💫10}─1・E─人類進化の謎。ウォレス線をカヌーで越えたフローレス原人は5万年前に消えた。〜No.76No.77 

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 2021年4月14日 MicrosoftNews iStock.com 文春オンライン「人類進化の奇妙な謎…“ホモ・サピエンス”より先に島を渡った“フローレス原人”はなぜ絶滅してしまったのか
岡部 聡
 巨大な口から長く鋭い犬歯が剥き出しに… NHKダーウィンが来た!」のディレクターが語る“最恐”の一瞬 から続く
 インドネシアフローレス島で見つけられた、身長1メートルほどの謎に包まれた人類「フローレス原人」。その存在は人類学者たちを中心に、多くの人々の間で話題を呼んだ。なんとフローレス原人は、原生人類ホモ・サピエンスが初めて到達したと考えられていたフローレス島に、はるか昔にたどり着いていたのである。それでは、なぜ彼らは絶滅し、ホモ・サピエンスが現在に至るまで進化を続けてこれたのだろうか。
 ここでは、世界中でさまざまな生物を追い、人気番組「ダーウィンが来た!」「NHKスペシャル」などを手がけてきた名物ディレクターの岡部聡氏の著書『 誰かに話したくなる摩訶不思議な生きものたち 』(文藝春秋)を引用。フローレス原人が見つかったフローレス島を取材したエピソードをもとに、人類進化の謎について考察する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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 生物学者、ウォレスが気づいた「線」
 彼らの祖先はどのようにして、フローレス島に渡ったのだろうか。インドネシアの大きな島の並び方を地図で見ると、西側からマレー半島の横にあるスマトラ島、ジャワ島、バリ島、ロンボク島、スンバ島、フローレス島が一列に並んでいる。それぞれの島の間隔もそんなに離れていないので、島伝いにフローレス島まで来るのはそう難しくないように見える。しかし、バリ島とロンボク島の間には、生きものが容易に越えられない見えない「線」があるのだ。
 数万年前の氷河期には海水面が120メートルほど下がったため、スマトラ島、ジャワ島、バリ島、ボルネオ島などのインドネシアの島々は大陸と陸続きになり、「スンダランド」と呼ばれる一つの陸塊となったものの、ロンボク島よりも東側は、繫がらなかった。それは、バリ島とロンボク島の間にある海峡が、深さ250メートルもあるからだ。近そうに見えるが距離は20キロ以上あり、泳いで渡ることも難しい。
 19世紀、ダーウィンとほぼ同時期に、生きものが進化することに気がついていた生物学者、アルフレッド・ウォレスがインドネシアを訪れ、島々を巡って棲んでいる生きものを入念に調査した。その結果、この海峡を境に生物相が大きく変わることに気がついた。バリ島まではアジアの生きものがいるのに、ロンボク島よりも東にはほとんど見られなかったのだ。
 彼がこの現象に気がついたのにちなんで、この見えない線は「ウォレス線」と呼ばれている。ウォレス線を越えることができた哺乳類は、コウモリを除くと泳ぎが得意なゾウやネズミなどごくわずか。ほとんどは海峡を越えることができず、スンダランドに留まった。アジア最強の捕食者であるトラが、バリ島まではやってきたが、それより東には進出できなかったことからも、この線を越える難しさがわかる。
 どうやってウォレス線を越えたのか?
 フローレス原人が発見されるまでは、ウォレス線を初めて越えた人類はホモ・サピエンスだと考えられていた。5万年前に島伝いにオーストラリアにたどり着いていたことが、発掘などの調査からわかっているのだ。ホモ・サピエンスは船を作り、島から島へと渡る航海術を発達させることにより、地理的隔離を乗り越える能力を初めて備えた人類だった。
 フローレス原人が80万年前から5万年前まで75万年もの間生きていたということは、近親交配を繰り返したわけではないだろう。ある程度の遺伝的な多様性がある集団だったと考えるのが普通で、まとまった数が一緒に渡ったことになる。筏や舟を作る技術を持たなかったフローレス原人の祖先が、ウォレス線をどうやって集団で越えたのかは今も謎のままだ。
 自然現象で偶然辿り着いた可能性
 もっとも、フローレス原人が自分たちの意思で渡ったと考えるから謎になるのであって、自然現象によって偶然たどり着いたのなら、大いに可能性はある。世界には、自然現象で海を越えたと考えられているサルの集団があるからだ。アフリカからマダガスカルに渡ったキツネザルと南米に渡った新世界ザルだ。
 アフリカからマダガスカルの距離は400キロ、南米までは1000キロ以上と桁外れに遠い。これは数千万年前のことで、当時は体の大きさがネズミ程度しかない、サルの原始的な祖先だった。住処としていた大きな木などと共に流し出され、数ヶ月の漂流生活に耐えてたどり着いたと考えられている。
 それに比べてバリ島から隣のロンボク島は、20キロとずいぶん近い。しかし、原人は原始的なサルほど小さくはないので、住処ごと流し出されることはなかっただろう。
 では、どうやって海に流されたのか? 僕は、津波だったのではないかと想像するのだ。
 インドネシアは、ユーラシアプレートの下にオーストラリアプレートが沈み込む境界線上にあり、スマトラ島からフローレス島は、ユーラシアプレートの縁に乗っている。そのため巨大地震津波が多く、21世紀に入ってからだけでも、2004年のスマトラ島沖地震、2006年のジャワ島南西沖地震、2019年のスラウェシ沖地震などが起きている。
 中でも、2004年のスマトラ島沖地震は、マグニチュード9・1~9・3の超巨大地震で、発生した津波などにより20万人以上が犠牲になる、甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。
 80万年前にも、ジャワ島で大規模な津波が起き、ジャワ原人の集団が偶然、大木などにつかまって生き残り、海を漂流してウォレス線を越えたのではないだろうか。これは、何の根拠もない僕の個人的な想像だが、これ以外に、ジャワ原人フローレス島にたどり着くストーリーは思い浮かばない。
 5万年前に忽然と姿を消す
 いずれにしても、およそ80万年前に島にたどり着いたフローレス原人は、75万年もの間、生き延びていた。これは、非常に安定した集団だったことを示している。何しろ、28万年前に誕生したと考えられるホモ・サピエンスの3倍もの年月を生きていたのだから。
 フローレス原人は、他の人類がなし得なかったウォレス線越えをはたし、フローレス島を隠れ里として、非常に安定した状態で、他の原人が絶滅した後も生きていた。しかし、そんな彼らが5万年前を境に、忽然と姿を消してしまった。ちょうどそれは、ホモ・サピエンスフローレス島に渡ってきた時期と重なっているのだ。
 アフリカで誕生したホモ・サピエンスが最初にアフリカを出たのは20万年前~10万年前、次が6万年前と考えられている。どちらの時期も、ユーラシア大陸にはすでに先住人類がいた。およそ180万年前にアフリカを出た原人、ホモ・エレクトスは、北京原人としてアジア大陸の端まで達していたし、ユーラシア各地には、40万年前からネアンデルタール人が住んでいた。しかし、原人も旧人ホモ・サピエンスの進出から程なく、地球上から姿を消しているのだ。
 ネアンデルタール人ホモ・サピエンスには能力差がない
 かつては、能力に優れるホモ・サピエンスが、原人やネアンデルタール人を駆逐してきたと考えられていた。しかし近年の研究では、少なくともネアンデルタール人ホモ・サピエンスの間には、能力差はほとんどないことがわかってきた。
 ネアンデルタール人は、狩猟用の石の槍や握り部のある石のナイフを使い、大型のシカやイノシシなどの哺乳類や、カメやトカゲなどの小動物を捕って食べていた。貝や鳥の羽根などを装身具として用い、花などを添えて死者を悼む埋葬を行っていた。
 2018年には、スペイン北部の洞窟から、6万5000年前のネアンデルタール人が描いたと見られる壁画が見つかり、両者の間には共通点が多かったことが、改めて証明されている。
 しかも、現代人のDNAの中には、ネアンデルタール人由来の遺伝情報が1~4%ほど、混合していることもわかった。これにより、ホモ・サピエンスは、住処や獲物を巡ってネアンデルタール人と競合しながら、1万年以上にわたって交配したと考えられているのだ。
 当時のホモ・サピエンスの人口は、骨や生活跡の分析から、ほかの人類より一桁多かったことがわかっている。原人や旧人の集団は、ホモ・サピエンスが増えていく過程で生息場所を狭めていったために近親交配が進み、遺伝病などの有害変異が蓄積され、絶滅したと考えられるようになっているのだ。
 なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったのかについては不明な点が多いが、どうやら、単純に他の人類よりも優れていたから、というだけではなさそうだ。
 新型コロナウイルスでわかった耐性の違い
 2020年になって、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの関係を考える上で、非常に興味深い可能性が示された。新型コロナウイルスに対する耐性が、人種によって違うことがわかったのだ。
 新型コロナウイルスについては、年齢や持病の有無などによって、重篤になる人とならない人がいることが、発生の初期からわかっていた。そして、世界的に流行が広がるにつれて、欧米人に比べ東アジア人のほうが、比較的軽い症状で済むケースが多く、世界的な重篤患者の分布に偏りがあることが明らかになった。
 その原因については様々な憶測が流れたが、2020年10月に「ネイチャー」に発表された論文で、ヨーロッパの人々が重症化しやすいのは、ネアンデルタール人の遺伝子を多く持っているからだ、との研究結果が発表されたのだ。新型コロナウイルスで入院した重症者と、入院しなかった感染者3000人以上の遺伝子を調べた結果、感染者の重症化に影響を与えるのは、3番染色体にある特定の領域であることが判明したという。その後の分析で、その遺伝子領域は、5万年前のネアンデルタール人から発見されたものとほぼ同じで、6万年前にホモ・サピエンスネアンデルタール人との交配によって、現代人に受け継がれたことも明らかになったという。
 ヒトには22組の通常染色体と1組の性染色体があり、それぞれに番号が振られている。その3番目の染色体にある特定の遺伝子領域を持つ人が、新型コロナウイルスに感染すると、重症化するリスクが持たない人の最大3倍になるというのだ。
 ウイルスに対する耐性が、特定の遺伝子を持つか持たないかによってこんなにも差が出るのにも驚いたが、それがネアンデルタール人由来のものであることは、人類の進化に興味を持っている人なら、さらなる驚きをもって受け取ったに違いない。
 ホモ・サピエンスの進出とともに絶滅したほかの人類
 昔から、ホモ・サピエンス以外の人類が絶滅したのは、病気に対する耐性が関係しているのではないか、と論じられてきた。しかし、残された骨などからはわからないために、推測の域を出なかった。しかし、僕たちに受け継がれていたネアンデルタール人の遺伝子が、その可能性を教えてくれたのだ。
 これにより、ホモ・サピエンス以外の人類が、病気によって絶滅したことが確定したわけではなく、一つの可能性が示されただけだ。しかし、ホモ・サピエンスが進出した時期に合わせて、多くの地域でほかの人類が絶滅したことを説明するのに、矛盾はない。
 ホモ・サピエンスの移動力の高さ
 ホモ・サピエンスが人類唯一の生き残りとなった理由の一つに、その移動力の高さが挙げられる。ホモ・サピエンスは、地上を移動するのはもちろんのこと、海を越える知恵まで持ったことで世界中に広まり、他の種と混ざり合い、病原菌やウイルスをまき散らし、時には競争に勝ち、人類で唯一の生き残りとなったと考えられるのだ。
 ホモ・サピエンス同士でも、他の人種と接触することによる事件は、歴史上、何度も起きている。有名なのは、コロンブスの新大陸「発見」とスペインによる征服の過程で、ヨーロッパから病原菌が持ち込まれたことによって、南北アメリカ大陸の先住民が壊滅的な打撃を受けたことだろう。
 15世紀末に新大陸にはなかったインフルエンザや天然痘、梅毒などの病気が持ち込まれたために、耐性のなかった先住民族は次々と死に、マヤ、インカ、アステカなどの文明は滅亡した。
 ホモ・サピエンスが生き残ったワケ
 現代の世界でも、アマゾンなどに住む、文明社会と接触したことのない非接触民族「イゾラド」は、一般的な病気に耐性がないため、風邪ウイルスでも死んでしまう可能性がある。もし、イゾラドの棲む地域に今回の新型コロナウイルスが入り込めば、多くの人が亡くなってしまうだろう。
 絶滅の形は多種多様だが、意図せずにホモ・サピエンスが持ち込んだ病気によって、ほかの人類が絶滅してしまった可能性は大いにありうることだ。そして、その逆もあり得た。つまり、ホモ・サピエンスが、耐性を持たない病原菌を他の人類によって伝染され、絶滅していた可能性もあるのだ。
 なぜ僕たちだけが生き残ったのか。それは能力が高かったからではなく、ただ単に、運が良かっただけなのかもしれないのだ。
 【前編を読む】 巨大な口から長く鋭い犬歯が剥き出しに…世界中の動物を追うNHKディレクターが語る“最恐”の一瞬
 (岡部 聡/ノンフィクション出版)」
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 世界史の窓
 ウォーレス線
 イギリス人ウォーレスが発見したアジアとオセアニアの動植物相の境界線。
 動植物相の違いの発見
 東南アジアの島嶼部のスンダ列島(インドネシアの島々)と、オセアニアオーストラリア大陸ニューギニア(太平洋の島々と区別して、ニア=オセアニアと言われている)の間に認められる動植物相の違い。19世紀中頃、イギリスの博物学者ウォーレスが発見した。ウォーレス線はバリ島とロンボク島の間を通り、スラウェシ島の西からミンダナオ島の南に接して、太平洋に抜けている。現在では、さらに細分化した動植物相の違いが提唱されている。
