🦋6〗─9─メディアが称賛した独身貴族の孤独な老後。1977年。~No.26 

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 2022年11月20日 DIAMOND online
 独身貴族は要注意!
 キリギリス的思考が
 身を滅ぼす
 板倉京:税理士・シニアマネーコンサンタント
 ひとりで楽しく生きるためのお金大全
 男性の3.5人に1人、女性は5.6人に1人が生涯未婚と、独身者は急増中。いまや「一生ひとりかもしれない」というのは、普通の感覚です。しかし、税金や社会保険などの制度は結婚して子どもがいる人を中心に設計されており、知らずにいると独身者は損をする可能性も。独身者と家族持ちとでは、本来お金についても老後対策についても「気を付けるべきポイント」が違います。独身者がひとりで楽しく自由に生きていくためにやっておくといい50のことを税理士の板倉京氏が著した「ひとりで楽しく生きるためのお金大全」から、一部を抜粋して紹介します。
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 2018年7月21日 東洋経済ONLINE「 「未婚男性は悠々自適」という大いなる誤解
 荒川 和久 : 独身研究家、コラムニスト
 独身者は経済的に余裕があるイメージを持たれることが多いようですが……(写真:Graphs / PIXTA
 「独身貴族」という言葉があります。
 今はあまり使われていないですが、この言葉の歴史は案外古く、最初に使われたのは40年以上前の1977年頃と言われています。時代は高度経済成長期が終わり、安定成長期と呼ばれた頃です。当時は男女ともに95%以上が結婚していたほぼ皆婚社会でした。当然、未婚化も少子化もまったく叫ばれていない時代です。
 「独身貴族」とは、本来「おカネと時間を自分のためだけに使える存在」という定義であり、決して「裕福な金持ち独身」という意味ではありません。が、「貴族」という言葉の力からか、リッチで好き勝手に遊びまくっているというイメージがつきまといます。
 ドラマが「独身=悠々自適」というイメージを醸成
 そんなイメージを決定付けた一要因には、ドラマの影響があると考えられます。典型的なのが、2006年に放映されたドラマ「結婚できない男」(フジテレビ)でしょう。主演の阿部寛演じる桑野信介(40歳未婚)は、有能な建築家で、高級マンションに一人で住み、一人きりの食事を好み、趣味はオーディオでのクラシック鑑賞という、まさにソロ男気質の自由気ままな独身生活を楽しんでいるという設定でした。
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 さらに、2013年にはタイトルもそのままズバリの「独身貴族」(フジテレビ)というドラマが放映されました。
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 2021年8月9日 みんなのライフハック「 知ってる?「独身貴族」という言葉の由来
 時間やお金を自由に使える独身貴族は、人生を満喫している人としてうらやましがられる傾向があります。しかし、少なからず先々に対する不安を感じている人が多いのも事実です。言葉の由来や特徴、デメリットを紹介します。
 「独身貴族」とは?
 独身貴族とはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。具体的な意味や言葉の由来について解説します。
 独身生活を謳歌している主に男性を指す
 独身貴族とは、時間やお金の制約を受けずに、自由な暮らしを満喫している独身者を意味する言葉です。一般的には、『独身生活を謳歌している男性』を指します。
 経済的に自立していることも、独身貴族に当てはまる条件の一つです。親からの仕送りなどで生計を立てているのではなく、職に就いて自分で収入を得ている人が該当します。
 独身貴族が結婚しない理由は人それぞれです。自由な人生を望んで独身貴族となることを選んでいる人もいれば、結婚願望はあっても相手に恵まれない人もいます。
 言葉の由来
 独身貴族は1977年頃から使われ始めたとされる言葉です。高度経済成長期が終わって数年後の1977年に、自分で稼いだお金を趣味などに使う人が増加し、これらの人を独身貴族と呼び始めました。
 戦後から高度経済成長期にかけて、多くの日本人にとっては結婚して家庭を持つことこそが幸せな人生だと解釈されていました。この考え方を覆し、家庭に束縛されず自由に生きる道を選んだ人たちが独身貴族となっていったのです。
 独身貴族の『貴族』は、『貴族のように優雅な生活を送っている人』という意味で付けられています。多くの場合はうらやましさの意味で用いられますが、『結婚できない人』という皮肉が込められることもあります。
 「独身貴族」の特徴
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🦋6〗─8─メディアは若者の新しい生き方としてパラサイト・シングルを美化した。~No.25 

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 新しい日本人の生き方として「今だけ、金だけ、自分だけ」。
 結婚しない、子供を作らない。
 親の言う事を聞かない、子供の犠牲にならない。
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 2024年3月8日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「未婚の若者は未婚の中年へ 親依存の「パラサイト・シングル」から考える社会の責任とは
 団塊世代の日本国民は「真面目に働けば、親世代よりも豊かになれる」という“夢”が原動力だった。しかし平成・令和の時代を迎え、人々は衣食住には困らないが、給料は上がらず、非正規社員の若者たちはキャリアアップも望めず、人生の向上を実感もできなければ、“夢”も描けなくなっていた。結婚生活においても同じだ。「自分ひとりならどうにかなるが…」と多くの男性は冷静になり、女性も「結婚で一発逆転を狙えないなら、別に結婚しなくてもいい」と判断するようになった。家族社会学の第一人者である山田昌弘氏は「“未婚”問題は、広く日本社会全体の課題として考える必要がある」と訴える。同氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、「パラサイト・シングル」が生まれる仕組みについて紹介する。
 【表】未婚率は年々上昇している
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 「おひとりさま」は、精神的自立と経済的自立が不可欠です。では、この二つの要素のどちらか、あるいは両方が得られない未婚者はどうなるでしょう。
 未婚で親と同居していても、経済的・精神的に自立している場合は、「親と同居している」とシンプルに言うことができます。しかし、「仕事」は持っていても、稼いだ額の大半を自分の趣味や成長のために使い、基本的な食費や住居費・ガス・電気・水道代などを親頼みにし、さらに炊事洗濯など身の回りの家事の多くも親に依存している場合は、「パラサイト・シングル」と私は定義してきました。
 「パラサイト・シングル」は、精神的基盤と経済的基盤の多くを親に依存して生活しています。それを可能にしたのは、主に団塊の世代を中心とした親世代の特殊事情がありました。この世代には、成人後も子の面倒を見る「経済的ゆとり」があり、かつ我が子に対する「献身的愛情」がありました。これは他の世代は、仮に望んでも得られなかったものです。特に重要なのが前者です。「子への献身的愛情」があっても、先立つものがなければ否が応でも子どもを自立させないとなりませんが、団塊の世代はそれが可能だったのです。
 戦後の経済復興の中で、「今日よりは明日、明日よりは明後日」と豊かに成長していく時代を肌感覚で経験してきたこの世代は、子どもにより良い生活空間や環境を与え続けることができました。自分たち自身が幼い頃は、テレビや冷蔵庫もない暮らしを経験してきたのに、我が子に対してはテレビも冷蔵庫も、ましてや自家用車もある生活を準備できる。それどころか自宅には子ども専用の部屋を備え、複数の習い事をさせ、お小遣いやお年玉やクリスマスプレゼントまで与えることができました。ボーナスが出れば、季節ごとの家族旅行を楽しめ、生活レベルの向上を家族皆で実感できたのが、この時代でした。
 もちろん個人差、家庭差はあったでしょう。当時も生活困窮世帯は存在しました。でも、社会全体が好景気に沸いている時代には、仮にどんなに貧しくても、「これから生活が良くなるだろう」と希望を抱けるものです。仮に現在お金がなくて貧しくても、5年後、10年後はそうとは限りません。給料は年々上がっていくし、頑張って子どもを育てていけば、我が子は少なくとも自分よりは良い生活を送れるはずだと「夢」を描くことができたのです。
 しかし、そうした親の愛を一身に背負って育った団塊の世代ジュニアが大人になった頃、日本経済は長引く停滞時期に突入しました。親が与えてくれた豊かさを、今度は自分自身の手でつかまなくてはならない社会人としての始まりの時期。そんな大事な時期に、就職氷河期が始まったのです。しかもその責任は、社会のせいというよりは、とことん自己責任論で語られるようになりました。「フリーターや非正規雇用を目指すのは、責任を負いたくない若者の身勝手な事情だろう」と。
 そんな我が子を、豊かさを経験してきた親世代は、突き放すことができませんでした。本来自立すべき成人後も、「あともう少し家にいていいよ」と、自宅に住む(寄生)することを許してしまったのです。せめてそこでしっかりと家賃相当分や家事労働分の支払いを要求していればともかく、これまで至れり尽くせりで家事も掃除も洗濯も面倒を見てきた親たちは、そのまま我が子の家事労働を請け負い続けてしまったのです。
 大学卒業時に正社員就職ができず、とりあえずアルバイトや非正規雇用で社会人をスタートした時点では、親も子も「当面の間だけ」と思ったかもしれません。しかし実際には、非正規で社会人をスタートさせた世代が、その後正社員として人生のステップアップを望むことはほとんど不可能であったことは、今では周知の事実です。「あと少し、家にいていいよ」「今は不況だから、独身も仕方ないね」と温かい目で見守ってきた子世代が今、壮年となり、中年となり、大量の「未婚者」になっています。厳密に言えば、「壮年親同居未婚者」です。最近では「子ども部屋おじさん」「子ども部屋おばさん」なる言葉まで生まれています。
 同時に日本では、大量の「引きこもり」も存在します。かつて「未婚の若者」だったのが、「未婚の壮年」「未婚の中年」となったのと同じように、かつて「中高生」の問題だった「引きこもり」は若者の問題となり、今では「壮年・中年の引きこもり」へと移行しています。中には親の年金頼みで高齢の親にパラサイトしてきた「中年引きこもり」が、親の介護が必要な年齢になり、途方に暮れるケースもあります。社会全体の歯車が狂い始める「8050問題」です。
 内閣府が22年11月に行った調査によると、「趣味の用事の時だけ外出する」「自室からほとんど出ない」状態が6カ月以上続いている「引きこもり」状態の人(15歳から64歳まで)は、推計146万人もいる実態も見えてきました。
 もちろんここで、「未婚」と「引きこもり」を乱暴につなぎ合わせるつもりは毛頭ありません。ただ、「おひとりさま」にしろ「パラサイト・シングル」にしろ「引きこもり」にしろ、「未婚」問題が極めて日本独特の社会現象になっていることに注目したいのです。また「パラサイト・シングル」や増える「中年引きこもり」に関して言えば、その根底には「成人になっても子を独立させない(できない)日本独自の親子関係」が、ある種の要因になっていることを確認し、かつ「成人しても子が独立できない」理由の多くの部分で、経済的困窮が関係しているのであれば、それは広く日本社会全体の課題として考える必要があることを強調したいのです。
 具体的には、現代社会の産業が製造業からサービス産業・IT産業にシフトしていく中で、働き方が根本から変わっているにもかかわらず、相変わらず「新卒一括採用」と「終身雇用制」に固執してきた企業と政府の責任でもあります。新卒時に正社員になれなくても、本人の意欲次第でいつでも再チャレンジが可能な社会にすること、正社員と非正規社員のかけ離れた条件を是正すること、仮に非正規やアルバイトであっても、「家族」に頼らず「個人」が生活していける仕組みを整え、社会的セーフティネットを強化すること、リスキリングやリカレント教育に社会全体で取り組むことなど、できることはたくさんあるはずです。
 山田昌弘
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 ウィキペディア
 パラサイト・シングル(Parasite single)とは、「学卒後もなお親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者」を指す造語である。
 用語
 パラサイト・シングルという用語は、1997年に山田昌弘(当時は東京学芸大学助教授)により提唱された造語である。親を宿主として寄生(パラサイト)する独身者(シングル)を意味する。単に「パラサイト」と呼ばれることもあり、「パラサイトする」と動詞化して用いられることもある。山田が1999年に筑摩書房から『パラサイト・シングルの時代』を出版し、広く知られるようになった。
