💫10}─1・E─人類進化の謎。ウォレス線をカヌーで越えたフローレス原人は5万年前に消えた。〜No.76No.77 

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 2021年4月14日 MicrosoftNews iStock.com 文春オンライン「人類進化の奇妙な謎…“ホモ・サピエンス”より先に島を渡った“フローレス原人”はなぜ絶滅してしまったのか
岡部 聡
 巨大な口から長く鋭い犬歯が剥き出しに… NHKダーウィンが来た!」のディレクターが語る“最恐”の一瞬 から続く
 インドネシアフローレス島で見つけられた、身長1メートルほどの謎に包まれた人類「フローレス原人」。その存在は人類学者たちを中心に、多くの人々の間で話題を呼んだ。なんとフローレス原人は、原生人類ホモ・サピエンスが初めて到達したと考えられていたフローレス島に、はるか昔にたどり着いていたのである。それでは、なぜ彼らは絶滅し、ホモ・サピエンスが現在に至るまで進化を続けてこれたのだろうか。
 ここでは、世界中でさまざまな生物を追い、人気番組「ダーウィンが来た!」「NHKスペシャル」などを手がけてきた名物ディレクターの岡部聡氏の著書『 誰かに話したくなる摩訶不思議な生きものたち 』(文藝春秋)を引用。フローレス原人が見つかったフローレス島を取材したエピソードをもとに、人類進化の謎について考察する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
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 生物学者、ウォレスが気づいた「線」
 彼らの祖先はどのようにして、フローレス島に渡ったのだろうか。インドネシアの大きな島の並び方を地図で見ると、西側からマレー半島の横にあるスマトラ島、ジャワ島、バリ島、ロンボク島、スンバ島、フローレス島が一列に並んでいる。それぞれの島の間隔もそんなに離れていないので、島伝いにフローレス島まで来るのはそう難しくないように見える。しかし、バリ島とロンボク島の間には、生きものが容易に越えられない見えない「線」があるのだ。
 数万年前の氷河期には海水面が120メートルほど下がったため、スマトラ島、ジャワ島、バリ島、ボルネオ島などのインドネシアの島々は大陸と陸続きになり、「スンダランド」と呼ばれる一つの陸塊となったものの、ロンボク島よりも東側は、繫がらなかった。それは、バリ島とロンボク島の間にある海峡が、深さ250メートルもあるからだ。近そうに見えるが距離は20キロ以上あり、泳いで渡ることも難しい。
 19世紀、ダーウィンとほぼ同時期に、生きものが進化することに気がついていた生物学者、アルフレッド・ウォレスがインドネシアを訪れ、島々を巡って棲んでいる生きものを入念に調査した。その結果、この海峡を境に生物相が大きく変わることに気がついた。バリ島まではアジアの生きものがいるのに、ロンボク島よりも東にはほとんど見られなかったのだ。
 彼がこの現象に気がついたのにちなんで、この見えない線は「ウォレス線」と呼ばれている。ウォレス線を越えることができた哺乳類は、コウモリを除くと泳ぎが得意なゾウやネズミなどごくわずか。ほとんどは海峡を越えることができず、スンダランドに留まった。アジア最強の捕食者であるトラが、バリ島まではやってきたが、それより東には進出できなかったことからも、この線を越える難しさがわかる。
 どうやってウォレス線を越えたのか?
