米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代: 「山の権兵衛」から「平野の権兵衛」へ
- 作者:星野 建士
- 発売日: 2006/12/15
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
自然災害多発地帯で生きていた日本民族日本人は、食べ物がないという「ひもじさ」を知っていただけに、食料増産に努めていた。
全ての食べ物を神聖化し、食べ物を粗末にし生ゴミとしている事を「もったいない」として嫌悪した。
食べ物を神格化していたのが、祭祀を司る日本天皇である。
それゆえに、日本天皇が持っている伝統的「食=命」の権威は守られていた。
反天皇反日的日本人は、日本天皇が保持している「食=命」権威を否定し、天皇制度の廃絶を訴えている。
・ ・ ・
日本人は、開墾した土地を大事にしたが、命を懸けてまで守る気はなかった。
サムライ・武士も百姓も、命と土地の二者択一をする時には命を取り土地を捨てた。
日本には、土地神話はなく、貸家が多く持ち家は少なかった。
・ ・ ・
徳川家康は、今川義元の治世を学び、今川家の領地経営を徳川幕府の全国統治・諸大名支配に応用した。
・ ・ ・
1600年頃の、日本列島の総石高は約1,800万石、総人口は約1,200万人。
3石の収穫で2人を養う。
3万石の大名は、2万人の領民を支配していた。
・ ・ ・
1,大開墾時代。
各大名は、石高を増やす為に領内で新田開発を行った。
山林を切り崩し、海岸や沼・池・湖を埋め、原野や湿地帯を切り開き、用水を引いて水田に変えた為に、却って水捌けが良く成りすぎて、大雨が降ると土砂崩れが起き洪水が発生した。
各大名は、新田開発で石高を増やすと同時に自然を破壊した為に、自然災害対策として土木・治水工事に多額の出費を強いられ、被害を最小限にする工夫をこらした。
・ ・ ・
相澤理「幕府の財政が悪化した要因としては、1657(明暦3)年に発生した明暦の大火の復興事業(江戸市中の過半を焼失しました)、幕府直轄の佐渡金山・石見大森銀山などの生産量の激減、旗本・御家人の増加に伴う人件費の膨張、などが指摘できます。特に人件費は大きな負担でした。……
徳川吉宗が8代将軍として紀伊家から迎えられた18世紀前半ころには、元禄時代(17世紀後半)から経済発展によって物価が上昇する一方、新田開発などによる供給過剰で米価が低迷していました。
幕藩の財政基盤は本百姓(農民)から徴収する年貢米に依存していましたので、米価の低迷は収入の減少に直結したのです。
そこで、享保の改革では、大阪の堂島米市場を公認したり、新たな貨幣(元文金銀)を発行して今で言うところの政策インフレを実施したりするなど、米価の引き上げと調整が図られました。……
しかし、米価の低迷は一時的に生じた経済状況ではなく、本百姓体制と貨幣経済の矛盾という幕藩体制の根幹にかかわる本質的な問題が、そこには横たわっていました。
江戸時代の人口は約2,500万人、そのうちの約8割が農民であったと推計されています。彼らの納める年貢が幕府・藩の財政を支えていました。これを本百姓体制と言います。
本百姓体制は、一面で」は貨幣経済を前提としていました。年貢米を換金するシステムがなければ、収入源になりますん。……
しかし、貨幣経済を支配する市場原理のもとでは、年貢の増徴イコール収入の増加になるとは限りません。諸藩が進めた新田開発によって、17世紀の100年間に耕地面積は約164万町歩から約297万町歩と約2倍に拡大しました(1町歩は約1㌶)。しかし、その間に人口はほとんど増加していません。供給過剰となれば価格が下がるというのは、市場原理の必然です。
年貢増徴のために行った新田開発が原因で米価が低迷する。このような形で本百姓体制と貨幣経済の矛盾が表面化し、幕藩の財政に重くのしかかったのが、吉宗の時代だったのです。」(『東大のディープな日本史』P?.168〜P.171)
・ ・ ・
2017年3月16日 朝日新聞「産業遺産編(7)見沼代用水
江戸の『天才』半年で完成
五輪も支え 今なお大動脈
……
