🗡47〗─5・③─日露戦争の勝敗の鍵は軍用鉄道で、日本は勝ち、ロシアは負けた。〜No.154 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 名作『戦場にかける橋』に出てくる、鉄道建設技術に劣った日本陸軍はウソである。
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 2024年12月3日17:00 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】シベリア鉄道の輸送力不足が日本軍に幸運をもたらす
 旅順要塞に向け、28センチ砲による砲撃を行う日本軍。砲弾が積まれている手前には、トロッコの物と思われる線路と荷車が写っている。鉄道部隊が敷設した線路で、軌間(線路の幅)が狭いことがわかる。
 開戦前に旅順要塞(りょじゅんようさい)を偵察しようとした日本軍参謀が大連の港で目撃したものは、続々と陸揚げされ鉄道で運ばれていったセメントなどの物資であった。このように日露戦争では、物資とその輸送力が重要視された、近代総力戦へのプロローグとなったのだ。
 乃木希典(のぎまれすけ)大将率いる第3軍は、明治37年(1905)8月19日にロシア軍が籠(こも)る旅順要塞に対し、早朝から激しい砲撃を加えた。だが日清戦争後、ロシアが運用するようになった要塞は、20万樽(1樽=約170キロ /当時は多くの国で樽にセメントをいれていた)を超えるコンクリートで固められた永久堡塁に様変わりしていた。砲撃の効果に自信を持っていた日本軍司令部は、翌20日に突撃部隊を投入。結果は鉄条網に地雷、大砲、機関銃の餌食となり、バタバタと倒されてしまう。
 旅順要塞の攻防戦はそれから5カ月近く続くが、その間にも日本軍は黒木為楨(くろきためもと)大将率いる第1軍、奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第2軍、さらには野津道貫(のづみちつら)大将が率いた第4軍が8月末には満州の戦略的拠点である遼陽(りょうよう)に迫った。9月4日には遼陽会戦が勃発。第2軍が南から正面攻撃をかけている隙に、第1軍が東側の山を迂回してロシア軍の背後に進出したため、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させた。
 こうして日本軍は遼寧(りょうねい)を占領。鉄道部隊は戦闘部隊が満州の北へと進軍するのに合わせ、線路を北へと延伸していった。10月に入るとクロパトキンは、日本軍に対して反撃を命じた。兵員、弾薬とも十分な補給を受けたロシア軍は、質・量とも日本軍を凌駕しているはずであった。しかし、沙河会戦(さかかいせん)と呼ばれる戦いは、日本軍の勝利に終わる。河が凍結したこともあり、それからしばらくは両軍とも沙河を挟んで対陣を続けることとなった。
 この間も旅順では激しい攻城戦が繰り広げられていた。9月、10月、11月と総攻撃を繰り返したが、日本側の被害が増えていく。そこでようやく乃木司令官は攻撃の主点を203高地に変更。激しい争奪戦が行われたが、203高地方面に重砲隊を移動。12月5日から重砲の砲撃と突撃の成果で、ようやく203高地を奪取した。以後、各堡塁がひとつずつ陥落し、明治38年(1905)1月1日、ついにロシア側は白旗を上げたのであった。
 旅順要塞が陥落すると、ロシア軍首脳部には焦りの色が出始めた。乃木第3軍が北部戦線に合流し、日本軍の戦力が増強されることを恐れたのだ。だが日本軍は、旅順要塞攻略に大量の砲弾を使用したため、極端な砲弾不足に陥っていた。この時、ロシア軍側も兵員不足に頭を悩ませていたのだ。
 ロシア側の主要補給手段であったシベリア鉄道は、この当時はまだ単線であったため、兵員や物資を満州まで運んだ貨車を欧州側に戻すために線路を開ける必要があった。だがそれでは間に合わないので、満州に着いた貨車はそのまま放置されたのだ。こうした努力にもかかわらず補給は追いつかず、兵員のための糧食や衣服は劣悪な状態となっていた。
 明治38年1月25日未明、沙河で対陣していたロシア軍は、約10万の兵力を繰り出し日本軍最左翼に陣取っていた秋山支隊(秋山好古/あきやまよしふる/少将麾下の騎兵第1旅団に歩兵、砲兵、工兵を加えた約8000名の兵団)に襲いかかった。
 秋山支隊は李大人屯(りたいじんとん)、韓山台(かんざんだい)、沈旦堡(ちんたんほう)、黒溝台(こっこうだい)の4カ所を拠点にして、長さ30キロメートルにも及ぶ防衛線を構築し、頑強に抵抗した。しかしさすがにどこも兵員の層は薄く、優勢なロシア軍に攻撃されると、たちまち苦境に立たされてしまう。