 フローレス原人が発見されるまでは、ウォレス線を初めて越えた人類はホモ・サピエンスだと考えられていた。5万年前に島伝いにオーストラリアにたどり着いていたことが、発掘などの調査からわかっているのだ。ホモ・サピエンスは船を作り、島から島へと渡る航海術を発達させることにより、地理的隔離を乗り越える能力を初めて備えた人類だった。
 フローレス原人が80万年前から5万年前まで75万年もの間生きていたということは、近親交配を繰り返したわけではないだろう。ある程度の遺伝的な多様性がある集団だったと考えるのが普通で、まとまった数が一緒に渡ったことになる。筏や舟を作る技術を持たなかったフローレス原人の祖先が、ウォレス線をどうやって集団で越えたのかは今も謎のままだ。
 自然現象で偶然辿り着いた可能性
 もっとも、フローレス原人が自分たちの意思で渡ったと考えるから謎になるのであって、自然現象によって偶然たどり着いたのなら、大いに可能性はある。世界には、自然現象で海を越えたと考えられているサルの集団があるからだ。アフリカからマダガスカルに渡ったキツネザルと南米に渡った新世界ザルだ。
 アフリカからマダガスカルの距離は400キロ、南米までは1000キロ以上と桁外れに遠い。これは数千万年前のことで、当時は体の大きさがネズミ程度しかない、サルの原始的な祖先だった。住処としていた大きな木などと共に流し出され、数ヶ月の漂流生活に耐えてたどり着いたと考えられている。
 それに比べてバリ島から隣のロンボク島は、20キロとずいぶん近い。しかし、原人は原始的なサルほど小さくはないので、住処ごと流し出されることはなかっただろう。
 では、どうやって海に流されたのか? 僕は、津波だったのではないかと想像するのだ。
 インドネシアは、ユーラシアプレートの下にオーストラリアプレートが沈み込む境界線上にあり、スマトラ島からフローレス島は、ユーラシアプレートの縁に乗っている。そのため巨大地震津波が多く、21世紀に入ってからだけでも、2004年のスマトラ島沖地震、2006年のジャワ島南西沖地震、2019年のスラウェシ沖地震などが起きている。
 中でも、2004年のスマトラ島沖地震は、マグニチュード9・1~9・3の超巨大地震で、発生した津波などにより20万人以上が犠牲になる、甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。
 80万年前にも、ジャワ島で大規模な津波が起き、ジャワ原人の集団が偶然、大木などにつかまって生き残り、海を漂流してウォレス線を越えたのではないだろうか。これは、何の根拠もない僕の個人的な想像だが、これ以外に、ジャワ原人フローレス島にたどり着くストーリーは思い浮かばない。
 5万年前に忽然と姿を消す
 いずれにしても、およそ80万年前に島にたどり着いたフローレス原人は、75万年もの間、生き延びていた。これは、非常に安定した集団だったことを示している。何しろ、28万年前に誕生したと考えられるホモ・サピエンスの3倍もの年月を生きていたのだから。
 フローレス原人は、他の人類がなし得なかったウォレス線越えをはたし、フローレス島を隠れ里として、非常に安定した状態で、他の原人が絶滅した後も生きていた。しかし、そんな彼らが5万年前を境に、忽然と姿を消してしまった。ちょうどそれは、ホモ・サピエンスフローレス島に渡ってきた時期と重なっているのだ。
 アフリカで誕生したホモ・サピエンスが最初にアフリカを出たのは20万年前~10万年前、次が6万年前と考えられている。どちらの時期も、ユーラシア大陸にはすでに先住人類がいた。およそ180万年前にアフリカを出た原人、ホモ・エレクトスは、北京原人としてアジア大陸の端まで達していたし、ユーラシア各地には、40万年前からネアンデルタール人が住んでいた。しかし、原人も旧人ホモ・サピエンスの進出から程なく、地球上から姿を消しているのだ。
 ネアンデルタール人ホモ・サピエンスには能力差がない
 かつては、能力に優れるホモ・サピエンスが、原人やネアンデルタール人を駆逐してきたと考えられていた。しかし近年の研究では、少なくともネアンデルタール人ホモ・サピエンスの間には、能力差はほとんどないことがわかってきた。