 ウォーレス Wallace 1823-1913 は東南アジアで単身、動植物の調査に没頭し、ダーウィンと同じ時期に、生物の進化と自然選択の概念にたどりついた。ウォーレスによれば、オーストラリアに生息するほ乳類はほとんどカンガルーやコアラなど有袋類(母親が袋の中で子どもを育てる)とカモノハシなど単孔類(卵を産むほ乳類)であり、ユーラシアやアフリカ大陸、南北アメリカ大陸の哺乳類はほとんどが母親が胎盤の中で育てる有胎盤類である。有袋類はより原始的な哺乳類と考えられ、かつて大陸がつながっていた頃は全世界に分布していた。約5000万年前にオーストラリア大陸が分離した後、アフリカ、ユーラシア、南北アメリカには有胎盤類が台頭して有袋類は絶滅、切り離されたオーストラリア側には有胎盤類の哺乳類が侵入できなかったので、有袋類が多様化して栄えたと考えられている。
 オーストラリア大陸にいた有胎盤類は空を飛ぶコウモリと、流木に乗って渡ってきたと思われるネズミだけだった。ところが約5万年前、東南アジア側から海を越えて人類が渡来した。その時期やどのように渡ってきたのかはまだよくわからないが、現在ではカヌーを操って渡来したと考えられている。彼らがやってきた頃のオーストラリア大陸には現在よりも多様な有袋類がいた。体長3mを越えるディプロドロン、体高が2mになるジャイアントカンガルー、体長1.6mの大型ウォンバット、体重100kの飛べない鳥など・・・。これらの大型動物は氷期が終わる頃絶滅してしまったが、それには渡来した人類の狩猟も一因であると考えられている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス 第7章> → 人類の拡散
 アジア本土からスンダ列島、ボルネオ島まで延びていた大陸をスンダランド、オーストラリアとニューギニアが一体だった頃の大陸をサフルランドと呼び、その間に広がっていた海を、ウォーレスの名前から、ウォーラシアと呼んでいる。
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 ウォレス線(読み)ウォレスせん(英語表記)Wallace's Line
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 動物地理学上の重要な分布境界線の一つ。東南アジア小スンダ列島のバリ,ロンボク島間のロンボク海峡から,ボルネオ,スラウェシ (セレベス) 島間のマカッサル海峡を通り,ミンダナオ島の東側にいたる。イギリスの博物学者 A.ウォレスが昆虫類,貝類,爬虫類,鳥類,幾種類かの哺乳類の分布を調べて,この線の西側は動物地理学上の北界の東洋区 (または旧熱帯区) に,東側は南界のオーストラリア区に属するとし,のちにウォレス線と命名された。高等哺乳類の分布限界。ウォレス線とウェーバー線にはさまれたスラウェシ,ティモール,フロレス,スンダの諸島を含む地域は,両区の推移地域の性格が強く動物相は貧弱で,ウォレシア Wallaceaと呼ばれる。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 ホモ・フローレシエンシス(フローレス人 Homo floresiensis)は、インドネシアフローレス島で発見された、小型のヒト属と広く考えられている絶滅種。 身長は1mあまりで、それに比例して脳も小さいが、火や精巧な石器を使っていたと考えられる。そのサイズからホビットトールキンの作品中の小人)という愛称が付けられている。新種説に対しては、反論もある。このヒト属は、当初は12,000年前まで生存していたと考えられていたが、より幅広い研究の結果、最も近年の生存証明は、50,000年前まで押し上げられた。2016年現在では、フローレス人の骨は10万~6万年前のもの、石器は19万~5万年前前後のものであるとみなされている。
 分析
 孤立した島では、しばしばウサギより大型の動物の矮小化が起こる。同島にはステゴドン等数種類の矮小化した動物が存在した(これを島嶼化という。ただし、必ずしも小さくなるわけではなく、小型種は巨大の傾向を示す。フローレス島に生息するネズミは一般的なドブネズミの約2倍の大きさである)。
 脳と体躯をつかさどる遺伝子は全く異なっており、体躯が小型化しても、脳は同一比率で小さくなるわけではないといわれている。その点からも、フローレシエンシスが新種の原人であるという点について反論がなされている。フローレシエンシスの脳容量は380ccといわれており、体重に対する脳重量の比はホモ・エレクトスと大型類人猿の間に位置する。この点について、マダガスカルの古代カバの研究により、島嶼化でより脳が小型化する可能性も指摘されている。
 ホモ・フローレシエンシスは直接の祖先ホモ・エレクトス(84万年前ごろ生息)が矮小化したものと考えられているが、より原始的な祖先に起源を持つ可能性も示されており、ホモ・ハビリスから進化したという説もある。脳容量は380立方センチで、平均的なエレクトスの半分程度、大型のチンパンジーよりも小さい。高次の認知に関する部分の大きさは、現代人と変わらず、火を使った形跡や化石から考えて、かなりの知能があったと考えられている。足は第一指が他の指と平行であり、つま先が伸縮可能な点が人類と共通であるが、第一指の小ささや長くカーブしている外側の指で体重を支える点はチンパンジーに近い。土踏まずは存在せず、現代人と比べ二足歩行は苦手だったと見られている。
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 東京大学総合研究博物館
 研究紹介
 海を越えた2つの人類
 海部陽介(本館教授/人類進化学・形態人類学)
 「はじめて海を渡り、島に暮らすようになった人類は、ホモ・サピエンス」というのが、20世紀の人類学の常識でした。5万年前頃から、オーストラリアやニューギニアホモ・サピエンスが出現することが、人類最初の渡海の証拠と思われていたのです。つまり、それ以前の原人や旧人は、大陸の外に出られなかったと考えられていたのですが、それを覆したのが、2003年のフローレス原人(Homo floresiensis)の発見でした。  本題の前に自己紹介いたしますと、私は本年6月に、当館研究部に着任しました。これまで国立科学博物館で25年間、人類進化の研究を続けてきましたが、そのさらに前は本学の学生として東京大学総合研究博物館に出入りしていましたので、四半世紀ぶりに古巣に戻ってきたことになります。  その学生時代から、アジアをフィールドとした研究をすることを夢見てきたのですが、今、そのアジア人類史が国際的に注目を集めています(当館の西秋良宏館長が推進中の大型研究プロジェクト「パレオアジア文化史学」も、それを捉えた動きの1つと言えるでしょう)。本稿ではフローレス原人を中心に、続々と発見されているアジアの化石人類について紹介しつつ、人類と海について考えてみたいと思います。
 フローレス原人
 フローレス島は、インドネシア群島の東部にあって、体長3メートルになるコモドドラゴンや、75センチメートルの巨大ネズミなどが暮らす島です。フローレス原人の化石は、オーストラリアとインドネシアの合同調査隊により、この島のリャン・ブア洞窟から発見されましたが、いくつもの点で衝撃的でした。  まず、発見の場所が予想外です。フローレス島はアジア大陸と接続したことがなく、いつの時代も海の向うの島でした(図1)。ちなみに、同じインドネシアのジャワ島は、過去に大陸とつながったり離れたりを繰り返しましたので、そこにいたジャワ原人の祖先は、陸を歩いてジャワ島へ到達することができました。  さらに、その形態があまりに独特です。見つかった個体は永久歯が全て生えそろっていて、明らかに大人なのですが、身体は1.1メートル程度と、極端に小型。そして脳もグレープフルーツ大と、チンパンジー並みの大きさなのです(表紙・図2)。100万~10万年前の化石が知られるジャワ原人は、身体サイズは現代人並みで、脳もチンパンジーの2倍(現代人の2/3くらい)ありましたので、同じインドネシア群島の原人でも、両者はずいぶん違っていたことになります。  そして、年代も予想外。石器の証拠も含め、フローレス原人は5万年前までこの島にいた証拠があるのですが、これはホモ・サピエンスが当地域に出現するのと同時期です。「最近まで不思議な人類が島にいて、ホモ・サピエンスの登場とともにいなくなった」、ということになります。  フローレス原人の起源をめぐっては、今でも論争が続いています。原人級の原始性があることはどの専門家も認めているのですが、もっと古い特徴があるかどうかについて、折り合いがついていません。私個人は、頭骨や歯の詳細な分析から、「身長1.65メートルほどのジャワ原人のなかまが矮小化した」と結論づけていますが(図3)、「ジャワ原人よりも古いタイプの人類が祖先だ」という説を推す研究者もいます。私は自説に自信がありますが、この論争は、フローレス島に最初にやってきた人類の化石が見つかるまで、続くかもしれません。  フローレス原人は、どのように進化したのでしょう? その後の調査で、ソア盆地という島の別の場所から約100万年前の石器が発見され、その頃に彼らの祖先が渡ってきた可能性が高まりました。2014年には、ソア盆地の70万年前頃の地層から待望の人類化石が発見され、フローレス原人の初期の姿を垣間見るチャンスが訪れました。それは、下あごの骨の破片と歯が数点というわずかなものでしたが、ゼロに比べれば大きな進展です(表紙・図4)。  私は、これらを発掘したインドネシアとオーストラリアの調査隊から原人化石の専門家として呼ばれ、解析を行いましたが、その結果「新たな化石はフローレス原人の祖先であるらしく、70万年前の時点で既に矮小化していた」ことが示して、Nature誌に発表しました。ホモ・サピエンスが現れる前の何十万年という長い間、インドネシアのジャワ島にはふつうの大きさの原人が、そしてそこから500キロメートルほど離れたフローレス島には矮小化した原人が、おそらく互いを知らずに暮らしていたらしいのです。
 アジアにあった驚くべき多様性
 フローレス島での発見は、この後アジアではじまった、新しい化石人類の発見ラッシュの口火を切るものとなりました。「かつてアジアにいた古代型人類」と言えば、北京原人ジャワ原人と記憶されている方が多いでしょう。ところがフローレス原人の発見以来、台湾にいた原人(澎湖人)、南シベリアから報告されたネアンデルタール人と“デニソワ人”、そしてフィリピンで見つかったルソン原人などが、次々と報告されました。以前から知られていた中国やインドの旧人も加えて、ホモ・サピエンスが現れる前のアジアには、実に多様な古代型人類が暮らしていたことがわかってきたのです。
 彼らはどこから来た誰だったのか、なぜ多様な進化を遂げたのか、どうして今はいないのか・・・? 新しい疑問がどんどん湧いてきますが、本稿では、渡海に絞って話を進めていきたいと思います。
 人類が海を渡るということ
 原人もホモ・サピエンスも、ともに海を越えているのですから、両者はさほど違わないのでしょうか? 考える手がかりが、いくつかあります。
 フローレス原人に加え、ルソン島のルソン原人(Homo luzonensis)の祖先も、まだ確定ではありませんが、海を越えた可能性があります。一方で台湾の澎湖人は、氷期の海面低下時の化石群集から発見されているので、台湾がアジア大陸の一部となっていた当時の、大陸の動物相と考えられます。
 アジア大陸の辺縁地域で発見されたこの3つの古代型人類には、とても興味深いコントラストがあります。孤島で暮らしていたフローレス原人とルソン原人は、どちらも極端に小さいのですが、大陸の構成員だった台湾の原人は、見つかっている下あごが大きいことから、やはり大陸のメンバーだった北京原人ジャワ原人と同等の体格をしていたようです。つまり原人のなかまでも、島で孤立した集団だけに、劇的な矮小化が起こっているのです。
 ホモ・サピエンスは、島に渡っても、それほどの小型化を示しません。ネグリトと呼ばれるフィリピン群島の背の低い人々も、平均身長は150センチメートル以上あります。そもそも、島に暮らしている現代人が皆小型化しているわけではありませんので、原人とホモ・サピエンスとでは対照的です。「両者が経験した時間が違う」というのは正しい指摘ですが、現代社会では身体サイズを下げるメリットがありませんので、数十万年後であっても、日本列島を含む島のホモ・サピエンス集団がどんどん小型化していくことはないはずです。
 さらにどちらも海を越えたことは確かですが、両者の渡海はスケールが全く違います。ちなみにゾウは泳ぐのが得意で、東南アジアの島々でもオーストラリアに近いティモール島まで進出していました(今は絶滅していますが化石が見つかっています)。小型のネズミ類は漂流しやすいためか、オーストラリアまで到達しました。一方で原人の分布域は、フィリピン群島からインドネシア群島にかけて、ゾウの分布範囲よりもやや小さな範囲にとどまっています。そこで1つのシナリオとして、「原人たちは大陸から近い島に漂着したが、そこに閉じ込められてそれぞれ独特な進化を遂げた」という仮説が導かれます。
 この仮説は証明には至っていませんが、何はともあれ明らかなことは、ホモ・サピエンスの海洋進出は対照的で、巨大な海流を越え、遠くの見えない島々におよび、やがて太平洋の中心部を含む地球上の全ての海を制覇したという事実です(図5)。つまりこれは、単純な海を渡ったか渡らなかったかの話に帰すべきではなく、どのような海をどう渡ったのかという次元で考えるべき問題だと思うのです。
 過去の人類に対する私たちの認識は、いくつかの点で修正されなければなりません。まず、原人が海を越えたことはもはや事実ですから、それを説明して原人のことを捉え直さなければなりません。一方で「原人には越えられなかったけれど、ホモ・サピエンスは突破した壁」というものが明らかに存在し、それを数万年前(後期旧石器時代)から成し遂げた祖先たちがいる、ということも確かです。そしてそこには、偶然を越えた「未知への好奇心」や「挑戦心」という人間の心理が、垣間見えるような気がするのです。
 私は、原人たちの知られざる世界と比較しながら、後期旧石器時代の祖先たちが積み上げてきた、そうした挑戦の歴史を解き明かしたいと考えています。その1つの取り組みが、昨年完結した実験航海のプロジェクトでした(図6)。草、竹、木と原始的な舟で海を渡ることの現実を体感したその内容と、「祖先たちはなぜ危険な海に出て行ったのか」という疑問への私なりの回答は、拙著「サピエンス日本上陸」(講談社)に記しています。
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🗡22〗─1─日本海軍は八木アンテナを装備したアメリア海軍に惨敗し滅亡した。~No.68 

