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何故、戦後日本が飢餓を防止し餓死者を出さない為にコメ大増産を強行したのか。
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昭和32年 八郎潟干拓。
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2023年10月23日 YAHOO!JAPANニュース TBS NEWS DIG 新潟放送「泥沼から“美田”に… 日本一とうたわれる『コメ王国 新潟』のはじまり【あの日あの時】
2023年の夏、記録的な猛暑とそれに伴う渇水に見舞われた『コメ王国 新潟』は、主力品種のコシヒカリをはじめ各銘柄米で等級、作況ともに低下が見込まれ、近年にない逆境に立たされています。ここ半世紀の新潟のコ…
2023年の夏、記録的な猛暑とそれに伴う渇水に見舞われた『コメ王国 新潟』は、主力品種のコシヒカリをはじめ各銘柄米で等級、作況ともに低下が見込まれ、近年にない逆境に立たされています。
ここ半世紀の新潟のコメ作りを振り返り、今後の稲作農業を考えます。
戦中・戦後の土地改良で日本一の“美田”が誕生
信濃川や阿賀野川という、国内有数の大河が流れる「越後平野」。
大河川によって形成されたこの沖積平野には江戸の時代から広大な湿原地帯が形成され、現代とは異なり胸まで水に浸かって田植えをしなければならないほか、大規模な河川の氾濫も発生するなど、およそ稲作には適さない時代が長く続きました。
その後、明治・大正・昭和の時代に入って、大河津分水路などの掘削や大規模な排水機場の完成などにより、水田の土地改良が劇的に進みます。
1948年(昭和23年)には新潟市に、当時“東洋一”といわれた『栗ノ木排水機場』が完成。かつて泥沼だった水田が乾田に生まれ変わったのは、その象徴的な出来事となります。
300年の長きに渡り、10万haの『沼』を人の手のみで「農地」に変えてきたのが、この越後平野の“歴史”なのです。
生産量100万トンを目指した昭和30年代
戦後の食糧難を克服すべく、コメは増産時代に入ります。
1958年(昭和33年)の新潟県のコメ生産量は74万7000トンで、全国1位となっていました。当時、全国の生産量が1168万9000トンですので、新潟米の全国シェアは6.4%、日本国民の約16人に1人が新潟米を食べていたという計算になります。
『生産量100万トン』をスローガンに、新潟米は年々増産されていきます。
一方で、昭和30年代半ばから日本は『高度経済成長期』に突き進みます。
この頃から農家の働き手であった男性が出稼ぎや農業以外の職業に従事したため、老年男性と老年女性と主婦、すなわち「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」によって農業が営まれる『3ちゃん農業』という言葉が生まれました。
しかし専業農家は減っても、トラクターや田植え機など農業の機械化や肥料・農薬の投入などが劇的に進み、1反当たりのコメの収穫(反収)は伸びていったのです。
そして、新潟のコメの生産量は1968年(昭和43年)には、目標だった100万トンにあと一歩の96万5000トンになりました。
しかし、この数字を超えることは2度となかったのです。
世は「コメ余りの時代」減反政策に…
ようやく自給が実現できて名実ともにコメが“主食”となった頃に、日本人の食事は欧風化が進行し、コメ離れに拍車がかかっていました。
新潟のコメの生産量が最高となってから2年後の1970年(昭和45年)、政府は米の生産を抑制するために、稲作農家に作付面積の削減を求める『減反政策』をスタートさせます。
国が生産量と米価を管理し全量を政府が統制する「食糧管理制度」で、コメの余剰をうけた買取価格よりも売渡価格が安い“逆ザヤ”となり、歳入不足による赤字の拡大が背景にありました。
この『減反政策』は、2018年度に廃止になるまで続きます。
≪後半へ続く≫
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10月29日 YAHOO!JAPANニュース BSN新潟放送「コメ王国の未来… 日本一は どこへ向かう?【あの日あの時】
泥沼を農地に変えて日本の食文化を支えてきた越後平野。
戦後を過ぎて高度成長期を経る頃コメは増産時代を迎えていましたが、生産高が最高になったわずか2年後に政府は一転して『減反』を強いたのでした。
【写真を見る】コメ王国の未来… 日本一は どこへ向かう?【あの日あの時】
■食管法で統制されたコメの価格
食管会計の赤字がかさんだため政府は、1969年に消費者の嗜好も考慮した「自主流通米制度」を発足させ、一部の良質な米に限っては政府を通さずに、農家が卸売業者などへ直接販売することを認めました。
これが『自主流通米』で、新潟の稲作農家にとってはひとつの好機となりました。
しかしコメの価格については、農林水産省の諮問機関である「米価審議会」が生産者米価と消費者米価に関する基本方針を審議。2001年に廃止されるまで続きます。
「米価審議会」の季節になると毎年、新潟などから県農協中央会をはじめ、多くの生産者の代表が上京し、自民党のいわゆる“農林族”と言われる国会議員に陳情する光景が見られました。
大票田である農家の票を取り込みたい与党や、さまざまな“補助金”制度に期待する稲作農家の思惑が交差し、二転三転する政策は「猫の目農政」と呼ばれました。
■コメ自由化の“外圧”
作りたくとも「減反政策には逆らえない」…。
1990年代に入ったころの新潟県のコメの生産量は70万トン台で、毎年北海道と
首位を争う状況でした。
こうした中で1986年にスタートした『関税と貿易の一般協定・GATT(ガット)』のウルグアイラウンドで、日本の農産物市場のさらなる“開放”、とりわけコメ輸入の自由化が求められたのです。
新潟の稲作農家はこれに猛反発しました。
結局、日本は最低輸入量(ミニマムアクセス)を受け入れることでコメの輸入自由化問題を決着させます。現在では、関税さえ払えば個人でも海外からコメを輸入できるようになっています。
■“低迷”する コメの消費量と価格
この60年間で新潟のコメ生産量が「全国1位」だったのは35回。
しかも、3位以下になったことが一度もありません。
『コメと言えば“新潟”』のイメージは確立されているといえます。
一方で減少傾向にある日本人のコメの年間消費量は、2022年には50.8kgで、ピーク時(1962年・118.3kg)の半分以下になっています。
米の平均取引価格も、バブル崩壊後の1993年産米の2万2813円(1俵・60kgあたり)から長期的な下落傾向にあります。
2021年産米は1万2860円となっていて、新潟を代表するブランド米「魚沼コシヒカリ」が、かつて3万円を超えていた時代とは隔世の感があります。
■~コメ生産の一本足打法からの脱却へ~
“コメ作り”が基幹産業である新潟県。
2020年の新潟県内の総農家数は6万2000戸余りで全国5位ですが、従事者の平均年齢は約69歳と、全国平均を2歳ほど上回っています。
一方で新規就農者は毎年300人近く。農業生産法人に勤める若者も増えています。
しかし農業生産額は、2022年の統計で全国14位の2269億円となっていて、隣県の長野や山形を下回っています。両県は、果樹・野菜・花きなどの、“換金性”の高い農産物で収益を上げてます。
いま稲作農業は、IOTやAIを導入しながら、省エネや省力化を目指す時代に入りました。点在する耕作放棄地を集約化した法人経営で、規模拡大を進めて労働生産性を高めたうえで、耕作・加工・流通も視野に入れた『6次産業化』への変革を進めることが今後の新潟県にとって喫緊の課題といえそうです。
『コメ王国 新潟』のこれからの命題…。
コメだけに頼る“一本足打法”から脱却し、先人が湿田から築いてきた大切な農地をどのように永続させるかが今の越後平野に生きる生産者の使命であると感じます。
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