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2024年12月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「子どもに「自由にしていいよ」と言う親ほど、じつは「残酷」なワケ…精神科医が指摘する「極端な放任主義」の危険性
「『子どもには自由にさせています』と言うけれど、子どもは自由奔放に生きてるわけではなくて、むしろ路頭に迷ってるだけ、というケースは診療の現場でもよく見かけます」……。そう指摘するのは、精神科医で詩人の尾久守侑氏だ。思春期を迎えた子どもに対し、親はどんな距離感で接すればよいのだろうか。『「学び」がわからなくなったときに読む本』の編著者である鳥羽和久氏が聞く。
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子どもの「過剰適応」とは何か?
鳥羽尾久さんは精神科医として思春期の子どもたちを診ているだけでなく、詩人・文筆家としても活躍されています。なぜこんなにユニークな文章が書けるんだと尾久さんにはいつも驚かされます。そもそも、書くようになったのはいつ頃ですか。
尾久詩は子どもの頃からずっと書いていました。投稿を始めたのは、大学生のときです。二〇一一年の終わり頃かな。
鳥羽きっかけがあったんですか。
尾久ちょうどその時期に後輩が自殺したんです。当時、自分では意識してなかったんですが、そのことと詩を投稿し始めたことはたぶん関係しています。
鳥羽二〇一一年、そうですか。子ども時代の尾久さんにとって、詩を書くとはどんな行為でしたか?
尾久優等生を演じている自分とのバランスを取る行為だったでしょうね。ひっそりと詩を書くことが自分なりの反抗だったというか。当時は、そんなことを思って書いていたわけではないですけど。
鳥羽バランスとのことですが、以前、尾久さんと話したとき(*1)に「過剰適応(*2)」という言葉が出てきました。学校の規則や慣習に積極的に染まっていく。そのあり方が過剰であったと。ただの優等生ではないわけですよね。
(*1)二〇二三年五月、本屋B&Bで開催されたイベント「人との距離の取り方について」(『偽者論』『「推し」の文化論』W刊行記念)。
(*2)置かれた環境に合わせようと自分の考えや行動を制限しすぎてしまう状態のこと。心理学では、自分よりも周りを優先させて無理しながらもがんばってしまう状態を指すこともある。
尾久ただの優等生ではなくて、もはや学校と同一化していました。学校が言うことについて、一切疑いを持たない子だったんです。
鳥羽僕は、自分がとことん反抗する子どもだったので、学校に疑いを持たないという状態が、まったく想像できません。
尾久きっとそうですよね。多くの学生は、表立って反抗しないにしても、少なからず反発心は抱いています。でも僕は、学校と一体になることで、教師とよい関係が築けて、それがよい学校生活につながると信じていたんです。
振り返ってみても、そうして築いた関係はよかったと思います。過剰適応のストレスに無自覚にいられたのも、詩を書くことでやり過ごしていたからなのかなと。
鳥羽ご両親は「勉強しなさい」や「いい子にしてなさい」と口うるさく言うタイプでしたか?
尾久口に出しては言いません。でも、非言語でメッセージを発していたので、僕が勝手にくみ取っていました。父親も医者だったので、「医学部に行った人はね……」という話を聞かされていて、医学部に行くのは当然なんだと刷り込まれる。ただし「お前も医者になれ」と言われたことは一度もありません。
親の葛藤は子どもに投影されがち
鳥羽となると、親に対する過剰適応と言えるような状況もあったのでしょうか。
尾久そうですね。でもそれは特別なことではなくて、医学部の同級生も「親が医者だから」となんとなく進路を選んでいるパターンが多かった。
むしろ、未来を選ぶためのわかりやすい根拠を持たない同級生のほうが、苦労しているように見えました。文系・理系、どっちにしようかなって、ずっと悩んでる友だちを見て、すでに決まっている僕はラクだなぁって。
鳥羽なるほど、事実上、進路を決められてしまって大変なことだと思ったのですが、必ずしもそうではないのですね。
ちなみに、僕がこれまでかかわってきたなかには、「それとなく道を示す」というようなしたたかな親はあまりいなくて、どちらかというと、自分の願望を子どもに押し付けてしまうタイプと、逆に子どもを縛ってはいけないと思うがあまり「自由にしていいよ」と極端に放任主義になるタイプに分かれています。どちらかに偏ってしまう人が多い。
尾久「子どもには自由にさせています」と言うけれど、子どもは自由奔放に生きてるわけではなくて、むしろ路頭に迷ってるだけ、というケースは診療の現場でもよく見かけます。
でも自分が親になったときに、バランスが取れるだろうかと思うと難しいので、理解はできるんです。子どもと接しているときに、僕自身の解決されてない葛藤が歪んだ形で出てきちゃうんじゃないかという不安はありますね。