 山田によれば、成人後は自立を求められる北西ヨーロッパ諸国やアメリカ・カナダ・オーストラリアなどの諸国では見られないという。家事を親に任せて収入の大半を小遣いに充てられるため、時間的・経済的に豊かな生活を送ることができるとしている。そして結婚すると生活水準が下がるため結婚への動機付けが弱まり、未婚化の要因の1つになるとしている。
 なお、学卒後は親に依存していなくても、学卒前までに親や祖父母等から過剰な贈与や財産分与受けた場合(相続を除く、ただし親やきょうだいの配慮により法定相続分大きく越える金額を相続した場合は含む)もこれに含まれるとしている。
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 PRESIDENT Online
 「パラサイト・シングルの子」に介護される親の“悲劇”
 親の年金と貯金に頼ったニート生活
 相沢 光一
 高齢化するパラサイト・シングル。同居する親を介護するケースが増えているが、お金やモラルの面で問題を抱えて、「親子共倒れ」となるケースがある――。
 パラサイト・シングルの子に介護される親が増加中
 「パラサイト・シングルの増加が社会問題として取り上げられるようになってずいぶん経ちますが、介護現場で仕事をしていると、そういう人たちが親の介護をする年齢を迎えていることを実感します」
 そう語るのはケアマネージャーのIさんです。在宅介護のサービスを利用する家族にパラサイト・シングルの人が目立つようになったそうなのです。
 パラサイト・シングルとは、親と同居する未婚者のこと。
 通常、結婚すれば家庭生活を維持するために金銭的負担をはじめとするさまざまな苦労を背負い込むことになります。しかし、結婚せず親との同居を続ければ、そうした苦労を味わうこともなく、働いて稼いだお金のほとんどは自分のために使える。その方が気楽だという人たちです。
 また、バブル崩壊後、長く続いた不況期は大量の非正規雇用者を生み出しました。賃金が安く、立場の安定しない非正規雇用では「とても結婚なんかできない」ということでパラサイト・シングルの道を選ばざるを得なかった人も数多くいます。
 パラサイト・シングルのくくりには、こうした仕事をしている人とは別に、職に就かず生活のすべてを親に依存している、いわゆるニートも含まれます。学校でいじめに遭ったことがきっかけで引きこもりになり、それが大人になっても続いている、あるいは就職したものの会社の人間関係や仕事に馴染めず退職、心を病んで社会に出られなくなった、といった事情があり親元で暮らしている人たちです。
 非正規雇用のため結婚を諦めた人たちと同様、社会の歪みから生み出されたパラサイト・シングルがかなりの数にのぼるわけです。
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 2003年12月書評 
 評者:中川(6期生)
 山田昌弘 [1999]『パラサイト・シングルの時代』ちくま新書
 「パラサイト・シングル」、普段耳にしない言葉である。しかし、これが最近増えているのだと言う。本書を読んで、私の知人でもそのような状態に分類される人が多くいることに気づく。こんなに身近にあるが、意識しない問題。本書は、その本質を見定め、また批判している。
 まず、パラサイト・シングルとは何なのだろうか。それは、学卒後も親と同居し、基礎的生活を親に依存している未婚者のことを指している。想像に難くないが、彼らは豊かである。この豊かさの質について、著者は三つの点で恵まれていると指摘する。それは経済的、人間関係、自己実現である。親と生活を共にすると、これらの点で自立している若者より高い満足度を得ることができるのだ。
 ならばなぜ近年、パラサイトする若者が増えたのだろうか。私は家事を「しなくていいから」や、「一人暮らしをすると金がかかるから」などが原因ではないかと考えたが、実際はもっと深いところにあるらしい。親の子に対する家継承意識や、日本の年功序列という賃金体系、企業の福利厚生費の削減などがある。これを放置しておくわけにはいけない。なぜなら、経済に与える影響が大きいのだという。彼らは懐が潤っていて、多くの高級商品の需要を生み出すから経済にとってプラスになるのではないか、という見解が一般的ではないだろうか。しかし、著者はそうは言わない。なぜなら、仮にパラサイトしている人が、一人暮らしを始めたとする。そうした場合、親と共同で使用していた住まいや、家具、電化製品、車などを新しく買わなくてはいけなくなる。言い換えると、その分の需要が、パラサイトしていることによって消滅していると言うのである。これは、彼らの数は一千万人と言うことから考えれば、大・大・大問題であるということに気づかされる。
 著者は、解決策をいろいろと考案していたが、私は自然な社会の流れでこれは解決すると思う。現在、一部の企業で年功賃金の廃止、成果給導入に着手している。これは、若者の賃金上昇、年配の賃金低下をもたらす。つまりパラサイトされる母体が弱くなり、寄生する側が力を付ける。よって否が応にも自立は促されるのではないか。他人事ではないこの問題をあなたも考えてほしい。
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🦋6〗─7─第3次ベビーブームはなぜ起きなかったのか。平成4年国民生活白書「少子社会」~No.24 

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 2024年3月6日 MicrosoftStartニュース ニューズウィーク日本版「21世紀の「第3次ベビーブーム」はなぜ起きなかったのか?
 © ニューズウィーク日本版
 少子化反転のラストチャンスは21世紀の初頭にあった STEKLO/Shutterstock
 <団塊ジュニア世代が30代を迎えた今世紀初頭、政府が推進したのは少子化政策とは逆行する「痛みを伴う改革」だった>
 2023年の日本の出生数は75万8631人だったという。前年に比べて1万2128人の減。止まらない少子化に対し、政府高官は危機意識を露わにして「2030年代になると若年人口が急速に減少する。それまでの6年間が、少子化傾向を反転させるラストチャンスだ」と述べている。
 だが、若年人口は既に急速な減少の局面に入っている。少子化傾向を反転させる(出生数を増やす)のは、物理的に難しいだろう。できるのは、出生数の減少速度を緩めることくらいだ。
 少子化傾向を反転させるラストチャンスは、人数的に多い団塊ジニュア世代の出産年齢末期だった今世紀の初頭だった。当時、第1次・第2次に続く「第3次ベビーブーム」が起きると期待された。現実がどうだったかを振り返ると<図1>のようになる。
 21世紀の「第3次ベビーブーム」はなぜ起きなかったのか?
 © ニューズウィーク日本版
 年間出生数の長期推移を見ると、戦後初期の第1次ベビーブーム、その子世代の第2次ベビーブームの山があるのが分かる。自然な流れでは、1990年代半ばから世紀の変わり目にかけて第3次ベビーブームが起きるはずだが、現実には起きなかった。当時の出生数をみると、小刻みな盛り返しはあるものの大きな山はできていない。
 平成不況により、若者の自立が困難になったためだろう。実家に居座り、親に寄生する(せざるを得ない)若者の生態を描いた、山田昌弘教授の『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書)が大ヒットしたのは1999年のことだ。
 人数が多い第2次ベビーブーマー団塊ジュニア世代)は、今世紀の初頭に30代に達した。先にも記したが、この時期が少子化傾向を反転させるラストチャンスだった。しかし当時の政府がやったことは、「痛みを伴う改革」をフレーズに新自由主義を推し進めることで、少子化対策とは逆行するものだった。ラストチャンスを活かせなかったのは、政治の責任でもあるだろう。
 過ぎ去った過去を悔いても仕方ないが、今後はどうなるのか。<図2>は、出生数のこれまでの推移と未来予測を接続させたものだ。
 21世紀の「第3次ベビーブーム」はなぜ起きなかったのか?
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 赤い線が実測値で、点線は昨年に公表された未来推計値だ。未来推計は3つのパターンが公表されていて、よく使われる中位推計だと2040年の出生数は72万人、悲観的な低位推計だと59万人になると見込まれる。
 1997年に公表された出生数予測を実測値と重ねてみると、低位推計がよく当たっている。ほぼピッタリだ。したがって今後の推移としては低位推計を見るのがいいが、ここ数年の出生数の傾きをみると、低位推計とて見通しが甘いように思える。近年の推移を延ばすと、赤色の点矢印のようになりそうだ。今のペース(毎年2万人減少)だと、2030年代初頭には年間出生数が50万人を割ってしまうことになる。
 国の存亡に関わる危機と、政府も対策に本腰を入れてはいる。特に教育の無償化に力が入れられており、2020年度より低所得層の大学の学費が減免され、返済義務のない給付奨学金も導入された。公立学校の給食費や学用品費用を完全無償化する自治体も出てきた。これが全国規模で実現されれば、「異次元」の対策と呼ぶにふさわしい。
 これらは、子がいる家庭への「子育て支援」の性格が強い。しかし少子化対策の上では、若者全体を支援の対象に据える必要がある。昔と違い、今の若者にとっては結婚・出産自体が「高嶺の花」となりつつある。稼ぎの減少に加えて、増税により可処分所得は減る一方だ(「この四半世紀でほぼ倍増した若年世代の税負担率」2023年8月16日,本サイト掲載)。少なくなった手取りから、学生時代に借りた奨学金も返さなければならない。結婚どころではない。
 昨年に策定された「こども未来戦略」でも言われている通り、人生のイベントアワーにいる若者の(可処分)所得を増やすことに重点を置くべきで、最も簡素で有効なのは減税だろう。
 都会の若者の間で「狭小物件」への需要が増しているというが、これなどは所得の減少による「住」の貧困に他ならない。結婚・出産を控えた(消費意欲旺盛な)若者を、1ルームならぬ「半ルーム(3畳)」に押し込んでいる場合ではない。
 <資料:厚労省『人口動態統計』、
 社人研『将来推計人口』>
 21世紀の「第3次ベビーブーム」はなぜ起きなかったのか?
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 舞田敏彦(教育社会学者)
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 2023年12月12日 コンビスマイル株式会社ブログ「第三次ベビーブームはなぜ起きなかったのか?【2023年子ども関連ニュースを振り返って】
 第三次ベビーブームはなぜ起きなかったのか?
 第一次ベビーブーム、第二次ベビーブームはありましたが、第三次ベビーブームはなぜ起きなかったのでしょうか?
・出生数、過去最少 合計特殊出生率 過去最少 (2022年)
 まず、このニュースを知った時かつてない数字に驚きました。
 2022年の出生数が80万人を切り、約77万人だったことです。これは統計を取り始めた1899年以来最少の数字となります。
 さらに2022年の合計特殊出生率は、過去最少だった2005年と同じ1.26でした。
 1974年から確実に出生数が減り続けています。
 そして次の疑問が浮かんだのです。
 「なぜ第三次ベビーブームが起きなかったのか?」 
 ネットで調べてみたところ、次のような事実を知りました。
・1974年の出生抑制政策 
 なんと1974年に、日本ははっきりと少子化を目指す政策を打ち出していたのです。厚生省の諮問機関である人口問題審議会は、1973年のオイルショックを受け資源と人口に関する危機感を高めて、人口白書で出生抑制に努力することを主張しました。さらに厚生省と外務省が後援した日本人口会議では「子どもは2人まで」という趣旨の大会宣言が採択されていたのです。
 グラフを見ると、確かに1974年ごろから出生数が大きく下がっていることが分かります。
・女性の社会進出
 1986年に「男女雇用機会均等法」が施行され、女性の社会進出が加速していきます。第二次ベビーブームの頃は普通だった「男性は仕事、女性は家庭で子育て」という役割分担が大きく変化していきます。
 確かに出生数は減り続けていきます。
 1989年には1.57ショック、すなわち「出生率が過去最低」になり、社会の目が出生率に注がれました。
 1973年を第二次ベビーブームのピークとすればその25~30年後、1998年~2003年ごろに第三次ベビーブームが訪れるはずです。
 しかし、出生数の減り方がやや横ばいになっていますが、決して第三次ベビーブームは訪れませんでした。
・バブルの崩壊と高齢化社会の問題
 1990年代後半、バブルが崩壊しました。その結果第三次ベビーブームを生み出す若者を取り巻く経済状況が悪化し、非正規雇用などに苦しむことになります。
 1992年の国民生活白書に初めて「少子社会」と言う言葉が取り上げられ、1994年には「エンゼルプラン」と言う少子化対策の基本方針が打ち出されます。
 それにもかかわらず、丁度このころ高齢化社会の問題が大きくなり、国の予算も少子化対策よりも介護保険制度により多く割かれることになりました。
 第三次ベビーブームが起きるはずの時代に、果たして少子化対策は十分に行われたのでしょうか?