 秋山少将は敵情偵察により、この攻撃を予測し連日、満州軍総司令部にロシア軍攻勢の情報を知らせていた。麾下(きか)の騎兵隊による偵察で、敵の前哨活動が活発なのを察知し、何か大作戦が行われる予兆と見ていたのだ。
 さらに満州の総司令部には、同盟を結んでいたことで、イギリス軍情報部から「ロシア軍が列車による補給活動を活発に行なっている」という情報ももたらされていた。ところが総司令部は「厳冬期の大規模攻撃はない」という、根拠のない観念にとらわれていたため、それらの情報を黙殺したのだ。
 慌てた総司令部は予備隊の第8師団を援軍として投入。しかし第8師団司令部が敵情判断を誤ったため、秋山支隊は黒溝台を放棄することになってしまう。さらに第8師団も敵に包囲され、援軍の体を成さなくなった。
 第2軍は麾下の第3師団を派遣、兵力逐次投入という愚を犯した。結局28日に右翼の第3師団は、韓山台を包囲する敵を撃退。第5師団がその左翼の敵を攻撃。第2師団が第8師団を包囲していた敵を退けた。さらに夜襲で敵を蹂躙(じゅうりん)する。こうして黒溝台会戦で日本軍は、かろうじて勝利を収めたのであった。
 野田 伊豆守
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 10月14日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】大量輸送の重要性に目覚めた日本〜極東に触手を伸ばす大国ロシアの脅威に対抗する〜
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第4回】
 野田 伊豆守
 日清戦争を体験した日本は、近代戦では兵站の優劣が勝敗を分けることを、身をもって学んだ。当初陸軍では、鉄道の利用価値は日本列島に上陸してきた敵に対して、部隊を展開するためにあると考えられていたのだ。
 明治5年(1872)10月14日に、日本で初めて新橋〜横浜間に鉄道が開業した。それを記念して以後、10月14日は「鉄道の日」と制定される。開業当時の横浜駅(現在の桜木町駅)の全景。
 対外戦争を経験した日本は、部隊だけでなく大量の物資を集積場まで迅速に輸送することが不可欠だということを知る。そのため東海道線では、日清戦争後も引き続き改良工事が進められた。
 中でも輸送力の向上につながる複線化には力が注がれ、交通の難所である関ヶ原も、明治33年(1900)に複線化。こうして日露戦争開戦までに、東海道線の7割以上が複線化されている。
 だが戦争への備えを急ぎ、複線化を推し進めた結果、広軌(こうき/1435mm・国際的には標準軌)を導入すべきという意見は棚上にされた。トンネルの改良工事が必要になるためだ。こうして日本の鉄道は、1067mmの狭軌(きょうき)が固定化されてしまう。
 東北方面の路線は、日本鉄道が上野〜青森間の東北線明治24年(1891)に全通させていたが、福島から青森へ至る線(奥羽線)の建設が急がれていた。だが福島と青森の間が全通したのは、日露戦争の講和会議が開かれている頃であった。そのため、東北からの兵員輸送はもっぱら東北線が担っている。
 明治維新以来、開拓事業が進められてきた北海道は小樽、旭川、室蘭各地と札幌を結ぶ路線は、官民を合わせれば日露戦争までには運行が始まっていた。函館と小樽を結ぶ線は開戦時には間にあっていなかったものの、当初危惧された、ロシア軍の北海道上陸という事態は起こらなかった。旭川の第7師団から函館に派遣された大隊も、鉄道で室蘭まで移動した後、徒歩で函館に向かったという程度で、大きな影響は起きていない。
 満州から朝鮮半島まで、自国の勢力下に置くことを狙っていたロシアは、極東へ続く鉄道の建設を着々と進めていた。1897年にはウラジオストクハバロフスクを結ぶウスリー線が開通。南満州へも延伸を続けた。
 三国干渉により日本が遼東半島の領有権を放棄した後、ロシアは1896年に清国と「露清密約」を締結する。これは日本が再度清国に攻撃を仕掛けてきた際、ロシアが盾となる見返りに清国は満州の権益をロシアに与える、というものだ。その密約の一環として、ロシアは1898年に旅順と大連を租借。旅順に太平洋艦隊の基地を置いた。さらに旅順までの鉄道敷設権も入手する。
 日本は日清戦争に勝利したことで、朝鮮を属国としていた清国を朝鮮半島から排除。アメリカ人実業家モーリスが権利を獲得していたが、建設が頓挫していた京城(当時は漢城・現ソウル)と釜山間の鉄道敷設権を、渋沢栄一らが明治31年(1898)に譲り受けた。そして渋沢らは明治34年(1901)に京釜鉄道を設立し、工事を着工する。この鉄道は建設中に日露戦争が勃発したため、一部の河川をフェリーでつなぐなどして、明治38年(1905)には暫定ながら全線開通させている。
