📉25】─2・E─日本の衰退の原因は「日本の官僚の凋落」と「ブラック霞が関から若く優秀な人材が流出」。〜No.53 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 有能な学生は、ブラックな官僚を嫌い、才能を正当に評価する外資系企業に就職している。
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 2024年10月8日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「英誌が憂う「日本の官僚の凋落」と「霞が関のブラック度」
 暗雲垂れ込める国会議事堂 Photo: Getty Images
 かつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや憧れの職業ではなくなった。その過酷な労働環境から「ブラック霞が関」とも呼ばれ、若く優秀な人材がスタートアップ企業へ流出していると、英誌「エコノミスト」が報じる。
 【画像】英誌が憂う「日本の官僚の凋落」と「霞が関のブラック度」
 日本の官僚は「冬の時代」を迎えている
 「おれたちは国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ」
 小説『官僚たちの夏』の主人公、風越信吾は誇り高くそう言う。通商産業省(現・経済産業省)の官僚である風越は、階級がわずかに高いだけの政治家である大臣に対し、挨拶のために立ち上がることを拒んだ。
 1975年に出版されたこの小説は、戦後の高度経済成長期、名門大学の卒業生がこぞって一流官庁の仕事を求めた時代に、日本の官僚がいかに権力を持っていたかを物語っている。当時の高級官僚は、エリート銀行員に匹敵するステータスと権力を有し、日本の国家機構を動かしていた。
 しかし、このようにかつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや冬の時代を迎えている。優秀な人材が過酷な労働条件から逃れ、より良い機会と柔軟性を求めて霞が関を去っているのだ。
 「キャリア官僚」と呼ばれるエリートのうち、採用後10年未満の退職者数は2年連続で過去最多を記録した。キャリア官僚の採用試験の志願者数は、2012年から2023年に30%減少。試験合格者における東京大学の卒業生の割合は、2000年の32%から2024年は10%未満にまで減った。
 今日の優秀な若者たちは、霞が関を目指すよりもスタートアップ企業での仕事を選んでいる。
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 10月8日19:00 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「英誌の報道「日本の霞が関から若く優秀な人材が流出している」
 暗雲垂れ込める国会議事堂 Photo: Getty Images
 かつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや憧れの職業ではなくなった。その過酷な労働環境から「ブラック霞が関」とも呼ばれ、若く優秀な人材がスタートアップ企業へ流出していると、英誌「エコノミスト」が報じる。
 【画像】英誌の報道「日本の霞が関から若く優秀な人材が流出している」
 日本の官僚は「冬の時代」を迎えている
「おれたちは国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ」
 小説『官僚たちの夏』の主人公、風越信吾は誇り高くそう言う。通商産業省(現・経済産業省)の官僚である風越は、階級がわずかに高いだけの政治家である大臣に対し、挨拶のために立ち上がることを拒んだ。
 1975年に出版されたこの小説は、戦後の高度経済成長期、名門大学の卒業生がこぞって一流官庁の仕事を求めた時代に、日本の官僚がいかに権力を持っていたかを物語っている。当時の高級官僚は、エリート銀行員に匹敵するステータスと権力を有し、日本の国家機構を動かしていた。
 しかし、このようにかつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや冬の時代を迎えている。優秀な人材が過酷な労働条件から逃れ、より良い機会と柔軟性を求めて霞が関を去っているのだ。
 「キャリア官僚」と呼ばれるエリートのうち、採用後10年未満の退職者数は2年連続で過去最多を記録した。キャリア官僚の採用試験の志願者数は、2012年から2023年に30%減少。試験合格者における東京大学の卒業生の割合は、2000年の32%から2024年は10%未満にまで減った。
 今日の優秀な若者たちは、霞が関を目指すよりもスタートアップ企業での仕事を選んでいる。
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 10月8日 YAHOO!JAPANニュース Forbes JAPAN「「日本を呪縛する学歴の不条理」、東大こそは諸悪の根源? 話題書を読む
 『「反・東大」の思想史』 (尾原宏之著、新潮選書) が静かに売れている。
 アマゾンの同書ページに掲載された紹介文は以下のとおりだ。
 「『東大こそは諸悪の根源!』──批判者たちの大義名分とは? 国家のエリート養成機関として設立された『東大』。最高学府の一極集中に対し、昂然と反旗を翻した教育者・思想家がいた。慶應義塾、早稲田、京大、一橋、同志社法律学校や大正自由教育を源流とする私立大学、さらには労働運動家、右翼まで……彼らが掲げた『反・東大』の論理とは? 『学力』とは何かを問う異形の思想史」。
 そして帯には、「日本を呪縛する学歴の不条理」と記されている。