 さらに右肩下がりになっていく出生数、合計特殊出生率。2023年も減少傾向にあるというデータがあります。
 進む高齢化社会と日本の人口減少 
・ますます進む少子高齢化社会
 このグラフから色々なことが読み取れます。
 ピンクの部分が65歳以上の人口、青い部分が15~64歳の人口、灰色が14歳以下の人口、薄い色の部分は今後予想される人口動態となります。
 2020年には65歳以上の人口の割合が28.5%、第一次ベビーブームに生まれた団塊の世代が75歳になる2025年には、75歳以上の人口が全人口の18%になると予想されています。
・生産年齢人口を増やすこと
 出生数が減ることは、生産年齢人口の減少につながります。生産年齢人口が減ると、少ない人数で社会保障費をまかなわなければならなくなり、社会を支える世代の税負担が増大し、経済的に非常に厳しくなり、生活を脅かすことになります。
 確かに、介護を必要とする高齢者がますます増える中で、生産年齢人口を増やすことが必要です。
 しかし「産めよ増やせよ」と出生数が増える方法を模索するだけで良いのでしょうか。
・何を目指したらよいのか
 今、私たちは何を目指す必要があるのでしょうか?
 産まれてきた子ども、産み育てる人それぞれが、心身ともに健康で幸せな生活を営むことが求められていると思います。
 児童福祉法 第二条に次のように述べられています。
 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。
 「異次元の少子化対策」が行われようとしていますが、まだまだ未来への展望を持った政策が見えてこないような気がします。
 当社は、30年にわたりベビーシッター事業(ベビー&キッズシッター請負業)、保育園などへの人材派遣 という事業を通じて、子育て支援を続けてきました。
 このような時代であるからこそ、子どもを産み育てているご家庭の気持ちに寄り添い、仕事との両立も含め、心から応援する姿勢を忘れてはならないと、強く思います。
(広報担当 Y.N)
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 2023年1月28日 読売新聞「第3次ベビーブームはまぼろしだった 識者インタビュー<5> 井上孝・青山学院大学教授  [迫る人口急減社会2023]
 人口急減
 スクラップ
 人口減少と一言で言っても、首都圏と地方都市とでは事情が違います。また、マクロの視点だけで人口を論じると、ミクロの視点が抜け落ちてしまうので、双方の視点で分析することが不可欠です。市区町村よりさらに細かい人口推計のシステムを開発した、人口統計に詳しい青山学院大学の井上孝教授から話を聞いた。(以下、敬称略)
 奥能登4市町、1月の転出者が前年の4・27倍に…輪島市は人口1・17%減で最も減少率高く
 独自の人口推計で災害対策にも活用可
Q)小さい面積ごとに人口推計ができるシステムを開発されたと聞きました。
 井上)町丁・字の単位で人口推計できます。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)では市区町村までの推計をしています。私が開発した「全国小地域別将来人口推計システム」を使うと、これとは違った視点の結果をみられます。データは公開しています。例えば、都心、駅、公共施設等からの距離ごとの人口構造を数百メートル単位で今後40~50年先まで分析できます。
Q)具体的な活用方法は。
 井上)現在、東京大都市圏では郊外に向かうほど高齢化率が高いですが、このシステムを使うと、2030~40年頃に都心の高齢化率が急上昇し、2050~60年頃には都心に近いほど高齢化率が高くなると予想できます。これは、「団塊の世代」は郊外に多く住む一方、「団塊ジュニア」は都心部やその周辺に多く住んでいることが要因と考えられます。団塊ジュニア(1971~74年生まれ)は2040年に全員65歳以上になるからです。
Q)色々な用途で活用できそうですね。
 井上)災害関連の分析にも有効です。津波や洪水の起こりやすい浸水想定区域における将来の人口構造を見ることが出来ます。住居の海抜が何メートルというような地理的情報を組み合わせた分析も可能で、浸水想定区域とそうでない区域の高齢化率がどのように変化するかを比較することもできます。
 団塊ジュニアは出産に消極的だった
Q)社人研の将来推計人口とその前提となる合計特殊出生率は、なかなか現実とは一致しないですね。
 井上)社人研は、「当てようと思ってやっているのではない」ということですが、政府は社人研の推計に基づいて社会保障費等の計算をしているので、外れると困ってしまいます。「もっと正確にやってくれ」といいたいところですが、予想し得ないことが起こるのも事実です。1980年代以降の出生率の急速な低下は予想できないことだったので、同じ研究者としてはやむを得ないと感じています。
Q)予想しなかった事態とは。
 井上)例えば、第3次ベビーブームです。我々人口研究者は、団塊ジュニア(第2次ベビーブーマー)が20歳代後半にさしかかる2000年前後に、弱いながらもベビーブームが起こるだろうと考えていました。しかし全く起きなかった。第3次ベビーブームは幻に終わったのです。彼らはその前の世代と比べて、消極的な出生行動をとりました。中には多少遅れて出生行動をとった人もいて、その動きがその後の出生率の回復に寄与しました。
 晩婚化・非婚化対策が重要
Q)結婚したい人がバリアなく結婚できる社会になることが求められます。
 井上)その通りです。日本の少子化は結婚する人の割合の低下が主因とされていますので、まずは晩婚化・非婚化対策が重要です。一方、結婚した女性の平均出生児数は2010年まで2人を超え安定していたのですが、15年には1.86に下がりました。これは、晩婚化に伴って第1子を産む年齢が上昇したことが一因とされますが、いずれにしても結婚した女性への手当ての重要性が増していることは確かです。日本の子育て支援は、項目によっては、世界的に見ても充実している方なのですが、より強化していくことが必要でしょう。数字の上では、結婚したい人がすべて結婚し、結婚した夫婦がすべて希望通りの人数の子どもをもうければ、出生率はあっという間に回復します。いかにそのような社会を作るかが重要なのです。
Q)外国人は今後、多少流入増が予想されます。
 井上)それでも人口増に対する効果はわずかです。出生力の効果の方がはるかに大きいです。移民あるいは外国人労働者によって人口減を補おうとする政策に「補充移民」という考え方があるのですが、補充移民によって日本の人口減を回避しようとすると、非現実的な人数の移民を受け入れざるを得ません。しかも、日本は移民あるいは外国人労働者の受け入れ拡大には賛否両論があり、歴代政権もどちらかというと消極的だったので、外国人に人口減あるいは労働力減少の緩和を過度に期待するのは難しいでしょう。
Q)海外の人材の受け入れ方について、どう考えていますか。
 井上)外国人労働者は日本の国際競争力の維持強化には重要な意味を持ちます。近年、高度な技術を持つ人材は国家間の獲得競争が激化しており、それが国際競争力を大きく左右すると言われています。日本は、残念ながらそうした獲得競争に出遅れています。この点に 鑑かんが みたとき、私は少なくとも高度な技術を持つ外国人労働者は積極的に受け入れるべきだと考えます。
 プロフィル
 いのうえ・たかし
 1959年7月生まれ。筑波大学大学院博士課程地球科学研究科単位取得済満期退学。筑波大学秋田大学などを経て、1995年に青山学院大学に。国立社会保障・人口問題研究所の研究評価委員などを務める。
 「人口急減」の最新ニュース
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 2019年3月2日 週刊現代講談社「衝撃…!少子化の根本原因は、50年前の「国の政策」にあった
 日本の人口を減らそうとした時代が…
 50年前は「人口抑制」こそが最大の懸案だった。そのとき正しかったことも時間が経てば過ちに変わる。正しいことを声高に叫ぶ人は危うい。
 ベビーブームの余波
 「国難とも呼ぶべき少子高齢化に真正面から立ち向かい、一億総活躍の新たな国づくりを推し進めます」
 昨年の10月、第4次改造内閣の発足にあたり、安倍晋三首相は首相談話の中で政権の課題を真っ先にこう語った。
 少子化が、日本という国が抱える「懸案」であることはいまやすっかり共有され、新聞でも、人口減少についての特集や社説を見ない日はない。
 〈2040年の日本 人口減危機へ戦略を構築せよ〉(読売新聞'18年4月27日付)
 〈人口を考える 縮む日本社会 未来の危機を直視する時〉(毎日新聞'18年7月15日付)
 〈去りゆくひと 死んでゆく島 老いる国はどこに向かうのか〉(朝日新聞'18年12月30日付)
 こうしてみると、各紙いかに刺激的なタイトルで人口減少を論じているかがわかるだろう。
 実際、日本の総人口は2005年に、調査開始以来、史上初めて減少に転じ、以後は減り続けている。
 国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が発表した「日本の将来推計人口」によれば、日本の総人口は2090年には6668万人、2115年には5056万人と、このまま急激な勢いで減少を続ける。
 一般的に、文明が成熟すればある程度の少子化の進行は避けられないと言われる。経済が発展して多くの人が豊かになると死亡率が下がり、同時に出生率も低下する傾向があるのだ。
 しかし、そうした事情を考慮しても、「いまの日本の人口減少は、他の先進国に比べて異常な状況だ」と語るのは、日本の少子化の歴史を紐解いた『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)の著者である作家、ジャーナリストの河合雅司氏だ。
 「2010年の先進各国の総人口を100とした場合の、2060年の人口予測を社人研が出しています。それによれば、アメリカやオーストラリアをはじめ、いまよりも人口が増加する国が多い。減少するのは韓国、ドイツ、日本くらいです。
 しかも、韓国は10年比で89.9、ドイツは79.1なのに対し、日本は67.7まで減少すると予測されている。日本の減少幅が突出していることがわかるでしょう」
 並み居る先進国のなかで、断トツのスピードで人口減少の道をひた走る日本。なぜ、そんな状況に陥ってしまったのか。
 「それは、戦後の日本で起きた2度のベビーブームの前後で、国を挙げて人口を減らそうとした時期があったからです」(河合氏)
 「家族計画」の名の下に
 国も新聞も、日本中がこぞって「少子化対策」を騒いでいるいまの世の中と真逆のことが行われていたというのは、にわかには信じがたいが、それは紛れもない事実だ。
 1947年、日本は第一次ベビーブームを迎える。終戦による旧植民地からの引き揚げや、出征していた夫の帰国によって、夫婦による「子作り」が一気に進んだ結果だ。
 この年以降、日本の出生率は上昇し、'49年には4.32を記録している。出生数は、269万6638人にのぼる。これは2017年の3倍近い数字だ。
 ところが、翌1950年には上昇がピタリと止まり、出生数が一気に約36万人減少している。明らかに不自然な推移だが、いったい何が起こったのか。
 「複雑な要因がありますが、GHQ産児制限の普及を誘動したことにより、爆発的な中絶ブームがおこったことが一番大きい。
 食糧難の中で人口が急拡大していた日本が再び軍国化することを恐れたアメリカは、中長期的に日本の出生数を抑え、人口の増加に歯止めをかけるべく、中絶の合法化や避妊知識の普及などを陰に陽に働きかけていたのです」(河合氏)
 くわえて、当時のアメリカには「人口の急増は共産化に結びつく」という考えも根強かった。アメリカにとって、日本の人口増は絶対に食い止めなければならない「課題」だったのだ。
 当時の吉田茂内閣はこのGHQによる産児制限の誘導を受け入れ、「家族計画」を国民へ広めるべく務めるようになる。
 そして、それに一役も二役も買ったのが当時の新聞だった。
 '49年の新聞記事を見ると、いま掲載されているのはまったく逆の「人口増加による危機」を叫ぶ言葉が並んでいる。