 日清戦争に勝利した日本は、京城(現ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道の建設に取り組んだ。創立発起人の中には、近代日本の経済界を牽引した渋沢栄一の名前もあった。
 その頃の清朝政府は腐敗しきっていた。そのうえ列強から侵略され、国が分裂する危機に見舞われていた。また諸外国から安い商品が大量に流入したことで、農民の生活は完全に行き詰まってしまう。さらにキリスト教徒が我が物顔で布教する行為に、多くの民衆が怒りを覚え排外的な気運が高まった。
 こうした不満を抱えた民衆や破産した農民らは、義和拳(ぎわけん)という反キリスト教の秘密結社と結び付き勢力を拡大する。清国政府の守旧派も義和拳を弾圧しきれないと判断し、逆に列強に対抗させるため農民の自衛組織である団練(だんれん)に組み込み、名称も義和団と改称させた。
 こうして半合法化された義和団は、華北一帯に波及し、遂には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃した。ここに至り日本、ロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアの8カ国が連合軍を形成し、義和団を鎮圧した。この時、連合軍の主力となったのは日本とロシアであった。
 1900年に勃発した義和団の乱を鎮めるために出兵した、連合軍兵士の集合写真。左からイギリス、アメリカ、イギリス領オーストラリア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本。
 日本軍の目覚ましい働きぶりは欧米列強から高く評価された。だが、極東に食指を伸ばすロシアは警戒心を強めた。ロシアは義和団の完全な鎮圧を口実に満州全土を占領。日英米はこれに強く抗議した結果、ロシアは撤兵を約束。ところが期限を過ぎても居座り続けるどころか、駐留軍を増強していた。
 ロシアの勢力が極東地域で拡大ことを危惧したイギリスは明治35年(1902)、日本との同盟に踏み切った。こうして日本は、イギリスという大きな後ろ盾を得たのであった。
 明治35年(1902)1月30日、ロシア帝国の極東への進出、さらにはドイツのアジアでの勢力拡大に対抗するため、日本とイギリスの間で「日英同盟」が結ばれた。駐英日本公使の林薫(右)とイギリス外相の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス(左)が、ランズタウン侯爵邸で調印を行った。その後、同盟は20年以上も続いたのである。
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 10月29日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】日露戦争勃発! 日本を恐怖させた大陸の鉄道網
 鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第5回】
 野田 伊豆守
 満州だけにとどまらず、朝鮮半島にも触手を伸ばす勢いのロシア。このままでは、次は日本本土が標的になってしまう。まさに現在再放送中の、司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』の世界が繰り広げられていたのである。
 摩天嶺から戦況を視察する第1軍司令部。左端に立っているのが軍司令官の黒木大将。双眼鏡を覗いているのは参謀長の藤井茂太少将。
 明治36年(1903)8月から行なわれた日露交渉で、日本側は「朝鮮半島は日本の影響下に置き、満州はロシアの支配下に置く」という妥協案を提示した。近代国家建設途上の日本にとって、軍事大国ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島はどうしても自国の影響下に置いておきたかったのだ。
 だがロシアは極東の小国日本と対等に交渉する気などなかった。ロシアの返答は「朝鮮半島の北緯39度以北を、中立地帯とする」であった。これは事実上、朝鮮半島はロシアが支配下に置くということに等しい。
 それにロシアは旅順に強力な艦隊を停泊させ、陸上には堅固な要塞を築いていた。しかも旅順はロシアが建設した東清(とうしん)鉄道で奉天(ほうてん)、ハルビンを経由してシベリア鉄道と接続している。シベリア鉄道バイカル湖区間を除き、1901年に一応完成していた。湖上は夏期の間はフェリー、冬期は分厚い氷の上に線路を敷いて列車を走らせた。もしもシベリア鉄道が全線開通すると、欧州に駐屯しているロシア軍を素早く、しかも大量に極東へ派兵することが容易になる。
