🍙21〗─1─スティーブン・フックス「第二次世界大戦以前に、日本は米国にとって農業生産物最大の輸入国だった」。昭和16年1月~No.92No.93No.94 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 軍国日本は食糧輸入国であった。
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 資源のない日本は、人を唯一の財産とし、貴重な人材に育て、「宝」である子供達を飢えさせない為に食糧を東南アジア地域から輸入した。
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 日本は、くず鉄・石油などの工業生産に必要な資源と共に綿花と穀物・食糧などの農産物をアメリカ、カナダ、オーストラリアなどから大量に輸入していた。 
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 ルーズベルトは、親中国として中国を救援する為に、人や資本や日本商品など全ての面で、日本を大陸から完全追放して列島に封じ込めるべく対日強硬策を実施した。
 アメリカは、日本が人口激増による食糧不足で危機的状況にあるある事を熟知した上で、食糧・石油・資源などの日本輸出を禁止もしくは制限した。
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 軍国日本は、食糧不足を南方から輸入していたが、経済制裁で必要な食糧が輸入で奇なる恐れがではじめた。
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 ロイド・ジョージ「国民は、政府に明確な目標があり、指導力があれば犠牲を受け入れる。但し、指導者自らが犠牲を覚悟しなければならない」
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 日本の不幸は、前年10月に勃発したタイ仏印国境戦争に始まる。
 タイ、仏印ビルマは、アジアにおける大穀物生産地帯であった。日本は、特に仏印から大量の外米を輸入していた。
 松岡洋右外相は、両国に対して話し合いのテーブルに着かせる為に軍事的圧力を加え、国境紛争を調停して東京条約をまとめた。
 松岡は、食糧危機にある日本への外米の安定供給を維持する為に、政情不安定にある東南アジアでの日本の影響力を強める強硬外交を展開した。
 フランスは、人種差別から日本の調整を受け入れさせられた事に憤っていた。
 イギリスは、植民地支配が危うくなるとして、日本の動きに神経を尖らせた。
 アメリカの反植民地主義者は、植民地開放という栄誉ある指導的立場を失う事を恐れた。
 アメリカの、金融・経済で国際的主導権を取ろうとするユダヤ人金融資本家は、反植民地主義を唱えて力の均等を重視する松岡外交の転覆を画策した。
 戦後。松岡洋右A級戦犯として訴追され、判決前に病死したが有罪は確定した。
 ルーズベルトは、「参戦しない」を公約で3期目の大統領選に勝利したが、秘密裏に対独戦に参戦すべく準備を始めていた。参戦の大義名分を得る為に、日本を窮地に追い込むべくあらゆる策略を駆使していた。
 日米全面戦争は、アメリカがすでに決断していた為に不可避であった。
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 昭和15年産米  …6,087万石。
 国内総人口    …7,367万人。
 昭和16年度消費量…7,173万石。
 昭和16年度輸入量…1,510万石。
 昭和16年度移入量…  528万石。
 昭和16年度供給量…7,980万石。
 コメ自給率69%。 
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 前年の凶作で、国内の食糧は不足した。
 食糧不足は、戦争の為ではなく、凶作の為であった。
 日本が飢餓に陥るかどうかは、日米交渉次第であった。
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 スティーブン・フックス「第二次世界大戦以前に、日本は米国にとって農業生産物最大の輸入国だった」