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 日本軍部は、白兵戦精神主義で科学技術を軽視した為に敗北した。
 科学技術軽視の傾向は、現代日本にも根強く存在し、日本経済回復を妨害している。
 現代日本では、西洋礼賛主義と各種安全神話が根強い。
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 富士通JAPAN
 2020年11月6日
 軍事技術史に学ぶICT活用法
 第12回 電子技術の果たした役割 -電子技術こそ勝敗のカギ-
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 決断科学工房 眞殿 宏 氏
 1990年代初めNHKが「電子立国日本の自叙伝」と題する番組をシリーズ放映した。半導体を始め、TV・ビデオ機器、PCや電卓など当時世界を席巻していた日本の電子技術を紹介するものであった。記憶に残るのは、米軍の最新ミサイルまで日本製品が使われており、今や民生品がコストのみならず精度・性能でも軍需専用品に優ると解説していたことである。また、あの戦争に関わった技術者も健在で、戦時の苦労が今につながるようなコメントもあった。そんな中に、兵器本体は注目されるものの、裏でそれを支える電子技術には理解がなかったとのぼやきもあった。情報システム部門に在った私として「ICTも同じだな~」と共感をおぼえたものである。
 飛行機、戦車、潜水艦、いずれも第一次世界大戦戦場に登場、第二次世界大戦において戦略兵器に発展した。しかし、これらを分析してみると、電子技術を欠いたらただの金属の塊りに過ぎず、無用の長物になりかねないことが分かってきた。無線電話、レーダー、近接信管、航法支援システム、ソナー(音波探知機)などが装備されて、始めて戦略兵器がその真価を発揮したのである。今回はそんな角度からICT活用を考察してみたい。

 日本の電子技術
 マリアナ沖海戦時には空母・戦艦など主要艦艇には索敵レーダーは装備されていた。また陸軍も敵爆撃機を早期検知するレーダーを太平洋岸に設置し、空襲に備えていた。しかし、操作性・信頼性の点から「無い方がまし」が「無いよりまし」に変わった程度の存在だったし、高精度を要求される射撃管制用レーダーはモノにできていない。
 1945年10月占領軍が作成した報告書「日本での科学情報活動の調査に関するレポート」がある。調査団長はMIT学長のカール・コンプトン。そこには「およそOSDR(科学技術開発局;個々の兵器開発プロジェクトを管理する最上位機関)の計画に匹敵するような、レーダー研究は見当たらなかった。多数の研究機関に分散している科学者の能力向上や、動員、研究の分担に関する総合的な計画は皆無であった。(中略;陸海軍内部の軋轢と秘密主義批判)レーダーにおける日本の研究は、1942年当初の合衆国のレベルにくらべて、非常に低いレベルにある。しかし、個人による研究成果を見ると、日本も、現代的なレーダーを遂行する能力を内在していたことがわかる。日本軍の高官が、現代的な戦略兵器の中でいかにレーダーが重要であるかを早期に認識できなかったことが、レーダー開発の遅れの根本原因である」と結ぶ。
 具体的には、レーダーの心臓部である超短波発振管マグネトロンの開発、八木アンテナの存在、いずれも世界のトップクラスにあったが、縦割り・分断の研究開発体制、用兵側の攻撃優先思想、資材や熟練工の不足、稚拙な生産技術に依る性能のバラつき、操作や整備に関する教育・訓練体系の未整備、結果としての信頼性の欠如、に依りこれを生かし切れていないことを指している。電子技術戦は敗れるべくして敗れたのである。
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 日本人は、世界特に欧米より二歩も三歩も先を行っている夢のような最先端科学技術が理解できず潰してきた。
 戦前ではレーダーなどの電波技術であり、戦後では太陽光発電のような再生可能エネルギー技術、高速情報のインターネット技術、高速計算のコンピューター技術、高速通信の携帯電話技術、その他などである。
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 テレビアンテナの誕生ー八木秀次の発見ー     menu
 ポポフ無線通信アンテナの発明から30年後、1925年、八木秀次によって日本で世界に先駆け指向性アンテナの原理が発見され、八木アンテナが発明されました。アマチュア無線で良く使われているお馴染みの八木アンテナです。これが、いまでは、どの家にもあるテレビアンテナになっています。3本の素子を基本にして平行に並べ電波を効率良く受信・発信する構造のアンテナです。簡潔にして無駄のない八木アンテナは、はじめからほとんど改良の余地のない高い完成度をもち、超短波用アンテナとして外国の模倣を許さないものでした。
 八木アンテナは、八木秀次が私財を投じてかろうじて特許を取得したものの日本の科学界には西洋崇拝が強く「日本人の発明で重要なものはあり得ない」として当時の日本では、受け入れられませんでした。八木アンテナは、一部に知られただけで、それを記載した八木の論文は、日本では忘れられてしまいました。また、その特許も国から延長が認められず消滅してしまいました。そもそも*テレビやアンテナについての当時の日本の研究・開発は、世界的にリードしていたにもかかわらず科学界や国から認められず埋もれてしまい、大変惜しいことでした。特に精神主義をふりかざす軍人は、八木アンテナレーダーの有用性を頭から認めませんでした。しかし、彼の八木アンテナの論文は、海外で評価され超短波用高性能アンテナとして認められていきました。(*1926年に高柳健次郎がブラウン管式テレビの実験に成功している)
 その後、1941年太平洋戦争が起き、シンガポールを攻め落とした日本軍は、そこのイギリス軍のレーダーアンテナが八木アンテナであると知らされました。アメリカ軍も八木アンテナを装備し、攻め寄せる日本の飛行機を300km前からレーダーでキャッチし迎え撃ちました。アメリカ軍は闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦を撃沈し、日本軍は痛いめにあってやっとレーダーの威力とその重要性に気付きました。しかし、もう後の祭りです。日本はアメリカに破れ、無条件降伏しました。八木アンテナアメリカのレーダー等に使われ日本が負けたことについて当時の世間は、発明者の八木秀次に冷たく当たりました。
 八木秀次の世界的な発見・発明である八木アンテナを敵である英米は認め、それを活用し戦いに勝利しました。反対に日本は、日本人である八木秀次の発明を理解せず軽視しその結果敗北し、挙げ句の果てによけいな発明をしたとばかりに冷たくしました。自国の優れた発明を使いこなせなかったことを棚に上げて八木秀次個人を責めるのは、天につばをするようなものです。当時の政府要人や帝国陸海軍は、大和魂などの精神主義に陥っていたため先端科学を理解できず惨禍を招いてしまったのでしょう。そしてそれは、日本人の短絡性と同時に当時の社会の半封建的後進性を示しています。
 まだ、この話にはおまけがあります。
 八木アンテナの特許を政府は消滅させてしまい、また外国特許保有の財政支援もせず冷遇したため日本の八木アンテナ特許権は失われてしまいました。
 ところが戦後まもなくテレビが世界中に普及した時、八木アンテナも同時に全世界に普及しました。なぜならVHFテレビ電波を受信するには八木アンテナ以外にないのですから。もし、この時代この特許を日本が確保していたらおそらく世界に数億台のテレビと同数売れた八木アンテナから莫大な特許料が日本に入り、日本の戦後復興は大いに助けられたことでしょう。そしてもう一つ、もし、八木アンテナ発明と同時期の高柳健次郎の電子テレビ実験成功を評価し、研究支援を行ってテレビの発明・実用化に成功していたならば、日本は、テレビとテレビアンテナの両方を発明したことになります。そうなれば、その恩恵は測り知れないものになっていたでしょう。
 2001.1.19 戦後、初代日本アマチュア無線連盟会長 八木秀次博士25回忌に記す。
 参考書籍   「電子立国日本を育てた男」  松尾博志 著  文芸春秋社  
 八木アンテナを持つ八木博士の写真と記事へ←クリック
 (↑上山昭博氏の20世紀の発明品のカタログより)
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 経済大国の最先端技術は、軍事技術優先で、次が輸出産業技術で、内需の民生技術は最後であった。
 最先端技術のイノベーションは、ヒト・モノ・カネを量的に集中させ軍事部門で活発に起き、産業や民生はその軍事技術を応用していた。
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 西洋礼賛主義者は画期的な八木アンテナが理解できなかった。
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 科学技術軽視傾向は、戦前の日本以上にバブル経済以降の現代日本に強く、バブル経済崩壊後の日本経済が回復できないのはその証拠である。
 つまり、科学技術を軽視して滅んだ軍部・敗北した日本軍を批判する現代日本人ほど醜悪な存在はない。
 そして、現代日本人が最先端技術によるイノベーションができないのは当たり前の事である。
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 日本の再生を阻み妨害し貧困をさらに悪化させているのは、戦前否定の反戦平和リベラル派戦後民主主義世代である。
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 現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力に加えて、将来を見通し、未来を切り開く科学技術に対する思考力と実行力が乏しいか、ない。
 現代日本人が口にするイノベーションは、やり遂げようという意思のないお題目に過ぎない。
 その傾向は、後ろ向きな高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
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 八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語: Yagi-Uda Antenna)は、アレイアンテナの一種。通常、ダイポールアンテナを素子としており、宇田新太郎の主導的研究によって、八木秀次との共同で発明された。別称として、指向性短波アンテナや八木アンテナという名称が流通している(下記の名称についてを参照)。
 主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用される。