 〈文化的に内容のある生活をするためにも産児制限は有効な手段といわなければならない〉(読売新聞1月1日付)
 〈とにかく人口が多すぎる。なんとかしなければ、どうにもならぬと、だれもが考えている〉(毎日新聞11月21日付)
 こうした、国を挙げた「産児制限」の啓蒙によって、日本の出生率は減少のカーブを描いた。
 '57年の出生数は約156.7万人。'49年からわずか8年で、100万人以上減少した計算だ。
 「歴史に『もしも』はないといいますが、第一次ベビーブームがわずか3年という不自然な形で終わっていなければ、いまの日本の人口問題はもっと違った形になっていたでしょう」(河合氏)
 その後、'60年代に入り、高度成長が本格化すると、急速な経済発展による労働力不足を背景に、国による人口抑制政策は次第に後退していく。
 そして、'70年代になると、ふたたび出生数の急増が起きる。先述の'47~'49年第一次ベビーブーム世代の年齢が20代のなかばに差しかかり、一気に結婚、出産ラッシュを迎えたのだ。
 '71年には、出生数が19年ぶりに200万人台を回復、第二次ベビーブームが到来した。
少子化は本当に「悪」か
 ふたたび、日本の人口増加が進むかに思われた。だが、「人口を減らす動き」は、忘れた頃にまた繰り返される。
 背景には、当時アジアを中心に進んでいた急激な人口増加があった。
 このまま人口膨張や環境汚染が進めば、100年以内に地球上の成長は限界を迎える――。'72年に民間組織「ローマ・クラブ」が発表した報告書『成長の限界』は世界中に衝撃を与えた。
 敗戦から奇跡的な経済的復興を遂げ、'64年の東京オリンピック、'70年の大阪万博と世界へのアピールに余念がなかった「アジアの優等生」日本は、人口抑制においても、世界の先陣を切ろうと試みる。
 「いまこそ我々が先頭に立って人口抑制に取り組まなければならない」
 1974年に開催された「日本人口会議」で基調演説をした大来佐武郎海外経済協力基金総裁(のちの外務大臣)の言葉からは、並々ならぬ意気込みが滲んでいる。
 この会議では「子供は二人まで」というスローガンが採択され、新聞各紙も大々的に報じた。
 同日付の読売新聞は、人口研究の第一人者だった慶應義塾大学の安川正彬教授のコメントを掲載している。
 〈いますぐこの(出生抑制の)提案を実施しても、若年層が多いため、人口は二〇一〇年に一億二千九百三十万人になるまで増え続け、現在の一億人に落ち着くのに百八十年かかる。『せめてこれくらいの努力をしようではないか』というのが、会議全体を通じての雰囲気だった〉
 「挙国一致」の体制で人口を減らそうとする動きが、ふたたび巻き起こったのだ。いまからわずか50年ほど前のことである。
 この「子供は二人まで」という宣言の効果は絶大だった。ここから日本の出生数と出生率は低落の一途をたどることになる。
 「現在からすれば、'74年前後の出生率は、一国の人口規模をかろうじて維持できる数字に過ぎなかった。
 しかし、毎年100万人以上のペースで人口が増えるという事態に、国もメディアも焦りを覚えたのです。当時の状況を踏まえれば、彼らを責めることはできません。
 ただ、このときの国を挙げた動きが、現在の日本の『致命傷』になっていることは事実でしょう」(前出・河合氏)
 国や学者、そしていまよりも遥かに影響力の大きかった新聞がこぞって人口減少を主導すれば、おのずと国民の行動に絶大な影響を及ぼすのは自明のことだった。
 権威によって、いかにも正しいかのように語られていたことが、後から見れば間違っている。歴史上、繰り返されてきた悲劇が、戦後の日本でも起きていたのだ。
 翻って考えると、いまの新聞は人口減少によって日本に訪れる「危機的な状況」を叫んでいる。どれももっともらしく聞こえるが、果たしてこれらは正しいのだろうか。
 青森大学名誉教授で人口問題に精通する古田隆彦氏は「人口減少によって生産人口と消費が減ることは確かなので、経済規模を減らさない努力は必要だ」と断った上で、違った見方を提示する。
 「人口減少についてはマイナスの側面ばかりが叫ばれるあまり、誰もプラスの部分を見ようとしません。労働人口の不足はAIやロボットの利用が進めば、ある程度はカバーできるでしょう。
 人が減ると生活インフラが維持できないから大変だという意見もありますが、それも完璧を目指すのではなく必要な部分だけ維持するように切り替えればいい。発想を変えれば、人口が大きく減ることで、一人当たりの余裕は増えていきます」
 思えば、高度成長期の日本は年平均で10%前後の高い水準で成長を続けた。だが、この時期の人口増加率は、年平均でわずか、1%程度に過ぎない。つまり、人口の増加がほとんどなくても爆発的な経済成長は起きうるのだ。
 「もっともらしさ」の罠
 そして、古田氏は国が示している「100年先まで人口は減り続ける」という予想に対しても疑問を呈する。
 「もちろん、死ぬ人の数は急激には減りませんからトータルで人口が増えることはありません。
 それでも、歴史的に見れば、人口が減って一人あたりの余裕が生まれれば、出生率が次第に向上する。日本の出生率も2070年前後には底を打ち、その後は増加に転じる可能性が高いと思います」
 政府やマスコミが声高に唱えるように、日本の「人口危機」が将来にわたって続き、危機的な状況を迎えるのか。それとも、古田氏の言うように、ふたたび人口が増える新たな時代がやってくるのか。どちらの予測が正しいのかは、まだわからない。
 ただひとつ確かなのは、過去2度にわたり声高に叫ばれていた人口抑制策がいまの少子化を招いたという事実だ。
 宗教学者山折哲雄氏が言う。
 「結局、戦後の日本は、戦前の『産めよ、増やせよ』というイデオロギーを完全否定したわけです。あの時代が正しかったというつもりは毛頭ありません。
 でも、人が減ったら国が衰えるというのは自明のこと。それでも、政治もマスコミも本質的な議論をせずに目先の状況だけを追いかけてきた。
 そして、市井の人々はなんとなくそれに踊らされたわけです。物事の本質を捉えず、一見『もっともらしく』語られていることが、長い目で見ればいかに危ういか、ということでしょう」
 正しそうな理屈やスローガンを掲げ、大上段に構えて語られることでも、長いスパンを置いてみれば、大きく間違っていることもある。戦後日本の「人口減少の歴史」は、我々に貴重な教訓を与えてくれる。
 「週刊現代」2019年3月2日号より
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🍘48〗ー1ー人口戦略会議「2100年に人口8000万人維持」。2023年の出生数75万人で減少加速。~No.145 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年 1月9日17:30 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「人口「8000万人」維持を、2100年に向けて戦略会議が提言…「安定的で成長力のある国家」
 民間有識者らで作る「人口戦略会議」(議長=三村明夫・日本製鉄名誉会長)は9日、人口減少を食い止めるための提言「人口ビジョン2100」を発表した。2100年の日本の目指すべき姿として、「安定的で、成長力のある8000万人国家」を掲げた。
 日本の総人口は08年の1億2808万人をピークに急速な減少傾向にあり、国立社会保障・人口問題研究所の長期推計では、2100年には約6300万人に半減すると予測されている。
 東京都心の上空(読売ヘリから)
 提言では、人口減に歯止めがかからない場合、「どのような重大な事態が起きるか正確に理解することが重要」として、「超高齢化や地方消滅で(社会の)進歩が止まる」と深刻さを強調。2100年の人口を8000万人で安定させる「定常化戦略」と、小さい人口規模でも多様性と成長力を確保する「強靱(きょうじん)化戦略」の一体的な推進を訴えた。
 定常化戦略は、人口が維持できる合計特殊出生率2・07を達成する時期を60年に設定し、具体策に〈1〉若者の雇用改善〈2〉女性の就労促進〈3〉総合的な子育て支援制度の構築――などを挙げた。強靱化戦略では、生産性の低い産業の改革や人への投資の強化が重要だとした。
 人口戦略会議の三村明夫議長(左)から提言を受け取る岸田首相(9日午後、首相官邸で)=川口正峰撮影
 これらの戦略を進める体制として、内閣への「人口戦略推進本部(仮称)」設置のほか、勧告権を持つ首相直属の強力な審議会、各界各層に議論を呼びかける国民会議の創設を提起。国会に常設組織を設けて超党派の合意を目指すよう要請した。
 岸田首相は9日、首相官邸で三村氏らから提言を受け取り、「官民で連携して社会の意識改革に取り組んでいきたい」と述べた。三村氏は東京都内で記者会見し、「現役世代には次の世代の未来に対する責任がある」として、社会全体での意識共有を求めた。
 人口戦略会議は昨年7月に発足し、元総務相増田寛也日本郵政社長や人口問題担当の山崎史郎・内閣官房参与らが参加している。提言は10日発売の「中央公論」2月号に掲載される。
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1月9日19:23 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「「2100年に人口8000万人維持」 人口戦略会議、政府に提言
 「人口戦略会議」の三村明夫議長(中央)から提言「人口ビジョン2100」を受け取る岸田文雄首相(右)。左は増田寛也副議長=首相官邸で2024年1月9日午後1時36分、竹内幹撮影
 人口減少問題を巡り、民間の有識者らで作る「人口戦略会議」(議長=三村明夫・日本製鉄名誉会長)は9日、首相官邸岸田文雄首相と面会し、2100年に人口8000万人で安定化させることを目標とする提言「人口ビジョン2100」を提出した。
 国の研究機関が昨年公表した人口の長期推計によると、2100年の人口は6300万人と昨年比で半減する見通し。人口ビジョンでは、このままでは社会経済システムは「果てしない縮小と撤退」を強いられ、個人の生き方の選択の幅も極端に狭められる「重大な事態」に陥ると警告。人口減少のスピードを緩和させる「定常化戦略」と、少ない人口でも成長力はある国とする「強靱(きょうじん)化戦略」の一体的な推進が必要とした。
 そのうえで、2100年段階で人口8000万人で安定化させるため、合計特殊出生率を60年時点で2・07まで改善させることを目指し、若年世代の所得向上や雇用改善を最重点に、戦略を立てるべきだと訴えた。
 また、労働を目的に来日する永住、定住外国人に対する総合戦略が必要だと指摘。政府に2100年を見据えた「国家ビジョン」の策定と、地方創生や外国人政策を含む司令塔となる「人口戦略推進本部」の設置を求めた。国会でも超党派で人口戦略の「プログラム法」の制定に向けて合意形成を図るよう促した。
 東京都内で記者会見した三村氏は「人口減少対策は何十年にもわたり、粘り強く継続が必要で、国家ビジョンを作ることが絶対必要だ」と強調。副議長の増田寛也・元総務相日本郵政社長)は「この10年、危機意識の共有が不十分だった。(目標が達成されなければ)社会保障などは完全に破綻する」と危機感をあらわにした上で「厳しい道ではあるが、決して諦めることなくやっていくことが大事だ」と語った。【横田愛
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 1月11日 YAHOO!JAPANニュース TOKYO MX「戦略会議が“人口半減”に提言 2100年に8000万人維持へ
 「6278万」、この数字が一体何を示しているかといいますと、厚生労働省による2100年の日本の推計人口です。現在の1億2615万人から人口が半減するという試算が、去年の4月に公表されています。こうした急激な人口減少を解決しようと議論する人口戦略会議の中間報告が行なわれ、子どもを産みたいと思える環境づくりを進め、2100年に人口8000万人を目指すべきという提言が発表されました。
 三村議長:「6300万人、これは現在のちょうど半分。地域社会に大きな影響を与えます。2100年というと相当遠い世界に見えますけども、次の世代、我々の孫あるいは子どもたちに残す未来、これに対して我々世代は責任があると」
