⛻6〗─1─戦国時代は技術革新による高度成長期。織田信長・羽柴秀長・徳川家康・藤堂高虎の貨幣経済改革。地震対策の熊本城。~No.18No.19No.20 @ 

街道をゆく 22 南蛮のみちI (朝日文庫)

街道をゆく 22 南蛮のみちI (朝日文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本が黄金の国・ジパングに成れたのは、火山列島であったからである。
 火山や地震は、人の命を奪う甚大な災害をもたらしたが金という富ももたらしていた。
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 戦国時代。日本全国で毎年約2トンの金が採掘されていた。
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 日本の近世的貨幣経済及び市場メカニズムは、織田信長が考え実行し徳川家康が完成させた。
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 豊臣秀吉「金銀多分積み置くは、能(よ)き士を牢に押し込め置くに等し」
 {金銀は使ってこそ価値がある。蓄えるだけは能力のある人材を牢屋につなぐに等しい}
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 2016年3月3日号 週刊文春「文春図書館
 中世における貨幣、マルク・ブロック、松山俊太郎 フランス文学者・鹿島茂
 ……
 ジャック・ル=ゴフ『中世と貨幣 歴史人類学的考察』(井上櫻子訳 藤原書店
 ……
 ローマ帝国の崩壊で都市が衰退すると、鋳造も使用も細分化され、貨幣は循環しなくなる。カロリング帝国の勃興でローマ帝国のドゥニエ銀貨が計算貨幣から実質貨幣に変わるかと思われたが、封建制度の分化に伴い貨幣の循環は再び止まる。
 しかし、ピーター・スプフォードが『長い13世紀』と名付けた1160年から1330年代までの時期に都市が成長し、商業が発達すると貨幣は再び流通し始める。『原料の購入と製造物の販売を促進する手工業が発達し、次第に賃金制を導入するようになったため、都市では貨幣使用が広まった』。またこの頃から開始された大聖堂の建造ラッシュ、市場の建設、城壁・橋の修復、共同体設備の設備などの費用を税金や募金で賄う必要から貨幣の流通が促進され、需要の拡大から銀山が開発され、鋳造も活発になった。
 もう一つの要因は消費の拡大である。食糧を得るために貨幣が必要とする都市住民(ブルジョワ)の増加で貨幣流通量も増えたが、しかし、それに伴って社会的格差も生じた。
 ここから中世特有の問題が発生する。一つは利息を認めないキリスト教にあっては高利貸しは地獄落ちに値する罪人であるが、ある程度、高利貸しを認めないと経済が回転していかないので、キリスト教会がこれを正当化する道を模索し始めたことである。ル=ゴフはこの高利貸しの正当性に、12世紀に発見された『煉獄』が役立ったと考える。つまり、高利貸しが高利で稼いだ金を死に臨んで教会や修道院に寄付すれば、煉獄から天国に行けるという解釈が導入されたのである。もう一つは、ル=ゴフが『新たな貧困』と呼ぶ、フランシスコ修道会などによる自発的貧困である。フランシスコ会は貨幣そのものを拒否し、喜捨に頼ったが、この喜捨が高利貸しなどの『新しい富者』が地獄落ちを避けるために吐き出した金銭の受け皿となり、貨幣はフランシスコ会を経由して貧者へと再循環することとなり、逆説的に商業活動が活発化したのである。
 ル=ゴフはこうした中世的な貨幣の循環を捉えて『中世の貨幣使用は贈与経済に含まれ、貨幣は神の恩寵への人間の全面的な服従に関わっていると考えている』と繰り返し述べ、『資本主義が誕生したのは中世ではなかった』と結論するのである。資本主義に似た現象だけを中世に見て、その背景にある心性を見ない歴史家のアナクロニズムへの警告として真摯に受け止めるべきであろう」
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 才覚のある家臣は、流通や交易で経済的に力を付けてのし上がり、主君の守護大名を追放して戦国大名となった。
 他の家臣達は、主君への忠誠よりも力のある反逆者に従った。
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 織田信秀は、伊勢湾交易の拠点港である津島、西国と東国の陸上物流拠点でる熱田、濃尾三川の河川水運拠点である清洲を支配し、守護代の陪臣でありながら主君の守護や守護代を凌ぐ巨万の富を手に入れ強力な家臣団を築いた。
 織田信長は、ヒト・モノ・カネが激しく行き交う中で育って実体経済を学び、斎藤道三から楽市楽座を学んだ。
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 戦国時代とは戦乱で平和が崩壊した時代であったが、商人が商品を持って東奔西走して富を築いていった高度経済成長の時代であった。
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 日本は、「七転び八起き」としてつきる事ない底力を持っていた。
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 2015年5月号 新潮45「『秀長派』から読み解く戦国史の真相 家康が受け継いだ『革命』とは 中野順哉
 関ヶ原の背景には、『信長─秀吉』VS『秀長─高虎』の路線対立があった!