 軍事研究での八木・宇田アンテナ
 欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。例えば、アメリカ軍はレーダーと八木アンテナの技術を改良発展させながら戦争に活用して日本軍に大損害を与えた。さらに後には、アメリカ軍が広島市長崎市原子爆弾を日本に投下した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆撃機から投下した原子爆弾の核爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、八木・宇田アンテナの利用を確認できる。
 ところで、八木アンテナ開発当時の1920年代には、大日本帝国の学界[要出典]や日本軍では、敵を前にして電波を出すなど「暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然」だと考えられ、重要な発明と見做されていなかった。このことをあらわす逸話として、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校がニューマン(Newmann)というレーダー手の所持していた技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。後に「ニューマン文書」(「ニューマン・ノート」)と称されるこの技術書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには、捕虜となっていたイギリス軍のニューマン伍長に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている[Note 1] 。
 なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、大日本帝国のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は1930年代後半に入って大日本帝国陸軍が防空を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒パルスレーダーである「超短波警戒機 乙」は、ナチス・ドイツからの技術導入で開発されたものであり、アンテナには無指向性のテレフンケン型(箱型)と呼ばれるものや、ダイポールアンテナが利用されていた。
 八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも戦後にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃管制レーダー(GL Mk.IIレーダー(英語版))のような、攻撃を目的とした射撃管制装置の場合、地上設置ではアンテナに仰角を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定航空機銃照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は、敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。
 日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦の後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーを模倣して対処したが、英米の製品と比べ相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧(艦砲射撃の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった。
 機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載した月光一一型
 また、第二次世界大戦後期には連合国側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは航空機に搭載する場合、素子が突起物となって空気抵抗が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型のパラボラアンテナの開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑えるレドームの技術開発にも成功し、重爆撃機による夜間の戦略爆撃に大きな成果を挙げている。一方、マグネトロンによるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった枢軸国側の夜間戦闘機は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した夜間戦闘機で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。
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 ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった
 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
 藤田 元信防衛装備庁 技術戦略部
 技術計画官付 計画室 戦略計画班長プロフィール
 岡部金治郎らの発明をきっかけとして、小規模ながら、日本国内でもマグネトロンの研究が行われていた。写真は、のちに戦艦「大和」にも搭載された二号二型電探(対水上用)に使われたマグネトロンの陽極と同等のもの。(public domain)
 {今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。
 最近、新著『技術は戦略をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した藤田氏は、75年前の海戦における日本の失敗を分析した上で、技術と戦略の関係を学ぶことの重要性を説く。}
 日本で無視され、米国が評価した技術
 ミッドウェー海戦は、お互いの艦艇を視界に入れずに戦った、史上初の海戦であったと言われています。そして、アメリカ軍の勝利に決定的な役割を果たしたのは、電波の反射を使って目標を探知する兵器である「レーダ」でした。
 レーダには、発振器とアンテナが欠かせません。じつは、アメリカをはじめとした諸外国のレーダ開発には、日本人の発明が利用されているのです。ご存知でしたか?
 その代表的なものが、「八木・宇田アンテナ」と「分割陽極型マグネトロン」です。
八木・宇田アンテナは、その名前のとおり、八木秀次宇田新太郎という日本人研究者の研究成果でした。魚の骨のような簡単な構造で、優れた性能(鋭い指向性と高い利得)が得られることが利点です。いまでもテレビの受信アンテナとして広く使われているので、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。
 このアンテナは、日本では誰にも注目されなかったものの、1926年に英語で論文を発表したところ、米国で大いに賞賛されたと言われています。
 分割陽極型マグネトロンもまた、日本人研究者である岡部金治郎が、1927年に発表したものでした。
 分割陽極型マグネトロンは、それまでにアメリカで開発されていた単陽極マグネトロンでは不可能だった、高い周波数の発振(マイクロ波を発生)を可能としたうえ、高効率でした。レーダの実用化に向けて、性能を飛躍的に高める研究成果でした。
 早くも1920年代に、日本人研究者により八木・宇田アンテナと分割陽極型マグネトロンという、画期的な新技術が生み出されていたにも関わらず、日本陸海軍はその研究成果をレーダの開発につなげることはできませんでした。
 たとえば海軍では、「これからの海戦にレーダが必要かどうか」という議論が盛んになされた一方、事業化に進むための具体的な検討はずっと低調だったようです。一方、アメリカとイギリスをはじめとする諸外国では、これらの研究成果を早期に事業化し、通信機器やレーダの開発に応用していました。
 シンガポールの戦利品から発見
 1942年5月中旬、「シンガポールの戦利品で、現地で理解できないものがある。電波兵器のようなので、調査に来てほしい」との依頼を第5陸軍技術研究所から受け、日本電気東芝の社員からなる民間の調査団が組織されました。
 調査団が現地で調査したところ、件の電波兵器は、日本人が発明した八木・宇田アンテナであったことが判明しました。日本では誰も顧みなかった八木・宇田アンテナを、イギリスがみごとに兵器に応用していたことは、関係者にとって衝撃だったと言われています。
 同じころ、日本陸軍は、押収した文書(通称「ニューマン文書」と呼ばれる)の中に、YAGIという単語が出てくることを発見しました。そこで捕虜に質問したところ、「それはそのアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられ、そのとき初めて八木・宇田アンテナの存在を知ったとも伝えられています。
 じつは、日本の海軍技術研究所や陸軍技術研究所でも、小規模ながら、レーダ技術の研究は行われていました。ところが、軍上層部には、レーダの研究開発に対する理解者が少なく、レーダの研究開発は遅々として進まなかったと言われています。そのため、大東亜戦争の開始時点でも、日本のレーダは実用化にほど遠い段階にありました。
 ようやく、海軍で初めて実用レベルのレーダが作られたのは、開戦から数か月が過ぎた、1942年3月のことでした。このときは波長の異なる2種類のレーダが試作され、戦艦「伊勢」「日向」に搭載されました。それぞれに長所・短所があるものの、どちらも一定の機能・性能を有することが確認されました。
 ミッドウェーで払った高い代償
 1942年6月、ミッドウェー島に向かった日本海軍の空母機動部隊には、レーダを装備した艦艇は1隻もありませんでした。実験艦として、レーダを搭載していた戦艦「伊勢」「日向」は、ミッドウェー島から遠く離れたアリューシャン方面に派遣されていました。
 一方、ミッドウェー島付近で、日本海軍の空母機動部隊を待ち受けるアメリカ海軍の主要艦艇には、対空捜索レーダCXAMが装備されていました。さらに、ミッドウェー島に設置された固定式のレーダも稼動状態にありました。
 そのため、ミッドウェー島付近で日本軍の攻撃を待ち受けていたアメリカ軍は、日本軍の艦載機の接近をレーダでいち早く察知し、奇襲を避けることができたのです。
 レーダの実用化により、日本海軍の戦略の前提となっていた、空母と艦載機を中心とした奇襲攻撃は、もはや成立しなくなっていました。
 そのことに気がつかない日本海軍は、ミッドウェー島に有効な打撃を加えられなかったばかりか、反撃してくるアメリカ海軍の艦載機を直前まで発見できず、主力の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と約300機の艦載機、そして多数の熟練兵を失いました。
 こうして、日本軍は、自らのレーダの技術開発の深刻な遅れを、高い代償により知ることとなったのです。
 日本の戦略家が技術を学ぶ意義
 ミッドウェー海戦における日本の敗北は、一般に、機械故障による索敵機の発進の遅れや、現場の混乱を誘引した指揮官の判断に原因があると論じられています。確かに、偶然や現場での判断により左右された部分もあったでしょう。
 しかし、ミッドウェー海戦を、「技術」という観点で捉え直すとすれば、ミッドウェー海戦は、レーダ技術が、日本軍の戦略を破壊した戦いだったと総括できるでしょう。
 戦いの様相を一変させるレーダをいち早く取り入れ、使いこなしたアメリカ軍と、要素技術の研究において国内にアドバンテージを有しつつも、レーダの必要性の議論に終始し、事業化を推進しなかった日本軍の能力には、大きな差が生まれていたのです。
 日本でも、ミッドウェー海戦の後、それまで低調だったレーダの研究開発は、おおいに奨励されました。しかし、長年の蓄積を必要とする研究開発の遅れは、ついに取り戻すことができませんでした。
 「技術」という観点から、ミッドウェー海戦の敗北へとつながったレーダの研究開発の問題点を考えると、以下の2点に集約されると考えられます。
 (1)未知の要素が多いレーダの研究開発に関し、上層部の理解が得られなかったこと
 (2)国内の科学技術イノベーションを国防に生かす仕組みが未成熟であったこと
 1930年代において、レーダの研究開発は未知の要素が多く、きわめてリスクの高いテーマの1つでした。技術的な内容を理解できる人間も、レーダが戦いにどのような効果をもたらすのか、という部分を論じることができる人間も、国内にわずかしかいなかったうえ、双方が対話をする機会も、ほとんどありませんでした。
 国内にどのような技術があり、どう育成し、どう活かすのか、といった長期的な視野で技術マネジメントを行うことができる、組織や人材が欠けていたと言ってもいいかもしれません。
 これらの問題点から、現代日本にも通じる教訓を得るとすれば、長期的な技術マネジメントの視点の欠如が、致命的な結果をもたらすことがあるということでしょう。
 様々な新技術が、市場や社会のあり方を支配するようになった現状を鑑みると、組織運営を担うリーダ、戦略家が技術を学ぶ意義はますます高まっているものと思われます。技術者もまた、自らの職責の範囲を超えて、技術が戦略に与えるインパクトについて、もっと意識すべきかもしれません。
 ミッドウェー海戦の敗北から75年、ビジネスの最前線に立つ一人ひとりが、技術と戦略の関係をいま一度考え直すことで、新たな未来が切り拓けるのではないでしょうか。
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 レーダーの歴史。
 発明
 八木・宇田アンテナを用いたレーダーを装備したメッサーシュミット Bf110
1887年、ドイツの物理学者であるハインリヒ・ヘルツが電磁波の人工的な発生と検出に関する実験を行った。電磁波の存在はイギリスの物理学者であるジェームズ・クラーク・マクスウェルによって理論的に予言されていたが、ヘルツの実験によってはじめて立証された。
 1904年、ドイツの発明家クリスティアン・ヒュルスマイヤー(Christian Hülsmeyer)はドイツとオランダで電磁波の反射で船を検出して衝突を避ける実演を行った。火花送信機とコヒーラー受信機、ダイポールアンテナにより距離5kmの船舶の探知を実用化し、英国において"Telemobiloscope"の名で特許を取得したが、海軍には採用されず、生産されなかった。後に彼は電波測距儀の特許を取得している。

 八木・宇田アンテナ
 1925年(大正14年)日本人の発明した八木・宇田アンテナ(以降、「八木アンテナ」)は、既存の技術に比べると非常に容易に指向性を得ることができる、実に画期的な技術だった。しかし、日本では全く反響が無く学会から無視された。一方欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを複数使用し各アンテナが受信した電波の位相差から方位を測定する短波帯の「CHレーダー」により目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した。
 なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。

 日本
 電波兵器たる「レーダー」の日本語訳としては、帝国陸軍の造語である「電波探知機」の名称・呼称があり、これは「電探(でんたん)」の略称とともに一般化している。この総称「電波探知機(電探)」をさらに陸軍では、電波の照射の跳ね返りにより目標の位置を探る警戒・索敵レーダーに対し「電波警戒機(警戒機)」(および「超短波警戒機」)、高射砲などが使用する射撃レーダーに対し「電波標定機(標定機)」と二種類に区分している。この「電波探知機」の名称・呼称は陸軍の開発指揮者である佐竹金次少佐(当時)が、ある会議で「電波航空機探知機」と述べたのが簡略化(「電波探知機」)されて普及したものである。
 しかしながら帝国海軍においては、警戒・索敵レーダーに対し「電波探信儀」の名称・呼称を使用していた。さらに、目標の電波探信儀が発した電波を傍受する一種の方向探知機に対しては、(陸軍の造語で狭義のレーダーを意味する)「電波探知機」(および「超短波受信機」。略称として「逆探」とも)称を充てており、「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」と混乱が生じている。なお、戦後は「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」が広く世間に定着したため、「(海軍称たる)電波探信儀」は廃れてしまっている。
 なお旧日本軍(陸海軍)のレーダー開発史においては、防空を主として重んじることから陸軍が先進的な存在であり、かつ陸軍上層部自体の理解も当初から高いもので、陸軍科学研究所において電波を通信以外の用途に利用する研究を開始したのは1932年(昭和7年)、航空機探知を目的とする狭義のレーダー研究を促進し始めたのは1938年(昭和13年)春、レーダー受信実験の成功は1939年(昭和14年)2月である。
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技術は戦略をくつがえす