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 軍部中枢部は、陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」を設置し、アメリカとの戦争について両国の国力差を機密情報をもとにして調べた。
 結論は、アメリカと戦えば「最初は有利に戦えても最後は負ける」であった。
 もしどうしてもアメリカと戦争する場合は、深刻な被害を受けないよう、不名誉な敗北を迎えない方法を研究した。
 各省庁から派遣された優秀なエリート官僚は、統制経済体制を推進したマルクス主義者であった。
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 1941年 月刊誌 『文藝春秋』「国民をこう思う」
 <日米戦争は回避できると思うか?>
・避けられる   412
・避けられない  262
・不明  11
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 日本の人口戦。
 日本の少子高齢化と人口減少が、深刻な問題とされた。
 出生率は、日中戦争における戦闘が一段落して昭和15年頃は上昇に転じたが、日米関係の悪化に伴う社会不安から次第に下降し始めた。
 日本は、人口爆発に伴う食糧危機の解消として産児制限と移民政策という人口抑制策をとってきたが、一転して人口増加策に政策を変更した。
 人口減少は、国家存亡の危機としてマルサス的人口過剰論を放棄した。
 厚生省予防局は、『国民優先図解』を出した。
 「我々がこれから世界の檜舞台に於いて覇を争って行く為に注目を要するのはフランスやイギリスやドイツではなく、実に同じ亜細亜にあって日本を取り巻いて居ている支那であり、ソ連であり、印度である。……出生率に於いて我が国より遙かに高いソ連支那、印度は更に全人口が我が国の2倍乃至4倍もある。従って年々に生れる赤坊の数を比較すると、我が国で1人生れる間に支那では7人生まれ、印度では5人、ソ連では3人生まれている。我が国が之等多産の国々に伍して大いに国運を伸ばして行く為には余程国民の自覚を必要とする」
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 近衛文麿内閣は、「近代国家の発展には人口増加が欠かせない」という時代遅れとなりつつ或成長モデルに従い、人口政策確立要綱を閣議決定した。
 人口約7,000万人を1億人に増やして大東亜共栄圏・円貨経済圏を建設する事を、国家目標とした。
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 川島四郎陸軍中佐は、陸軍に於ける非常用の兵糧に関する考察として『軍用糧食に関する研究』を発表した。
 日本陸軍は、ひもじさを経験した軍隊として食糧補給には他国軍体以上に力を入れ、世界に先駈けて乾パンと特殊栄養食(サプリメント)を兵士に携行させた。
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 1月 埼玉県は、県内の食糧を確保する為に、特産の干しうどんの県外移出を禁止した。
 同県の干しうどん生産量は、年間250万トンで、約6割が県外へと販売されていた。
 企画院グループ事件。企画院物動総務班の稲葉秀三らマルクス主義者を逮捕。4月8日 企画院の勝間田清一農林省農政課長の和田博雄らを、非合法な共産主義運動に関係した治安維持法違反で検挙した。
 軍国日本は、世界平和の為として天皇と日本を裏切っている共産主義者達を非国民として弾圧した。
 司法の大権を持つ裁判所は、三権分立の大原則から、共産主義者らに証拠不十分として数年の懲役刑の判決を下して、検察側が求めた死刑等の極刑は不当要求として却下した。
 政府内には、マルクス主義革新官僚が多く存在していた。
 軍国日本は、頭脳優秀な彼等によって多くの戦時政策が決められ、そして戦争遂行の為に実行されていた。
 軍部は、戦争に必要な物資を獲得する為に、軍部優位の物資動員計画に批判的な自由主義者や経済合理主義者を一掃して企画院を影響下に置いた。
