撃を受けた。
 生糸生産で生活していた農家の損害は、更に酷く、悲惨な結果をもたらした。
 日本経済の打撃は、主要産業を持たない朝鮮にも及び、職を失った朝鮮人の多くが働き口を求めて日本に殺到した。
 生産費の削減で生き残りを目指す日本企業は、工場や現場の単純労働に、高賃金の日本人労働者を解雇して低賃金の朝鮮人労働者を雇用した。
 いつ解雇されるか分からない日本人労働者は、仕事を奪い始めた朝鮮人労働者に対して敵意を剥き出しにし始めた。
 日本在住の朝鮮人は、アメリカ人の人種差別に隠忍自重して従った在米日本人とは違って、不当差別に抗議して労働に見合った賃金を要求した。
 経営者は、国際競争力を維持する為に製品価格を抑えるべく、日本人労働者以上の賃金を出さなかったが僅かな賃上げに同意した。
 不況が、日本に於ける朝鮮人差別を深刻化させた。
 9月 カナダ経済は、アメリカから原材料を輸入して製品を輸出していたが、スムート・ホーリー関税法で高関税を課せられて輸出量が激減した。
 カナダ政府は、報復措置としてアメリカ製品の関税を引き上げた。
 その結果。32年にアメリカからのカナダ向け輸出が98.5%も減少して、アメリカ依存のカナダ経済は大打撃を受けた。
 カナダは、宗主国イギリスに救済を求めた。
 イギリスは、イギリス本国と元自治領であった諸国を守る為に、金本位制自由貿易体制の見直しを始めた。
 キューバ経済は、アメリカへの砂糖輸出に依存していたが、輸出量が激変して混乱した。
 キューバ市民は、アメリカの独善に激怒して暴動を起こし、33年に反米革命を起こして親米政権を打倒した。





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