 ……
 郷土史家が言うことはの一言。 『高虎が江戸時代を作った』
 どの土地に行ってもよく見られることだが、ご当地の英雄を誇大に語る傾向はある。しかしここは勝手が違う。有名な研究者が主導していたのだ。藤田達生教授。藤堂高虎研究の第一人者である。彼の主張によれば、高虎とは以下のような人物だという。
 ・高虎は豊臣秀長にとっての高弟。思想的継承者である。
 ・秀長は秀吉の経済政策に異を唱えていた。高虎は『秀長派』のブレーンであった。
 ・秀長の思想には徳川家康、北の政所、千利休など多くの賛同者がいた。
 ・秀長が亡くなることでその派閥は力を失った。
 ・秀長の死後、高虎は秀長の養子秀保を支えたが秀保も急死する。その後は秀吉の直臣となるよう勧められたが拒み、高野山に籠る。
 ・一時宇和島の大名として復帰するも、秀吉の死と朝鮮出兵の失敗を機に、『秀長派』の再燃を試みた。
 ・そのために高虎が担ぎ上げたのが徳川家康であり、両者はその後の体制=幕藩体制をプランニングした。
 ざっとこんなところである。この検証については藤田氏の研究にお任せするとして、もっと気になるのは秀吉と秀長の経済政策上の意見対立とはどういうものだったという点である。藤田氏自身はそれに関して、おおむね以下のように説明していた。
 ──信長から秀吉・・・彼らの経済感覚は『戦国バブル経済』とでも言えるものだった。統治する都市の実体経済を超える投資をし、軍事力を強化して大きな戦をする。完全勝利をした場合、手に入れる富は投資の規模をはるかに超える。この繰り返しをし、どんどん戦の規模を大きくしてゆく。九州平定、小田原攻め、さらに朝鮮出兵へ。秀吉はこの路線を信長から継承し発展させてった。
 一方秀長は、そのような経済に偏ると農村人口が減り、田畑が荒れ、いずれ国家経営自体が危うくなる。全国を統一した今、朝鮮への出兵ではなく、農業を奨励・保護すべきだと考えた。賛同したのが家康、北の政所、千利休、そして藤堂高虎であった。──
 膝を叩く思いでこの話を聞いていたのだが、同時に疑問も生まれてくる。
 『このバブルの投資、米の経済の話しなのか、貨幣経済の話しなのか。そもそも貨幣経済はこの当時どの程度浸透していたのだろうか・・・』
 そこで思い出されるのが、滋賀県長浜市で聞いた郷土史家の話だ。彼は次のような指摘をした。
 『信長は貨幣経済を農村に浸透さることを避けた』
 なぜだろう──この時はその郷土史家も明解な答えを見出せない様子であった。ただどうもこのあたりに『信長から秀吉へと継承された戦国バブル経済』というキーワードの『正体』があるような気がする。そこで当時の貨幣流通に関して、日頃親しくしている大阪歴史博物館学芸員に話を聞いてみることにした。
 『当時ほとんどの東アジアの国々は、貨幣経済が浸透し、税も貨幣で徴収するようになっていた。日本と朝鮮のみがまだ絹や米といった物納システムを温存Sすていた』
 そう語る学芸員。なぜだろうと問うと、ちょいと得意げにお茶をひと口含んでから『貨幣に対する信用が無かったからでしょう』と答えた。確かに貨幣も紙幣も国家の保証=信用がなければただの金属片・紙屑になってしまう。このルールは今も昔も変わりはしない。ではどうして当時、『日本国』はその信用を貨幣に与えなかったのか。
 まず戦国時代にそれを担う中央集権的権力者が存在しなかったことが大きな原因であろう。ただもっと根本的に朝廷自体が貨幣経済の浸透を歓迎しなかったのではなかろうか。各地の大名は朝廷から土地支配の認可を得て支配者となる。当然大名は朝廷の権威を守る。そうすることで地域での武力衝突を回避し、自分たちの支配力を保つことが出来る。戦国時代の大名のほとんどは、このシステムに則り、徹底して地方分権を志向していた。
 このシステムの基本は『土地』にある。土地の価値は石高によって決まる。もしここに貨幣経済が入り込むとどうなるか・・・各地領主の収入が大幅に減る可能性が出てくる。理由はこうだ。
 貨幣が流通すると銭を借りる人間が出てくる。今のように『親切』な金利ではなかったろうから、すぐに不良債権の山となる。すると銭の供給量が不足する。不足すれば鋳造して増やせば良いのだろうが、この時代日本で銭は鋳造されていない。流通しているのは輸入された宋銭・明銭である。迅速に貨幣の量を増やすことが難しい。となると銭不足からデフレが起きる。米は相対的に価値が下がる。土地=米の価値が下がれると大名と朝廷の関係は維持できなくなり、朝廷は存在理由を失う。