⚡37】─2─何故、日本の技術は中国に抜かれたのか。~No.160 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世界市場では、メードインジャパンの日本製品は昔ほど売れないし買ってもらえない。
 日本経済は、中国経済に太刀打ちできないほど衰退し、世界第2位の経済大国に復活できないほど競争力が弱体化している。
 日本は。もう二度と這い上がることはできない。
 その原因は、少子高齢化による人口激減である。
 人口激減は、国内消費=内需を衰退させ、「需要と供給のバランス崩壊」をもたらし、AIとロボットで大量に生産しても買ってくれる消費者がいなくなる事を意味する。
 AIとロボットは、労働者になっても消費者にはならない。
 良い消費者は若者(欲深い浪費家)であり、悪い消費者とは老人(我慢強い倹約家)である。
    ・   ・   ・   
 2021年3月29日 MicrosoftNews JBpress「まさかの逆転、日本の技術はなぜ中国に抜かれたのか
 © JBpress 提供 中国・上海で開催された家電見本市「AWE2021」の会場(2021年3月23日公開ゲラ、写真:ZUMA Press/アフロ)
(花園 祐:上海在住ジャーナリスト)
 2012年頃のことです。筆者は、日本と中国の製造業における技術格差について、周りの人によく次のようなことを口にしていました。
 「日本と中国の技術格差は2000年頃が100:1だとすると、今は10:1程度にまで縮まっている。今後、この差はさらに縮まっていくだろう」
 そうした考えから、日系企業関係者に会うと「今なら日系企業保有する技術や特許には中国企業の買い手がつくはず。それらはまとめて売却し、そのお金で新規事業に投資した方がいい」と勧めていました。
 あれから約10年が経った現在、当時は買い手がついたであろう日系企業の特許や技術を買いたいと思う中国企業は、もうないでしょう。
 また日本と中国の技術格差も、10:1どころではなく、現場労働者の能力から先端産業技術まで今や中国の方が日本を上回っているのではないかと筆者はみています。
 一体なぜ日本と中国の技術力は逆転してしまったのか。その背景と原因を考えてみたいと思います。
 家電はほぼ全滅、工作機械も黄信号
 最初に、現在日本が国際市場において置かれている立場を主要な製造産業ごとにみていきましょう。
 まず、かつては自動車産業と並んで花形だった家電産業は、完全に中国系に敗北してしまいました。東芝をはじめ既に多くの家電メーカーは家電事業を中国企業に売却しており、パソコン事業も大半が中国系の資本に収まっています。
 携帯電話に至っては、ソニーがまだ頑張ってはいるものの、国際市場における販売台数では中国系に遠く及ばず、国際競争力はまったくかなわない状況です。
 一方、デジカメはキヤノンニコンソニーの日系御三家がいまだ圧倒的な国際競争力を維持してはいます。しかし、スマートフォン搭載カメラに押され、カメラ市場自体が縮小しているのが現状です。競争力があるとはいえ、その先行きは厳しいと言わざるを得ません。
 日本の製造業を陰で支えてきた産業用ロボットをはじめとする工作機械産業については、現状はまだ日本が優位に立っているように見えます。しかし現在、この分野は中国が国を挙げて強化に取り組んでおり、技術力もここ数年で目覚ましく高まってきています。今のペースが続くようであれば、この分野でも遅かれ早かれ日本は中国に追い抜かれる可能性が高いでしょう。
 頼りは自動車、素材系産業だが・・・
 逆に日本が中国に対していまだに強い優位性を持っている産業としては、日本のお家芸ともいうべき自動車と、化学品原材料をはじめとする素材系産業が挙げられます。
 特に地道な基礎開発と品質管理がものを言う素材系産業分野は、中国系企業が明らかに苦手としていている分野です。中国政府がどうテコ入れしても、あと10年は確実に日本の後塵を拝し続けることになるだろうと筆者は見ています。
 一方、自動車産業は、今後の電気自動車(EV)化の進展によっては劇的な技術革新が起こり、既存技術が一気に陳腐化する恐れがあります。特にEVのコアともいえる電池技術に関してはすでに中国がリードしています。日本の自動車産業がこのまま今の優位を保てると断言することは決してできません。
 2020年北京モーターショーで展示された中国の新興自動車メーカーBYDの新型電気自 © JBpress 提供 2020年北京モーターショーで展示された中国の新興自動車メーカーBYDの新型電気自動車(2020年9月28日、写真:UPI/アフロ)
 産業育成における官僚の差
 では、なぜ日中の技術力格差が急速に縮まり、一部分野においては逆転を許してしまったのか。様々な原因がありますが、その中から筆者が特に大きかったと感じる2つの原因を挙げてみたいと思います。
 1つは産業育成の差。もう1つは日本の改善主義の弊害です。
 産業育成の差から説明すると、これはある意味“官僚の差”であると言い換えられるかもしれません。中国の官僚は理系出身者が多く、ITを含む各産業の構造や技術について一定の知識を備えた人物が少なくありません。そうした背景からか、中国政府の産業支援策や優先強化対象とする技術の選定などはどれも理に適っており、筆者もしばしば感心させられます。
 逆に日本では、産業支援策というと、ひたすら中小企業の支援に力を注ぎ込みます。先端技術や特定分野に対する強化指導方針なども見えづらく、そうした方面の研究開発について政府は大手民間企業に丸投げしているようにも見えます。そもそもパソコンにもろくに触ったことがない人がIT担当大臣になるなど、政治家の技術への理解の程度、関心が低すぎることも問題でしょう。
 新規事業の投資に躊躇する日本企業
 次は、改善主義の弊害についてです。
 筆者が見る限り、日本の製造業系企業は、既存技術の改善は得意とするものの、新規技術を企画してゼロから立ち上げることは苦手としているようです。技術者と話していても、既存工程の改善はこれでもかというくらい熱心に行いますが、普段あまり取り扱わない製品や、新規技術の取り込みとなると途端にやる気をなくす人が多いように感じられます。
 大手メーカーの間では、2000年代中盤に「選択と集中」が流行ってから、競争力のある既存事業に投資を集中する一方、新規事業への投資は控える傾向がありました。その結果、製造業の経営は短期的に持ち直したものの、国際競争力は低下していくことになりました。逆に中国はこの間、ドローンやEV、AI、5Gといった新技術や産業への投資を活発に行ってきました。
 日系企業の改善主義が決して悪いというわけではありません。しかし改善を重視するあまり、新規分野の開拓や投資が疎かになったことは否めません。こうした新規技術分野への挑戦意識の差が、今日の日中の技術格差の大きな要因になっているように思われます。
 日本はどの分野の技術を強くしていくべきか
 最後に、日本は今後どの分野の技術を高めるべきかについて少し付け加えたいと思います。
 大前提として、日本は国家としてどの分野を強化すべきかを、きちんと最新技術に精通した専門家を招いて審議する必要があります。これまでは、技術に疎い政治家が、環境や再生エネルギーなど耳障りの良い分野の技術ばかりを支援対象に選び、市場の混乱を招いてきました。単純に「世界で稼げる技術」を支援対象とすべきでしょう。
 その上で、中国が力を入れている分野を避けることも1つの手ではないかと思います。広い分野で下手に張り合うよりは、中国がノーマークで盲点となっている部分をピンポイントで攻め、日本がその分野を押さえる戦略の方がより現実的であるように思います。
 それだけに育成分野の選定は非常に重要となってきます。日本が今後どんな技術で稼いでいくか、官民を問わず活発な議論が行われることを期待しています。」
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💫10}─1・C─ネアンデルタール人の成長。ネアンデルタール人とヒトは10万年前にセックス。〜No.76No.77 

