🍠33〗─1─香川県太田村(現在の香川県高松市の一部)の「伏石争議」。大正12(1923)年。~No.106 

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 日本農民組合による指導のもとで行われた三大小作争議、香川県太田村(現在の香川県高松市の一部)の「伏石争議」(ふせいしそうぎ)、群馬県強戸村(現在の群馬県太田市の一部)の「強戸争議」(ごうどそうぎ)、新潟県木崎村(現在の新潟県新潟市の一部)の「木崎争議」(きざきそうぎ)。
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 2024年12月3日 MicrosoftStartニュース 毎日新聞「日本三大小作争議「伏石事件」から100年 高松で記念式
 日本三大小作争議の一つとされる大正時代の「伏石(ふせいし)事件」から100年となった11月29日、「百周年記念式」が高松市伏石町であった。伏石事件は第一次世界大戦後の恐慌の混乱期、小作農が地主に小作料の軽減を求めた争議が各地で相次ぐ中で発生。農民ら二十数人が検挙され、過酷な取り調べで自殺者も出て、全国的に注目を集めた。
 地元では、事件の遺族や関係者らが慰霊碑を建て、実行委員会を組織して毎年春に慰霊祭を開いてきた。
 慰霊祭実行委員会や「高松百年史」によると、事件の発端は、1922年6月、伏石地区の小作農約150人が小作料の減額を地主側に要求し、拒絶されたことだった。その後、小作農らは農民組合を組織して改めて要求。地主側は、収穫前の稲などの仮差し押さえを求めて訴訟で対抗した。これを巡って小作農らが24年11月29日に刈り取りを実行したことで窃盗・窃盗教唆罪として刑事事件に発展。25年に高松地裁で弁護士を含む22人が有罪となった。
 減額要求については24年に調停が成立し、小作料の10~15%の減額が実現した。
 一方、取り調べの過程で1人が自殺し、弁護士も28年の出所直後、農民らを刑事被告人にしてしまった責任を感じて自殺した。
 記念式には約60人が集まった。実行委員長の植田重則さん(80)は、取り調べを受けた当事者の孫でもある。事件の背景や経過を解説した後、「私たちは小作人たちの3代目、4代目。100年前のご苦労を改めてしのびたい」と述べた。また、「戦前の民主主義がない時代に裁判では敗北したが、小作料の減免が実現し、後の農地改革の実現につながった」と評価する研究者の視点が紹介された。
 実行委員会は今後、風化を防ぐために記念誌を作成する予定だ。【佐々木雅彦】
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 ウィキペディア
 伏石事件(ふせいしじけん)は、香川県香川郡太田村伏石(現在の高松市伏石町)で、1923年(大正12年)に起きた小作争議。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長前川正一および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。
 概要
 伏線
 伏石での小作争議は、小作農民側が1922年(大正11年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。
 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。
 差押え・競売と刈り取り・脱穀
 1923年(ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続き小作料減額を主張し続けた。再度の小作米減額納入を警戒した地主側は、収穫目前の11月初めに立毛(収穫前の稲)の差押えを裁判所に申し立て、同月下旬にその競売を強行して多くの立毛を落札した。
 刈り取りと二毛作の麦の種まきを差し止められた形になった小作農民側が、日農の顧問弁護士に相談したところ「民法上の事務管理として立毛の刈り取り・脱穀をおこなうことは問題なく、落札者がこれらに要した費用を支払うまで留置権に基づきモミを保管することは小作農民側の当然の権利だ」との回答を得た。
 これに従って小作農民側は、同月末(資料により11月29日・11月30日等の異同あり)に刈り取りを行うとともに、事務管理としての刈り取りの事実と、刈り取り・脱穀・保管にかかる費用が支払われるまで留置することを地主側に通告した。12月3日に地主側の代表が稲の引き取りに小作農民側の保管場所を訪れたが、小作農民側は支払いを行うまで引渡しはできないこと・脱穀をおこなってモミを保管することを告げ、地主側が引き上げた後に脱穀を開始した(後に小作農民側は、脱穀時には多くの警察官が立ち会っていたが、差し止めなどの指示は受けなかったと主張している)。
 窃盗での逮捕と裁判
 12月4日以降、小作農民および日農の伏石支部長・香川県連合会長・顧問弁護士ら23名が窃盗および窃盗教唆の容疑で逮捕される。 取調べは苛烈を極め、自白の強要や拷問に近い行為が連日長時間にわたり続けられたとされる。小作農民からも精神に異常をきたすもの、仮釈放後に自殺したものが出ている。
 事件の規模の大きさや取調べの方法の悪質さなどから全国的に抗議行動が広まり、抗議の演説を行った弁護士らが各地で拘引されている。