 永楽通宝の旗印を掲げていた信長。東アジアの『先進国』同様、貨幣経済の国への移行を目指すという意思表示であったのか不明であるが、少なくともマカオやマニラといった都市を武力制圧した南蛮の存在に、『変革』の必然を感じていたのではないだろうか。その結論として朝廷→土地の保証→大名の地方支配というシステの改革は『急がねばならない大事業』であったのであろう。
 では信長はどうして農村と都市の間で貨幣の流通を区別しようとしたというのじゃ。貨幣量の不足によるデフレのリスクに対し、逆に飢饉によって急激なインフレが起きる可能性を想定していたのではないだろうか。インフレが起きれば兵士を雇うことが難しくなる。傭兵を主体にし、年中いつでも出兵できる軍団を形成していた信長──天下統一を果たすまでは、貨幣経済と『土地』経済の両者をコントロールすることで、貨幣供給量から起きるデフレと、天候不順などから起きるインフレ、その両方のバランスをとる必要があったのでは。
 信長を覚醒させた者
 ところで信長のこのような優れた経済感覚は、どのようにして養われたのであろうか。足利義昭を将軍とするまでは、信長はどちらかちうと言えば保守的な人間だったといわれている。それが突如を『強力な中央集権』を目指す改革者となったのはなぜか。
 この疑問に解決のヒントを与えてくれる機会になったのが、大阪日本ポルトガル協会主催の催しで講談を執筆した時の取材。協会メンバーの方々は、これまで主催してきた講演の分厚いメモえお片手に、こんな話を教えてくれた。
 『日本に来ていた南蛮船はスペインではなくポルトガルから。スペインとポルトガルによって結ばれたサラゴサ条約で、テリトリーが決められていたので。でもそのポルトガル人は、国王から認可を得てリスボンから出帆した「ホンモノのポルトガル人」であったかどうかは疑わしい』
 1492年スペインで発せられた『ユダヤ人追放令』。その結果多くのユダヤ人は、ポルトガルに逃れてきていた。しかし1496年にポルトガルの国王・マヌエル1世は『ユダヤ教徒追放令』を出す。その結果イベリア半島からユダヤ教徒は姿を消した。この時に表面上敬虔なキリスト教徒になりすましたのが『改宗ユダヤ人』。彼らの中に宣教師に転向し、『布教活動』の名のもとで海を渡り、世界中へ散らばって行く者も少なくなかった。1580年前後のマカオポルトガル人人口のうち、約50%は『改宗ユダヤ人』であったのだとか。
 とすると信長が接触した宣教師などの中に、こういった『改宗ユダヤ人』も含まれていた可能性は低くない。彼らの目的はあくまでも『自分たちが生きることのできる地の確保』であった。それを認めてくれる人物であれば、惜しみなく協力をしたのではなかろうか。
 『ユダヤ人』と言えばいわゆる『陰謀論』と思われる方も少なくなかろうが、決してそういった視点で彼らの存在をここに出したのではない。私がこの時代のユダヤ人に特に興味を持っているのは、金利の意識についてである。キリスト教でもイスラム教でも、金利を取るということは厳禁している。この二つの宗教は全人類に対して等しく語りかけるものなのだ、言い換えると金利を取ることをすべての信者に禁止していたことになる。もちろん両宗教の原点であるユダヤ教でも金利は禁止されている。ただ、ユダヤ教ユダヤ人の宗教である。ゆえにユダヤ人同士での金利の搾取は許されないが、ユダヤ人以外に対しては禁止されていなかった。当時すでにアジア、欧州、新大陸間に商業ネットワークを築いていた彼ら。それが彼らに出来たのは、この金利の掟の違いによるところが大きいのではないか。
 また欧州各国の王に、正当な統治者であることを認可することで『権威』を拡大してきた教会。その在り方は、日本の朝廷と大名の関係に酷似していた。その中でユダヤ人がどのように生きてきたのか。その結果どのような価値の変化が起きようとしているのか──これは信長にとって大変興味深い話しであったろう。そういった視点から『日本』をデザインするべきかを、信長は夢中になって彼らと語り合ったとしても不思議ではなかろう。
 もう少し想像力をたくましくするならば、この100年後に起きたヨーロッパでの価値の大変動を起点に、逆算的に『この時代の国際経済の発想・野心』をシミュレーションすることが出来ないだろうか。
 100年後の変動とはいわゆるイギリスの『財政革命』だ。17世紀末にイギリス政府は軍事費を調達するするために長期国債を発行した。これが契機となってその後大土地所有者は銀行と関係を深め、公債に投資し、資産の拡大を狙うようになる。結果政府は国家収入を増やし財政基盤を安定させることが可能になっていった。
