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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦争には、正義の戦争、正しい戦争がある。
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正しい戦争・正義の戦争を否定する者は、憎むべき植民地支配擁護派である。
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東南アジアの経済を支配していたのは、反日派の、ユダヤ系国際資本と華僑・華人そしてインド商人たちであった。
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反天皇反日派のソ連・コミンテルンは、アジアを共産主義化する為に暴動・騒動・内戦を起こす為に工作員を送り込んでいた。
最終目的は、軍国日本を東南アジアでアメリカやイギリスとの戦争に追い込む事である。
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軍国日本は、米などの食糧や石油などの資源を確保する為に各地の独立派を味方に付けていた。
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タイ王国は、タイ人・帰化系中国人(華人)系と渡来系中国人(華僑)の対立で国情が安定していなかった。
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東南アジア各地では、住み着いた中国人と地元住民は対立していた。
中国人は、白人の植民地支配に協力し、その見返りとしてタイ・仏印・蘭印などの東南アジア経済を支配して大金持ちになっていた。
中国人が住み着いた土地では、和解と友情による共存と発展はなく、憎しみと敵意に満ちた対立と反目による混乱しかなかった。
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日本の外務大臣は松岡洋右(A級戦犯)。
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1940年 タイ仏印国境紛争。シャム湾海戦。海防戦艦トンブを旗艦とするリタイ艦隊は、フランス海軍の巡洋艦に攻撃したが、艦艇数が多くても圧倒的な火力の差で惨敗した。
百発一中の艦艇が艦艇数を頼みに無統制的に興奮して攻撃しても、百発百中の軍艦一隻が沈着冷静に反撃してくれば負けた。
日本が輸出した海防艦メコンも参戦していた。
タイ陸軍部隊は、シェムレアプまで進撃したが、戦闘能力が高い外人部隊を持つフランス植民地軍の タイは海軍に続いて陸軍も敗北すれば、最悪、タイ本国がフランスの植民地になるか、良くても国土の多くを割譲され国民が奴隷にされる恐れがあった。
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軍国日本は、アジアが欧米列強の植民地とされ、アジア人が白人の奴隷となる事を避け、アジアをアジア人のアジアに留め、アジアに平和と安定をもたらすべく、軍事力を背景にして和平条約締結に介入した。
松岡洋右外相は、軍国日本の威信と大東亜圏の確立の為に、連戦連勝の仏印に対してタイ側の旧タイ領復帰要求を呑ませ、タイを戦勝国に仕立てた。
東条英機陸相らも、東南アジアの平和の為に松岡洋右外相の停戦交渉を承認した。
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タイ王室への忠誠心があつい多数派コンタイ(タイ人)は、軍国日本の行為に感謝した。
タイ王室への忠誠心がない少数派コンチン(華僑)は、白人と手を組んで東南アジア経済を牛耳っていたが、唯一独立国として完全支配できていなかったタイ経済を手に入れられると期待していたのに、その望みが軍国日本によって打ち砕かれた激怒して、シンガポールの華僑と協力して反日武装組織を結成し中国の抗日軍と共闘を組んだ。
移民・難民として移り住んだコンチンは商売上手で資産を増やして裕福であったが、先住民のコンタイはのんびりした生活をして貧しかった。
コンチンとコンタイの間の貧富の格差は広がっていた、両者の反目は激しくなっていた。
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戦後。親日的コンタイと反日的コンチンが主導権争いを繰り返し、両派によるクーデター騒ぎや暴動が絶えない。
タイのプミポン国王は融和策として、タイ王室への忠誠とタイ国に貢献する事を誓うコンチンの帰化を奨励し、中国語の氏名をタイ風に創氏改名へと促し、中国語の漢字表記をタイ国語の表記に改めさせ、中国風を薄めた国風運動を展開した。
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タイは、不安定な多様性ではなく、安定した単一性を求めた。
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中国出身である事にこだわる華僑は、祖先を裏切って帰化してタイ人(華人)となる事を嫌い、中国人であると言う誇りを守る為に渡来人として華僑を貫いた。
その為に、タイの国情はは安定せずたえずクーデターや暴動が起きている。
東南アジアの政情不安は、移住した国に溶け込む帰化人・華人を嫌い、移住した国と対立しても渡来人・華僑を自己主張する漢族によって引き起こされていた。
絶える事なく起きているクーデターは、タイ人と華僑系タイ人の権力闘争が原因であった。
問題は、帰化を嫌う渡来人であった。
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ウィキペディア
タイ・フランス領インドシナ紛争は、1940年(仏暦2483年)11月2日から1941年(仏暦2484年)5月8日にかけて起きた、タイ王国とヴィシー政権下のフランス植民地軍との国境紛争である。「泰・仏印国境紛争」「インドシナ国境紛争」とも。
紛争への経緯
詳細は「第一次泰越戦争(英語版)」および「第二次泰越戦争(英語版)」を参照
「プレアヴィヒア寺院」、「アンコール・ワット#歴史」、および「フランス領インドシナ#歴史」も参照
第二次世界大戦勃発直前の1939年8月、フランスはタイ王国に対して不可侵条約の締結を要請していた。これはフランス領インドシナ(以後、仏印)の安全を図るためであり、翌1940年6月12日にバンコクにおいて仏泰相互不可侵条約に調印した[1]。しかし、フランスがドイツに敗れたこと、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した。
タイのピブーン政権は、新たに発足したフランスのヴィシー政権に対し、1893年の仏泰戦争(英語版)でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオス(フランス語版)の領土と主権やフランス保護領カンボジア(英語版)のバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。
