⛻5〗─1─鎌倉時代の農業技術革新。戦国時代の商業・経営革新、交通・物流革新、生産技術革新。近江商人。~No.15No.16No.17 @ 

近江日野商人の経営史―近江から関東へ

近江日野商人の経営史―近江から関東へ

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年3月24日号 週刊朝日司馬遼太郎と宗教
 講演録 法然親鸞 下
 鎌倉時代の話をいたしますと、この当時の日本人は賢かったですね。鎌倉時代の日本人の考え方は合理的で、当時の西洋人よりもずっと近代的でした。
 平安末期から鎌倉時代にかけて、いまの言葉でいえば農業科学が大変に進んでいます。
 荒蕪(こうぶ)の地だった関東平野も灌漑用水が引かれます。あちこちで運河や灌漑のための池が掘られ、田んぼが広がり、お米がたくさん取れるようになった。だれがしたというよりも、農業に頭を使うことが流行になった時代でした。
 鎌倉時代の日本だったら、土地一町歩につき10人養えるとして、同時期のヨーロッパや中国だったらどうでしょうか。ごくわずかな人数しか養えかったと思います。
 ですから室町時代から戦国時代にかけて、倭寇と呼ばれる、日本人の海賊が中国の沿岸部を襲いました。
 沿岸部の町を占領し、居座ってしまいます。たいへん困っただろうと思うのですが、当時の中国の文献を見ますと、こう書かれたものがありました。
 『あんなやつらには占領させておけばいい。どうせ2年もすれば帰ってしまうんだ。日本人ほど、故郷を恋しがる者はいない』
 恋しがるというより、占領しても食べ物がなかったのでしょうね。中国の農業はそれほどに進んでいませんから、腹が減って減って、故郷が恋しくなったのでしょう。
 合理的な農業生産が始まりますと、人々の物の考え方も合理的になっていきます。日が照っているうちに何々をまくとか、春の間に何々をつくっておくとか、頭が科学的になっていく。そのうち鎌倉武士が勃興します。京都の貴族とは全く違った人種と言っていいでしょう。合理的な頭を持った者が日本の国の中枢を握る。だれも簡単にはだまされなくなっていきます。既成の加持祈祷の真言、天台に飽き足りない人々が増えてきて、新しい宗教が求められた。これが、この時代の精神でした。
 法然上人が登場します。
 法然上人も親鸞聖人も栄西和尚も皆、比叡山に学びました。しかし、ここはしょせんは総合大学だったのです。
 ……
 お釈迦さんがあれほど苦労して到達した悟りの境地に、信仰によって一挙に入れる道が、浄土門ですね。
 ……
 絶対他力の境地がお釈迦さんの悟り
 ……
 お釈迦さんに近づくための多くの宗旨がある贅沢さ
 ……」
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 江戸時代の武士封建制は、商人の納屋衆合議制・地下請と百姓の惣村寄り合い・村請が原形であった。
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 近世(近代以前)の江戸経済の源流は、ヒト・モノ・カネが頻繁に行き来した戦国時代の近江にあった。
 近江商人は、欧米の資本家のような国際感覚を持っていた。
 近江商人を賢く使ったのが、織田信長豊臣秀吉そして徳川家康であった。
 現代日本の経済の基盤を築いたのは、日本的社会システムを整備した近世的経済観念を身に付けた徳川家康である。
 戦国時代からの途絶える事のない技術・農業・物流・交通などの諸革新による経済発展が、日本を豊かにし、日本人の穏やかな心を育んだ。
 生きて頑張って働けば、「自ずと道は開けて何とかなる」という楽天的な性格を生み出した。
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 2017年1月号 Voice「日本人の≪商いの心≫を探る Ⅳ 最終回 呉善花(おそんふぁ)