 この変動は、金銀に頼るというそれまでの不安定な財政基盤からの脱皮であった。ヨーロッパでは金が国際決済に、銀が大規模な国内商取引に使用されていたが、16世紀当時、どちらもヨーロッパ内ではほとんど産出できなかった。そのために国内消費も、貿易の拡大にも制約があったのだが、新大陸が発見され、そこで大量の銀を発掘することで一気に貿易規模が拡大した。南蛮人と日本との接触はこの延長線上にあったことは言うまでもない。
 ところが17世紀後半に入ると新大陸での銀の産出量が激減する。拡大して貿易の規模を縮小することは出来ない。そこで生まれた発想が、実際の金銀の移動によらない為替手形・銀行券などの信用貨幣の利用だった。それがもっと具体的な政策として現れたのが『財政革命』であったのだ。
 信長がユダヤ人たちと接触をした時代は、まだこの状態にはないが、もし『そう遠くない将来に、新大陸の銀が枯渇する』という目算が一部のユダヤ人の中にあったとすれば、当時豊富な銀を有する日本には、アジア全体を支配する勝算があるというプランを信長と共有していたかもしれない。あるいはその先に『朝廷とは別の権威』を作り、信用貨幣を発行する『財政革命』への野心があったのかも知れない。
 少なくとも『米=土地』という概念が支配的で、ほとんどの大名は徹底して地方分権を主張していた時代に、突然変異的に中央集権を主張し、貨幣経済への移行を考え、金融のリスクも瞬時に理解する『超人信長』が生まれたと考えるよりは、特殊な情報をある時に、その道の専門家から得たと考える方がより自然ではなかろうか。であれば信長が、若狭(小浜)、伊勢、大阪(堺)という国内の国際港3つを結ぶ『琵琶湖』を重要拠点として、『天下』という一神教的な概念による支配を考えたのも納得いく。
 『継承者』豊臣秀吉と政権の分裂
 そんな『未来図』が信長にあったとして、それを秀吉はどの程度理解していたのだろうか。秀吉は『天下統一』を優先するあまり、各地での領土安堵を許してしまう。恐らくこのあたりに本能寺の変の真の理由があるのだと推測するのだが、それはここでは一旦置き、この秀吉の政策自体を先ほどからの視点で見直してみることにしよう。
 各地の有力大名の本領安堵は、明らかに『旧システムの温存』であり、同時に前提条件としての『朝廷の権威』も残されてゆく。土地から貨幣へという抜本的な経済機構の変化も難しくなる。朝廷の権威も認め、旧体制は温存されたまま貨幣経済が勢いを増してゆく。不良債権は膨らみ、借金に苦しんだ挙句農地を捨てる人間が後を絶たない。大名間の借金も膨らんでゆく──。
 秀吉と秀長の意見が対立していたとすれば、まさにこのタイミングであったのではなかろうか。秀吉のプランは『大陸に出兵し、明をおさえ、銭の供給量をコントロールし、同時に領土面積を広げる』である。そうすれば本領安堵で慰撫してきた大名も、朝廷の権威も傷つけることはない。同時に武器への投資が膨らみ、勝利することでも利益はこれまでにないほど大きくなる。しかし世界的な問題となっていた財政基盤の不安定さに対する抜本的な解決にはなっていない。
 一方秀長はこう考えた。もはやこの統治形態では宋銭・明銭の流通による貨幣経済の完成は困難だ。このままだとデフレが続き、どんどん田畑が荒れてゆく。その結果食糧の自給が難しくなり、インフレも起きる。国はまた地方ごとの範囲で回復をめざし、下手をしれば乱世となる。それを防ぐには経済の範囲を日本国内にとどめ、独自の貨幣鋳造と中央による農業の管理が不可欠である。これは信長のプランと朝廷の権威温存の折衷案であったといえよう。
 二人の意見に共通することは、どちらも『急がなければならない』と感じていたことだ。当時の経済状況が再現できない以上、それが経済の理由からであったかどうかは分からない。ただ一つ言える事は、『外敵』がすぐ傍らまで来ていたということだ。
 南蛮人ポルトガル人であったと前述したが、1580年代に入るとスペインとポルトガルは同君統治の時代へ入る。スペインは南米において手に入れた大量の銀をもって中国市場に殴り込みをかけていた。『アジアでは銀を国際決済に使う』という彼らのルールに則り、中国は銀の確保のため税制を銀納に替えた。宋銭・明銭といった銅銭の価値は相対的に弱まってゆく。国際レートの低くなった銭を流通させ、その銭が供給量不足のために国内でデフレを起こすという危機状態。国の経済力が弱まる一方で当時日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めるようになっていた。スペインはそれを狙っている。艦隊はマニラに停泊している。『敵』はすぐそこまで来ていたのだ。
 『秀吉派』か『秀長派』か──後者の案に賛同する者に、政界の実力者が多い中、出兵を急ぎたお秀吉は粛清を断行する。まず家康の地盤を崩し、関東へ移封。その後秀長亡くなる。このはながだ怪しい『急死』の後、利休に腹を切らせている。さらには北政所を遠ざけ、淀の方をそばに。藤堂高虎は秀吉のもとを去り高野山へ・・・。