鳥羽そうなんですよね。親の葛藤は子どもに投影されがちです。
尾久親だって葛藤を抱えているのに、子どもに規範を示すなんて無理なんだ、と諦めてしまっているのかもしれない。その点、医者として子どもに向き合うのはやりやすいです。それは「医者」という役割がすでに明確な規範性を帯びているからです。
鳥羽わかる気がします。でも、尾久さんは医者としての役割からはみ出してしまうことはありませんか。
尾久それはあります。相手の葛藤に僕が共鳴してしまうと、自分が出てくる瞬間があるんです。でも、共鳴していること自体は悪いことではない。共鳴があるからこそ、その子のことをわかってあげられるので、それをキャッチするのは大事だと思っています。むしろ共鳴よりまずいのは、「兄的な存在」になっているときです。
鳥羽うーん、わかります。
尾久ありますよね、「なんで僕はいま、兄的な存在になっているんだろう」と我に返る瞬間が。そうやって兄弟的な上下関係が発生してしまうと、無意識のうちに兄でいることが心地よくなってしまい、良くなろうとする患者を阻害してしまうかもしれない。ときどき恐ろしくなります。
鳥羽面倒見がいい人ほど、陥りやすいのかもしれないですね。家族でも友だちでもない、「兄的存在」としてふるまうことで生じる権力関係ですね。
さらに言うと、勘の鋭い子は、大人が自分だけ気持ちよくなっていることに気づくんですよ。そういう子は気づいた瞬間に、「あぁ、私そのものは大切にされてないんだな」と冷めてしまう。その関係性には自覚的でなければいけません。
「自分の道を行け」が子どもを足踏みさせる
鳥羽尾久さんのように、優等生としての自覚を持ちながら、一方で詩を書くような営みを同時にする子は見たことがないので、とても新鮮な驚きがあります。そして、このあり方には、受験勉強で疲弊している子たちへのヒントがあるような気がします。
尾久確かに、同時にこなしてる人は、あまり聞かないですね。
鳥羽そうなんです。やはりどちらかが多い。学校の規範に合わせると言葉遣いも社会的なものになっていきますよね。一方で、詩を書くというのは、ひたすら自分の内側に潜っていくような感覚がある。社会の言葉と自分の言葉、それが衝突して苦しんだ記憶はありませんか?
尾久それはなかったですね。僕の場合、両方の手段を持ったおかげでバランスが保てました。自分の言葉を掘っていく方向性だけになると、とても生きづらかっただろうなと思います。
鳥羽なるほど、そうか。でも、そんなことが本当に可能なのか、と思ってしまう(笑)。僕に見えていないだけで、尾久さんのように「社会の言葉」と「自分の言葉」を同時に育てている子もいるのかもしれませんね。
尾久おそらく鳥羽さんは、子どものうちから社会の規範に自ら寄っていく子どもを心配していますよね?
鳥羽そうですね。社会性を身につけることが、どこか自分の言葉を捨てることだと感じているのだと思います。
尾久よくわかります。でも僕の実感として、子どもの頃に一生懸命、学校に合わせた結果、いまの自分があるので、それがよい効果を発揮する事例もあるんです。むしろ「自分の道を行け」と言われたら、立ち止まってしまったかもしれない。
鳥羽確かに、僕は適応を若干ネガティブにとらえすぎていたかもしれません。適応が過剰であっても、それが生きる支えになることはあるんですね。そして、「自分の道を行け」というのが、むしろ子どもを足踏みさせることがあるのはわかります。整理ができてきました。
尾久さんの文章を読んだり、話したりすると、自分のいろんな思い込みに気づかされます。それは尾久さん自身の独特なあり方のせいだと思う。尾久さんは、どこか流動的で固着化しないところがありますね。
尾久そうですね。僕は特有の個性というものは、あまり信じていません。あくまでも人生のライフサイクルのなかで、いまはこういう時期にいるなという認識で自分をとらえているだけなんです。
鳥羽おもしろいなぁ。僕はどうしても自分のコアがないと生きにくいと感じるんですよ。これは、幼少期にキリスト教的な価値観のもとで育てられた影響が大きいと考えているんですが。
僕が尾久さんに聞きたいのは、個性、あるいはアイデンティティと言ってもいいですが、そのような固定的な自我のイメージを、どうとらえているのかということです。
尾久思春期を通して、自分の中心に固い芯のようなものがつくられた人は、それが思考や行動の基盤になると思うのですが、芯にならず半熟だったり液体だったり空隙だったりする人もいまは多いですよね。
そうなると、芯以外の何かで自分を確立させないといけない。僕は芯がない分、外部に引っ張られやすい自覚があるのですが、その外部を増やしたり、引っ張る外部同士を調整することで、一見、確立した人間を装っているような気がしています。
自分が通ってきた道を「再開通」させる
尾久例えば、学生時代の勉強でも、どの教科も万遍なく同じくらいの成績でした。その均された感じ、平坦さが、自分の安定につながっている気がしています。
いま、医者をやりながら本を書いているのもそういうことだと思うんですね。医者だけだとバランスを崩してしまうから、詩や文章を書いている。芯がないなりに、複数の軸を持っている。