 企画院は、日中戦争勃発と共に物資動員と生産拡充を担当する国策立案機関として創設された内閣直属機関であったが、陸軍省戦備課と海軍省兵備課の出先機関として軍部の意向に沿って開戦に都合の良い動員計画を立案していた。
 陸軍の出先機関は、企画院の国際情勢に即した物資輸送計画を無視して、民間の船舶を統帥事項として勝手に徴用し軍事物資を優先的に輸送していた。
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 日本政府は、豊富な人材が必要として人口抑制を放棄し「人口政策確立要綱」を閣議決定した。
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 1月2日 タイ・仏印国境紛争は、さらに激化した。日本は、タイ及び仏印を東アジア自給経済圏(特に食糧面で)の生命線と位置付けていただけに同紛争を深刻に考え、南方問題解決に本腰を入れざるをえなかった。
 キッシンジャー「日本人はいざとなれば思いもかけない事をする。決断力に富み、卓抜したエネルギーを蓄えている。必要とあらば何でも実行してしまう」「国家として、また国民として、日本人ほど優れた、そして恐ろしい人々はいない」
 1月3日 温泉地やスキー場で、正月を迎えようとする家族連れで駅は大混雑していた。
 鉄道省や私鉄各社は、時局を訴えて、自制を訴えたが効果がなかった。
 都市住民は、一年に一度の事として、戦争をそっちのけで家族旅行を楽しんでいた。
 1月7日 情報局は、外国人記者に対して、今後は日本語で会見すると通告した。
 1月8日 東條英機陸相は、「戦陣訓」を発表した。
 1月20日 米屋の自由営業が廃止された。
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 1月22日 「産めよ殖やせよ」の人口増加政策を発表し、「一家庭に5人の子ども」と早婚を奨励した。
 日本政府は、これまでバラバラに行われていた人口増加政策を一本化して推進する為に人口政策確立要綱を決定した。
 これは、現代の福祉国家を目指す社会保障政策の出発点であり、「女性手帳」の原型とも言える「妊産婦手帳高麗は、生き残るべく日本征討に全面協力した。」の配布につながっている。
 同様の国民健康促進政策はナチス・ドイツでも見られ、中国やソ連などでは実施どころか検討もされていなかった。
「第一、趣旨
 東亜共栄圏を建設して其の悠久にして健全なる発展を図るは皇国の使命なり、之が達成の為には人口政策を確立して我国人口の急激にして且つ永続的なる発展増殖と其れの資質の飛躍的なる向上とを図ると共に東亜に於ける指導力を確保する為其の配置を適正にすること特に喫緊の要務なり。」
 日本が、アジアで指導的立場に立つ為には人口増加と人材育成が必要であると謳った。
「第二、目標
 右の趣旨に基き我国の人口政策は内地人人口に就きては左の目標を達成する事を旨とし差当り昭和35年総人口1億人を目標とす、外地人人口に就きては別途之を定む
 ……
 第三、右の目的を達成する為採るべき方策は左の精神を達成する事を旨とし之を基本として計画す
 ……
 第四、人口増加の方策
 ……
 第五、資質増強の方策
 ……
 第六、指導力確保の方策
 ……
 第七、資料の整備 
 ……
 第八、機構の整備」
 仕事に喜びを見出した女性の晩婚化が進み、平均初婚年齢は24.3歳で、男性の出征と戦死が目立ち始めるや婚期は更に遅れ始めていた。
 女性の平均初婚年齢を引き下げる為には、女性の社会進出を抑制し、多産家庭への物資配給を優先させる等の家族支援及び、出征兵士家庭の生活保護を充実させると決定した。
 国民優生連盟は、政府と一体となって、結婚後に夫が徴兵されても生活に困らないようにな貸付金などの社会保障を充実させ、若い女性に結婚と出産を促した。
 国家は、女性をその気にさせる為にあの手この手と糞真面目に結婚・出産奨励政策を実行していた。
 人口増加の為に、国を上げて大まじめに取り組んだ。
 同時に。地方の貧困家庭救済として、借金苦や収入不足等による身売りをなくす為に子供達を都市部の工場への集団就職を奨励した。
 子供達の集団就職の煽りを受けて職を失ったのが、在日朝鮮人であった。