 そして断行した二度の朝鮮出兵。その結果は秀吉の死と敗戦。帰国した大名たちを待っていたものは、大量の兵糧が消え去ったあとのインフレと、荒れ果てた田畑。そして価値が大幅にさがった借用証の山であった。
 一党独裁思想統制
 果たしてこの国をどうするべきなのか・・・そこで議論は二つに分かれる。貨幣経済の立て直しか、中央集権的な管理下においた重農主義政策か。
 この政治状況をシミュレーションする時に忘れてはいけないポイントは、『議論』がフラットな状態で行われていたと考えるべきではないということだ。豊臣政権は反対派を粛清して、秀吉のドグマによる一党独裁の状態にあった。そのような状況下において人の言動がどのように統制されるのかは、第二次世界大戦の記録を知る我々であれば容易に想像がつくのではないだろうか。戦時中の日本軍のプロパガンダや、ナチス反ユダヤ主義──一党独裁による行き過ぎた思想統制と過剰反応。
 朝鮮出兵後の悲惨な状況下であっても、『秀吉派』の軍部が残っている以上、その思想は支配的であったろう。さらに加えるならば、『秀吉派』思想は目下面目を失いつつある。それを自覚すればするほど、アレルギー反応が付きまとっている・・・そんな状態ではなかったろうか。
 それ故にこの機会に『秀長の政策を復活させたい』とどれほど藤堂高虎が熱く思っても、さすがの家康もなかなか首を縦には振らなかったろう。仮にそれにくみして改革の旗を掲げたとしても、事情はどの大名も同じ。徒党を組めない以上勝算の見込みはほとんどない。皆がそう思うほど背筋を寒からしめる事件の記憶があったのではなかろうか。
 脳裏をかすめるのは豊臣秀次滋賀県近江八幡市を取材した折、当時の市長川端五兵衛氏から話をうかがった。彼は若き日に、埋め立てて公園や駐車場にされかけた八幡堀を守ろうとした。その時堀の強度や構造などを調査した。そこから分かったことは、大きな船が琵琶湖から城の堀にまで入ることが出来るように考えられた、これまでにない城の形態であるという事実。豊臣秀次の街づくりがいかに高度なプランのもとに進められていたのかを実感したとのこと。
 近江八幡の城普請は秀次18歳の時の仕事。この地に安土で残された商人を呼び戻し、新たな商都を築いたその手腕といい、城づくりの発想の新しさといい、非凡な才能の持ち主であったと言わざるを得ない。その聡明な大名がストレスから多くの無益な殺生を重ねたとされ、『殺生関白』という汚名を着せられたまま切腹させられている。しかも一族郎党、女子供、家臣など関係者にいたるまで惨殺されている。このヒステリックな処刑の理由を、単なる秀吉の老化と秀頼への偏愛にあると考えるべきか。
 学界で有力なのは、蒲生家遺領問題の処理がきっかけとなって両者は決裂したという説。蒲生氏郷は信長がその才を見出した当代きっての『名将』。秀吉も信をおき、伊達政宗のおさえとして陸奥会津92万石を与えていた。その氏郷が急逝した時、秀吉は氏郷の嫡男秀行が幼いことを理由に領地を召し上げ、減俸するつもりでいた。ところが関白秀次がさっさと継承を承認したために、秀吉の思惑は阻止されてしまった。この一件が決定打となって、秀吉は秀次を消そうと考えたとされている。
 そもそも秀吉が強引に秀次を関白にしたのは、心置きなく朝鮮出兵に専念するためであり、その時点では秀次は『秀吉派』の重臣だったのだろう。そして文禄の役が始まった。しかし得るところのないまま一旦休戦し、和平交渉も滞り、明国からは軽くあしらわれるという結果に。
 この戦争において、秀次は多くの大名に金を貸し、巨額の債権者となっていた。しかし戦争に使われた兵糧は莫大な量で、国内の食糧が減少しインフレ傾向が見え始めていた。これをこのまま置くと秀次は多大な損害を被ることになる。そんな折、彼がもっとも信頼していた相談役が前野長康であった。この前野長康こそ、美濃攻めの墨俣城築城時から豊臣兄弟と苦楽を共にしてきた最古参の家臣。特に秀長とは『長年の同僚』といった関係の人物である。聡明な若き当主に長康が秀長の役割を期待した可能性は無いだろうか。徐々に姿を現す『第二次秀長派』の萌芽。そこに起きた蒲生家遺領問題での関白の実力、ヒステリックな秀次一党への大粛清の理由はこのあたりにあったのではないか。