 商人自治都市の形成
 市の商人による自主運営
 鎌倉時代に入ると、月に1回程度設けられていた定期市は、月3回が一般的になっていきました。諸国の交通の要所に市が発達し、宿泊や人馬調達の施設を備えて荷物を運ぶ中継基地の役割を果たす街道筋の宿駅は、多くの人びとが常駐する町場の性格を強めていきます。鎌倉時代末期からは、周辺農村の人びとも市に参加していくようになります。また定住店舗が出現し、それが市と併存していくようになります。
 市の世俗権力の及ばない治外法権的な聖域ですから、市の商人たちによって自主運営されていきました。多くが定住店舗になっていきますと、市の商人たちを中心とする町へと変貌していき、町は商人を中心とする住民によって自治運営されていくようになります。そして町が寄り集まって一つの惣町(そうちょう)=都市を形成するようになります。
 たとえば、惣町として形成された堺の自治の主体は各町にあり、町ごとに法や規律を定めていました。そして、各町が輪番制で出す『納屋貸(なやがし)十人衆』という合議制組織で運営されました。
 堺は永享3(1431)年から、地下請(じげうけ)が行われました。地下とは所領の住民のことです。地下請とは、領主が土地調査などにより徴税額を決めて徴税するのではなく、住民側が一定の年貢や地代をとりまとめて領主に支払うこと、つまり徴税の請負をいいます。地代は一般水準より高額となる代わりに、領主はそれ以外の税を課すことができません。
 地下請では、警察権・裁判権も住民側に移行されます。住民たちは市街への武力集団の侵入を阻止するため、南、北、東に濠を巡らして町を囲み、自警軍事組織として傭兵隊を配置しました。
 堺は領主とのあいだにそうした契約を交わしたのです。堺は1560年代(永禄年間)に発展の頂点にありましたが、その当時日本にいたイエズス会の宣教師は、
 『日本全国で堺の町以外に安全な所はない、ベネチアのような執政官によって治められ、共和国のようである』
 ということを、本国に宛てた手紙に書いています。
 地下請は農村でも行われました。農村はもとより自治組織をもって運営されており、国家や領主はその内部に関与することなく、年貢や課役を決定・徴集しました。
 古代末期から王朝国家の全国的な統一支配権力が衰え、人びとはそれまでのように国家の保護に頼って生きること困難になっていきました。血縁一族集団(氏族)もすでに拠るべき力を失っていました。統一政府が事実上存在せず、したがって頼るべき法、行政、司法がないなかで、人びとは自力で生き抜いていく方途を見いだしていくしかありませんでした。
 惣村の勃興と村請
 戦国乱世期へと歴史が進むなかで、農民たちは村落共通の利益を守るために、自力救済を目的とするまったく新しい結合組織を形づくったのです。こうして室町時代後期から、ことに応仁の乱(1467〜77)以降に形成されていったのが、複数の村々が連合して『自給する農民自治村落』としての惣村でした。
 惣村では、惣の集会を最高決定機関とし、名主層から選ばれた乙名({おとな}年長者による複数の代表者)・年寄(その下の中老幹部)と呼ばれる者たちを執行機関とし、これに若衆と呼ばれる青年組織が実働部隊として付属しました。彼らは皆、村の鎮守社の祭祀を執り行う宮座という伝統的な村落組織のメンバーでした。彼らは寄り合い(村議会)を開き、村の掟(法)をつくり、入会地や灌漑用水の管理を行ない、青年たちを中心に武装して村の自衛を行ない、村自身の手で犯罪者を特定し処罰を行いました。
 こうして15世紀から惣村が勃興していくなかで、惣村での村請(地下請)が行われるようになっていったのです。これによって、次のような日本史を画する決定的な変化がもたらされました。
 