 低賃金労働者であった在日朝鮮人は、仕事もろくにできそうにない子供達に強制的に仕事を奪われ、家族を養う収入を断たれた為に、民族差別する日本人への憤りを募らせた。それでも、貧しい朝鮮に帰っても働き口がない為に日本に留まり、子供ができないような危険できつい工場や鉱山の飯場に転がり込んだ。怒鳴って暴力を振るう日本人監督者への不満を募らせて、反日活動に参加していった。
 在日朝鮮人は、子供救済の犠牲となった。
 戦後。不当な扱いをされた在日朝鮮人達は、日本政府や企業を相手取って賠償裁判を起こした。
 軍部は、農村人口の激減は屈強な兵士の供給に支障をきたし、同時に兵糧自給率の低下につながるとして、全国の人口分布を均等にするべく都市の非生産性の高いサービス業従事者を地方に疎開させるとした。
 政府と軍部は、国権を濫用して国民生活を統制し、個人の自由を制限した。
 人口増加政策が、家族的絆や地域的つながりを重視した為に、世帯主義的家制度が強化され、女性は結婚して子供を産むものだとされた。
 人口要領「第四、一、(イ)人口増殖の基本的前提として不健全なる思想の排除に努むる共に健全なる家族制度の維持強化を図る事」
 女性は、労働不足を補い重要な人材とされて社会に出て職を見付け自活できるようになったが、人口減少を食い止める為という国策から、強制的に家の中に閉じ込められてしまった。
 有識者の間では、幾ら国が音頭を取って結婚と出産を強要しても、女性にその気がなければ期待薄であるとの悲観論が出ていた。
 政府や軍部も、女性が安心して結婚・出産できるような制度改革を行い、後は女性の意識が国策に協力に向かうように待つしかなかった。
 つまり、女性の意識変革をもたらす精神論だけが頼りであった。
 「結婚報国」「子宝報国」といった、標語が社会に溢れ結婚を促していた。
 女性の心理は複雑で、希望や夢を振り回し自己満足して喜ぶ単純な男性ほど理想主義で有頂天になる事は少なく、現実主義として冷静であった。
 西洋の自立した女性像を理想とするハイカラな女性は、東洋の儒教価値観による男尊女卑的な陰鬱な風潮を嫌い、家に縛られ、義理の父母や夫の召使い的に虐げられる事にうんざりしていた。
 女性は、男性から独立し、男性に依存しない、男性から自立した女性の権利を強く望んでいた。
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 1月23日 軍部は南方問題を解決する為に日泰(タイ)軍事同盟を主張するが、松岡外相はむしろ平和的な友好条約を主張した。
 軍部は、自衛的軍事戦略を優先すべきと考え、単独で軍事協定案を天皇に上奏した。
 天皇は、平和的解決を希望して24日に軍事協定案を認めず、憲法の規定に従い政府が承認しない外交案件は裁可できないとして軍部にそのまま下げ渡した。
 昭和天皇「軍事協定についてよく考えたが、タイには親英派が多いゆえ、この協定を出す事は危険である。また仏印とは、アメリカの問題など重要事項があるから政府と充分連絡しぬかりのないようにせよ」
 松岡外相は、天皇の希望に添うべく、日泰友好条約の批准を発表した。
 外交は、外務省の大権として秘密主義を貫いた。
 軍部は、外交能力の低さを曝け出して面目を潰しただけに、松岡外相を目に仇とした。
 松岡洋右は、「自分は外交の専門家であり、外交は自分が取り仕切る」という自意識過剰から、日本的に根回しして意見の一致を取り付けず独断で交渉し密室で決定した為に、敵を多く作り孤立化して行った。
 1月26日 帝大生300人が、江戸川堤の湿地帯を開墾した。
 1月27日 国鉄は、代替食品であるトウモロコシを線路脇に植えた。
 1月29日(〜3月下旬) アメリカとイギリスの幕僚会議は、対日戦略を承認し、対日戦開戦の準備を始める事を決定した。
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 2月 米穀管理規則。
 東京の上野動物公園は、猛獣のエサ不足を予想して余剰動物の処分を決定した。飼育員は猛反対したが、動物より人の食べ物が優先という風潮に抗しきれず、涙を呑んで殺処分を受け入れた。ヒマラヤ熊3頭などが、射殺された。
 中国系ベトナム人ホー・チ・ミンは、共産主義でフランス支配から独立する為に祖国ベトナムに帰国した。中国との国境近くの丘の洞窟に司令部を置き、その丘をカール・マルクスと名付けた。