 無残な粛清を目の当たりにしてきた各国大名たち。高虎の熱意に動かされ、重い腰を上げた家康にも頼れる人は北政所しか残っていなかった。北政所も事態の深刻さを痛感し、数名の武将の説得に成功する。それが福島正則加藤清正黒田長政など。それでも大勢は変わらなかったのではなかろうか。後年に伝えられるがごとく、関ヶ原は『石田三成が巨大化する家康から豊臣家を守るために、一か八かの勝負に出た戦』ではなく、三成は優位のまま、彼ら抵抗勢力の駆逐を考えていたのではないだろうか。現代に残る三成の書簡から、彼は家康の本拠地関東を軍事制圧することを計画していたことが明確になっている。また各国の動向を的確につかむだけの情報網の形成にも成功していたことがうかがわれる。それをもとに日本国を俯瞰する軍事戦略も立てていたらしい。逆にその敗因は、情報からシミュレーションに頼り過ぎたため、家康の軍勢を過小評価していたことにあるという。
 かくして関ヶ原の合戦の火ぶたは切られ、家康・高虎は『革命』に成功。『秀吉派』一党独裁の呪縛から見事、この国を解放し、新たな国家経営の道を開いていった──
 ……」
   ・   ・   ・   
 7月号 新潮45「江戸時代に学ぶ『格差』との付き合い方 鈴木浩三
 ピケティは、格差拡大こそポスト近代社会が克服すべき最大の命題と論じたが、甚だしい格差社会だった江戸経済のダイナミズムを瞠目して観察してみれば──。
 江戸時代は『格差社会』だった。士農工商の身分差は別にしても、それぞれの身分・階層の中で、人々の経済力には大きな差があった。しかも、飢饉による餓死や人身売買のほか、傷病人の遺棄など珍しくはなく、現代でいう『絶対的貧困』とも隣り合っていた。
 しかし、金・銀・銭の三貨幣がそれぞれ変動相場で取引され、遠隔地間の為替決済が普及し、世界初の先物取引も成立するなど、資本主義的な市場メカニズムが高度に発達していた。時代が下がるにつれて貨幣経済が浸透して武士から町人に経済力が移っていったが、幕藩体制は約260年間も続き、元禄文化や文化・文政期の庶民文化が花開いたのであった。しかも、その蓄積は、明治以降の日本の近代化の礎(いしずえ)になった。
 トマ・ピケティの『21世紀の資本』を含め、現在、経済的格差の解消が大きな関心を集めているが、そうしてみると、なぜ『格差の時代』ともいえる江戸時代に日本が成長・発展を遂げたのか? という疑問が湧いてくる。
 現代との単純な比較は出来ないが、江戸時代の経済を専門とする立場からすれば、現代の『格差解消論』や、格差を〝悪いもの〟という前提でのみとらえることに若干の違和感を禁じ得ない。
 ここでは江戸時代に例を取り、経済的な格差の解消に必死に努めるよりも、それを活かす視点に立つ方が、経済のダイナミズムを活性化する早道になり得ると紹介したい。
 江戸は派遣で回っていた
 現在、『正社員』と『非正規雇用』の賃金の対比から『格差』が語られることが多いが、江戸幕府武家政権すなわち軍事政権であったこともあって、江戸は現在でいう『非正規労働者』ないしは『派遣社員』によって支えられていた。……」
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 2015年12月17日号 週刊新潮「古都再見 葉室麟
 本能寺をめぐり 信長と法華宗の相剋を思う
 戦国時代の宗教戦争は、天文5年(1536年)比叡山の僧兵と近江の六角氏の軍勢が洛中に乱入し、京の法華宗21本山を焼き討ちした、
 ──天文法華の乱
 に始まる。この乱は、同年2月、比叡山の僧兵と法華宗門徒が宗論を行い、比叡山側が敗れて、三門の面目が失墜したことから起きた。比叡山側の軍勢は近江衆3万、山門3万、寺門3,000とも言われ、法華宗側は、2、3万だったという。
 激戦の末、法華宗21本山すべてが炎上し、法華宗諸山は本尊聖教を背負って堺に落ちのびた。京都法華宗諸本山が堺から京への帰還を勅許されたのは天文11年のことだ。
 ところで信長の義父である斉藤道三はかって妙覚寺で修行した法華宗の僧侶だったと伝えられる(実際には道三の父新左衛門尉のことらしい)。そして道三が息子義龍との戦いにで敗死した後、道三の息子のひとりは京に出て法華宗の僧、日饒となり、妙覚寺貫主を努めた。
 永禄11年(1566)、信長は足利義昭を奉じて上洛し、翌年の再上洛の際、初めて妙覚寺を宿所とした。
 日饒が貫主となったのは、このころのようだ。
 信長自身は法華宗ではなく臨済宗妙心寺派だった。それなのに妙覚寺を宿坊としたのは日饒と関係がある。信長は美濃を奪ってその後の飛躍の基盤とするが、いわゆる道三が美濃国の譲り状を信長に送ったとする手紙が日饒のもとにあった。
 ──ついには織田上総介の存分に任すべきの条、ゆずり状信長に対して渡しつかわす。
 と認(したた)められた手紙は真書であれ、偽書であれ、信長にとってはありがたいものだった。信長は道三の娘、帰蝶を妻としており、日饒は義弟でもあった。