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 2017/10/7 ナショナル ジオグラフィック ニュース
 スペインのエル・シドロン洞窟で発見されたネアンデルタール人の子どもの骨格は、旧人類の幼年期の成長ペースを知るための手がかりとなる。(PHOTOGRAPH BY PALEOANTHROPOLOGY GROUP MNCN-CSIC)
 約4万9000年前、現在のスペインにあたる地域で、ネアンデルタール人の少年が8歳の誕生日の数カ月前に死亡した。この骨格を詳細に調べた科学者たちは、ネアンデルタール人の子どもの成長ペースは現生人類(ホモ・サピエンス)の子どもと同じようにゆっくりしていたと主張する。
 科学誌『サイエンス』に発表されたこの研究は、脳を大きくするために長い時間をかけてゆっくりと成長するのはホモ・サピエンスだけではないとする学説の裏付けとなる。
 研究チームを率いたスペイン国立自然科学博物館の古人類学部門長アントニオ・ロサス氏は、「こんなふうに時間をかけて成長するのは私たちホモ・サピエンスだけだと考えられていましたが、現生人類だけでなく旧人類も、同じようにして大きな脳を育んでいたことが明らかになったのです」と言う。
 ネアンデルタール人はかつてヨーロッパ全域に広がり、一時は現在の英国からモンゴルの近くまで分布していた。以前は荒々しい人々として語られることが多かった彼らは、実はもっと思慮深く、洗練された人々だったようだ。
 彼らは火を使い、死者を埋葬し、その土地でとれる植物や菌類を薬にしていた。最近の研究では、何らかの象徴的な目的のために、フランスの洞窟内に神秘的なストーン・サークルを作っていたとされている。
 その一方で、ネアンデルタール人が肉体的な成長の面でもホモ・サピエンスのようであったのかについては、激しい議論が続いてきた。彼らの体は、ゴリラなどの霊長類のように早く成熟したのか? それとも現生人類のようにゆっくりしたペースで成熟したのか?
 問題解決のヒントはスペイン北西部のエル・シドロン洞窟にあった。ここでは、約4万9000年前に同じ集団で暮らしていたと思われるネアンデルタール人の大人7人と子ども6人の骨片が合計2500個以上見つかっている。
 エル・シドロン洞窟の中に立つアントニオ・ロサス氏。(PHOTOGRAPH BY JOAN COSTA-CSIC COMMUNICATION)
 ある少年の物語
 6体の子どもの骨格のうち、「エル・シドロンJ1」と呼ばれる子ども(おそらく少年)の骨格はほぼ完全に残っていて、その生と死をある程度推測することができる。
 J1の身長は約120cm、体重は約26kgで、右利きだった。歯のすり減り具合から、大人たちのまねをして、家の仕事をする際に口を「第3の手」として使っていたこともわかる。
 歯のエナメル質がいくらか弱くなっていたことを除けば、J1の骨格に重大な病気の証拠はなかった。しかし、骨には死後に切断された跡があり、共食いの可能性も考えられる。歯には年齢の痕跡があるため、ロサス氏らは、これを少年の骨格の成熟度と比較した。
 歯が形成される際にはエナメル質に成長線が残り、木の年輪を数えて樹齢を知るように、この成長線を数えて年齢を知ることができる。研究チームはJ1の臼歯の1本を調べ、少年の死亡時の年齢を約7.7歳と推定した。
 次に、J1の骨格を現代の数千人の子どもの骨格と比較すると、今日の7歳児と8歳児に最も近いことがわかった。つまり、J1はホモ・サピエンスの子どもと同じゆっくりしたペースで成長していたのだ。
 ただし、頭蓋骨は現生人類の子どもと少し違っていた。J1の頭蓋骨の内面には、成長する脳による圧力を受けていた痕跡があり、その脳の大きさは平均的なネアンデルタール人の大人の約88%だった。
 こうした証拠から、研究チームはJ1の脳が成長の途中だったと主張する。そうだとすると、J1の脳の発達は現代の子どもより遅かったことになる。現代の子どもの脳は、7歳になる前に完全に発達しているからだ。
 慎重論
 今回の研究では1体の骨格しか調べられていないこともあり、すべての研究者がロサス氏の主張に納得しているわけではない。
 スイス、チューリヒ大学の古人類学者マルシアポンセ・デ・レオン氏とクリストフ・ゾリコッファー氏も、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスと同じようなペースで成長していたと主張している。彼らはロサス氏の研究を全体としては賞賛するが、J1の脳の成長ペースが現代の子どもよりゆっくりしていたと考える統計的証拠はまったくないと指摘する。
 そもそも、大人のネアンデルタール人の脳のサイズには大きなばらつきがある。J1の脳は大人の脳にしては小さいが、J1よりも小さな脳をもつ大人のネアンデルタール人の例もあったし、J1より幼いネアンデルタール人が、より大きな脳をもっていた例もある。
 ポンセ・デ・レオン氏とゾリコッファー氏は、「エル・シドロン洞窟の少年が死んだときの脳の大きさはわかりましたが、彼が大人になったときに脳がどのくらいの大きさになっていたかは見当もつきません」と言う。「とはいえ全体として見れば、この論文は、ネアンデルタール人の成長のペースが(少なくとも私たちと同じくらい)ゆっくりしていたことを裏付け、『ホモ・サピエンスの独自性』の主張を退けるものだと言えるでしょう」
 米ハーバード大学のターニャ・スミス氏はネアンデルタール人の歯の専門家だが、やはりロサス氏らの結論に疑問を投げかけている。彼女は、ロサス氏のような主張をするにはJ1の歯の年齢を正確に推定できている必要があるが、彼らの手法はいくつかの仮定に基づいていると指摘する。ゾリコッファー氏やポンセ・デ・レオン氏と同じく、彼女もまた、J1の脳のサイズが平均より小さいことだけを根拠に成長の途中であると考えることはできないと言う。
 「成長のペースにばらつきがあることは、ホモ・サピエンスを見れば明らかです。たった1体の化石から広範な結論を導き出すことはできないと思います」
 (文 Michael Greshko、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
 [ナショナル ジオグラフィック ニュース 2017年9月22日付]
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 「BBC NEWS JAPAN
 ネアンデルタール人とヒトは10万年前にセックスしていた?
 2016年02月18日
 レベッカ・モレル科学担当記者(BBCニュース)
 ヒトの祖先とネアンデルタール人との間で、これまで考えられていたよりもずっと古くから混血が起きていた可能性がある。欧州の研究チームが明らかにした。
 研究チームによると、発掘されたネアンデルタール人の骨から見つかったヒトDNAの痕跡を分析した結果、異種交配は10万年前に起きていたらしいと分かったという。
 これまでは、ヒトが初めてネアンデルタール人に遭遇したのは、ヒトがアフリカ大陸からほかの地域に移動し始めた約6万年前だと考えられていた。
 研究結果はネイチャー誌に掲載された。
 研究チームの一人、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所のセルジ・カステラノ博士は、「現代人類とネアンデルタール人の歴史を理解する上で大きな意味を持つ」と述べた。
 シベリア・アルタイ山脈の洞窟で見つかった女性のネアンデルタール人の骨を遺伝子解析したところ、ヒトのDNAが含まれており、10万年前に混血が存在したことが明らかになった。
 まゆの周りが発達し、がっしりした体格をもつネアンデルタール人の居住地域は、欧州からアジアまで広がっていた。
 現代人類にはネアンデルタール人由来のDNAが存在し、免疫システムや病気へのかかりやすさなど、さまざまな側面で影響を及ぼしていることが、最近の研究で明らかになっている。
 しかし今回の発見で、ヒトDNAがネアンデルタール人に受け継がれたことが示され、混血が考えられていたよりもずっと早い時期に起きていた可能性を示している。
 ヒトDNAがネアンデルタール人にどのような影響を及ぼしたのかはまだ明らかでない。カステラノ氏は、「機能的な意味合いは現時点では分からない」と語った。
 しかし、今回の発見はヒトの祖先の移動について新たな情報を提供してくれている。
 仮にヒトが10万年前にネアンデルタール人と性交していたならば、ネアンデルタール人はアフリカで発見されていないので、ヒトとの接触はアフリカ大陸以外で行われた可能性が高い。
 とすれば、ヒトがアフリカ大陸から大規模に移動し始める少なくとも4万年前から、アフリカを離れたヒトがいたことになる。
 これはヒトがかなり早い時期からアフリカ大陸の外へ移動し始めていたという説の傍証にもなる。イスラエルのスクールやカフゼでは初期のヒトの化石が見つかっているほか、最近の研究では、少なくとも8万年前から中国にヒトが存在していたことを示している。
 ロンドンの自然史博物館における人類の起源研究の責任者、クリス・ストリンガー教授は、「ネアンデルタール人や初期の現代人類が当時、アラビアからアジアまでどれほど広範囲に存在したのか分からないため、理論的には、初期の異種交配の場所としては南アジア全域にその可能性がある」と語った。
 ストリンガー教授はさらに、「現時点では、どのような形で交配が起きたのか分からない。比較的平和な形でお互いのパートナーを交換したのかもしれないし、(チンパンジーや一部の狩猟採集民に見られるように)相手を襲撃して女性を連れ去ったのかもしれない。あるいは、捨て子や孤児を育てたのかもしれない」と指摘した。
 教授はまた、「遺伝学者はいつか、(ヒトとネアンデルタール人両方の方向で)DNAの伝達が主に男性からなのか、女性からなのか、あるいは両方から同じくらいだったのかを解明するだろう。けれどもそれが可能になるためには、もっとたくさんの情報が必要だ」と語った。
 (英語記事 Neanderthals and humans interbred '100,000 years ago')」
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 ネアンデルタール人のDNAがアフリカ人にも 定説覆す
 2020/2/22
 ニュース
 幅広いアフリカ人集団にネアンデルタール人由来のDNAがあることが明らかになり、これまでに調べられたすべての現代人集団で、過去にネアンデルタール人との交雑が起きていた痕跡が見つかった。今回の研究は、人類の歴史の複雑さとともに、共通の歴史の存在を強調する(PHOTOGRAPH BY JOE MCNALLY, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
 約6万年前、現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカからの大移動を始め、世界のすみずみに散らばっていった。欧州と中東に広がっていたネアンデルタール人などと交雑したが、アフリカ人にはこの交雑の証拠はほぼないと思われてきた。ところが、2020年1月30日付けで学術誌「セル」に発表された論文で、現代のアフリカ人が持つネアンデルタール人由来のDNAは従来考えられていたよりも多いという、驚くべき事実が明らかになった。
 交雑を示す証拠は、多くの現代人の遺伝子にはっきりと残っている。ヨーロッパ人とアジア人のゲノムの約2%はネアンデルタール人に由来すると考えられていた。アジア人はこのほかにネアンデルタール人と近縁のデニソワ人のDNAも持っていて、特にメラネシア人では6%にもなる。今回の論文ではヨーロッパ人が持つネアンデルタール人由来のDNAも、これまで考えられていたより多いことが明らかになった。
 論文著者である米プリンストン大学の遺伝学者ジョシュア・エイキー氏は当初、結果を信じられなかった。「そんなはずはないと思ったのです」と氏は振り返る。しかし、1年半にわたる厳密な検証の末、氏らは自分たちの正しさを確信するようになった。
再びアフリカに戻った現生人類
 研究の結果、アフリカ人のゲノムのうち約1700万塩基対は、ネアンデルタール人に由来することが明らかになった。しかもその一部は、ネアンデルタール人が直接アフリカに渡ったというよりも、ヨーロッパからアフリカに戻って来た現生人類がもたらしたようだ。
 現生人類の初期の移動については、「アフリカを出たら二度と戻らなかったという説があります」とエイキー氏は言う。しかし今回の結果や近年の研究からは、その説が正しくなかったことが浮き彫りになる。「橋は一方通行ではなかったのです」
 「パズルのすき間を埋める非常に良いピースです」とドイツのマックス・プランク進化人類学研究所の計算生物学者ジャネット・ケルソー氏は話す。「きわめて複雑な全体像が見えてきました。遺伝子の流れは1つではなく、人類の移動も1回きりではありません。数多くの接触があったのです」
 しかし、人類の起源の複雑さを解明するには、その曲がりくねった道を解きほぐす手法を開発しなければならない。
 交雑の謎を解く新手法
 科学者たちは長年、現生人類とネアンデルタール人の関係について考えてきた。問いの中身は時代とともに変化してきたが、この数十年にわたり論争の的になってきたのが「現生人類とネアンデルタール人は交雑したのか?」という問題だ。2010年にネアンデルタール人の全ゲノムが初めて発表されたことで、科学者たちはついにその答えを手にした。「イエス」だ。
 ある研究で、ネアンデルタール人のDNAを5人の現代人と比較したところ、ヨーロッパ人とアジア人にはネアンデルタール人と交雑した痕跡がある一方、アフリカ人にはそれがないことが明らかになった。その後の研究で、アフリカ人もわずかにネアンデルタール人由来のDNAを持つことがわかったが、人類の系統樹のもつれた枝を解きほぐすには至らなかった。
 エイキー氏らは、こうした遺伝子の混合を今までにない視点から調べる新たな手法を開発した。現代人のゲノムに散らばっている別の人類のDNAを知る方法だ。
 現代人とネアンデルタール人の交雑を追跡する従来のモデルでは、ネアンデルタール人などのDNAを持っていないと考えられるグループのゲノムを参照集団として利用してきた。参照集団に選ばれるのはたいていアフリカ人だった。
 「この仮定は妥当ではありませんでした」と米ウィスコンシン大学マディソン校の古人類学者ジョン・ホークス氏は言う。アフリカ系の人々もネアンデルタール人由来のDNAを持つ可能性があるのに、この方法で分析を行うと、それが見えなくなってしまうからだ。
 そこでエイキー氏らは、大量のデータセットを使って、ゲノム中の特定の部位がネアンデルタール人から受け継がれている確率とそうでない確率を調べた。彼らは「千人ゲノムプロジェクト」の一環として集められた世界各地の2504人(東アジア人、ヨーロッパ人、南アジア人、アメリカ人、主に北部のアフリカ人)のゲノムを使い、自分たちの手法をテストした。続いて、このDNAをネアンデルタール人のゲノムと比較した。
 複雑な遺伝子の流れ
 分析の結果は、現代のアフリカ人がネアンデルタール人由来のDNAを平均1700万塩基対持つことを示していた。これは、ヨーロッパ人とアジア人がもつネアンデルタールDNAに比べて約3分の1である。この結果は、アフリカ人が持つネアンデルタール人由来のDNAが、従来の見積もりより1桁以上多いことを意味している。
 「干し草の山の中から、これまで考えられていたより多くの針が見つかりました!」と、今回の結果をスイス、チューリッヒ大学の古人類学者マルシアポンセ・デ・レオン氏は表現した。
 では、ネアンデルタール人のDNAは、どのようにしてアフリカに到達したのだろうか? 単純に考えれば、ネアンデルタール人がアフリカ大陸に進出したということになる。このシナリオを完全に否定することはできないが、説得力ある証拠もないとエイキー氏は言う。
 データが示しているのは、別の由来だ。アフリカ人が持つネアンデルタール人由来のDNAの大部分が、非アフリカ人、特にヨーロッパ人と共通しているのだ。
 つまり、アフリカに戻った現生人類が、ゲノム中にネアンデルタール人由来のDNAを持っていた可能性が高そうだ。エイキー氏のモデルは、過去2万年の間にそのような現生人類が少人数だけでも戻っていれば、現在の分布を説明できることを示唆している。その時期を特定するのは困難だ。また一部は、もっと新しい時代、例えばローマ帝国の拡大や奴隷貿易など、この数千年間のアフリカ侵略によって起きた可能性もあるという。
 アフリカ人が持つネアンデルタール人DNAの一部は、別方向の遺伝的混合にも由来している。現代の非アフリカ人の大半は約6万年前にアフリカを出た現生人類を祖先に持つが、アフリカを出た現生人類は彼らが初めてではなく、20万年以上前にもいた可能性があるからだ。
 これらの初期の放浪者は、おそらく10万年以上前にネアンデルタール人と交雑し、自分たちの遺伝子の痕跡をネアンデルタール人のゲノムに残していったと考えられる。アフリカ人が持つネアンデルタール人由来のDNAには、この交雑の痕跡も残されているかもしれない。
 「遺伝子の流れは双方向だったのです」とエイキー氏は言う。「現代人のゲノムの中にあるネアンデルタール人の配列のなかには、ネアンデルタール人の中にあった現生人類の配列もあるのです」
 興味深いことに、新しい分析法により、現代ヨーロッパ人のゲノムの中に、これまで見落とされていたネアンデルタール人由来のDNAが新たに発見された。これまでヨーロッパ人と東アジア人の間には、ネアンデルタール人由来のDNAの割合に20%もの差があるとされてきたが、それが縮小した。
 今回の分析は、両者の差が8%未満であることを示唆している。「つまり、私たちが持つネアンデルタール人由来のDNAのほとんどが、共通の歴史から来ているということです」とエイキー氏は言う。
 物語は一直線ではない
 とはいえ、まだ多くの疑問が残っている。私たちが見落としているネアンデルタール人由来のDNAは、まだあるのだろうか?
 ホークス氏は「もちろんあります」と即答する。今回の研究には、シベリアの洞窟で発見されたネアンデルタール人のゲノムが使われている。だが彼らは、私たちがDNAを受け継いだネアンデルタール人とは別の集団と考えられている。エイキー氏によると、新しい分析法はこうした集団の差を検出できるほど精度が高いわけではないため、わずかに異なるDNAが含まれている可能性はあると言う。
 今回の研究により、アフリカ人が持つネアンデルタール人由来のDNAがどこから来たのか、納得のいくデータが得られたと、米コールド・スプリング・ハーバー研究所の集団遺伝学者アダム・シーペル氏は評価する。氏は、この手法をもっと大勢の現代アフリカ人に適用して、アフリカ各地の人々が持つネアンデルタール人由来のDNAにどのようなばらつきがあるのかを、より詳しく明らかにしたいと考えている。
 今回の研究は、近年行われている他の遺伝子分析と同様、ヒト族の間で常に交雑と移動が起きていたことを示しており、人類史の物語を絶えず評価し直す必要があることを示唆している。
 「それぞれの形態がそれぞれの物語を語っている可能性があります」とホークス氏は言う。「私たちは、物語をそのままの形で受け入れなければなりません。現生人類とその進化の歴史を、単純な一直線のストーリーに無理やり押し込めようとしてはいけません」
 (文 Maya Wei-Haas、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
 [ナショナル ジオグラフィック ニュース 2020年2月3日付]
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💫2}─3・A─ダークマターとブラックホール、合体したふたつの謎。~No.7No.8No.9 