 ユーラシア大陸の東を流れる大河、アムール川の支流ウスリー川付近で、1895年頃にシベリア鉄道建設を進めている様子。
 日本政府内や陸海軍の強硬派は「そうなる前に戦端を開くべき」と主張した。そんな意見を述べた人々も、大国ロシアに勝つ確固たる道筋は示せなかった。
 それでも日本の独立を保つことに危機感を覚え、ついにロシア帝国に対して宣戦布告を決断した日本は、明治37年(1904)2月6日午後2時、大日本帝国海軍の艦艇を3手に分け、佐世保港を出港させた。艦艇はそれぞれ仁川、旅順、大連へと向かったのである。
 加賀藩で砲術師範であった加藤忠直の次男として生まれた木越安綱。同藩の奉行・木越家に養子に入る。西南戦争日清戦争日露戦争に従軍し、軍功により男爵を叙爵。
 2月8日、陸軍は先遣部隊の第12師団木越旅団が、日本海軍の瓜生外吉(うりゅうそときち)少将率いる第2艦隊の護衛を受け、朝鮮の仁川に上陸した。入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘と記録されている。そして遼東半島の旅順に向かっていた日本海駆逐艦部隊は、同日夜に旅順港口でロシアの太平洋艦隊を捉え、これに奇襲攻撃を加えた。
 瓜生戦隊は翌9日、仁川港外で巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃した。この仁川沖海戦が、日露戦争における最初の本格的海戦で、日本側に損害はなく、ロシア側は2隻とも自沈している。
 仁川沖海戦で被弾炎上するロシアの防護巡洋艦ヴァリャーグ(右端)。浸水が激しかったので、仁川港内に引き返し自沈する。拿捕を恐れた砲艦コレーエツも爆破自沈した。
 その後、ロシアの旅順(太平洋)艦隊は日本海連合艦隊との正面決戦を避け、旅順港の奥深くで待機、増援を待ち続けた。連合艦隊は2月から5月にかけ、旅順港口に古い船舶を沈め、軍艦の出入りを不可能にする旅順港閉塞作戦を実施する。だが思うような成果は得られず、3月27日に行われた第二次閉塞作戦では、日本海海戦時の作戦参謀・秋山真之(さねゆき)の盟友、広瀬武夫少佐(のちに中佐に特進)が戦死している。
 4月13日には連合艦隊が敷設した機雷に、旅順艦隊旗艦の戦艦ペトロパブロフスクが触雷、轟沈する。名提督と称えられた旅順艦隊司令長官マカロフ中将が、艦と運命をともにする。その一方、ウラジオストク巡洋艦隊が積極的に通商破壊戦を行なっていた。日本側は上村彦之丞(かみむらひこのじょう)中将が率いる第二艦隊がウラジオストク港攻撃に赴いているが、すれ違いが続いた。このように、海の戦いは膠着状態に陥っている。
 旅順港攻撃作戦の一環で日本海軍が敷設した機雷に触れ、火薬庫やボイラーまで大爆発を起こし、轟沈する戦艦ペトロパブロフスク。
 陸上の戦いでは、仁川に上陸した木越安綱(きごしやすつな)少将の歩兵第23旅団は橋頭堡を確保した後、朝鮮半島に上陸してきた黒木為楨(くろきためもと)大将率いる第1軍に合流。朝鮮半島を確保し、4月30日から5月1日の鴨緑江会戦で、安東(現・丹東)付近のロシア軍を駆逐している。
 奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第2軍は、遼東半島の塩大墺(えんたいおう)に上陸。5月26日に南山のロシア軍陣地を攻略した。さらに大連を占領すると、第1師団を残して遼陽へ向け進軍。こうして旅順要塞を孤立させた。第2軍は6月13日に、得利寺(とくりじ)の戦いで旅順援護のために南下してきた部隊を撃退している。
 小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として生まれた奥保鞏大将。幕末は幕府側で戦い、維新後は陸軍に進む。後に薩長出身者以外で初の元帥となる。
 戦いが広範囲に及んでくると、陸軍は旅順要塞にたて籠った有力なロシア軍を放置していては背後が脅かされると判断。さらに海軍は旅順港に籠って出て来ないロシア艦隊に手を焼き、遂には陸上からロシア艦隊を攻撃するように陸軍に要請。そこで乃木希典(のぎまれすけ)大将を司令官とした第3軍を編成し、これに当たることとなった。
 第3軍は要塞攻撃前に、ロシア軍が破壊していった東清鉄道を復旧。大連港から要塞攻略地点最前線の約10km手前まで、鉄道を利用できるようにした。さらにそこから陣地まで、資材運搬用トロッコ線路を敷設。これは人力ながら大砲や砲弾の運搬に活用できた。これらの作業は、野戦鉄道提理部(やせんてつどうていりぶ)と呼ばれた鉄道部隊が手がけている。
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