 また、経済感覚が発達していた信長は、京や堺の商人に信徒が多い法華宗に利用価値を見出したのではないか。特に本能寺は鉄砲伝来の地である種子島で布教しており、種子島に信徒が多かった。このため本能寺に依頼して鉄砲や火薬を手に入れたとも考えられる。
 上洛した信長は間もなく、本能寺について、
 ──定宿たるの間、余人の寄宿停止の事
 と、ここを定宿と定めて他の人の寄宿を禁止する命令を出している。本能寺を通じての鉄砲、火薬の購入を独占するためだったかもしれない。一方、楽市楽座で商業を発展させる信長の政策は法華宗の商人たちに受け入れられた。
 信長は法華宗の敵であった比叡山石山本願寺と戦って天下統一を目指した。だが、そのような蜜月関係にも、やがてひびが入る。
 天正3年(1575)3月、日饒は病没する。 
 日饒が逝って4年後の天正7年5月、安土城下で浄土宗と法華宗
 ──安土宗論
 が行われ、法華宗は敗れた。これは法華宗の台頭を警戒した信長の内意によるものと言われる。
 信長が一転して法華宗を迫害した裏には、このころイエズス会の宣教師によるキリスト教の布教が広がっていたことがある。
 イエズス会の布教を許せば南蛮との交易ができることに目をつけた信長は、海外への飛躍を目指すためにキリスト教を利用しようと目論んでいた。このため、安土城下だけでなく、本能寺のそばにもこれ見よがしに教会の建設を許した。この教会は3階建てであたかも本能寺を見下ろすかのごとくだった。法華宗側は歯ぎしりする思いだったに違いない。 天正10年6月2日、明智勢が本能寺に迫った際、京に住む情報に敏感な法華宗徒商人たちは、法華宗を裏切った信長に危機を伝えようとはしなかったのではないか。だから明智勢は本能寺を誰にも邪魔されずに囲むことができたのだ」
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 戦国時代は、南蛮(西洋及び東南アジア)貿易で古典的価値観破壊のイノベーションが起き高度成長期に突入し、独自技術開発で緩やかな国家機構と社会構造の大変革を行った。
 土地神話に基づく農本主義に金融と流通を加えた、日本独自の農商工中程度充足型経済であった。
 農商工中程度充足型経済は、国土と経済の規模に合った、海外に過度に依存しない内需優位経済であった。
 身の丈に合った、足るを知る、温故知新を調和させた、「古きを大事にし新しきを求め、奇抜を粋と好む」という日本独自の発展モデルでもあった。
 それ故に、オランダを窓口とした限定的鎖国が可能であった。
 同時に、中華(中国・朝鮮)とは表面的に友好の素振りを見せながら国交を正式に開かず遠ざけた事で、日本に安定と秩序をもたらした。
 古典的価値観とは、古代中国の価値観である。
 西洋の新しい価値観で古典的価値観破壊のイノベーションを行った日本にとって、中華(中国・朝鮮)は時代遅れの魅力のない「学ぶべき点の少ない」存在となった。
 だが、日本人を奴隷(男性は労働奴隷・女性は性奴隷)として売った、白人優位の宗教的人種差別を是認する中世キリスト教は「有害無益」として排除すべく、中世キリスト教邪宗と認定し禁教令を出して弾圧した。
 日本人奴隷貿易は、科学技術兵器・火縄銃と化学技術製品・火薬の取り引きであった。
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 加藤清正は、慶長大地震伏見城天守閣が崩落して大被害がでた事を踏まえて、地震に強い武者返しの熊本城を築城した。
 細川忠利は、熊本地震を経験し、熊本城をさらに地震に強い城にすべく、最新技術を取り入れながら技術革新を繰り返した。
 鎖国下の日本には、停滞はなかった。
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 2017年2月号 Hanada「著者インタビュー 安部龍太郎『家康(1)自立編』全五巻
 戦国時代は高度成長期
 ……
 ──まず『時代の俯瞰』という点から伺いたいと思います。従来、戦国時代は領地という『面』の取り合いだと一般的に認識されてきました。しかし今回の作品は、経済の流れや流通を認識し、その拠点を押さえることの重要性が信長をはじめとする大名たちの言語を通じて書かれています。 
 安部 長く戦国時代について調べたり考えたりしているうりに、日本の戦国史の認識が基本的に間違っていたことに気付いたのです。その原因は、江戸時代の史観によって解釈された戦国時代の認識がいまも続いてきたことにあります。