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 2021年3月27日 MicrosoftNews JBpress「ダークマターブラックホール、合体したふたつの謎
 © 提供 渦巻く銀河を見えないダークマターが取り囲んでいるイメージイラスト。 Image by ESO / L. Calçada, under CC BY 4.0.
(小谷太郎:大学教員・サイエンスライター
 宇宙には超巨大ブラックホールなるものが浮いていて、周囲の物質を飲み込んだり、ガンマ線X線をぎらぎら放ったりしています。が、このモンスターがいつどのように生まれたかは、分かっていません。
 また、宇宙空間を満たす正体不明の物質ダークマターは、そこにそいつが存在することだけは確かなのですが、どういう種類の物質なのか、どうやれば観測できるのか、いまだ不明です。
 このダークマターが集まって超巨大ブラックホールを作ったのではないか、という理論研究が先日発表されました。なんだか訳の分からないもので訳の分からないものをやっつけたようなお話です。
 天の川って何でできてる?
 灯火のない暗い夜空にはぼんやり天の川が見えます。
 天の川の雲のような霞のような白い光は、無数の恒星から成りますが、肉眼では一個一個の恒星は見えません。恒星像を分解するには望遠鏡が必要です。
 このように無数の恒星が集まって見えるものを銀河と呼びます。
 天の川は銀河のひとつです。私たちの太陽系は天の川銀河のひとかけらです。
 では、
天の川銀河は何でできてる?」
と聞かれたら、なんと答えるべきでしょうか。
 上の説明を読んだ方なら、普通は「恒星」と答えるでしょう。
 ごめんなさい、これは引っかけ問題です。実は天の川銀河のほとんどは恒星ではありません。恒星の質量は、天の川銀河の質量の15%ほどに過ぎません。
 では残りの85%は何かというと、それが分かっていません。正体不明の物質です。いや、本当に「物質」なのかどうかさえ、確信をもって答えられる人はいません。
 天の川銀河に含まれる恒星の質量は、観測から見積もることができます。
 可視光望遠鏡や赤外線望遠鏡などの観測によると、天の川銀河はおよそ1000億個の恒星を含み、したがってその質量は太陽の約1000億倍です。(見積もりが真の値の2分の1だったり2倍だったりしても、大した違いではないので気にしないことにしましょう。)
 天の川銀河には、恒星の他に、ガスなどがあることも観測から分かります。また太陽系のように、惑星を従えている恒星もかなりの数に上ります。
 しかしこれらを加えても、天の川銀河における「見える物質の質量」は、大きくは変わりません。やっぱり太陽質量の約1000億倍です。
 一方、物体の質量は、その物体が及ぼす重力から見積もることもできます。
 天の川銀河の質量を、その重力から見積もると、太陽質量のおよそ1兆倍であることが分かります。
 これは見える質量と大きく食い違います。いくら大雑把な天文研究者でも見過ごせない違いです。
 天の川銀河には、見えない質量が、見える物質の何倍もあるのです。
 この事情は、よその銀河でも同じです。宇宙に散らばる無数の銀河もまた、見えない物質でほぼできています。
 また、銀河と銀河の間の空っぽに見える空間も、この見えない物質で満ちていることが分かりました。というか、歴史的にはそっちが先に分かりました。
 ダークマターでできてるよ
 この見えない物質は、なにしろ見えなくて暗いので、ダークマターと呼ばれます。
 ダークマターは電波でも可視光でも赤外線でもX線でも見えません。電磁波を吸収も放射もしないのです。
 ダークマターと名づけられた1930年代には、これほど見えないと誰も思わなかったのですが、その後発明されたあらゆる観測装置・検出機器は、どれもダークマターの正体を見破ることはできず、今に至ります。
 ダークマターの正体は何でしょうか。大量の木星型天体、ブラックホールニュートリノ、未知の素粒子・・・これまで、ありとあらゆるアイデアが提唱されてきました。が、そのほとんどは、観測データと合わず、どうもダメそうだと分かりました。
 現在、ダークマターの説明として有望だと考えられているのは、未知の素粒子という説です。人類がまだその貧弱な粒子加速器で確認することに成功していない素粒子が、宇宙に大量に浮いているという説です。アクシオンと呼ばれる粒子や超対称性粒子などがその候補です。
 まあこれは、知っている物質が全部ダメだったので、おそらく知らない物質だろうという、消去法のような説明です。この論法だと、観測によってダークマターにどんな新奇な性質が見つかっても、そういう性質を備えた未知の素粒子が存在するのだといえば、否定されることはまずないです。
 ともあれ、私たちが現在理解するところでは、宇宙に最も多い「物質」はダークマターと呼ばれる未知の素粒子です。
 銀河とか銀河団といった天体は、ほぼこのダークマターからできています。
 そこにおまけとしてちょっぴり付随している通常物質が、星々を形成し、光を放って見えているのです。
 超巨大ブラックホールとは
 さて話は変わって、宇宙に住んでるもうひとつの訳の分からない勢力、超巨大ブラックホールについてです。
 ブラックホールは重力が強すぎて光も脱出できない天体です。まるで真っ黒な穴ボコのようだというので、ブラックホールと呼ばれるようになりました。
 これに「とはいうものの、見た人はいません」と続けるのが科学解説の常套句だったのですが、2019年にはイベント・ホライズン・テレスコープによって、超巨大ブラックホール「M87*」が撮像されました(図)。
 超巨大ブラックホールM87*の光の輪。輪の内側はブラックホールの「事象の地平面」が「見えて」いる。 Image by The Event Horizon Telescope Collaboration, under CC BY 3.0.© JBpress 提供 超巨大ブラックホールM87*の光の輪。輪の内側はブラックホールの「事象の地平面」が「見えて」いる。 Image by The Event Horizon Telescope Collaboration, under CC BY 3.0.
 M87*はここから5500万光年離れた楕円銀河の中心にあります。
 空に散らばる無数の銀河は、その中心部に、こういう、太陽質量の数百万倍~数十億倍の超巨大な質量を持つブラックホールを住まわせていると考えられています。
 つまり宇宙には超巨大ブラックホールが無数にあるのです。
 こういう超巨大ブラックホールの存在は、1970年代から次第に明らかになってきました。超巨大ブラックホールの中には、周囲の物質をどんどん飲み込んでいるものがあるのですが、飲み込まれる物質がその際に強い電波や可視光やX線ガンマ線を放射するので、望遠鏡で見つけられるのです。
 そしてそれらの正体がどうもブラックホールで、しかも超巨大だと分かってくると、超巨大な疑問が人々の頭に浮かびました。
 そうした超巨大ブラックホールはいつどのように生まれたのでしょう。
 超巨大ブラックホールって何でできてる?
 超巨大ブラックホールの生成機構は、ダークマターの正体と並ぶ、宇宙物理学のもうひとつの未解決問題です。
 小さめの、といっても、質量が太陽の数倍~数十倍あるブラックホールなら、誕生の仕組みがほぼ分かっています。大質量の恒星が自分の重力で潰れて、中性子星またはブラックホールになる、というのが定説です。自分の重力で潰れる際、恒星の外層は逆に宇宙空間に弾き飛ばされ、これは超新星爆発となります。
 それでは超巨大なブラックホールはどうやって作ればいいのでしょうか。超大質量の恒星が超々新星爆発を起こして作るのでしょうか。
 ところが、太陽の数百万倍~数十億倍もある恒星は、作るのが難しいのです。
 恒星の原料は宇宙空間にただよう希薄なガスです。超大質量の恒星を作るには超大質量のガスが必要なのは当たり前ですが、しかしそれだけでは不十分なのです。太陽質量の数百万倍~数十億倍ものガスがあると、放っておくと、太陽程度の恒星が数百万個~数十億個できてしまいます。全部まとめて1個のばかでかい恒星にはまずならないのです。
 ではいきなり超巨大ブラックホールを作るのは無理として、ガスの成分を工夫するなどして、まず中ぐらいのブラックホールを作り、それから周囲の物質をどかどか放り込んで、超巨大に育てるという案はどうでしょう。あるいはブラックホール同士が互いに食い合って成長するのでしょうか。
 これらの案は、どれが正しいか、それとも正解はどれでもないのか、まだ分かっていません。
 超巨大ブラックホールはどこの銀河にも1匹いるようなので、どんな銀河でも確実に超巨大ブラックホールができあがるような、当たり前の平凡な道があるはずです。しかしまだそれを見つけた人はいません。
 研究者は、ブラックホールを作って実験することはできないので、計算機の中でブラックホールを作ったり餌を工夫して育てたりして、超巨大ブラックホールになるかどうか調べています。
 ヒョウタンから駒、ダークマターからブラックホール
 2020年12月31日、アルゼンチン・ラ・プラタ大学のカルロス・アルゲイレス博士、フランス・ソルボンヌ大学のマヌエル・ディアス博士、ICRANetのアンドレアス・クルト氏とラファエル・ユーニス氏のグループは、超巨大ブラックホールダークマターから形成されたという計算結果を発表しました*1。
 ダークマターの正体は分かりませんが、それが未知の素粒子だとすると、集まるとガスのように振る舞うはずです。天の川銀河の場合なら太陽の1兆倍もの質量を持つガスです。
 アルゲイレス博士らは、ダークマターのガスの性質を仮定し、密度や角運動量などを調整し、何が起きるか計算してみました。
 すると条件がそろえば、ダークマターのガスのかたまりは潰れて、その中心に超巨大ブラックホールが誕生したのです。(計算機の中での話です。)
 これが正しいなら、超巨大ブラックホールダークマターからできたことになります。驚きの出生の秘密、衝撃の真相、ルーク・スカイウォーカーもびっくりです。
 確かにこの説はいくつかの謎を解決します。例えば、これなら中型ブラックホールが成長するために物質をどかどか飲み込む必要がありません。物質をどかどか飲み込む中型ブラックホールが見つからないことが説明されます。
 しかしこの説を証明するには、さらなる議論が必要です。通常物質のガスに超大質量恒星が作れないのに、本当にダークマターにはそれができるのでしょうか。
 そして何より、まだダークマターの正体は解明されていません。今後ダークマター粒子を検出し、その正体を突き止めることが絶対に必要でしょう。(突き止めたら、ブラックホールを作るなんて到底無理な代物だと判明しちゃうかもしれません。)
 それにしてもこれはなんだか、ダークマターと超巨大ブラックホールというふたつの謎を掛けあわせて、一挙に謎を解決するような、そんな大胆な研究です。今後の議論に注目です。
 *1: https://ras.ac.uk/news-and-press/research-highlights/new-study-suggests-supermassive-black-holes-could-form-dark
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🌌27}─1・A─地球温暖化が進んでいるのは「海」 平均水温は半世紀で約0.15℃上昇。~No.119 

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 2021年3月20日 MicrosoftNews ラジオ関西地球温暖化が進んでいるのは「海」 平均水温は半世紀で約0.15℃上昇「注視すべき」
 地球温暖化は小康状態? いえいえ、実は現在も進んでいる……。お天気キャスターとして活躍する気象予報士防災士正木明さんは、自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組で、最近の海に起こっている変化をテーマに、地球温暖化への危機感を訴えた。
 気象予報士防災士正木明さん(写真:ラジオ関西)© ラジオ関西 気象予報士防災士正木明さん(写真:ラジオ関西
 正木さんは番組内で、次のように地球温暖化の現状を説く。
 「地球温暖化が進み、世界的に危機意識が高まるものの、ここ10年から20年くらいは温暖化が停滞しているように見える。しかし、温暖化の原因となる温室効果気体、二酸化炭素などは増え続けているので、温暖化が止まって逆に寒冷化が進むという要素は見当たらない。ではその温室効果をもたらす『熱』はどこに行っているのか……、答えは海なんです」
 地球は陸地と海だと、海の方が圧倒的に広い。当然、温暖化が進むと陸も海も温度も上がっていくが、ここ10~20年くらいは、地球上の熱というのは海に吸収されているという観測データがあるとのこと。
 その1つとして示したのは、気象庁が2020年2月に「地球温暖化が進行 2019年の海洋の『貯熱量』は過去最大に!」という見出しで発表したもの。具体的には、▽深さ700~2000メートルまでのより深い層でも貯熱量は増加、▽1990年代半ば以降に貯熱量の増加が加速、▽2019年時点の貯熱量は監視期間において過去最大、以上の3点。海洋貯熱量は1955年から2019年の間に約43×10の22乗ジュール(※ジュールはエネルギーや熱量の単位)増加し、平均水温は約0.15℃上昇した。
 さらに気象庁は今年2月、「2020年の日本沿岸の平均海面水温が過去最高を記録」とのデータも発表。2020年の日本沿岸の平均海面水位が平年に比べて87ミリ高くなり、これは統計を開始した1906年以降で最も高くなったということがわかった。海面水位の上昇の原因は、日本の南方を流れる黒潮(暖流)が蛇行しているからではないかといわれている。
 「地球全体の表面積を見ると陸地より海の方が圧倒的に広いので、(海の温暖化で)今後、日本だけではなく世界の気候に影響を与えるというのが気になるところ」と危機感を抱く、正木さん。「海の温度が上がっているという変化がある。これから台風などの被害も大きくなるのかもしれない。情報を無視することなく注視していくべきではないだろうか」とコメントする。
 また、「気象庁もしっかりと観測データをとっていただいているのはありがたい。地球の現状がしっかりわかるというデータなので、こういうのはちょっと難しい情報なのかもしれないが、無視しないでこの番組内でもお届けできたらと考えている」と、環境問題を取り扱う自身の番組でも積極的に情報を伝えていきたいと述べていた。
 ※ラジオ関西正木明の地球にいいこと』2021年3月8日放送回より」
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💫10}─1・D─ネアンデルタール人のムステリアン文化。〜No.76No.77 