 人口戦略会議は民間企業の経営者や大学教授などが、少子化による人口減少課題について去年7月から議論を重ねてきたものです。
 1月9日の報告では、現在の出生率だと年間100万人のペースで人口が減少していくとして、2100年の時点で「人口8000万人」を維持することを目標に提言がなされました。
 増田副議長:「人口8000万人で人口を定常化させられないだろうかと。若年世代の所得向上・雇用改善、子育て支援の総合的な制度の構築と財源問題。そうした人への投資を大胆に進めていく」
 会議では、若年世代が子どもを産みたいと思える環境をつくるべく、所得向上や多様なライフサイクルの選択が実現できる社会に向けた協議を続けていくということです。
 本格的な”人口減少時代”の到来が叫ばれているわけですが、改めて現在公表されている日本の将来推計人口をみてみます。試算では一度も人口が増える年はなく、2056年に1億人を下回り、今から50年後となる2070年には8700万人、そして2100年に6278万人と、現在に比べて半減すると試算されています。
 この人口減少は出生率の低さから起きると推計されていますが、こどもが減ることで将来的には高齢者の割合が増えることになるんです。総人口に占める高齢者の割合は現在では28.6%となっているものの、2100年には40%となり、世界で最も高い水準で高止まりすると試算されています。
 街の人にも人口減少による“超高齢化社会”について意見を聞いてきました。
 「そんな人口減っちゃうのかしら。人口増やすって難しいことじゃない?。政府が思っているような思惑通りには全然行かないじゃないかな」
 「年寄りばかり増えて、見て行かなきゃいけない子どもたちが可哀相と思っています」
 「生産性が落ちますよね。そうすると福利厚生とか社会福祉の方の費用がどんどん増して、税金も高くなるじゃないと思うが、そうするとなおさら結婚と子ども生むなんてことは考えられなくなって来ちゃう」
 街からは不安の声があがりましたが、人口戦略会議でもこのまま対策を講じなければ労働力人口が減り社会保障などは破綻、さまざまな場面で選択肢が狭まる社会になると指摘しています。
 そうした未来を招かないよう、会議ではある程度の減少はやむをえないとしつつも、2100年の時点で安定的で成長力のある「8000万人」の人口を目標に掲げました。具体的な策としては、一昨年の時点で1.26となっている1人の女性が生涯に産む子どもの数を示す「合計特殊出生率」を2060年までに2.07に回復させるべく、若年世代の所得向上・雇用の改善、年齢や環境に関わらず学業や就業で多様な選択ができる社会に見直す、などの戦略をたてていくべきだとしました。
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 2月14日 日本総研「2023年の出生数は▲5.8%減、出生率は1.20前後に低下へ
 藤波匠
 2023年の出生数(日本人)は、前年に比べて4万人以上少ない72.6万人となる見通し。減少率は▲5.8%減となり、16年以降減勢が加速した中でも、19年と並ぶ最大の減少率となる公算。
 合計特殊出生率は、過去最低であった22年の1.26を下回ることが確実。1~9月の人口動態統計概数から試算した23年の合計特殊出生率は、1.20程度になる見通し。
 国立社会保障・人口問題研究所(社人研)から、23年4月に公表された将来人口推計(日本人)の出生数(中位)との比較では、23年の実績が推計値を1万2千人下回ることになる。社人研の将来人口推計では、24~30年は出生数が横ばいで推移し、74万人以上を維持するとしており、合計特殊出生率も2030年に向けて徐々に回復し、その後長期にわたり1.30以上を維持する見通しとなっている。しかし、足元23年の実績値は中位推計を下回り、先行きも中位推計から大きく下振れして推移する展開となることが懸念される。
 大幅な出生数減少の背景には、コロナ禍で顕在化した婚姻数の減少がある。23年の婚姻数は、前年対比▲5.8%減の47万6千組となる見通し。婚姻数は、コロナ禍に見舞われた20年に大幅減少したのち、22年はその反動からわずかに持ち直し。その後、コロナ禍が収束したことで、結婚を先延ばしにしていた人たちを中心に巻き返す動きが期待されたが、2023年に再び大きく下振れた形。
 婚姻数の減少は、2~3年後の出生数に影響を与えることが知られており、2020年以降コロナ禍によって婚姻数が急減した影響が、23年の出生数の大幅減少となって顕在化したもの。婚姻する人の割合の低下は、過去一貫して少子化の一因であったものの、2010年以降は出生数減少の主要因ではなくなっていた。ところが、コロナ禍で雇用の不安定化や人の出会いが極端に抑制されたことをきっかけに、婚姻数の減少が顕著となり、再び少子化の主要因に浮上してきたとみられる。
 社人研がコロナ禍で実施した出生動向基本調査でも、一生結婚するつもりのない人の割合が上昇傾向にあり、とりわけ近年は女性でその傾向が顕著である。社会進出が進む一方、結婚や出産によって男性よりも負担が増えがちで、キャリアや収入などを失う可能性の高い女性の結婚意欲の低下が表面化したものとみられる。ジェンダーギャップやアンコンシャスバイアスなどを早急に排除し、男女がともに社会と家庭での役割を等しく担っていくことのできる環境が必要となる。
 (全文は上部の「PDFダウンロード」ボタンからご覧いただけます)
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 2月27日 産経新聞「2023年の出生数、過去最少の75万人 人口減り幅は過去最大 厚労省統計の速報値
 子育て支援施設を視察する岸田文雄首相(中央)=令和5年2月19日、岡山県奈義町
 厚生労働省が27日に発表した人口動態統計の速報値(外国人らを含む)によると、2023年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は過去最少の75万8631人だった。初めて80万人を割った22年から5・1%減り、少子化が一段と進んだ。今後発表する日本人だけの出生数は70万人台前半への落ち込みが確実な情勢だ。婚姻数も50万組を割り戦後最少。死亡数は過去最多の159万503人となり、出生数を引いた人口の自然減は83万1872人と最大の減少幅になった。
 未婚・晩婚化の傾向は変わらず、少子化は政府想定を上回るペースで進む。地域や社会経済活動の維持が課題となる。政府は30年までを反転のラストチャンスとして「次元の異なる少子化対策」を掲げ、児童手当拡充などの関連法案を今国会で成立させる方針だが、効果は見通せない。
 「異次元」うたうなら意識改革に踏み込むべき 少子化深刻、先行き見通せず
 フランスやスウェーデン出生率低下傾向 日本は「超低出生率」前年の1・26下回る情勢
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 2月27日 朝日新聞「2023年の出生数75万人 減少加速 婚姻は戦後初の50万組割れ
 高橋健次郎
 2023年に生まれた子どもの数(外国人を含む出生数)は、75万8631人で8年連続で減り、過去最少となった。婚姻数は48万9281組で、戦後初めて50万組を割った。出生数は前年に初めて80万人を下回ったが、減少スピードに拍車がかかっている。
 「結婚が幸福度を下げる」社会で進む少子化 出生数減、専門家の見方
 婚姻数、少子化に影響大 専門家「出生数の減少トレンド続く」
 厚生労働省が27日に公表した23年の人口動態統計(速報)で明らかになった。出生数は、前年比で4万1097人減。速報値ベースで出生数が100万人を切ったのが17年。以来、3~5%程度で減少し、22年には80万人を割った。23年の減少率は前年比5・14%で、22年(同5・12%減)よりわずかに拡大した。
 国立社会保障・人口問題研究所が昨年4月に公表した将来推計人口(外国人を含む)では、23年は76万2千人。30年ごろまで横ばいで推移した後、緩やかに減少し、35年に76万人を割って75万5千人になると推計した。今回の出生数は、推計より12年早い。
 「あなたが幸せなら」…創刊30年のゼクシィ、新コピーに込めた願い
 厚労省は、出生数の低下は複数の要因が絡み合っているとした上で、「コロナ禍の影響も考えられる」とした。
 23年の婚姻数は、前年比3万542組減。減少率は5・9%だった。50万組を下回るのは1933年以来となる。コロナ禍の20年に12・7%と大きく減った婚姻数は、22年に1・1%増となったが、再び減少に転じた形だ。日本の場合、結婚と出産の結びつきが強いとされ、今後の出生数にも大きく影響しそうだ。
 今回公表の速報値は、23年…
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 2月27日 東京新聞「2023年出生数、最少75万人 人口減り幅も過去最大、厚労省
 厚生労働省=2023年12月
 出生数の推移
 厚生労働省が27日に発表した人口動態統計の速報値(外国人らを含む)によると、2023年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は過去最少の75万8631人だった。初めて80万人を割った22年から5・1%減り、少子化が一段と進んだ。今後発表する日本人だけの出生数は70万人台前半への落ち込みが確実な情勢だ。婚姻数も90年ぶりに50万組を割った。死亡数は過去最多の159万503人となり、出生数を引いた人口の自然減は83万1872人と最大の減少幅になった。
 未婚・晩婚化の傾向は変わらず、少子化は政府想定より12年早いペースで進む。
 出生数は第2次ベビーブームのピークだった1973年(約209万人)以降、減少傾向に入り、16年に100万人を割った。2022年の速報値は79万9728人で初めて80万人を下回り、23年はさらに4万1097人減った。減少は8年連続。
 厚労省の国立社会保障・人口問題研究所は将来推計人口で、76万人を割るのは35年と見込んでいたが、実際は12年早まった形だ。
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🏗2〗ー28ー「過疎地に国力を注ぐ必要はない」って本当ですか?令和6年~No.29 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年3月3日 YAHOO!JAPANニュース ハフポスト日本版「「過疎地に国力を注ぐ必要はない」って本当ですか? 反論に続々と祭りの思い出が集まった【能登半島地震
 「能登のキリコ祭り」の一つ「石崎奉燈祭」。巨大なキリコが小さな漁師町で豪快に乱舞する=2017年8月、石川県七尾市時事通信社
 「過疎地でも連綿と続いて来た文化があります」
 能登半島地震をめぐって石川県珠洲市出身の女性が投げかけた投稿に、SNS上で大きな共感が広がった。地元が誇る伝統行事「キリコ祭り」への思いをつづり、人口減が続く「田舎」にも大切に育まれてきた固有の文化があると訴えたものだ。
 一連のポストには、4万超の「いいね」がつき、「何年かかっても復活して欲しい」といった声や、祭りの思い出や写真が続々と寄せられている。
 能登に受け継がれる豪快な祭り
 1月1日に発生した能登半島地震から2ヶ月。最大震度7を記録し、甚大な被害がもたらされた石川県の能登半島では、今なお多くの人が避難生活を強いられている。地形上の制約など多くの難題が立ちはだかる中、現地では懸命な復旧作業が続く。
 その能登半島で、地域の誇りとして長く受け継がれてきたのが祭りの文化だ。
 珠洲市出身のtoffeeさんは1月15日、自らが生まれ育った地域について知ってほしいと、自身のX(旧Twitter)にキリコ祭りの思い出を投稿した。
 キリコ祭りとは、夏から秋にかけて半島各地で行われる一連の祭りの総称。「キリコ」「ホートー」などと呼ばれる大型の切子燈籠や山車が町内や海辺を勇壮に練り歩くのが特徴で、祭りの数は全部で約200にのぼるとも言われる。