 ホー・チ・ミン(漢字名  胡志明)は、 貧しい儒学者グエン・シン・サックの子として生まれた。
 ソ連は、インドシナ半島共産主義化する為にホー・チ・ミンを利用しようとした。
 アメリカのOSSは、対日戦に備えてホー・チ・ミン共産主義勢力に武器弾薬の支援をする見返りとして、日本軍に関する情報提供を求めた。
 アメリカの諜報機関は、ソ連工作員と協力した。
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 厚生省は、人口増加の為に第十二回人口問題同攻者会合が開催した。
 出席者の多くが、人口抑制によって、将来、少子高齢化が深刻な社会問題となると警告する発言を行った。
 小田橋貞壽(東京商科大学助教授)「子供の数を少なくしたいという欲望は、単に享楽主義だけで片付けるわけには行かない。よく養い、よく育て、よく教育する為に子女の数を少なくしようとする欲望が、俸給生活者や富裕階級にある事も事実であります。教育費負担の軽減等が幾分これ等の対策となりましょうが、かかる階級をして出産の奨励になるほどの助成金を与える事は恐らく不可能に近いでしょう、また、それのみで出産が増加するかどうか、すこぶる疑問で恐らく精神的覚醒にまつより外ないと思います」
 美濃口時次郎(企画院調査官)「最近のように、出生率が非常な勢いをもって低くなっていくと同時に、死亡率が低下して参りました場合にはその結果はどういう事になるのか。昭和75年の内地人人口は1億2,300万人と言う事になりますが、その人口構成を見ますると、青年の割合が減ずるとともに、それから後は、人口は増加しないで、反対に段々減少して行くという寒心すべきことが現れてくる事になる。要綱にあります民族の永遠の発展性を確保すると言う事は、日本民族の老衰と衰亡の起こる危険性を政策の力をもって取り除くと言う事であると存ずる次第で御座います」
 「ロシア民族の圧力というものは、時の経つにつれ大和民族を益々圧倒して来る事になると思われるのであります。これは言い換えれば、日本民族の存立の基礎を脅かすものと言わねばなりません。この脅威を取り除くという事が日本の人口政策の狙い所の一つではないかと思うのであります」
 中川友長(人口問題研究所調査部長)「昭和百年におきましては、中年以上の人口が非常に多い、老年の人口が多過ぎる形を明らかに示しております。人口が停滞し、減退の徴を現すにおよべば笛を吹かないでもこれは一大事であると皆が騒ぎ出すのでありますが、この時に国民が驚いて騒いでもそれは遅いのであります」
 厚生省人口局勅認技師の古屋芳雄は、翌17年に『民族政策論叢』を出版して、人口問題に於ける少子化の深刻さを訴えた。
 「我が国の人口は、最近まで年々80万とか90万とかいふ自然増加を示しておった。その為に、我国の人口問題は寧ろこの年々殖えて行く人間をどうするか、如何にして、職を与へるかという事に終始し、読んで字の如く、人の口の問題であったのである。……ところが、この90万とも100万とかいふ自然増加の真中に於いて、実は我国の出生率そのもはどんどん減っておったのである」
 「実は武力戦は人口戦の一部に過ぎず、武力戦に勝つたからといって人口戦に勝ったとはいへず」
 軍部は、日本の少子高齢化が原因で、労働力不足の日本に中国などの外国から大量の労働者が移民してくる事は、国家安全保障上、好ましい事ではないと危機感を募らせていた。
 外国人労働者を無計画に大量に移住させる事は、日本の安全を脅かし、その中に反天皇共産主義者工作員が紛れ込んで日本に潜入する危険があると。
 憲兵隊や警察は、ソ連から入港した船舶から上陸する人間を監視していた。
 軍部は、日本が人口戦に敗北し、少子高齢化と人口減少が日本を危険に追い遣り、外国人労働者が日本に移住してくる事に危機感を募らせた。
 その杞憂は現実のものとなり、軍国日本の敗北を決定づけた。
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 2月7日(〜23日)東京で、タイ・仏印の講和会議が始まる。日本側は、タイにおけるイギリスの影響力を弱める為に、仏印領となっているタイの旧領の一部を返還する事を提案した。