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 日本人には、ネアンデルタール人のDNAが2%前後含まれている。
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 ムスティエ文化(-ぶんか、ムスチエ文化、ムステリアン文化、ムスティリアン文化とも)とは、ヨーロッパにおける中期旧石器時代に栄えた文化のこと。氷期の時代と一致しており、ル・ムスティエで遺蹟が発見されたことにちなむ。ムスティエ文化は7万5千年前から9万年前までに発生したが、これはヨーロッパの中期石器時代に該当しており、3万5千年頃に後期旧石器時代に受け継がれた。
 型式学上では剥片素材の削器と尖頭器が多数発見されており、ルヴァロワ型石核を用いた剥片剥離を特徴とする。
 主に北アフリカ、ヨーロッパ、近東でムスティエ文化の痕跡が見られるが、シベリア、アルタイ地方まで分布が見られる。
 概要
 ムスティエ文化の遺蹟が初めて発見された洞窟
 1908年、フランス西南部のル・ムスティエ (en) の岩陰でネアンデルタール人の人骨と化石が共伴して発見された。これにちなんでガブリエル・ド・モルティエ (en) によってムスティエ文化と名称が付けられた。その他にもネアンデルタール人の骨が各地で発見されたが、これがムスティエ文化の石器と共に発見されたためにネアンデルタール人はムスティエ文化だけを持った人々であったと見做されたが、これらのことはその後の発見と研究により誤りと判断されている。
 ただし、ムスティエ文化はヨーロッパの中期旧石器文化であり古典的ネアンデルタール人らが活動していた時期に一致しているが、一部では変種も見られ、これは現世人類タイプの人々が営んだと考えられており、西アジアでは原クロマニョン人の化石と共に発見された例も存在する。
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 ネアンデルタール人(学名:Homo neanderthalensis〈※後述〉、英: Neanderthal(s)、独: Neandertaler)は、約4万年前までユーラシアに住んでいた旧人類の絶滅種または亜種である。彼らは、大規模な気候変動、病気、またはこれらの要因の組み合わせによって絶滅した可能性が高い。彼らは完全にヨーロッパの初期の現生人類に取って代わられた。
 ネアンデルタール人がいつ現生人類から分裂したのかは明らかではないが、研究では31万5000年前から80万年以上前までの様々な間隔が示されている。また、ネアンデルタール人がその祖先であるホモ・ハイデルベルゲンシスから分岐した時期も明らかになっていない。最古のネアンデルタール人の可能性のある骨は43万年前のものであるが、その分類はまだ不明である。ネアンデルタール人は多数の化石から、特に13万年前以降のものが知られている。ネアンデルタール1のタイプ標本は、1856年に現在のドイツのネアンデル谷で発見された。ネアンデルタール人は原始的で、愚かで、残忍な存在であると20世紀初頭の大部分を研究者たちは論じてきた。ネアンデルタール人に関する知識や認識は、それ以降、科学者の間では大きく変化しているが、進化していない原始人の原型のイメージは、大衆文化の中で根強いものとなっている。
 ネアンデルタール人の技術は非常に洗練されていたと考えられている。その中には、ムスティエ文化の石器産業や、火を起こしたり、洞窟の炉床を作ったり、樺樹皮のタールの接着剤を作ったり、毛布やポンチョに似た簡単な衣服を作ったり、機織りをしたり、地中海を航海したり、薬草を利用したり、重傷の治療をしたり、食べ物を保存したり、ロースト、煮沸、燻製などの様々な調理技術を利用したりする能力が含まれている。ネアンデルタール人は、主に有蹄哺乳類を中心に、その他の巨大動物(megafauna)、植物、小型哺乳類、鳥類、水生・海洋資源など、多種多様な食料を利用していた。彼らは頂点捕食者であった可能性が高いが、それでもホラアナグマやホラアナライオン、ホラアナハイエナなどの大型捕食者と競合していた。鳥の骨や貝殻から作られた可能性のある装飾品、結晶や化石を含む珍しいオブジェクトのコレクション、彫刻、ディヴィジェベイブのフルートによって示された楽曲の作曲、65,000年以前に遡るスペインの洞窟画などの表象的思考や旧石器時代の工芸の多くの例は、決定的ではないがネアンデルタール人に起因すると結論づけられている。宗教的な信念についてもいくつかの主張が行われている。ネアンデルタール人の言語の複雑さは不明であるが、おそらく明瞭に話すことができる可能性があった。
 現生人類に比べて、ネアンデルタール人はより頑丈な体格で、手足は比例して短くなっていた。研究者たちは、これらの特徴を寒冷地で熱を保つための適応だと説明することが多いが、ネアンデルタール人がしばしば生息していたより暖かく森林に覆われた風景の中での全力疾走のための適応だったのかもしれない。それにもかかわらず、彼らは特別な体脂肪の貯蔵や、暖かい空気に対する鼻の肥大化など、寒冷地特有の適応を持っていた(鼻は遺伝的浮動によって引き起こされた可能性もある)。ネアンデルタール人の平均的な男性の身長は165cm、女性の身長は153cmで、産業革命以前の現生人類に似ている。ネアンデルタール人の男性と女性の脳嚢の平均は、それぞれ約1,600 cm3 (98 cu in)と1,300 cm3 (79 cu in)で、これは現生人類の値の範囲内である。
 ネアンデルタール人の総人口は少ないままで、弱毒な遺伝子を増殖させ、効果的な長距離ネットワークを形成することができなかった。それにもかかわらず、地域文化の証拠があり、それによって共同体間の定期的なコミュニケーションが行われていた。ネアンデルタール人は洞窟を頻繁に訪れ、季節ごとに洞窟の間を移動していたのかもしれない。ネアンデルタール人は外傷率の高いストレスの多い環境で生活しており、約80%が40歳前に死亡している。2010年のネアンデルタール人ゲノムプロジェクトの報告書草案では、ネアンデルタール人と現生人類との交配の証拠が提示された。おそらく316~219千年前に発生したと思われるが、10万年前に発生した可能性が高く、6万5千年前以降に再び発生した可能性が高い。また、ネアンデルタール人は、シベリアの別の古人グループであるデニソワ人とも交配していたようである。ユーラシア人、オーストラロイド人、ネイティブアメリカン北アフリカ人のゲノムの約1〜4%はネアンデルタール人の遺伝子であり、サハラ以南のアフリカの住民はネアンデルタール人の遺伝子を持っていないか、あるいはおそらく約0.3%のネアンデルタール人の遺伝子を持っている。全体では、はっきりとネアンデルタール人の遺伝子の約20%が今日でも生き残っている。ネアンデルタール人から受け継いだ遺伝子の多くは有害なものであり、淘汰されたのかもしれないが、ネアンデルタール人の遺伝子移入は現代のヒトの免疫系に影響を与え、他のいくつかの生物学的機能や構造にも関与しているように見える[74]が、その大部分は非コードDNAとみられている。

 近縁種との関係
 現生人類との関係
 かつて、ネアンデルタール人を現生人類(英: Modern Humans)の祖先とする説があった。しかし、遺骨(化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果に基づき、現在ではネアンデルタール人は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であるとする見方が有力である。両者の遺伝子差異は他の動物種ならば別種と認定されるレベルであり、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスは混血できなかったとする考え方が有力であった。しかし、2010年5月7日の『サイエンス』に、われわれ現生人類のゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント混入しているとの説が発表された。

 他の化石人類との関係
 シベリアのアルタイ地方で発見されたデニソワ人はネアンデルタール人の兄弟種である可能性が高い。ただし、統計的分析ではゲノムの変化が大きすぎるため、未だゲノムが解析できていない初期人類とネアンデルタール人の混血によって生まれたのではないかということで、独立の種としてみなせないのではという議論もある。なお、同時代に生存していたインドネシアフローレス島で発見されたフローレス人はホモ・エレクトスである可能性が高い。

 研究史
 発見
 最初に発見されたネアンデルタール人類の化石は、1829年にベルギーのアンジスで発見された子供の頭骨である。1848年にはスペイン南端のジブラルタルからも女性頭骨が見つかっている。しかしこれらの古人骨が発見された当時は、その正体はわからないままであった。

 単一起源説の登場と分子生物学における研究
 ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの祖先と見る立場の場合、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの進化は世界各地で行われたと考える(多地域進化説)。これに対し、ウィリアム・ハウエルズ (William White Howells) は1967年の著書Mankind in the makingにおいて、単一起源説を主張し、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの祖先ではないとした:228。

 1997年にはマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボらがフェルトホッファー洞窟で見つかった最初のネアンデルタール人の古人骨からDNAを抽出し、ホモ・サピエンスとの関係を検討した研究を発表。ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの祖先とする立場は否定された。

 文化
 ネアンデルタール人の石器
 彼らの文化はムステリアン文化と呼ばれ、旧石器時代に属している。 ネアンデルタール人の生息年代や生息地域が広大であることから、本項で説明する内容は必ずしも全ての時代・地域で共通してみられる文化であることを意味しない。
 人口
 これまで数千もの標本が発見されてはいるが欧州大陸での総人口は多くても6千人ほどで、 地球全体でも人口が2万人を超えることはほとんどなかったと思われる。
 石器
 ネアンデルタール人は、主にルヴァロワ式と呼ばれる剥片をとる技術を利用して石器を制作していた。フランソワ・ボルドは石器を60種類ぐらいに分類しているが、実際の用途は非常に限られていて、狩猟用と動物解体用に分類できる。左右対称になるよう加工されたハンドアックス(握斧)や、木の棒の先にアスファルトで接着させ穂先とし、狩りに使用したと考えられている石器などが発見されている。

 絶滅
 ネアンデルタール人の生存は約2万数千年前を最後に確認できないが、絶滅の原因は分かっていない。クロマニョン人との暴力的衝突によって絶滅したとする説、獲物が競合したことによって段階的に絶滅へ追いやられたとする説、身体的・生理的な能力で差をつけられ、衰退していったという説、混血を重ねたことで急速に吸収されてしまったとする説など、様々な学説が唱えられている。
 旧来、約3万年前に姿を消したと考えられていたネアンデルタール人であるが、2005年、イベリア半島南端のジブラルタル沿岸のサファイラ洞窟内部から、ネアンデルタール人が使っていた特徴のある石器類や、火を利用していた痕跡が見つかった。この遺跡は、放射性炭素による年代分析で約2万8000~約2万4000年前のものと推定された。このことから、他の地域から姿を消した後も、少なくともイベリア半島においては、ネアンデルタール人は生き残っていたと考えられている。これにより、「ネアンデルタール人は約3万年前に絶滅した」という旧説はわずかに修正されることになった。さらに、2014年8月20日、『ネイチャー』に「ネアンデルタール人の絶滅は約4万年前であった」とする学説が掲載された。しかも約4万5千年前から現在のヨーロッパで現生人類と文化・技術的にも共存・交流しており、混血もしていたという。この説は旧来の諸説より古い時期に絶滅したとしているが、精度が高い分析を行ったと著者は強調している。
 テキサス大学アーリントン校の人類学者ナオミ・クレッグホーンは、コーカサス山脈や現在のイタリアにあたる地域で約4万年前に起きた複数の噴火が、絶滅の要因となったと説明している。環境的要因は以前より指摘されていたが、クレッグホーンによれば、複数の火山の噴火が続いたうえに、ヨーロッパでは過去20万年間で最悪とされるフレグレイ平野(現在のナポリの近く)での大噴火 (cf. Campanian volcanic arc) が起きたことから、その多くがヨーロッパ大陸にいたネアンデルタール人は食糧不足に見舞われるなど、壊滅的打撃を被ったという。一方、現生人類の多くは主にアフリカやアジアに住んでいたため、絶滅するほどの影響は免れたのだという。
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