 toffeeさんの地元で毎年7月に開かれる「飯田町燈籠山祭り」もその一つ。張子の人形を掲げた巨大な「燈籠山」が町をにぎやかに巡行し、江戸時代から400年もの歴史をつないできた。
 「田舎の僻地でロクな娯楽もなく、金沢まで出ようと思ったら車で3時間半もかかるケばかりの土地で育った」
 そうつづるtoffeeさんにとって、老若男女が力を合わせ、巨大な燈籠山を曳き回す祭りは「何よりもダイナミックで心踊るもの」だった。町全体が活気で満ちる年に一度の機会は「それこそハレの日」。豪華で勇壮な祭りが、能登育ちの自慢だった。
 小学生の時には、街角に設けられた舞台で「手踊り」を披露。「田舎でその時だけ主役になれたような気分」が誇らしく、思春期を迎えると、朝まで山車を曳き回す大人たちに加わって「背伸び」した気分にもなった。太鼓、笛、鐘の音に、「ヤッサー、ヤッサ」の力強いかけ声……今でもその音を聞くと胸が高鳴り、「肉体に刻まれた祭りのDNA」が疼き出すという。
 能登では毎年、祭りの季節に親戚や友人同士で招き合って、それぞれの地域の祭りをともに楽しむのが慣わしだ。そうした時間が人々にとってかけがえのない生活の一部なのだと、toffeeさんは言う。
 「田舎であればあるほど、このような祭り文化と人々の暮らしは切っても切れない」「それを失うことは、その人のアイデンティティをも失うことに他なりません」
「固有の文化まで切り捨てないで」
毎年7月に珠洲市中心部で行われる飯田町燈籠山祭り(祭りの公式サイトより)
 今回の投稿を思い立ったのは、地震の発生後、「過疎地に国力を注ぐ必要はない」といった一部の心ない主張をSNS上で目にしたからだ。すぐに現地に駆けつけられないもどかしさの中で、少しでも力になりたいと地元の文化について発信することにした。
 「どうか、外から発言される皆さん、その土地特有、固有の文化まで切り捨てないでください」
 そう訴えた一連のポストは大きな反響を呼び、コメント欄には「お祭りがまた出来るくらい元通りになることを祈ってます」「過疎化が進んでるとはいえ、簡単に無くしていいものだとは思えません」「同じ能登の人間として、ハッとした気持ちになりました」と、共感や励ましの声が相次いだ。
 また「我が町自慢のお祭りを思い起こしてみませんか?」と呼びかけると、「青柏祭」「あばれ祭」「石崎奉燈祭」「とも旗祭」といった能登の祭りの名が次々に挙がり、「多彩なお祭りが羨ましい」の声も。「かっこいい!しかなかった」と、過去に見た祭りの写真や動画を寄せる人も現れた。
 取材に対し、「一日も早く安心して暮らせるようになることが最優先。その上で、祭りをまたやりたいという人々の思いが、少しでも復興の支えになれば」と話したtoffeeさん。一連のポストは、次のように締めくくられている。
 「今年、来年は無理でも、あの山車が残っていて人々が帰って来たなら、また再び祭りをやって欲しい。切り立った海岸線、日本海の黒々とした波に紅く彩られた山車やキリコはとてもよく映える。その景色がまた見られるように」
 津波に流されたキリコも
 能登町の奇祭「あばれ祭」。神輿をたたき付けたり、川や火の中に投げ入れたりして大暴れする=2017年7月、石川県能登町時事通信社
 海と山に囲まれた能登半島は「祭りどころ」として知られ、豊作・豊漁への祈りや自然への感謝を捧げる祭礼が1年を通じて多様に営まれてきた。
 一帯には、その土地ならではの暮らしの文化と歴史を伝える数多くの無形民俗文化財が残されており、「奥能登のあえのこと」「青柏祭の曳山行事」「能登のアマメハギ」の三つはユネスコ無形文化遺産にも登録されている。
 2015年度には、3市3町の29の祭りを中心とした日本遺産「灯り舞う半島 能登~熱狂のキリコ祭り~」が認定。豪華絢爛にして豪快な祭りの数々は、地域外から人々を迎える重要な観光資源にもなっていた。
 今回の震災では、こうした伝統的な行事や生業にも少なくない被害が出ている。
 現地の報道によると、珠洲市宝立町の鵜飼地区では「宝立七夕キリコまつり」で用いるキリコの保管庫に津波が直撃。大小合わせて5基のキリコが失われた。輪島市中心部の「輪島キリコ会館」でも、展示・保管されている大小のキリコの多くで被害が確認されたという。
 例年5月に行われる七尾市の「青柏祭の曳山行事」は、今年の開催を見送ることを決定。山車の被害こそ免れたものの道路の隆起や余震の影響で、安全確保が難しいと判断した。このほか避難生活が長引くなどして地域社会が離れ離れになり、祭りの開催や継承にも影響するのではないかといった懸念も出ている。
 こうした中、石川県は2月1日に開いた第1回復旧・復興本部会議で、「創造的復興」に向けた取り組みの一つとして「文化財、祭りなど地域の文化の再生支援」を挙げた。現地では文化財保護の専門機関による被災調査が進められ、再開を望む地元の声に応えようと民間団体による支援の動きも広がり始めている(企業メセナ協議会の「芸術・文化による災害復興支援ファンド GBFund」など)。
 復興のシンボルとなった祭りや芸能
 2011年に起きた東日本大震災では、住民の強い意志のもと一部の民俗芸能などが早くから再開され、復興のシンボルとして注目を集めたことで支援の輪も大きく広がった。慰霊や復興祈念として各地で披露された神楽や獅子舞は、被災した地域の人々を励まし、コミュニティーのつながりを作り直すきっかけになったとも言われている。
 『震災後の地域文化と被災者の民俗誌』(2018年)などの共編著がある東北大学の高倉浩樹教授(社会人類学)は、「伝統的な祭りや芸能には、人々の結束を作り出すほか、震災前の日常を思い出すよすがとなったり、地域社会の歴史的・文化的な誇りを喚起したりする力がある」と指摘する。そのため、その再生支援は地域社会の復興にもつながると考えられるという。
 東日本大震災では、祭りや芸能が地域社会にどのような効果をもたらしたのか。また、能登半島地震では今後いかなる支援が必要と考えられるのか。東北の被災地でフィールドワークを重ねた高倉教授に聞いた。
 無形民俗文化財が被災するとは
 仮設住宅で披露された大曲浜の獅子舞=2012年1月、宮城県東松山市時事通信社
ーー東日本大震災では、地域の民俗芸能や祭礼行事をめぐってどのようなことが起きていたのでしょうか。
 東日本大震災で特徴的だったのは、祭りや芸能といった地域の伝統行事に注目が集まり、復興の象徴として捉える見方が広がったことです。発災から数ヶ月という早い段階から、犠牲者を悼むために各地の民俗芸能が次々に再開され、そうした「復活劇」に復興への希望が重ねられました。
 たとえば、宮城県東松山市の大曲浜地区は、津波で壊滅的な被害を受けて全面移転を余儀なくされました。この地に約350年前から伝わる「大曲浜獅子舞」(市の指定無形民俗文化財)は、道具の大半が流されるなどして当初は存続が危ぶまれたのですが、支援を受けて獅子頭を新調。2012年の正月に仮設住宅などで再開を果たします。これがメディアに取り上げられると各地から声がかかり、県外だけで1年間に18回の招聘公演が行われました。慰霊や復興祈念といった新たな役割をまとい、人々を元気づける存在となった事例の一つと言えます。
ーーこうした中、行政の側ではどのような動きがあったのでしょうか?
 行政の側では「災害公営住宅の整備」や「宅地の耐震化」とともに、「無形民俗文化財の再生支援」が復旧期の具体的な施策の一つに組み込まれました。岩手、宮城、福島の3県が策定した復興計画ではいずれも、民俗芸能などの伝統文化が文化財保護の対象であるだけでなく、暮らしの再建や地域コミュニティーの再構築につながるものとして位置付けられたのです。
 3県はそれぞれ文化庁の補助事業を活用し、地域文化の復興プロジェクトを立ち上げました。背景には、未曾有の災害によって各地の文化が一挙に失われてしまうのではないかという危機感もありました。被災した無形民俗文化財の調査が行われることになり、東北大学に所属していた私は、宮城県からの委託で2011年11月から他の研究者とともに沿岸部での調査を始めました。
ーー無形民俗文化財の被災調査とはいかなるものでしょうか?
 美術工芸品や建造物といった有形の文化財と異なり、無形の民俗文化財には「形」がありません。それはすなわち、担い手が亡くなる、道具や場所が失われる、さらには基盤となる地域コミュニティーが離れ離れになるなど、多様な被災パターンがあることを意味しています。
 調査では、地元の教育委員会の協力も得て、主に民俗芸能の伝承を担う保存会や地域住民の方々にお話を伺いました。行事が震災前にどのように営まれていたのかを聞き取り、被災状況を確認し、必要とされる支援や再開の過程について具体的に記録していきました。各地域の調査記録はインターネットで公開し、冊子としても配布。その後、分析編として研究者らの論考を収めた書籍も刊行しています。
ーー民俗芸能などに対しては、どういった支援が行われたのでしょうか?
 練習や公演の場を提供する、記録を残すなど、さまざまな形の支援がありますが、なかでも失った道具を取り戻すにあたって、民間の財団や基金が大きな力を発揮したことは指摘しておくべきでしょう。日本財団の「まつり応援基金」や企業メセナ協議会の「百祭復興プロジェクト」などの枠組みを通じて幅広い資金援助が行われ、面や衣装、太鼓、神輿などさまざまな道具が修復・新調されました。
 また、被災調査それ自体の「副産物」として、伝承を促進する効果が生まれたことも重要だと考えています。とりわけ東北沿岸部には、国や自治体の指定や選択を受けていない、いわゆる「未指定」の文化財が数多く伝えられていました。研究者が訪れることで、「自分たちが守り伝えてきた祭りや芸能は、外から見ても価値があるものなのだ」といった気付きが生まれ、保護団体や伝承者のモチベーションになった部分もあるのです。調査など外部の人と関わる中で、再開に向けて動き出した方も少なくなかったと思います。
 もちろん、再開しない/できないと判断した団体もありましたし、再開しても完全に元通りとはいかない中で、たとえば「誰のために舞うのか」といった色々な葛藤があったといいます。その意味でも、全て再開すればよいというわけではないし、支援は当事者の意思に沿った形でなされるべきという前提を忘れてはいけないと思います。
傷ついたつながりを結び直す
ーー実際のところ、民俗芸能などの伝統文化は、地域社会の復興に寄与したと言えるのでしょうか?
 はい。それらが果たした役割として大きく三つを挙げられると考えています。
 一つは、傷ついた地域のつながりを結び直し、人々の結束を生むこと。祭りや芸能の再開までには、そもそも実施すべきかどうか、道具は買うのか自分たちで作り直すのかなど、多くのことが話し合われ、いろいろな人が集まる過程で新たに関係が作り直されたと言えます。集団で受け継いできたものだからこそ、自分ひとりの意思で終わりを判断することはできない。そうした「小さな公共性」とも言える側面がコミュニケーションを生み出すきっかけにもなったのです。
 二つ目は、震災前の日常生活を思い出すこと。災害から復旧・復興へと向かう時間の流れは、被災者にとっては非日常の連続で、経験したことのない判断や選択を次々に迫られます。そうした中で、祭りや芸能は、震災前までの日常を思い出すための大切なよすがとなっていました。式次第を守り、型どおりに舞う。こうした儀礼的な側面も、震災前とのつながりを感じさせるところがあったのではないでしょうか。「これだけは変わっていない」と。
 最後は、アイデンティティーの維持や強化に関わるものです。その土地で長く伝えられてきた歴史や文化は、地域社会にとっての象徴になります。津波原発事故によって移転・離散を余儀なくされた人々にとって、祭りや芸能は、離れ離れになった住民同士がふたたび集まるきっかけを提供するだけでなく、地域への帰属意識をつなぎとめる機能も担ったと言えるのではないでしょうか。
 これら三つは、場合によっては他の娯楽イベントなどによっても代替可能かもしれません。ただし祭りや芸能の場合、その場一回限りのものではなく、数年に一度などの周期を伴って長く世代間で継承されてきたという特徴があります。地域の歴史や文化を受け継ぎながら、同時に新たな社会的つながりを作り出していくことができる。この点においてこそ、地域社会の復興に独自の貢献ができると考えられるのです。
ーー今回の能登半島地震では、祭りなどの再開に向けてどのような対応が必要だと考えますか?