 ネアンデルタール人は、狩猟用の石の槍や握り部のある石のナイフを使い、大型のシカやイノシシなどの哺乳類や、カメやトカゲなどの小動物を捕って食べていた。貝や鳥の羽根などを装身具として用い、花などを添えて死者を悼む埋葬を行っていた。
 2018年には、スペイン北部の洞窟から、6万5000年前のネアンデルタール人が描いたと見られる壁画が見つかり、両者の間には共通点が多かったことが、改めて証明されている。
 しかも、現代人のDNAの中には、ネアンデルタール人由来の遺伝情報が1~4%ほど、混合していることもわかった。これにより、ホモ・サピエンスは、住処や獲物を巡ってネアンデルタール人と競合しながら、1万年以上にわたって交配したと考えられているのだ。
 当時のホモ・サピエンスの人口は、骨や生活跡の分析から、ほかの人類より一桁多かったことがわかっている。原人や旧人の集団は、ホモ・サピエンスが増えていく過程で生息場所を狭めていったために近親交配が進み、遺伝病などの有害変異が蓄積され、絶滅したと考えられるようになっているのだ。
 なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったのかについては不明な点が多いが、どうやら、単純に他の人類よりも優れていたから、というだけではなさそうだ。
 新型コロナウイルスでわかった耐性の違い
 2020年になって、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの関係を考える上で、非常に興味深い可能性が示された。新型コロナウイルスに対する耐性が、人種によって違うことがわかったのだ。
 新型コロナウイルスについては、年齢や持病の有無などによって、重篤になる人とならない人がいることが、発生の初期からわかっていた。そして、世界的に流行が広がるにつれて、欧米人に比べ東アジア人のほうが、比較的軽い症状で済むケースが多く、世界的な重篤患者の分布に偏りがあることが明らかになった。
 その原因については様々な憶測が流れたが、2020年10月に「ネイチャー」に発表された論文で、ヨーロッパの人々が重症化しやすいのは、ネアンデルタール人の遺伝子を多く持っているからだ、との研究結果が発表されたのだ。新型コロナウイルスで入院した重症者と、入院しなかった感染者3000人以上の遺伝子を調べた結果、感染者の重症化に影響を与えるのは、3番染色体にある特定の領域であることが判明したという。その後の分析で、その遺伝子領域は、5万年前のネアンデルタール人から発見されたものとほぼ同じで、6万年前にホモ・サピエンスネアンデルタール人との交配によって、現代人に受け継がれたことも明らかになったという。
 ヒトには22組の通常染色体と1組の性染色体があり、それぞれに番号が振られている。その3番目の染色体にある特定の遺伝子領域を持つ人が、新型コロナウイルスに感染すると、重症化するリスクが持たない人の最大3倍になるというのだ。
 ウイルスに対する耐性が、特定の遺伝子を持つか持たないかによってこんなにも差が出るのにも驚いたが、それがネアンデルタール人由来のものであることは、人類の進化に興味を持っている人なら、さらなる驚きをもって受け取ったに違いない。
 ホモ・サピエンスの進出とともに絶滅したほかの人類
 昔から、ホモ・サピエンス以外の人類が絶滅したのは、病気に対する耐性が関係しているのではないか、と論じられてきた。しかし、残された骨などからはわからないために、推測の域を出なかった。しかし、僕たちに受け継がれていたネアンデルタール人の遺伝子が、その可能性を教えてくれたのだ。
 これにより、ホモ・サピエンス以外の人類が、病気によって絶滅したことが確定したわけではなく、一つの可能性が示されただけだ。しかし、ホモ・サピエンスが進出した時期に合わせて、多くの地域でほかの人類が絶滅したことを説明するのに、矛盾はない。
 ホモ・サピエンスの移動力の高さ
 ホモ・サピエンスが人類唯一の生き残りとなった理由の一つに、その移動力の高さが挙げられる。ホモ・サピエンスは、地上を移動するのはもちろんのこと、海を越える知恵まで持ったことで世界中に広まり、他の種と混ざり合い、病原菌やウイルスをまき散らし、時には競争に勝ち、人類で唯一の生き残りとなったと考えられるのだ。