 敗戦一歩手前のタイは、本音では旧領全部と全カンボジアの領有を希望したが日本の提案に同意した。
 戦勝国であるはずのフランスは、あきらかに不利と解る不当な日本案に対し回答しなかった。
 植民地大国フランスは、アメリカの反植民地主義者の活動は不愉快であったが、せっかくタイから割譲した植民地を非白人の日本人に強要されて返還する事には納得が行かず、アメリカの介入に期待した。
 交渉が長期化すると、フランスが日本の外交能力の稚拙を看破してアメリカや国際的第三機関に仲裁を要請する恐れがあった。
 軍国日本にとって、長期間による粘り強い話し合いは不利であった。
 陸軍は、武力を行使してもフランスに受諾させるべきだと強硬論を主張した。海軍省は、武力行使アメリカを刺激して問題を複雑にするとして反対した。
 軍令部は、南方の安定維持の為には多少の強攻策もやむなしと同意した。
 軍部内でも、意見は分かれていた。
 タイは、松岡洋右外相の仲介でフランスと講和条約を結び、仏印に奪われていた領土の一部が返還された事に感謝して、戦闘に負けていたが戦勝を祝う記念塔をバンコクに建てた。
 A級戦犯松岡洋右の外交は成功し、東南アジアの国境紛争の一つは収束した。
 2月11日 野村吉三郎海軍大将は、駐米大使としてワシントンに着任した。
 2月27日 横浜市は、市内の桑畑62㌶を潰して麦生産に切り替えた。全国でも、桑畑の整理が盛んに行われた。
 2月28日 イギリス海軍は、シンガポール海峡におけるドイツ潜水艦の航行を阻止する為に機雷封鎖を発表した。ナチス・ドイツの同盟国である日本船籍の通過も制限された。
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 3月 日本の支那派遣軍上層部は、「捕虜に関する教訓」を内部極秘文書として作成して各部隊司令部に配布した。
 文書は、「我が兵は、敵の手に落ちるまでは頑強に戦うが、一度捕虜になると、その頑なな精神は脆くも崩壊してしまう。……そして、多くは懐柔されてしまう」と嘆いていた。
 日本軍将兵は、「死」を恐れない武士道精神を体得した真の意味でのサムライではなく、「死」を恐れる根っからの百姓兵士や町人兵士などの臆病でひ弱な雑兵にすぎず、その精神力の脆さから将棋の駒のように捕虜になると敵の洗脳に乗せられやすいと嘆いていたのである。
 軍隊は強い兵隊を作る為に、人間性を破壊するような殴る蹴るの非人道的精神教育はエスカレートさせた。
 日本兵は、集団となって行動すると強かったが、一人となると中国兵よりも弱かった。
 日本兵や日本人の精神的弱さの実体は、戦後直ぐに現れた。
 アメリカ議会は、明らかな憲法違反であったが、中立的立場を放棄する武器貸与法を可決した。
 アメリカは、枢軸国陣営と戦っているイギリス、ソ連、フランス、中国などの連合軍諸国に、約501億ドルという莫大な軍需物資を提供した。
 事実上の、アメリカの参戦である。
 3月5日 食糧報国連盟は、食糧不足を前提として標準国民食を決め、国民儀礼食の試食会を行った。
 1食分は、1汁3菜に御飯2合2勺(320㌘)で1円3銭。
 3月11日 松岡外相とアンリー大使とのトップ会談によって交渉は妥結し、交換公文に両者は調印した。日本軍が南部仏印に進駐する事なく、約2ヶ月にわたる話し合いは終了した。
 「南部仏印を空白地とし、日本、アメリカ、イギリスの緩衝地帯とする」という、松岡外相のパワー・バランス構想はここに結実した。夕刻、松岡外相は訪欧を発表した。
 アメリカは、フランスを擁護する為に日本に対して圧力を掛けたが、国内事情があってより具体的な直接介入はできなかった。
 松岡外相は、その間隙を付いて交渉をまとめた。
 アメリ連邦議会は、中立国でありながら武器貸与法を可決し、実質的に参戦した。
 3月12日 内務省は、全国の河川敷を利用して麦や芋の栽培を示唆した。
 東京は、不正使用を避けるべく、三食外食に記名式外食券交付を決定した。
 3月26日 埼玉県加須町は、農家の子育てを支援し安心して農作業できるように、小学校に託児所を設けた。
 学童は、乳幼児の子守をしながら勉強をした。





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