 翌、1924年大正13年)の7月に高松地裁で公判が開かれ、9月に有罪22名(うち19名に執行猶予)・無罪1名の判決が言い渡された。1927年(昭和2年)に上告が棄却され、刑が確定している。
 結末
 1924年に調停が成立し、小作料については10パーセントから15パーセント減額されることになった。
 結果的に窃盗行為を教唆した首謀者と認定され実刑を受けた顧問弁護士の若林三郎は、1928年(昭和3年)10ヶ月の服役が終了し出所した直後に、2歳の娘と無理心中を図り死亡している。
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 農民運動
 「農民運動」とは、農民が自らの社会的・経済的地位向上のために行う組織的な社会運動のことです。土地を持たない小作農(こさくのう)が、地主に対して小作料の引き下げなどを求める「小作争議」(こさくそうぎ)も農民運動に含まれます。日本では、1904年(明治37年)に勃発した「日露戦争」以降、小作争議の発生件数は増加し、1922年(大正11年)には、小作農による全国組織の「日本農民組合」が設立されました。そののち、各地で農民組合が結成され、小作料の引き下げを勝ち取るなどの成果を上げましたが、戦時体制が進んだ1935年(昭和10年)前後を境として農民運動は少しずつ沈静化していきます。
 目次
 農民運動が起こった背景
 大正デモクラシーの風潮が後押し
 農民運動が起こった背景
 小作料の引き上げが負担に
 農地
 明治時代の小作争議は、凶作や自然災害などによる農村の不況を原因として、一時的、また非組織的に発生することがありました。
 大正時代になると、農地を借りている小作農が地主に支払う小作料の引き上げに反対する声が農民の間から起こります。また、穀物検査制度も小作農の大きな負担となりました。
 穀物検査制度は、米の市場価値を高める目的で導入された制度でしたが、等外にランク付けされた米は小作料として納めることができなかったため、小作農の反発を招きます。当時、就業している人の半数近くが農業に従事し、その農家のおよそ7割が小作に携わり、税金以外に小作料を支払う必要があったため、小作料の引き上げと、穀物検査制度における負担は受け入れがたい懸案事項だったのです。
 さらに、「日露戦争」と「第一次世界大戦終結後の恐慌(きょうこう:経済状態の混乱)と、それに続く不況は農家の経営をますます圧迫していきます。
 全国的規模の日本農民組合が発足
 地主の側は、小作争議対策として地主会や地主同盟などの組織を結成していましたが、農民側にはそのような組織はありませんでした。しかし、小作農単独では立場的に弱いため、団結して状況の改善を訴えていく必要があったのです。
 杉山元治郎
 そんななか、「杉山元治郎」(すぎやまもとじろう)を組合長とする全国的な組織「日本農民組合」が、1922年(大正11年)4月に発足。小作農が一致団結して小作料の減免や耕作権の問題解決を求めていくことになります。
 杉山元治郎は牧師を務める傍ら、農機具や肥料、種苗(しゅびょう)の取次販売の他、近在の農村へ出向いて土壌学や肥料学の講義を行うなどの農業支援を担っていました。社会運動家の「賀川豊彦」(かがわとよひこ)との出会いを通して農民運動に協力することになった人物であり、のちに政治家としても活躍しています。
 大正デモクラシーの風潮が後押し
 時代の潮流を捉えた農民運動
 日本農民組合の発足を機に、日本各地で農業組合が結成され、団結力を後ろ盾に地主と対等の立場で交渉に臨みました。日本農民組合による指導のもとで行われた香川県太田村(現在の香川県高松市の一部)の「伏石争議」(ふせいしそうぎ)、群馬県強戸村(現在の群馬県太田市の一部)の「強戸争議」(ごうどそうぎ)、新潟県木崎村(現在の新潟県新潟市の一部)の「木崎争議」(きざきそうぎ)は特に有名で、日本の三大小作争議と呼ばれています。
 このような農民運動が盛んになった背景には「大正デモクラシー」がありました。大正デモクラシーとは、1912~1926年(大正年間)に起こった、社会・文化・政治など様々な分野で民主主義を求める思想、風潮、そして運動のことです。この民主主義の思想は地方の農村にも及び、それまで納税や徴兵などの負担を強いられるだけの存在であった民衆が、正当な意見を主張できるようになりました。
 大正デモクラシーによって小作農による農民運動が高まりを見せる一方、工場などで働く労働者が自らの権利を守ろうとする労働運動も発展・拡大しています。
 小作料減額などの成果を上げる
 農民運動を主導した日本農民組合も終始一枚岩だったわけではありません。方向性の違いから分裂したり、また合同したりするなどありましたが、それでも農民の団結権争議権を勝ち取り、さらには地主に納める小作料も20~30%減額させるなど大きな成果を上げました。
 ただ、小作農が地主から耕作地を借りて耕作する耕作権については、問題が多かったにもかかわらず、帝国議会(国会の前身)により先送りされてしまいます。小作契約は口約束である場合が多く、一方的に地主側が小作契約を解除し、土地を取り上げることもできたのです。この耕作権を法律によって明確に規定する「小作法」は議論の対象になったものの、地主・保守勢力の強い抵抗によって成立には至りませんでした。
 地主制度が解体され、農地が地主から小作農に解放されるのは、「第二次世界大戦終結後の農地改革を待つことになります。
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