 行政の支援という意味では、地域社会の復興と文化財保護の二つの視点から考える必要があります。民間からの資金援助に加えて、報道などで外からの注目が集まることも力になるでしょう。また東日本大震災の時のように、行政主導で研究者らの調査が行われるのが望ましいと思います。
 「変わらない伝統はない」という考え方も重要です。そもそも震災前から、担い手不足などの課題は続いていました。東北の被災地でも、外部の人を新たに巻き込むなど、ある程度の変化を受け入れながら存続を目指す動きが見られました。私自身、二つの小学校が統合する過程で、両地域の神楽を一つにミックスしていくような動きを目にしましたが、このように自ら主体的に変化していくプロセスもまた、無形民俗文化財の継承には必要な要素なのではないかと感じました。
 無論、無形民俗文化財の再生がただちにコミュニティーの再興をもたらすわけではなく、インフラや雇用の回復が急がれることは言うまでもありません。それでも地域社会の復興を考える上で、祭りや芸能が果たしうる役割は決して小さくないと私は思います。
 ◇  ◇  ◇
 たかくら・ひろき 1968年生まれ。東北大学東北アジア研究センター教授。専門は社会人類学、シベリア民族誌。震災関連の共編著に『無形民俗文化財が被災するということ――東日本大震災宮城県沿岸部地域社会の民俗誌』(2014年)、『震災後の地域文化と被災者の民俗誌――フィールド災害人文学の構築』(2018年)、『災害〈後〉を生きる――慰霊と回復の災害人文学』(2023年)など。
 西田理人・ハフポスト日本版
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🏗3〗ー1ー大都市は100年前の関東大震災よりも安全ではない。首都圏に潜む、地震火災リスク。~No.30 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2023年8月30日 YAHOO!JAPANニュース Yahoo!ニュース オリジナル 特集「100年前より安全になったとは言えない--首都圏に潜む、地震火災リスクを考える #災害に備える
 関東大震災当日の東京・丸の内の様子(提供:MeijiShowa/アフロ)
 今から100年前の1923年9月1日午前11時58分。首都圏を現在の震度7や6強に相当する激しい揺れが襲った。のちに「関東大震災」と呼ばれることになるこの大災害は、近代化した首都圏を襲った唯一の大地震だ。死者・行方不明者の数は10万5000人を超え、その多くは火災によるものだった。大きく発展を遂げた現代日本の首都圏が、もし再び同じような地震に見舞われたらどうなるのか。都市防災の専門家で、地震による火災(以下、地震火災)についてさまざまな角度で研究を行う東京大学先端科学技術研究センターの廣井悠教授に、話を聞いた。(ジャーナリスト・飯田和樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
 関東大震災のような地震火災の問題はまだ解決されていない
 東京大学先端科学技術研究センターの廣井悠教授(撮影:飯田和樹)
 「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸時代から現在の東京はたびたび大火に見舞われてきた。明治時代になり、江戸が東京と呼び名を変えた後も銀座、神田、日本橋などで大火は続いた。しかし、大正時代に入ると、消火能力の向上などによりその数は減少。人々はようやく街全体を焼き尽くすような大火に脅えずに済むようになってきた。そんな頃に起きたのが、関東大震災による火災だった。
――関東大震災の火災被害とは。
 「建物の倒壊、津波、土砂災害などさまざまな現象が起きましたが、特に東京市(現在の東京都区部に相当)、横浜市といった人口密集地域では、火災による被害が群を抜いて多かった。東京市では被害を受けた建物の98%が焼失、死者の95%が火災によるものでした。特に揺れが大きいところで出火が多く、焼死も多い傾向です」
――お昼時、食事の準備で多くの家に火の気があった。また、当日は日本海を台風が進んでいた影響で、風も強かったことも被害が甚大になった原因だと聞く。
 「地震火災は、季節や時間帯によって全然違ってきます。昔はかまどや七輪を使っていたので、正午近くに発生した関東大震災では多くの出火が発生しています。現代でも、多くの人が火を使う時間である平日の夕方や、暖房器具を使っている冬に地震が起きると出火件数が多くなると想定されています。また、当然ですが、風速や湿度など気象環境も影響します。その意味では、関東大震災は非常に不運が重なった災害だったといえると思います」
 関東大震災以降、首都圏は大きな地震に見舞われていない。戦後も特筆すべき大火は東京では起きていない。だが、廣井教授は「関東大震災のような地震火災の問題はまだ解決されていない」と考えている。将来の災害における被害を正確に予測することは、現代の科学技術では難しい。ただ、地震火災による被害を考える時には「出火」「延焼」「消防」「避難」という4つの観点があり、これらの観点から100年前と現在を比べることで、現代の都市がどれくらい安全に、あるいは危険になったのかが見えてきそうだと廣井教授は言う。
1 00年前より出火件数は増えている可能性がある
 一般家庭ではすっかり見かける機会が減った「かまど」(写真:アフロ)
――まずは「出火」の観点から。かまどや七輪を使っている家は、いまやほとんどない。ガスも大きな揺れを感知したら止まるしくみがある。
 「100年前と比べて、現代都市の火気使用環境は大きく変化しており、出火原因での比較は困難です。ここでは、1万世帯当たりの出火件数を『出火率』と定義し、様々な地震が起きたときの出火率を比較してみます」
 「出火率は、関東大震災のときは東京市で2~3件ぐらいです。1995年の阪神淡路大震災も結構多くて、神戸市の震度7地域を見ると3件ぐらい。つまり1万世帯当たり3件の出火が発生している計算になります」
――1995年の時点でも結構多い。
 「真冬で暖房器具を使っていた影響や、揺れの特性などもあるかもしれません。その後は、2004年の新潟県中越地震震度6強以上の地域で1.2件、東日本大震災で0.4件、熊本地震は0.2件。出火率も時刻や季節などに大きく左右される面はありますが、ずいぶん低下してきたと言えなくもない」
 現代は電気火災が多い(提供:アフロ)
――現代だと電気火災が多い?
 「停電からの復旧時に発生する通電火災もありますが、屋内配線の短絡や、電気器具などから出火したりするケースも多いですね。そのほかにも地震の時は想像もしない形で出火することもあります」
――出火率が減少傾向にあるというのは、安心材料では。
 「出火率だけ見ればそうなのですが、肝心の出火件数は多くなる可能性もあります。関東大震災当時の東京市の出火件数は134件とされ、阪神淡路大震災の出火件数は285件。東日本大震災時は、被災範囲は広いですが398件と言われています。首都直下地震では運の悪い状況では800~900件ぐらいの出火件数も想定されています」
 「ちなみに、東日本大震災の時の東京(震度5強)の出火件数は35件。東日本大震災のデータを調べてみると、5強の地域と6強の地域で、10倍ぐらい出火率は異なる。雑な計算ではありますが、もし東日本大震災のときに東京が震度6強だったら350件ぐらい出火することになります。関東大震災時の東京の最大震度が6強だとしたら、3倍ぐらいに増えているわけです。そういう意味でも、出火件数はやっぱり増加傾向にあるという可能性も否定できません」
――出火率は下がる一方、出火件数は増えているのはなぜか。
 「大きな理由として、都市の拡大があげられます。現代の大都市は世帯数が100年前と比べて飛躍的に増加しました。なので、全体としての出火件数は増えてしまう。発生が危惧される首都直下地震南海トラフ巨大地震では、もっと多くなる可能性もある。『出火』という観点については、100年たってむしろ悪くなっていると捉えたほうが安全かもしれない」
 糸魚川の大規模火災で明らかになった延焼の教訓
 夜になっても火が見える糸魚川市の商店街。2016年12月22日撮影(写真:日刊スポーツ/アフロ)
――次は「延焼」について。都市が燃えやすければ燃えやすいほど被害は大きくなる。江戸時代から火災が多かったのは、木造住宅が密集している都市だったからだと思われるが、現代の都市はどうか。
 「日本は都市を燃えにくくすることはできましたが、面的に不燃化を徹底することはできませんでした。お金の問題も大きいでしょう。不燃化には少なくない資金が必要となりますから。一方、都心中心部など、再開発によって木造住宅を壊して高層化して不燃化することができた地域もあります。また、路線防火といって、避難路となる幹線道路や広域避難場所につながる道路沿いに不燃建物を誘導し延焼を防ぐといった取り組みは1950年代ぐらいからあります」
――延焼防止策も進んでいる。
 「とはいえ、不燃化が徹底されたわけではないので、延焼のスピードは遅くなるかもしれませんが、燃えるのは燃えます。それを思い知らされたのが今から7年前の2016年12月末に発生した糸魚川市の大規模火災です。糸魚川駅の北側の中華料理屋から出火して、非常に強い南風に乗って海側に燃え広がった火災です。私はこの火災についていろいろな調査をしていますが、現代都市の火災リスクはまだ残っているなと改めて感じました」
 「この時、風は南から北に向かって吹いていましたので、海側で焼け止まることによって、延焼が終わりました。しかし、もしこの時に西風や東風に風向きが変わったらどうだったか。もしかしたら、燃えずに済んだ隣の市街地に延焼が広がっていたかもしれません。糸魚川市大規模火災が我々に突きつけたのは、『まだまだ我が国の市街地は燃える』ということなんです。しかも、燃えた市街地は木造密集市街地と言われましたが、地震時に著しく危険な密集市街地といわれるような極めて高密な市街地というわけではなかった。糸魚川よりも深刻な密集市街地は、まだまだ全国にたくさんあります」
 関東大震災で数多くの建物が倒壊した東京・京橋(提供:MeijiShowa/アフロ)
――東京や大阪といった大都市の木造密集市街地は、もっと密集している。
 「そうなんです。そして、もう一つ言えることがあります。糸魚川の火災の出火件数は1件。しかも、地震火災ではないので、燃える前の段階で他の家は壊れていない。一方、地震火災の場合は同時多発出火となる。また、大きな揺れにさらされた家は、瓦がずれたり、窓ガラスが壊れたりしているので、より市街地が燃えやすくなっています。強風下ではありましたが、地震火災ではない、平常時の1件の火災なのにこれだけ燃えたというのが糸魚川市の大規模火災が私たちに与えた教訓です」
――燃える速度は昔よりも遅いかもしれないけれども、延焼のリスクがなくなったわけではないと。
 「はい。それからもう一つ、関東大震災の時には明らかになっていなかった地震火災の新しい延焼リスクが、近年の火災から見えてきました。それは空中で起きる火災です」
 「東日本大震災の時、実は中高層建物の中で地震火災が結構起きているんですね。少なくとも、揺れに起因して発生する火災のうちの4割ぐらいが4階以上の建物で発生している。つまり、中高層建物の例えば低層階などで火災が発生して多くの人が逃げられなくなる。私はこれを『震災時ビル火災』と呼んでいますが、そういう新しい延焼が起きるかもしれないのです」
 「東日本大震災時に仙台市で調査した結果、中高層建物の火災安全性能を担保してくれるはずの防火扉やスプリンクラーは大きな地震が起こった時には機能しないこともあることがわかりました。多くの人が中にいる状態で震災時ビル火災が発生し、これら防火設備や消火設備が機能障害を起こし、大勢の人が犠牲になるというシナリオもあるという前提で、今後は対策を考えていかなければならない」
――ちょっと考えたくないようなおそろしいケースも、想定しておく必要がある。
 「延焼という観点でまとめると、関東大震災の時に比べると不燃化率はそれなりに高まり、火災が起きにくくなったかのように思われるが、まだまだ非常に多くの木造密集市街地が残されていて、さらに震災時ビル火災のような新しい延焼リスクも顕在化しつつある。まだまだ油断は禁物という評価になると思います」
 都市大火の抑制には成功したが、地震火災には通用しない
 日本の消防の常備化率は高まったが……(写真:アフロ)
――「消防」についてはどうか。
 「関東大震災の火災被害や戦時中の空襲の被害を受け、戦後、日本は消防力を充実させました。その結果、大火の発生頻度は1970年前後に激減しています。ちなみに、大火というのは1万坪以上、つまり3万3000㎡以上の火災を指します。大火が激減しはじめた1970年前後は、消防の常備化率を急激に高めた時期と重なります」