 ホモ・サピエンス同士でも、他の人種と接触することによる事件は、歴史上、何度も起きている。有名なのは、コロンブスの新大陸「発見」とスペインによる征服の過程で、ヨーロッパから病原菌が持ち込まれたことによって、南北アメリカ大陸の先住民が壊滅的な打撃を受けたことだろう。
 15世紀末に新大陸にはなかったインフルエンザや天然痘、梅毒などの病気が持ち込まれたために、耐性のなかった先住民族は次々と死に、マヤ、インカ、アステカなどの文明は滅亡した。
 ホモ・サピエンスが生き残ったワケ
 現代の世界でも、アマゾンなどに住む、文明社会と接触したことのない非接触民族「イゾラド」は、一般的な病気に耐性がないため、風邪ウイルスでも死んでしまう可能性がある。もし、イゾラドの棲む地域に今回の新型コロナウイルスが入り込めば、多くの人が亡くなってしまうだろう。
 絶滅の形は多種多様だが、意図せずにホモ・サピエンスが持ち込んだ病気によって、ほかの人類が絶滅してしまった可能性は大いにありうることだ。そして、その逆もあり得た。つまり、ホモ・サピエンスが、耐性を持たない病原菌を他の人類によって伝染され、絶滅していた可能性もあるのだ。
 なぜ僕たちだけが生き残ったのか。それは能力が高かったからではなく、ただ単に、運が良かっただけなのかもしれないのだ。
 【前編を読む】 巨大な口から長く鋭い犬歯が剥き出しに…世界中の動物を追うNHKディレクターが語る“最恐”の一瞬
 (岡部 聡/ノンフィクション出版)」
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 世界史の窓
 ウォーレス線
 イギリス人ウォーレスが発見したアジアとオセアニアの動植物相の境界線。
 動植物相の違いの発見
 東南アジアの島嶼部のスンダ列島(インドネシアの島々)と、オセアニアオーストラリア大陸ニューギニア(太平洋の島々と区別して、ニア=オセアニアと言われている)の間に認められる動植物相の違い。19世紀中頃、イギリスの博物学者ウォーレスが発見した。ウォーレス線はバリ島とロンボク島の間を通り、スラウェシ島の西からミンダナオ島の南に接して、太平洋に抜けている。現在では、さらに細分化した動植物相の違いが提唱されている。
 ウォーレス Wallace 1823-1913 は東南アジアで単身、動植物の調査に没頭し、ダーウィンと同じ時期に、生物の進化と自然選択の概念にたどりついた。ウォーレスによれば、オーストラリアに生息するほ乳類はほとんどカンガルーやコアラなど有袋類(母親が袋の中で子どもを育てる)とカモノハシなど単孔類(卵を産むほ乳類)であり、ユーラシアやアフリカ大陸、南北アメリカ大陸の哺乳類はほとんどが母親が胎盤の中で育てる有胎盤類である。有袋類はより原始的な哺乳類と考えられ、かつて大陸がつながっていた頃は全世界に分布していた。約5000万年前にオーストラリア大陸が分離した後、アフリカ、ユーラシア、南北アメリカには有胎盤類が台頭して有袋類は絶滅、切り離されたオーストラリア側には有胎盤類の哺乳類が侵入できなかったので、有袋類が多様化して栄えたと考えられている。
 オーストラリア大陸にいた有胎盤類は空を飛ぶコウモリと、流木に乗って渡ってきたと思われるネズミだけだった。ところが約5万年前、東南アジア側から海を越えて人類が渡来した。その時期やどのように渡ってきたのかはまだよくわからないが、現在ではカヌーを操って渡来したと考えられている。彼らがやってきた頃のオーストラリア大陸には現在よりも多様な有袋類がいた。体長3mを越えるディプロドロン、体高が2mになるジャイアントカンガルー、体長1.6mの大型ウォンバット、体重100kの飛べない鳥など・・・。これらの大型動物は氷期が終わる頃絶滅してしまったが、それには渡来した人類の狩猟も一因であると考えられている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス 第7章> → 人類の拡散
 アジア本土からスンダ列島、ボルネオ島まで延びていた大陸をスンダランド、オーストラリアとニューギニアが一体だった頃の大陸をサフルランドと呼び、その間に広がっていた海を、ウォーレスの名前から、ウォーラシアと呼んでいる。