 一つは、士農工商身分制度。その固定観念があったために、戦国時代についても流通業者や商人の活躍がほぼ無視されてきました。結果、大名たちが戦っていたのは港や街などの流通拠点を押さえるためだったという点も見落とされてきたのです。
 そしてもう一つが、鎖国史観。江戸以降の歴史観は基本的に鎖国を前提としており、戦国時代も鎖国的な価値観、つまり国内で完結した形で語られてきた。そのため、戦国時代に盛んだった外国との交易や技術の伝播については注目されないままでした。
 実際には、戦国時代は世界の大航海時代に当たります。スペインやポルトガルなどがアジアに進出すると、イギリスやオランダもあとを追った。日本にもその波が押し寄せていた。いまのグローバル化と全く同じ事態に直面していたのです。その背景のなかで、日本に宣教師がやってきて、鉄砲が伝来したんです。
 日本も石見銀山から銀が大量に産出されるようになり、いわば〝シルバーラッシュ〟の時代でした。南蛮との交易で、海外の品々も国内に大量に流れ込んできた。日本は未曾有(みぞう)の高度経済成長期でした。その証拠が巨大な城の建設ラッシュであり、安土・桃山時代の豪華絢爛な文化の隆盛だったのです。
 教──科書的な日本史では『幕末に黒船が来て、ようやく日本は西洋と本格的に接点を持った』ように思いがちですが、その認識が一変しました。
 安部 1543年の鉄砲伝来を西洋との接点の始まりとしても、鎖国が始まる1630年までに90年間もあった。90年というと、明治維新から昭和20年の間よりも長い期間です。その間、日本はグローバル化の影響を受け続けていて、結果として90年後に鎖国を選んだんです。
 このグローバル化にどう対応するかが、当時の信長、秀吉、家康が直面した課題だった。その課題は、貿易の実利と軍事物資の入手をどうするかという、いまの日本が直面している課題と全く同じです。『国を開くか、閉じるか』は、いまに限らず日本にとって永遠のテーマなんですね。
 そして経済や貿易が盛んだった戦国時代は、輸入ルートや流通を押さえた人が勝った。その事実を知れば、戦国史が一変しますよね。守護大名制がなぜ崩壊したかもわかります。それは農本主義的な体制だったからで、もちろん、軍勢の供給地としての農地は重用でしたが、領国や石高、つまり農本主義の発想から抜けられなかった守護大名たちは、時代についていけなかった。
 一方で、南蛮貿易が始まり、高度経済成長をしていくなかで、流通にかかわり、港や街道を押さえた大名たちが台頭してきた。戦国時代は重商主義だったという前提がなければ、守護大名たちが滅びた理由も、大名たちが天下統一を目指した理由もわからない。それは、国取りなどではなく、『商業、流通圏を統一する』という意味だったんです。
 それなのに、江戸時代に作られた史観を、明治維新後もほとんど是正できなかった。そして、それはいまも続いているのです。
 信長はスペインに学んだ
 ……
 ──鉄砲という物質だけでなく、情報も戦局を左右したんですね。
 安部 鉄砲が戦国時代を生み、鉄砲を活用する術を身につけたものが勝ったのです。
 活用においては、もちろん流通も影響してきます。火薬の原料である硝石(しょうせき)はほぼ100%、弾の原料である鉛も80%が輸入に頼っていました。それをどうやって手に入れるかに大名は頭を悩ませてきたし、それができた人が勝ち残った。
 『飛び道具とは卑怯なり』というのは、流通を押さえられなかった人の言い分であり、さらに言えば、平和な時代になった江戸時代に鉄砲を持たなくなったひとたち、持たせないようにした人たちの感覚によるものです。
 ……
 間違った歴史観に一撃
 ──その家康の覚悟について、印象的な一文がありました。〈青年のうちに高い理想を持ちえないものは、生涯にわたって現実に引きずられた低い軌道で生きていくだけ〉。これは安部さん自身のお考えでもありますか。
 安部 そうです。それこそが、まさに私が小説を通じて果たそうとしていることです。具体的に言えば、一つは、ここまでにも触れてきたように、日本人のこれまでの歴史観を壊すこと。なぜ壊さなければならないかというと、間違った歴史観が間違った意識をつくっているからです。
 ……
 人間は、時間軸と空間軸に縛られています。どの時代に、どこに生まれたかによって、意識と生き方がほぼ規定される。そのなかで人々がどう生き、課題を乗り越え、次ぎの時代を生み出してきたのか。……」
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豊臣秀吉と南蛮人 (松田毅一著作選集)

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