 同書はいったいどんな本なのか。本書から、「ある京大法学部1年生の『仮面浪人で東大法学部に合格』およびその後の顛末」について書かれた125~127ページを以下、転載でお届けする。
■大正の「仮面浪人」事件
 1921(大正10)年の春、京大法学部の1年生、杉之原舜一が東大法学部を受験し、見事合格した。現代風にいえば「仮面浪人」に成功したことになる。
 今日では、さまざまな理由から「仮面浪人」となる大学生は大勢いるので、珍しい話に聞こえないかもしれない。だが杉之原の合格は、東大と京大、そして願書を取り次いだ第一高等学校の間のトラブルに発展し、新聞沙汰となった。京大法学部教授会が在校生の東大受験を問題視し、杉之原を放校処分にしてしまったからである。
 杉之原は京大を辞めようとしていたわけだから、放校それ自体はさほど困らないように見える。問題は、京大が放校処分にした学生を、同じ帝国大学である東大が受け入れるわけにはいかないという点にあった。
 京大の処分を受け、東大法学部は杉之原の入学を取り消した。杉之原は、京大から追い出され、東大から受け入れを拒絶されて行き場を失ってしまったのである。『読売新聞』は「虻蜂取らずになつたのみか学界からは永遠に死刑の宣告を受けたと云ふ奇怪極まる話」としてこの事件を取り上げた(6月8・14日)。
 日本の左翼運動史において、杉之原舜一は多少知られた人物である。のちに民法学者となり、九州帝国大学法文学部の助教授に着任するも内紛で職を追われ(九大事件)、その後マルクス主義者となって非合法時代の日本共産党に入党した。家屋資金局の責任者として活動するも、やがて「スパイM」に売られて治安維持法違反で入獄する。戦後は学界に復帰して法政大学法学部長、北大法文学部教授を歴任した。北大在職中に再び共産党に入党、レッド・パージの中で大学を去り、参議院議員への立候補(落選)を経て、長く弁護士として活動した。その自伝のタイトル『波瀾萬丈』を地で行く生涯である。
 杉之原は一高出身で、多くの同級生と同じように東大を目指していた。ところが病気(結核)のため卒業後に入試を受けられず、当時無試験で入学できた京大法学部に籍だけ置いて東京で療養することになった。1年後、「合格してから京大に退学の手続きをすればよい」という東大事務の言葉を信じて受験に挑み合格したわけだが、京大側は在校生の他校受験を許さず、放校処分にしたのである。
 京大の鈴木信太郎学生監は、「他の学校の入学試験を受ける如き軽佻浮薄の行為は学生の本分に違背する」と処分理由を説明し、願書を取り次いだ一高、受験を許可した東大の責任を指摘した(前掲『読売新聞』)。
 行き場を失った杉之原は、東大法学部教授の末弘厳太郎吉野作造、そして京大法学部長に就任したばかりの佐々木惣一のところに押しかけ、助力を求めた。末弘も吉野も佐々木も同情的だった。末弘や佐々木はこの事件をきっかけに杉之原に目をかけるようになり、とくに末弘は杉之原が研究者として身を立てる際に親身に世話をした。
 吉野作造の「急変」
 問題は吉野である。当初は処分取り消しを求めて京大法学部長の佐々木に談判した吉野だったが、佐々木との面会以降、態度を急変させた。吉野は杉之原に再会するなり、「君、これは、今年はむずかしい。1年間がまんしろ」と説得したという(『波瀾萬丈』)。要するに、東大入学は諦めろということである。前出の『読売新聞』は、東大法学部における「入学取消の主唱者」は実は吉野であるという説を紹介している。
 杉之原はこの時、「大正デモクラシー」の旗手である吉野に対する尊敬の念が一気に吹き飛ぶのを感じた。吉野が態度を急変させたことが悪いのではない。問題は、その説得のやり方である。吉野は「1年くらい学校がおくれても大したことはない。私も1年、東大を出るのがおくれているが、いまでは官等、勲位など高等学校同期のものとかわりがない」と杉之原を慰めたという。
 この吉野の言葉が、杉之原にはショックだった。民本主義者として知られた吉野が、実は官等や勲位の上下を気にしていたことがわかったからである。この日以来、杉之原は吉野に寄りつかなくなった(杉之原前掲書)。
 八方塞がりとなった杉之原は、「もう官学に愛想が尽きましたから早稲田大学の政治科へでも入れて頂きたいと思つてゐます」と新聞に語った(前掲『読売新聞』)。これは末弘が早稲田の中村萬吉教授に杉之原を紹介したことによる。
 ちょうど杉之原が早稲田入学の決意を固めた頃、事態は大きく動いた。京大法学部長の佐々木が、来年復学願を出せば受理すると末弘に伝えてきたのである。最初からそこを落としどころにしていたのか、新聞沙汰になったので慌てて事態の収拾を図ったのかは定かでない。早稲田の中村教授も「京大へいけるなら、そのほうがよい」と杉之原を諭し、念願の東大入学は叶わなかったものの、京大に復学できることになった(杉之原前掲書)。
 京大生の東大(再)受験が決して珍しくなかったことは、杉之原自身の談話や、一高の谷山初七郎教授の談話からも明らかである。杉之原は、ほかの京大生も東大を受験しているのに、不合格者は軽い処分で済み、合格した自分だけが放校になるのは不公平だ、と佐々木に抗議した。杉之原がのちに「京大の東大への対抗意識というか、感情的なものがあったことはいなめない」と回想したように、見せしめとして処分された感がある。
 一高の谷山は、この年から急に京大の他大受験に対する取締が厳格になったことを指摘しているが、それは京大当局の強い危機意識によるものだろう。実は、当初杉之原を支援していた吉野が佐々木との面談後に態度を急変させたのは、「学生が皆東京を望んで転校すると云ふ事になれば京都の大学も困る」という、京大側の事情を呑み込んでのことだった(前掲『読売新聞』)。
 『「反・東大」の思想史 』(新潮選書、尾原宏之著)
 Forbes JAPAN 編集部
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