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 ウォレス線(読み)ウォレスせん(英語表記)Wallace's Line
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 動物地理学上の重要な分布境界線の一つ。東南アジア小スンダ列島のバリ,ロンボク島間のロンボク海峡から,ボルネオ,スラウェシ (セレベス) 島間のマカッサル海峡を通り,ミンダナオ島の東側にいたる。イギリスの博物学者 A.ウォレスが昆虫類,貝類,爬虫類,鳥類,幾種類かの哺乳類の分布を調べて,この線の西側は動物地理学上の北界の東洋区 (または旧熱帯区) に,東側は南界のオーストラリア区に属するとし,のちにウォレス線と命名された。高等哺乳類の分布限界。ウォレス線とウェーバー線にはさまれたスラウェシ,ティモール,フロレス,スンダの諸島を含む地域は,両区の推移地域の性格が強く動物相は貧弱で,ウォレシア Wallaceaと呼ばれる。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 ホモ・フローレシエンシス(フローレス人 Homo floresiensis)は、インドネシアフローレス島で発見された、小型のヒト属と広く考えられている絶滅種。 身長は1mあまりで、それに比例して脳も小さいが、火や精巧な石器を使っていたと考えられる。そのサイズからホビットトールキンの作品中の小人)という愛称が付けられている。新種説に対しては、反論もある。このヒト属は、当初は12,000年前まで生存していたと考えられていたが、より幅広い研究の結果、最も近年の生存証明は、50,000年前まで押し上げられた。2016年現在では、フローレス人の骨は10万~6万年前のもの、石器は19万~5万年前前後のものであるとみなされている。
 分析
 孤立した島では、しばしばウサギより大型の動物の矮小化が起こる。同島にはステゴドン等数種類の矮小化した動物が存在した(これを島嶼化という。ただし、必ずしも小さくなるわけではなく、小型種は巨大の傾向を示す。フローレス島に生息するネズミは一般的なドブネズミの約2倍の大きさである)。
 脳と体躯をつかさどる遺伝子は全く異なっており、体躯が小型化しても、脳は同一比率で小さくなるわけではないといわれている。その点からも、フローレシエンシスが新種の原人であるという点について反論がなされている。フローレシエンシスの脳容量は380ccといわれており、体重に対する脳重量の比はホモ・エレクトスと大型類人猿の間に位置する。この点について、マダガスカルの古代カバの研究により、島嶼化でより脳が小型化する可能性も指摘されている。
 ホモ・フローレシエンシスは直接の祖先ホモ・エレクトス(84万年前ごろ生息)が矮小化したものと考えられているが、より原始的な祖先に起源を持つ可能性も示されており、ホモ・ハビリスから進化したという説もある。脳容量は380立方センチで、平均的なエレクトスの半分程度、大型のチンパンジーよりも小さい。高次の認知に関する部分の大きさは、現代人と変わらず、火を使った形跡や化石から考えて、かなりの知能があったと考えられている。足は第一指が他の指と平行であり、つま先が伸縮可能な点が人類と共通であるが、第一指の小ささや長くカーブしている外側の指で体重を支える点はチンパンジーに近い。土踏まずは存在せず、現代人と比べ二足歩行は苦手だったと見られている。
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 東京大学総合研究博物館
 研究紹介
 海を越えた2つの人類
 海部陽介(本館教授/人類進化学・形態人類学)