見沼代用水が生まれたのは約300年前、江戸時代中期。幕府の財政立て直しのため、米将軍と呼ばれた8代将軍吉宗の『享保の改革』で新田開発が進み、見沼が干拓された。幕府に入る米の量を増やそうと、次々と未開地の開墾に乗り出していった。
だが、見沼の周辺は荒れ野、低い土地。芝川を堤防で堰き止めた『溜池(ためいけ)』で貯水したが、日照りが続くと水不足になり、大雨が降ると水があふれるという有り様だった。
稲作に適した水環境を整えるには──。吉宗が白羽の矢を立てたのが、紀州藩で『土木技術の天才』と呼び声高かった井沢弥惣兵衛為永。約80キロも離れた利根川から取水し、新たに60キロ以上に及ぶ用水路を掘削するという大計画を練った。
この難工事を進めるため、井沢は新技術を導入。当時、最低限の越流堤と遊水池を利用し、洪水を抑え込むのではなくあふれさせてよいところを用意しておくという『関東流』の灌漑施設が主流だったのに対し、井沢は強固な堤防で固定して蛇行する河川を直線化し、取水口などで水の量を調整する『紀州流』を用いた。1727(享保12)年夏から半年ほどで代用水を完成させたという。
『関東流は自然を受け入れようとする方法だが、紀州流は自然を積極的に制御するもの。技術的には格段に飛躍しながら、半年で用水路を造ってしまったところが井沢のすごさ』。旧浦和市教育委員会で文化財保護行政を担当していた青木義脩さんはこう解説する。
さらに井沢は、見沼代用水の完成から約3年後、水路をより有効活用できるように、周辺の村と一大消費地の江戸とを船で結ぶ『通船堀』を設置。産業交流の繁栄をもたらした。
高低差が3メートルほどある場所でも、関(閘門{こうもん})を設けて水位を調整することで船の上げ下げを可能にする構造。太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河(1914年建造)と同じ仕組みで、技術力の高さがうかがえる。
その後も用水路は時代に合わせて改修が重ねられ、広大な見沼田んぼの隅々まで水を運び続ける。見沼代用水土地改良区によると、支線を含めた総延長は現在約190キロ。見沼周辺だけではなく行田や加須、蓮田、上尾など県内15市2町を流れ、県土を大きく斜めに横切る大道脈となっている。
……」
・ ・ ・
サムライの本分は、刀を持って主君に忠勤を励み、その馬前で手柄を立てるか討ち死にする事である。
徳川家康は、江戸の行政・司法・警察を司る町奉行所を置き、町奉行には町政に於ける裁判と法の執行を命じた。素直に言うこと聞かない町衆にうんざりして、本多正信の進言を受け入れて、町中の煩雑は本人責任として身分低い庶民に任せた。
庶民を上手く利用して支配する為に、身分が低かろうと、卑しい出身であろうと、階級・階層などといった社会的地位にこだわらず、本人の能力と誠実と努力を判断基準として本人が引き受けるなら重要な仕事を任せた。
日本の身分は、大陸の様な固定された階級・階層ではなく、選択の自由がある職業的なもので流動性が強かった。
成り上がり者が成功すれば、破格の褒美を与え、一代だけの高い役職を任せた。
但し、大言壮語で公言した事にしくじれば、如何なる理由があれ、一切の弁明を許さず本人責任として厳罰に処した。
町人・百所の身分であれば、身分を非人に格下げして島流しとした。
サムライとなっていれば、同情はおろか擁護も弁護もされず、「俄侍」と嘲笑されながら強制的に切腹させられた。
サムライは、公言した以上は自己責任で実行し、出来なければ世を惑わせない為に公言しなかった。故に、サムライは責任感が強かっただけに、愚にもつかない思いつきをいって世を騒がす事を嫌って無言が多かった。
サムライになった庶民は、建て前ではなく本音で生き、事なかれ主義的に責任を回避する為に問題を先送りにする事はなかった。
常識を持った町人や百姓は、命が幾つあっても足りない城務めのサムライ身分になろうとは思わなかったが、世の中が善くなり子孫が暮らしやすくなる為の努力は惜しまなかった。
江戸時代の施政は、頑固で融通性のない、極端な変化を嫌う保守的な庶民をどう宥めるかで大半が費やされた。百姓には、如何に一揆を起こさせない様に、円滑に約束通りの年貢を取り立てるかで四苦八苦した。
・ ・ ・
・ ・ ・
- 作者:矢部 洋三
- 発売日: 1997/08/01
- メディア: ハードカバー