 1,村が領主と契約した一定の年貢・課役の納入を、村が責任をもって納入する村請の方法が、畿内を中心として急速に全国的に拡大していったこと。
 2,村請によって、それまで領主が得ていた領内の社寺所有地の免税分や、灌漑施設などのための土地の免税分が、村の管理財産(惣有財産)となっていったこと。
 3,領主たちは領内の検断権(裁判権)をもっていたが、やがて村自身が村独自の法に基づいて犯人捕縛・裁判・処刑を行う(自検断)ようになっていき、次第に領主の検断権が有名無実化していったこと。
 
 町請でもほとんど同じ事が起きました。堺だけではなく、伊勢桑名、松坂、博多など各地に同様の自治都市が形成されていったのです。
 これらの事によって荘園制は完全に解体し、日本の社会は近代に通じる町村制へと移行していったと、勝俣鎮夫はのべています(勝俣鎮夫「戦国時代の村落」『戦国時代論』岩波書店所収)。
 こうして、それまでの領主による領民の一方的な直接支配ではなく、保護を与える領主と保護に対して奉仕で報いる一個の自立した共同体としての惣村・惣町という、相互性に基づく新たな主従関係に入ったのです。そしてこの新たな関係が、農業の集約化を進展させ、収穫量を増大させ、商工業を大きく発展させていったのです。
 戦国時代の経済発展と楽市・楽座
 応仁の乱の始まった1467(応仁元)年から、織田信長足利義昭を奉じて入京した1568(永禄11)年までの約100年間が戦国時代です。戦国時代の日本は戦乱に明け暮れていたため、生産的な活動のほうはおろそかになっていたかというと、あったくその逆でした。戦国時代に経済は大きく発展し、各地に都市が続々と勃興していったのです。
 農業生産では戦国大名たちは、両国経済の強化をめざして新規の耕地開発を盛んに奨励し、治水灌漑事業を大きく推進しました。戦国時代から新しい田畠が急増していったのはそのためです。また、農村における木綿栽培は戦国大名の政策で始められたもので、以降、木綿の需要は急速に拡大していきました。
 鉱工業生産も飛躍的に拡大した。金・銀山の積極的な開発が各地で進められました。とくに武器生産のために、砂鉄を材料とする踏鞴(たたら)による製鉄業が大きな発展を遂げています。それに伴って、鍛冶や鋳物の技術が飛躍的に進歩しました。
 商業も戦国時代から急速な発展を遂げました、戦国大名たちはそれぞれ御用商人を抱え、彼らに商品売買や流通の特権を与えて、軍事物資の調達に当たらせました。そのため、各地の交通拠点が城下町とともに、新たな商業都市として形成されていきました。地域間取引による商業は、戦国時代から急速に活発化したのです。
 また戦国大名たちは、私的な領主から公的な政治家としての性格を強めていき、領国支配体制の発展を目指しました。彼らの多くが分国法を作成し、それに基づいて領内を統治するようになりました。また中央から儒学者、禅僧、芸能者などを招いて住まわせ、文化・学術の面での領国の繁栄を図っていきました。
 技術職人については、戦国大名たちは中世初期以来の職業特権を追認し、また新たに特権を与えて保護し、領国支配のさまざまな仕事に用いていきました。なかでも、城郭や城塞の建設に当たる石工や大工たち、刀や鉄砲の製作に当たる鍛冶師たち、武具の材料としての皮革生産を行う革作りたちが重要視されました。
 戦国時代後期になると、戦国大名たちは市の直接的な掌握へと動き、積極的に市や宿を形成していきました。そして犯罪はもちろんのこと、押買や不法な質入れによる借金取り立てを禁止するなどの保護を積極的に行ないました。また町人自治を認めることも少なくありませんでした。
 こうした流れから、大名が従来からの市の諸権利を公式に承認し、市の安堵(領主が所領の領有を保証すること)する政策、つまり楽市政策が採られるようになっていきます。
 極楽浄土で味わえる10種の喜びを『十楽』といいますが、『楽』は中世では法や権力に縛られることのない自由を意味する言葉として使われました。楽市はすでに、権力と無縁の存在の市として、各地に現実化していたものです。それを強いて楽市令を発するというかたちで権力が保証したことは、市が戦国大名などの権力に掌握されることを意味します。権力とは無縁の商売自由の場が、権力の保証・庇護下の場へと移行していったのです。
 楽市政策は天文18(1549)年、近江の六角定頼が観音寺城の城下町として石寺を楽市としたのが始まりといわれます。以後、楽市政策は戦国大名の城下町経営のために採られるようになっていきました。すでに存在する既成の市に対しては、楽市とし商業の自由を保証してやり安堵してやる代わりに、城下町として武士の拠点を置くようにさせていったのです。
 楽市令に加えて楽座令が発せられることもありました。楽市令は市場税を免除して自由通商の場とするものですが、楽座令は独占的な特権を有する商工団体としての座から、その特権を奪い座の存在を認めないものです。
 大名領国の城下町には、各種の座がありましたが、多くの場合、徴税請負人的な御用商人の性格をもち、大名はそれらの座を通じて商業支配を行っていました。織田信長などの戦国大名は新規の建設都市を楽市・楽座としましたが、その他の場所では座はそのまま存続しました。座が完全に解体させられるのは、天正16(1588)年の豊臣秀吉による楽座令によってです。それによって、これまでの座の営業独占権が停止されたのです。
 こうして武家勢力は商業を武家支配の領域に組み込んでいきました。同時に『刀狩り』によって農民・町人の武装解除を図り、検地(農地の測量)を行って年貢制度の近代化を推進していったのです。
