🍙21〗─3─軍国日本は、必要な食糧(米)をドル建てで南部仏印やタイの穀倉地帯から輸入していた。昭和16年6月~No.98No.99No.100 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東南アジア経済を支配していたのは反日派華僑・華人らであった。
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 戦前の日本は、不足分の食糧を海外に依存した為に、国際的穀物商社によって破滅的な食糧動乱に追い込まれて敗北した。
 日本独自の自給自足体制である大東亜共栄圏構想は崩壊し、日本は対外依存度を増加する事でしか生きられなくなった。
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 昭和16年は、混合型冷害となって深刻な食糧危機を引き起こし、緊急に外米を輸入しなければ多くの犠牲者を出す恐れがあった。
 冷害とは、夏季の気温が平年を下回る冷夏となり、作物の減収及び品質低下して農家の収入が減少する事をいう。その原因が、オホーツク海高気圧から吹く北東の偏西風・ヤマセである。
 7月中旬から9月上旬にかけて、北海道と東北地方に平年以上の強い冷風が吹いて低温が続いて大凶作となった。日本国内だけで、約1,000万人分の食糧が不足した。
 軍部は、国内消費を減らす為に多くの若者を徴兵して外地に送り出して、余剰食糧を国内の女性や子供に公平に配給し、戦時体制下として非常時に備えるべく備蓄した。
 日本軍は、補給を重視しなかったと云うより、補給する物資が国内で不足していたのが実態であった。
 軍中央は、現地軍に自給自足(自活)と不足分の現地調達を強要した。現地部隊は、駐屯地で田畑を耕しながら、敵と戦っていた。
 日本兵の大半は農村出身者で、工場の監督官の様に他人に指図して野菜を作らせるよりも、命令される前に自分で土地を耕して野菜を作る事が得意であった。
 支那派遣軍(総参謀長板垣征四郎中将)は、華北の食糧不足を解消し、円経済圏の食糧自給体制を公平に安定させるべく、大陸打通作戦(一号作戦)を計画した。
 陸軍の陸上大輸送網計画の要は、ビルマ産米を輸送する泰緬(タイメン)鉄道の建設であった。この泰緬鉄道建設は、難工事と破壊工作と連合軍の攻撃で多くの犠牲者を出した為に、日本軍の戦争犯罪とされた。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て日本軍と戦う抗日中国を支援した。
 パイロット100名と技術兵200名からなるアメリ義勇兵部隊と通訳のルーテル派牧師ポール・フリルマンら第一陣は、セントラル航空機製造会社と契約した民間人としてサンフランシスコから出航しイギリスの植民地ビルマのラングーンに向かった。
 ルーズベルトは、日本を蛇蝎の如き嫌悪するオーウェンラティモア蒋介石の特別顧問として派遣した。
 OSS(1942年6月創設)は、対日ゲリラ戦を実行している中国共産党に対して全面支援を行っていた。
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 6月 アメリカの良識者は、軍国日本を戦争に追い込まない為に、人口爆発と食糧不足に苦しむ日本を救済すべく未開のニューギニア島を日本に売却する案を提案した。
 6月は大雨が続き、7月に入っても気温が思ったほど上がらない為に、今年も農作物への被害が心配されてた。
 企画院は、『戦時食糧政策確立要綱(試案)』を作成し、食糧危機に対する緊急対策と根本対策を立案した。
 緊急対策としては、国内での増産政策により昔ながらの裏作麦の奨励と仏印からの輸入量の増加及びタイにおける買付量の増加とした。
 根本対策としては、大東亜共栄圏における食糧の自給自足体制の充実を図る為の日満支食糧増産年次計画の確立であった。
 だが、仏印の政情不安定及びタイの非協力という現実問題から必要量の輸入が期待できない為に、日本・台湾・満州での食糧増産に国家の存続と国民の生存を賭けるしかなかった。
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 6月3日 ヒトラーは、日本の大島大使に独ソ戦開戦は不可避であるとの極秘情報を知らせた。
 6月4日 農林省は、食糧増産や肥料確保の為に、夏休みに全国の学生200万人を草刈りに動員するように通牒した。
 戦後。こうした農業支援活動や軍事教練は、学生の本分である勉学を無視した行為であるとして否定された。
 6月5日 アメリカのクラゲット陸軍准将を団長とする訪中航空使節団は、重慶アメリカ大使館の航空担当海軍武官補マクィレン少佐を加えて蒋介石宋美齢夫妻ら中国空軍関係者と米中共同作業として軍用飛行場建設や航空支援状態についての討議を行った。
 アメリカは、表面では中立的立場にありながら、裏では事実上の対日軍事同盟関係にあった。
 つまり、アメリカはすでに対日戦に参戦していたのである。
 ユダヤ人は、ナチス・ドイツの同盟国である異教徒国家・日本との戦争に協力していたのである。彼等は、昭和天皇を嫌い排除しようとしていた
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 6月7日 北海道幌内ダム決壊事故。 
 食糧になりそうな「備荒動植物」調査が、全国で行われた。
 食べられそうな物は何でも食べる式に、トカゲ・ゲンゴロウ・イモリ・カタツムリ・トンボなど動物100種類以上と、雑草1,000種以上が発表された。
 戦場の日本軍兵士は、補給がままならない状況下で、飢えをしのぐ為に身近にある物を手当たり次第に食べて、援軍を待ちながら敵と戦っていた。
 肉とパンの食事で豊かな生活を送ってきた連合国軍兵士捕虜にも、物資補給が途絶えた日本軍兵士と同じものを食べさせた為に、捕虜虐待の戦犯とされ多くの日本軍兵士が処刑された。
 犯罪者として処刑された日本軍兵士は、靖国神社に神として祀られた。