 「はじめて海を渡り、島に暮らすようになった人類は、ホモ・サピエンス」というのが、20世紀の人類学の常識でした。5万年前頃から、オーストラリアやニューギニアホモ・サピエンスが出現することが、人類最初の渡海の証拠と思われていたのです。つまり、それ以前の原人や旧人は、大陸の外に出られなかったと考えられていたのですが、それを覆したのが、2003年のフローレス原人(Homo floresiensis)の発見でした。  本題の前に自己紹介いたしますと、私は本年6月に、当館研究部に着任しました。これまで国立科学博物館で25年間、人類進化の研究を続けてきましたが、そのさらに前は本学の学生として東京大学総合研究博物館に出入りしていましたので、四半世紀ぶりに古巣に戻ってきたことになります。  その学生時代から、アジアをフィールドとした研究をすることを夢見てきたのですが、今、そのアジア人類史が国際的に注目を集めています(当館の西秋良宏館長が推進中の大型研究プロジェクト「パレオアジア文化史学」も、それを捉えた動きの1つと言えるでしょう)。本稿ではフローレス原人を中心に、続々と発見されているアジアの化石人類について紹介しつつ、人類と海について考えてみたいと思います。
 フローレス原人
 フローレス島は、インドネシア群島の東部にあって、体長3メートルになるコモドドラゴンや、75センチメートルの巨大ネズミなどが暮らす島です。フローレス原人の化石は、オーストラリアとインドネシアの合同調査隊により、この島のリャン・ブア洞窟から発見されましたが、いくつもの点で衝撃的でした。  まず、発見の場所が予想外です。フローレス島はアジア大陸と接続したことがなく、いつの時代も海の向うの島でした(図1)。ちなみに、同じインドネシアのジャワ島は、過去に大陸とつながったり離れたりを繰り返しましたので、そこにいたジャワ原人の祖先は、陸を歩いてジャワ島へ到達することができました。  さらに、その形態があまりに独特です。見つかった個体は永久歯が全て生えそろっていて、明らかに大人なのですが、身体は1.1メートル程度と、極端に小型。そして脳もグレープフルーツ大と、チンパンジー並みの大きさなのです(表紙・図2)。100万~10万年前の化石が知られるジャワ原人は、身体サイズは現代人並みで、脳もチンパンジーの2倍(現代人の2/3くらい)ありましたので、同じインドネシア群島の原人でも、両者はずいぶん違っていたことになります。  そして、年代も予想外。石器の証拠も含め、フローレス原人は5万年前までこの島にいた証拠があるのですが、これはホモ・サピエンスが当地域に出現するのと同時期です。「最近まで不思議な人類が島にいて、ホモ・サピエンスの登場とともにいなくなった」、ということになります。  フローレス原人の起源をめぐっては、今でも論争が続いています。原人級の原始性があることはどの専門家も認めているのですが、もっと古い特徴があるかどうかについて、折り合いがついていません。私個人は、頭骨や歯の詳細な分析から、「身長1.65メートルほどのジャワ原人のなかまが矮小化した」と結論づけていますが(図3)、「ジャワ原人よりも古いタイプの人類が祖先だ」という説を推す研究者もいます。私は自説に自信がありますが、この論争は、フローレス島に最初にやってきた人類の化石が見つかるまで、続くかもしれません。  フローレス原人は、どのように進化したのでしょう? その後の調査で、ソア盆地という島の別の場所から約100万年前の石器が発見され、その頃に彼らの祖先が渡ってきた可能性が高まりました。2014年には、ソア盆地の70万年前頃の地層から待望の人類化石が発見され、フローレス原人の初期の姿を垣間見るチャンスが訪れました。それは、下あごの骨の破片と歯が数点というわずかなものでしたが、ゼロに比べれば大きな進展です(表紙・図4)。  私は、これらを発掘したインドネシアとオーストラリアの調査隊から原人化石の専門家として呼ばれ、解析を行いましたが、その結果「新たな化石はフローレス原人の祖先であるらしく、70万年前の時点で既に矮小化していた」ことが示して、Nature誌に発表しました。ホモ・サピエンスが現れる前の何十万年という長い間、インドネシアのジャワ島にはふつうの大きさの原人が、そしてそこから500キロメートルほど離れたフローレス島には矮小化した原人が、おそらく互いを知らずに暮らしていたらしいのです。
 アジアにあった驚くべき多様性
 フローレス島での発見は、この後アジアではじまった、新しい化石人類の発見ラッシュの口火を切るものとなりました。「かつてアジアにいた古代型人類」と言えば、北京原人ジャワ原人と記憶されている方が多いでしょう。ところがフローレス原人の発見以来、台湾にいた原人(澎湖人)、南シベリアから報告されたネアンデルタール人と“デニソワ人”、そしてフィリピンで見つかったルソン原人などが、次々と報告されました。以前から知られていた中国やインドの旧人も加えて、ホモ・サピエンスが現れる前のアジアには、実に多様な古代型人類が暮らしていたことがわかってきたのです。