 「日本は、都市をできるだけ難燃化するとともに、どこで火災が起きたとしてもすぐに消防車と消防士を派遣するという戦略を立てました。つまり、延焼するまでに時間を稼ぐような都市整備をしつつ、消防車と消防士が四方八方から向かわせて、寄ってたかって火を消す社会制度を構築しようという合わせ技の戦略です。これは一般に『8分消防』などと言われますが、この社会システムが実装されたことで、実際に地震時を除いた都市大火は、1976年の酒田大火以降、約50年発生していません。」
――戦略が成功した。
 「しかし、このシステムが通用しないケースがあります。それは同時多発的に火災が発生した場合です。つまり、地震火災の時は力を発揮できないのです。1995年の阪神淡路大震災の時、神戸市長田区では全部で13件の火災が発生しましたが、長田区の消防署管内で動けるポンプ車の数は5台のみでした。13件の火災を5台で消さなければいけない状況だった。当然、すべての火災を消すことは難しいわけです。加えて、地震時は帰宅困難者や家族を送迎しようとする自動車で歩道や車道に人があふれ、大渋滞が発生していることも想定されます。倒壊家屋によって道が塞がれている場所もあるでしょう。水道管が揺れで壊れて、水が出ないかもしれません。つまり地震時は、平常時のように消防車が迅速に到着し、活動することは十分に期待できない」
 「となると、個人や地域で初期消火をしなければいけない。関東大震災の時は東京市全体で134件の出火が発生しているのですが、40%程度は初期消火されていて、そのうち6割は公設消防以外が消火しています。しかし、近年の地震火災を振り返ると、強震時の初期消火は難しいことがわかっています。公設消防の力が向上した半面、火災を自分たちで消すという意識が希薄になってしまった可能性もあります。地域コミュニティの喪失や少子高齢化などを背景に、この部分はさらに今後悪くなっていく可能性もある。戦後に作り上げてきた都市大火を起こさないためのシステムが機能せず、個人や地域の初期消火能力も落ちていくとすれば、消防という観点でも楽観視はできません」
火災からの避難が下手になっている現代の日本人
 関東大震災で、道がズタズタになった神奈川県横浜市(提供:MeijiShowa/アフロ)
――最後は「避難」について伺いたい。
 「関東大震災で焼死した人の中には、建物に閉じ込められたり、避難途中に橋の焼失や落橋で逃げられなくなった事例のほかに、安全な避難空間だと思っていた場所で亡くなった事例などもあります。こうしたことを教訓に、日本は燃えない橋を造り、安全な避難場所を造り、さらに避難路の周辺を不燃化するといった取り組みを100年間続けてきました。これによって、避難のためのハード性能は相当向上したと考えていいでしょう」
 「しかし、ソフト性能は低下しているかもしれない。つまり肝心の避難する人たちは火災からの避難が下手になっている可能性があります。実は、火災からの避難というのは他の災害と比べても非常に複雑で難しい。というのも、全員が一律同じ行動をすれば良いというわけではないからです」
――単純に、みんなが火災現場から離れるというだけではダメなのか。
 「火災からの避難は、諦めが早すぎてもよくないし、諦めが悪すぎてもよくないという難しさがある。諦めが悪すぎると、火災と火災に挟まれたりすることで、逃げ道を失って命を落としてしまう。しかし、延焼にも絡む話ですが、諦めが早すぎてみんなすぐに逃げてしまうと、火災の被害がより拡大し、地震で家に閉じ込められた人や、高齢者や障害のある人など、避難に助けを必要とする人を助けられないということも起こりうる。適切なタイミングまできちんと初期消火や飛び火警戒などを行い、自力での避難が困難な人を救助し、そして適正なタイミングで逃げる、というような非常に難しい対応が求められますし、そのように活動することで被害を最小化することも可能なのです」
 「もう一つ、特に大都市においては大きな課題があります。関東大震災の時、東京市の人口は約200万人なのですが、避難途中の橋などで子供や老人などが圧死する群集事故が発生しています。例えば東京市相生橋横浜市の吉田橋などでこのような事故が発生していますが、現在の東京都は人口が1400万人くらいいるなど、100年前と現在では人の多さは桁違いです。特に東京の昼間人口は多い。このような群集事故が首都直下地震の時に発生する可能性も少なくないのではないかと見ています。これも100年前と比べて、悪化した点と言えるでしょう」
 防災を「うまく」使ってコミュニティの再構築を促せたら
 防災をうまく使ってコミュニティの再構築を促すような、良い循環が生まれるための支援をしていきたいと話す廣井教授
 「出火」「延焼」「消防」「避難」。いずれの観点で見ても、必ずしも100年前と比べて都市がそこまで安全になっているとは言えないようだ。地震火災に強い街を目指す上で、助け合えるコミュニティをつくるのも大切だと廣井教授は訴える。
――どのように備え、立ち向かっていけばよいのか。
 「まず、いまもなお、地震火災リスクは少なくないことを知ってほしいと思います。もちろん地震発生の季節や時刻、風速などの条件が良ければ、大きな地震があっても火災被害はそれほど大きなものとはならないかもしれません。しかし反対に運が悪ければ、甚大な火災被害が発生する可能性もゼロではないのです。このような我が国の地震火災リスクの高さを知った上で、どのようなことが身の回りで起きるのかというイメージを持ってもらいたい」
 「地震火災に強い街ってどんな街だろう、と考えると、コミュニティがしっかりしている街だと思うのです。今、そもそもコミュニティは衰退している地域も多くて、大都市などでは人がたくさんいても、周りの人の名前が分からないという状況もありますよね。そうしたなか、みんなで地震火災の取り組みを進めることで、地域の中でこれまで見えなかったさまざまな課題が見えてくるかもしれません。その結果、普段生活がしやすいコミュニティができて、さらに地震火災にも強くなる。防災をうまく使ってコミュニティの再構築を促すような、良い循環が生まれるための支援を、私としてもしていきたいと考えています」
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🍙20〗─2─戦時中、国内の労働不足を補ったのが日本人の女性と子供、朝鮮人若者であった。〜No.90No.91 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本軍は、軍需産業に動員されて働く日本人の女性・子供・老人そして朝鮮人若者(約200万人)に支えられて戦争を続けていた。
 日本の財産とは、覚悟を持って勤勉で良く働く日本人であった。
 敗戦後、戦地から復員してきた数百万人の日本人男性に仕事を与える為に日本人の女性・子供や朝鮮人若者は職場から追放された。
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 2020年代の人口激減する日本では、日本人の女性・老人と数百万人の外国人移民が労働人口とされ、更なる外国人移民(主に中国人移民)の受け入れを増加させつつある。
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 2024年1月4日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース「戦時中の鉄道は“女性が大活躍”…戦後なぜ消えた? 彼女らを追いだした「民主化の象徴」とは
 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家) の意見
 昭和初期の鉄道の「女性活躍社会」の実態
 典型的な男職場だった鉄道現業に「女性活躍」が叫ばれて20年以上が経過しました。たとえばJR東日本では、いまや新入社員の3分の1、全社員の18.6%が女性となっています。
 しかし日本の鉄道史上、最も女性が活躍した時代は太平洋戦争中だったと言わねばならないでしょう。
 【画像】まさに混沌…これが「終戦直後の東京の電車」です
 国鉄車両のイメージ(画像:写真AC)。
 © 乗りものニュース 提供
 日中戦争に始まる総動員体制で女性は「銃後の守り」と位置付けられます。開戦からしばらくは、女性の労働動員は「志願制」かつそこから選抜される形で、対象年齢も満16歳以上25歳未満に限られていました。
 しかし戦況の悪化に伴い、徴兵された男性の穴埋めとして、あるいはより多くの男性を戦場に送り込むため、積極的に男性の仕事を置き換えていきます。
 1943(昭和18)年5月には、女子で代替できる職種、鉄道においては本社事務員、駅出札・改札、車掌などへの男子の就業禁止と、これら職種を22歳から39歳の未婚女性からなる「勤労報国隊員」によって補充する方針が決定します。
 1944(昭和19)年3月からは志願者を対象として、学校や町内会などを通じて組織的に動員が行われることになり、同年8月には「女子挺身勤労令」が公布。「未婚女性の就業」がついに「義務化」されました。1945(昭和20)8月には、女子挺身隊の数は47万人にも達していたといいます。
 応召・入営で職場を離れた国有鉄道職員は1937(昭和7)年の1万5千人から、1944(昭和19)年には17万人まで増加。これを穴埋めする勤労報国隊、女子挺身隊は1944年に約5万人、終戦時には稼働職員の3割を超える11万人に上っていました。
 「女性だらけ」になった現場 では終戦後はどうなった?
 さて戦争が終わると、この歪な状況の矛盾が一気に噴出します。
 動員の解除によって女性は「開放」されますが、ただちにその穴埋めがされるわけではありません。役目を終えた軍需工場はともかく、鉄道が「人手不足」で止まってしまったら、社会・経済活動に一層の混乱を引き起こします。かと言って女性が職場に残り続け、戦場から帰った兵士が徐々に職場に戻って来ると、中長期的には職員数が過剰になってしまいます。
 1950年代、都内を走るトロリーバス(画像:新宿区)。
 © 乗りものニュース 提供
 終戦直後の状況を記録した史料は少ないですが、1985(昭和60)年に発行された『新編埼玉県史資料編』の「女子勤務者・女子挺身隊の戦争終結後の取扱」の項に、大宮駅助役の記録が収められています。
 これによると、1945(昭和20)年末までに職場を離れた兵士の半分が復員すると予測しています。となると女性駅員に余剰が生じる見込みですが、本人の希望で退職して家庭に復帰する人はともかく、「至難な仕事に精進」してきた女性職員を、「積極的に整理(リストラ)はしない」方針とあります。
 とはいえ背に腹は代えられないようで、復員が進むにつれ女性たちは解雇されていったようです。1946(昭和21)年の国鉄労働争議関係のニュースを見ると、国鉄労働組合は女性職員の解雇について、戦時中の過酷な作業を克服してきた実績がありながら、戦前の「女子適職範囲」に戻すというだけで女性を解雇するのは「基本的人権の蹂躙」であり「封建制への逆行」であると厳しく批判しています。
 戦後の「女性進出」を阻んだのは「民主化の象徴」!?
 前出の埼玉県史資料集にも同年8月、国鉄大宮工機部婦人会が「わたくしどもは今回生産増強習慣を実施して本質的に男女同権のもとに着々実績をあげている」「日本再建の根本の力は女子にあると思います」として解雇反対を訴えたことが記されています。戦時中の奮闘だけでなく、「戦後復興においても男女同権で進めている」という主張は、興味深いところです。
 こうした新時代ならではの「男女同権」の訴えは、皮肉にも民主化の象徴のひとつである「労働基準法」によって退潮していきます。1947(昭和22)年に制定された同法が、女性の妊娠・出産機能に有害な業務を規制する「女子保護規定」として「深夜労働」や「休日労働」を制限したのです。
 保護規定には適用が除外される職種として、看護婦、電話交換手などがありました。運輸省の外郭団体である交通協力会が1948(昭和23)年に発行した『労働基準法と鉄道』には、国鉄労組婦人部の猛烈な反対運動の結果、鉄道電話関係の女子従業員、国鉄の寮や合宿所勤務者については「除外が認められた」とあります。しかしそれ以外の職種は免れられず、泊まり勤務を中心とする鉄道現業から女性の姿は消えていったのです。
 女性が鉄道現場に戻るのは、それから半世紀、1999(平成11)年の労働基準法改正で女子保護規定が撤廃されてからのことでした。
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