 山越商人から近江商人
 東海道に乗っていると、関ヶ原(大垣と米原の間)の辺でいきなり雪が降っていることがあります。関ヶ原辺りから西に琵琶湖までの北側に、日本海側とのあいだを遮る山脈がないためです。日本海側の雪雲がそのままやって来たり、日本海の湿った空気が琵琶湖の東側にある養老山系にぶつかり、そこで上昇して雪を降らせたりするのです。
 日本列島を南北に縦断する脊梁(せきりょう)山脈群がスッと途切れた平地として、日本の東と西と北の接点に位置する地、そこが日本最大の湖である琵琶湖を擁する近江なのです。こうした地形から、近江は古くから交通の要所としてありました。
 近江の地は、琵琶湖北端の塩津から日本海沿岸の敦賀まで塩津街道で結ばれ、琵琶湖南部の大津から京の都までの道のりは約14㎞と近距離です。また、東海道東山道中山道)・北陸道が琵琶湖東側に集中する地であり、隣国へ通じる山越えの道は10本にも及びます。
 こうして地の利から、近江には諸国からの物産が集まりやすく、近江を通じる街道沿いに早くから市が発達しました。中世の近江では、国内各地の商人たちが地元の市を中心にそれぞれ一定の商業圏をもち、それぞれ特定の他国(伊勢・若狭・京都・美濃)との通商独占権をもって活動していました。
 彼らは大きく、伊勢との通商独占権をもつ四本商人と若狭との通商独占権をもつ五箇(ごか)商人に大別されます。
 四本商人は、小幡(おばた)、沓掛(くつかけ)、石塔(いしどう)、保内({ほない}、得珍保{とくちんのほ}、野々川)の商人で構成されます。彼らは鈴鹿峠を越えて伊勢に入り、海産物や塩・布をはじめ各種の商品を仕入れ、近江国内でそれら物産の卸売りや小売りを行いました。彼らは山越商人とも称されました。また保内が代表として保内商人とも呼ばれました。
 五箇商人は、小幡・八坂・薩摩・田中江・高島の南市の商人で構成されます。小幡商人だけが四本、五箇双方に属していまし彼らは琵琶湖北端の塩津から若狭へ入り、主に塩魚を仕入れて近江国内で卸売りを行いました。
 両商人集団は、いずれも200人ほどの隊を編制して他国とのあいだを行き来しました。
 彼らおよび他国の商人集団は外部の、外部の集団とのあいだばかりでなく内部でも、市の営業独占、商品を運ぶ交通路独占などをめぐって激しい商業闘争を展開しました。そのなかで勢力を大きく拡張していったのが保内商人です。
 保内商人の拠点である得珍保は、延暦寺の荘園で農村でしたが、水利がよくないため水田化が遅れ、それが農民たちが商業に従事するきっかけとなったいわれます。保内商人は延暦寺の守護佐々木、六角の庇護のもとに他の商人たちの特権を侵食して勢力を拡大し、やがて五箇商人の若狭通商独占権を打破するに至ります。
 天正4(1576)年、織田信長近江国内の牛馬売買を安土に限定したことで、それまでの保内商人の特権が消え去り、大打撃を受けます。さらに豊臣秀吉の『太閤検地』以降推し進められた、商工・農の分離政策によって、得珍保は近世的な農耕村落へと再編され、商人集団としての保内商人は消滅します。
 楽市政策によって、商人たちは農村から城下町、都市へと移住します。小幡商人は安土へ移住し、六角氏配下の武士たちも移住しています。そして安土城と城下町が焼失し、豊臣秀吉が安土に隣接する八幡に城を築いて城主となり城下町の整備が進むにしたがって、小幡商人は再び八幡町に戻り、近江八幡商人として活躍していくことになります。
 八幡商人は地元に限らず、江戸開幕と同時に江戸に店を出すなど、京都・大坂にも大店を構え、全国的な商圏を拡大していきました。また、早くから海外(東南アジア)に進出しました。」
 一方、蒲生氏郷日野城主となりますと、氏郷は楽市楽座の制度を整っていた信長の岐阜城下町での人質時代に学んだ城下町経営を生かし、日野城下町を完全な楽市楽座とするために力を尽くしていました。
 信長の死後、氏姓は伊勢松坂から会津黒川(会津若松)へと領地替えされますが、それぞれの地で産業振興に尽くしました。氏姓没後、家臣たちの多くが日野に戻りましたが、かつての商業都市の面影はありませんでした。旧家臣たちは糧道(りょうどう)を求めて再び会津へ向かうと、旅の路銀の足しとして京で求めた古着が、会津で飛ぶように売れたといいます。これが日野の古着行商の始まりともされます。
 高島からは戦国末期に多くが京に出て商人となり、京を本拠地とする奈良・江戸・大坂との通商に活躍しました。また近江商人のなかでも、最も早く東北・松前(北海道)へ進出したのが高島商人でした。彼らは江戸時代には各地の高島商人をつなぐネットワークを形成し、いまにおうチェーン店のような仕組みを生み出していったのです。

 *2017年春に、本連載を含む呉善花(おそんふぁ)著『商人魂とは何か──日本人の≪あきないの心≫を探る』(仮題)が小社から発行されます」




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魂の商人 石田梅岩が語ったこと

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  • 作者:山岡正義
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近江商人の理念: 近江商人家訓撰集

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近江商人に学ぶ

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