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 6月9日 アメリカ、カナダ。オーストラリアは、日本の食糧不足を悪化させる為に食パン用小麦(依存率100%)の輸出制限を強化させた。
 日本政府は、輸入制限に対処する為に麦類配給統制規制を制定し、販売される全量を買い上げて統制品とし市場に出回る量を調整した。
 国民の食べる自由は、国家権力によって統制され制限された。
 6月11日 連絡懇談会。軍部は『南方施策促進に関する件』を提出し、南部仏印における航空基地及び港湾施設の確保と所要部隊の駐屯をフランスに要求し、応じない場合には武力を行使して目的を達するべきだと力説した。
対して、松岡外相は「対米英戦になる公算がある」と猛反対した。
 軍部は譲歩して松岡外相を説得するが、松岡外相は頑として反対して12日・16日の両会議でも同意しなかった。
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 6月中旬〜下旬 梅雨前線豪雨。死者・行方不明者、100人。
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 6月17日 前年40年9月12日から、蘭印政庁と石油供給交渉を行ってきたが失敗に終わった。
 蘭印は、アメリカの対日強硬姿勢にならって日本に一切の譲歩をせず、日本の要求を門前払いした。
 蘭印側として、石油交渉を行ったのはユダヤ国際石油資本であった。
 ユダヤ国際石油資本に資金を提供していたのも、ユダヤ系国際金融資本であった。
 有り体にいえば、軍国日本はユダヤ人政治家によって戦争へと追い詰められ、ユダヤ人資本家によって滅ばされ、ユダヤ人の科学者や技術者によって緑豊かな国土は焼け野原となった。
 それでも、昭和天皇ユダヤ人への感謝からユダヤ人難民に保護を希望し、東條英機松岡洋右らは日本の国益の為にユダヤ人難民を利用しようとした。
 日本人の淡い期待は、冷徹なユダヤ人によって打ち砕かれた。
 6月21日 ハル国務長官は、日本側修正案を完全否定したアメリカ側最終修正案と対米強硬論の松岡外相を非難するオーラル・メッセージを、野村大使に手渡した。
 アメリカ側は、外圧として、内政干渉的に松岡外相の更迭を要求したのである。
 同時に、石油製品輸出許可制を完全実施した為に、日本はこれ以降一滴の石油も入手できなくなった。
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 6月22日 ドイツ軍は、独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連領に侵攻した。
 ルーズベルトは、ソ連ファシストと戦う自由と民主主義陣営の一員と認め、武器貸与法に従ってシベリア鉄道を使って大量の武器弾薬を送る命令を下した。
 ナチス・ドイツは、同盟国として戦略物資輸送の遮断を日本に要請した。
 日本は、シベリア鉄道が武器弾薬輸送に利用されている事を知りながら黙認し、アメリカとの交渉に障りがあるとして阻止要請を黙殺した。
 ソ連は、日本の優柔不断を利用して、アメリカからの輸送船に全てソ連の国旗を掲げた。
 日本のこの裏切り行為が、ドイツ軍敗走の最大の要因である。
 松岡外相は、アメリカの戦争参加を阻止する為に、ソ連三国同盟に加えた「四国協商」構想を模索し、アメリカ側の身勝手なルールによる提案を拒否した。
 独ソ戦開戦により、日本軍のソ連攻撃を主張した。
 アメリカは、松岡を外相にとどめているうちは交渉には応じられないとの覚書を、日本政府に送った。
 日本国内の和平推進派は、軍部の協力を得て松岡外相更迭の裏工作を始めた。
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 アメリカは、対ドイツ戦に参戦する手立てを模索していた。
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 6月25日〜27日 西日本を中心に大豪雨に襲われ、死者約100人、被災者数千人という大災害となった。農産物にも、甚大なる被害が出た。
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 6月30日 連絡懇談会。松岡外相は、『南方施策促進に関する件』の中止を提議し、南部仏印に兵を出せば対米英戦の危険が高まると熱弁をふるった。
 及川海相は妥協案として半年位延期してはどうかと提案するが、軍部は戦略物資を獲得する為に断乎やると譲らなかった。
 松岡外相と軍部は、約4時間、大激論をかわした。近衛首相は、海軍側のアメリカは強硬姿勢にでないという楽観論を信じて、北進論を抑える代わりに軍部の主張する南進論に同意して、松岡外相の「対ソ即時開戦する」という提議を避けた。
 松岡外相が南部仏印侵攻派に屈したのは、肺病の悪化で激務に耐えられなくなった事もあるが、それ以上に仏印情勢の悪化が原因であった。
 タイ・仏印国境紛争の再燃の恐れと、反日華僑とアメリカ情報機関が支援するベトミン(インドシナ共産党)の勢力拡大にあった。
 メコン・デルタの米は、日本民族の生命綱である。
 アメリアやイギリスが南部仏印支配下に置くなら正常な外交交渉でなんとか解決出来るが、共産主義勢力が占領すると交渉どころではなくなるかれである。
 共産主義勢力が拡大すれば、ポーランドバルト三国やモンゴルなどの悲劇が日本を襲う事は火を見るよりも明らかであった。
 松岡外相は、東條陸相と同様に天皇主義者として天皇への忠誠心が篤いだけに、神聖不可侵の天皇と神国日本を共産主義勢力から守る為に南部仏印進駐に同意したのである。
 アメリカ、イギリス、中国の3ヵ国は、対日作戦の為のシンガポール会談を開催した。




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