日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍が北部仏印進駐を行った為、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。当時のタイ政府はあくまで強硬な姿勢を貫き、9月頃より国境付近で両軍による小競り合いが頻繁に発生するようになった。
紛争
開戦
両国の外交が暗礁に乗り上げた1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し両軍の戦端が開かれた。タイは6機のマーティンBー10爆撃機で昼間爆撃を行い、仏印軍の基地施設を破壊したりポテーズ542(フランス語版)など複数の航空機を地上撃破することに成功したが、迎撃に上がったフランス軍のモラーヌ・ソルニエMSー406がタイ空軍の爆撃機2機を撃墜した。
これに対して、仏印軍は4機のファルマンFー221や6機のポテーズ542など計10機が夜間爆撃を行った。仏印空軍はこれによりタイ空軍の戦闘機・爆撃機に被害を出すことに成功したが、迎撃に上がったタイ軍の戦闘機や高射砲部隊がフランス軍のMS406戦闘機2機とF221爆撃機1機を撃墜した。
陸軍の戦い
一方陸軍の動きは遅く、動いたのは年が明けてからだった。1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で侵攻開始した。対する仏印軍は10個大隊で、しかも重火器が不足していたためタイ軍に圧倒され敗北を重ね多くの死者、行方不明者を出し撤退するなど、タイ軍が勝利をおさめた。
この敗北を受けて、仏印軍はベトナム兵の戦時動員を行いタイ軍を領内の奥深くに誘引し反転反抗をする戦略を立て、1月16日カンボジアのバッタンバンで仏印軍は反撃を開始した。これに対しタイ軍はヴィッカース66トン戦車を装備する2個戦車中隊から成る機甲部隊を投入し仏印軍を押し返すが、救援に駆けつけた外人部隊(オチキス25mm対戦車砲2門・シュナイダー75mm榴弾砲(英語版)1門装備)の攻撃により6トン戦車3台が撃破されタイ軍の攻勢は停滞した。
この反撃をきっかけに仏印軍はタイ軍を一時的に押し戻したものの、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対してさらなる攻撃を加え、本国が占領下におかれ兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。
コーチャン島沖海戦
詳細は「コーチャン島沖海戦」を参照
1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦「ラモット・ピケ」を旗艦とする艦隊が交戦し、規模に勝るフランス海軍側が霧の中で奇襲をかけ、タイ海軍側の旗艦であるトンブリ級海防戦艦「トンブリ」を撃沈するなど、フランス艦隊が勝利した。
空戦
カンボジア上空では仏印軍の戦闘機MS406とタイ空軍のカーチスP−36戦闘機による空中戦が行なわれ、P−36戦闘機2機がMS406に撃墜された。だが仏印側もタイ空軍の空襲によりMS406戦闘機2機と爆撃機ファルマンF211、1機を損失するなど大きな損失を被った。
終戦
タイがフランスから獲得した地域
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイや、他の地でも戦闘を行っていた友好国のフランス(フランスは本土やアフリカで連合国軍との戦いを続けていたほか、いくつかの植民地は自由フランス側についた)という、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。
1941年1月21日、二見甚郷・駐タイ公使はタイから公式の調停依頼文書を受け取る。1月24日にフランス側が非公式に調停を受諾し、1月28日に両軍は停戦した。
2月2日より東京において調停会議が開催されたが、両国の対立により難航した。タイ側はラオスとカンボジア全土の返還を要求したが、これはあくまで交渉のための要求であった。一方で、戦況を有利に進めていたフランスは、エスカレートしたタイ側の要求を受け入れるはずもなく、これを拒否した。
2月24日、日本から調停最後案が提示された。フランスはこの最後案を拒否するが、日本側の強い圧力により、いくつかの留保条件を付した上で3月11日に調停が成立した。その後、条約化に伴う交渉が三国間で引き続き行われ、5月9日に泰仏両国が東京条約に調印して終戦となった。
条約はタイが1904年にフランスに割譲したメコン川右岸のルアンパバーン対岸とチャンパサク地方、および1907年に割譲したカンボジア北西部のバッタンバン・シエムリアプ両州を、タイ側に割譲させた。ただし、その範囲は若干異なり、シエムリアプの町とアンコールワット周辺の遺跡群は対象外とされた。このようにタイの要求を仏印側がほぼ受諾する内容だったため、後半では劣勢となっていたタイが勝利したという形となった。
タイではこの「戦勝」を記念し、戦勝記念塔がバンコクに建立され、戦争の犠牲となった兵士を慰霊した。
その後
第二次世界大戦においてタイは、日本の同盟国として英米に宣戦布告したが、1945年8月16日に宣戦の無効を宣言し、「敗戦国」の扱いは避けられた。しかし、ド・ゴールのフランス臨時政府は、1941年のヴィシー政権下での割譲を無効であるとし、タイに返還を求めた。これに対し、タイは失地獲得は戦争開始前であるとし、これに応じなかった。1946年(仏暦2489年)5月にはフランス軍がタイ領を攻撃し、タイは国連安全保障理事会に提訴した。しかし、フランスがタイの国連加盟に拒否権を行使する構えを見せたため、国際社会への復帰を優先したタイは領土を引き渡した。
その後勃発した第一次インドシナ戦争においてフランスが敗北したため、同地は間もなく独立したカンボジア王国とラオス王国の領土となった。
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東南アジアの民族主義者や独立派は、親日派として、昭和天皇や東条英機・松岡洋右らA級戦犯達に感謝した。
中国系住民は、反日派である。
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タイ軍被害
戦死、54人。負傷、307人。
海防戦艦1隻大破。
水雷艇2隻沈没、1大破。
戦闘機、爆撃機約13機。
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フランス軍被害
戦死または負傷、321人。
行方不明、178人。
軽巡洋艦1隻小破。
戦闘機、爆撃機約22機。
反撃にあい、逆に包囲され全滅の危機に陥ってしまった。
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