 彼らはどこから来た誰だったのか、なぜ多様な進化を遂げたのか、どうして今はいないのか・・・? 新しい疑問がどんどん湧いてきますが、本稿では、渡海に絞って話を進めていきたいと思います。
 人類が海を渡るということ
 原人もホモ・サピエンスも、ともに海を越えているのですから、両者はさほど違わないのでしょうか? 考える手がかりが、いくつかあります。
 フローレス原人に加え、ルソン島のルソン原人(Homo luzonensis)の祖先も、まだ確定ではありませんが、海を越えた可能性があります。一方で台湾の澎湖人は、氷期の海面低下時の化石群集から発見されているので、台湾がアジア大陸の一部となっていた当時の、大陸の動物相と考えられます。
 アジア大陸の辺縁地域で発見されたこの3つの古代型人類には、とても興味深いコントラストがあります。孤島で暮らしていたフローレス原人とルソン原人は、どちらも極端に小さいのですが、大陸の構成員だった台湾の原人は、見つかっている下あごが大きいことから、やはり大陸のメンバーだった北京原人ジャワ原人と同等の体格をしていたようです。つまり原人のなかまでも、島で孤立した集団だけに、劇的な矮小化が起こっているのです。
 ホモ・サピエンスは、島に渡っても、それほどの小型化を示しません。ネグリトと呼ばれるフィリピン群島の背の低い人々も、平均身長は150センチメートル以上あります。そもそも、島に暮らしている現代人が皆小型化しているわけではありませんので、原人とホモ・サピエンスとでは対照的です。「両者が経験した時間が違う」というのは正しい指摘ですが、現代社会では身体サイズを下げるメリットがありませんので、数十万年後であっても、日本列島を含む島のホモ・サピエンス集団がどんどん小型化していくことはないはずです。
 さらにどちらも海を越えたことは確かですが、両者の渡海はスケールが全く違います。ちなみにゾウは泳ぐのが得意で、東南アジアの島々でもオーストラリアに近いティモール島まで進出していました(今は絶滅していますが化石が見つかっています)。小型のネズミ類は漂流しやすいためか、オーストラリアまで到達しました。一方で原人の分布域は、フィリピン群島からインドネシア群島にかけて、ゾウの分布範囲よりもやや小さな範囲にとどまっています。そこで1つのシナリオとして、「原人たちは大陸から近い島に漂着したが、そこに閉じ込められてそれぞれ独特な進化を遂げた」という仮説が導かれます。
 この仮説は証明には至っていませんが、何はともあれ明らかなことは、ホモ・サピエンスの海洋進出は対照的で、巨大な海流を越え、遠くの見えない島々におよび、やがて太平洋の中心部を含む地球上の全ての海を制覇したという事実です(図5)。つまりこれは、単純な海を渡ったか渡らなかったかの話に帰すべきではなく、どのような海をどう渡ったのかという次元で考えるべき問題だと思うのです。
 過去の人類に対する私たちの認識は、いくつかの点で修正されなければなりません。まず、原人が海を越えたことはもはや事実ですから、それを説明して原人のことを捉え直さなければなりません。一方で「原人には越えられなかったけれど、ホモ・サピエンスは突破した壁」というものが明らかに存在し、それを数万年前(後期旧石器時代)から成し遂げた祖先たちがいる、ということも確かです。そしてそこには、偶然を越えた「未知への好奇心」や「挑戦心」という人間の心理が、垣間見えるような気がするのです。
 私は、原人たちの知られざる世界と比較しながら、後期旧石器時代の祖先たちが積み上げてきた、そうした挑戦の歴史を解き明かしたいと考えています。その1つの取り組みが、昨年完結した実験航海のプロジェクトでした(図6)。草、竹、木と原始的な舟で海を渡ることの現実を体感したその内容と、「祖先たちはなぜ危険な海に出て行ったのか」という疑問への私なりの回答は、拙著「サピエンス日本上陸」(講談社)に記しています。
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