鳥羽「芯がないなりに、複数の軸を持っている」というのはおもしろいですね。花田清輝の「楕円幻想(*3)」を思い出すような話です。それにしても、尾久さんと話していると、僕は自分のことがよくわからなくなってしまいます。尾久さんのあり方のほうが、よっぽどリアルなんじゃないかと。
(*3)花田清輝著『復興期の精神』所収の「楕円幻想」では、「成程僕には昔から何だか中心が二つあって、始終其二点の間を彷徨しているような気がしたです」と二葉亭四迷の小説を引用して論を展開している。
尾久僕は、擬態で生きてるんです。
鳥羽擬態というのは、憑依とは違いますよね? 僕は完全に憑依型で、子どものことを書くときも、本当にその子になっているんです。逆に言うと、他人ごととしては書けないんです。
尾久真逆ですね。僕はすべて他人ごととして書いてますよ。正確には、他人の身体から入らないと自分が出てこない感覚があります。例えば、詩でも小説でも医学書でも、あの作家のような文体で書こうと設定してから始めると、かえって固有のものが書けたりすることがあるんです。
文芸誌の「群像」に小説を依頼されたときも「小説なんか書けないよ」と思ったんですが、試しに、ある作家になりきったつもりで小説を書いてみようと設定したら、書けてしまった。
鳥羽尾久さんのカメレオンみたいな文章には、そういう理由があったのですね。
尾久自分だけでは絶対に書けなかったので、過剰適応は僕にとって、とても大事です。実際、学生時代にどの教科も万遍なくできたのは、過剰適応のおかげでしたから。でも周りを見ていると、学生時代に勉強をしてこなくても、何歳になっても勉強で覚醒することはできるんだなということはわかります。
覚醒というのは、つまり自分が通ってきた道を再開通させること。自分らしく生きるという感じです。仕事に就いたけれど失敗した、でもその後で学びに向かう。それでも間に合うんだなということでしょうか。
鳥羽そうですね。尾久さんがおっしゃる、「通ってきた道を改めて開通させる」というのは、感覚としてよくわかります。
最近は大人が学ぶというと、政府の提唱するリスキリング(*4)のようなキャリアアップの勉強が言われがちですが、それだけにとらわれないでほしいんです。
(*4)技術革新やビジネスモデルの変化に対応するために、新しい知識やスキルを学ぶこと。二〇二〇年のダボス会議において「リスキリング革命」が発表されたことで注目を集めた。
というのも、親が「子どもに勉強の大切さを教えるには、大人が勉強する姿を見せるのがいちばんですよね。私も資格の勉強、がんばってみます!」と意気込まれることがあって、それはそれでもちろんいいのだけど、ちょっとズレている。
なぜなら学びというのは、仕事に役立つスキルを身につけることだけじゃないから。学びとは、自分の欲望の所在を明らかにしつつ、その風通しをよくするような行為だと思うんです。
例えば、子どもの頃に夢中になったことや、一生懸命勉強していたもののなかには、すでに深い勉強につながるヒントはあるから、そこを振り返って、改めて開通させてみたらいいのでしょうね。
尾久それは間違いないですね。
鳥羽 和久、尾久 守侑
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2018年10月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「わが子の「考える力」を奪う親たち、その意外過ぎる共通点
名門小学校の副校長が教える
田中 博史「授業・人」塾 代表
前筑波大学附属小学校副校長プロフィール
社会に出て役に立つ子、稼げる子を育てるため、多くの親がお金と労力を惜しまない。しかし、国立筑波大学付属小学校に30年余り勤務し、現在は副校長を務める田中博史氏は、日常の接し方にこそ子どもの「考える力」(または「知的に動ける子ども」)を育てるチャンスがあるという。その子育ての具体的な方法を、実例とともにくわしく聞いた。
お母さん、あなたの負けですよ
夏休みの旅行中、周りを見渡すとたくさんの親子連れ。楽しそうな旅の最中なのに、子どもが泣きべそをかいていた。どうやら親子喧嘩勃発のよう。
漏れ聞こえてくる子どもの言い分は「ぼくは聞いていない」「そんなの初めて知った」「ぼくはやりたくない」という言葉。どうやら親子で行うイベントを親が勝手に申し込んだことが原因のよう。小学校の低学年の男の子だった。
傍で聞いていると、この男の子の言い分の方が筋が通っていて、私は心の中で(お母さん、あなたの負けですよ 笑)と言いたくなるが、まあそこは突然変なおじさんが乱入しても仕方ないので知らん顔。すこしして、実はすぐそばに父親もいたことに気がついた。さわらぬ神にたたりなしを決め込んでいる。まあ、これはこれで賢いのか。どちらの味方をしても禍根を残すと判断したらしい……。
でもスマホをいじりながら事態がおさまるのを待っている父親の表情は、明らかに画面には目は注いでいない。健気なお父さん、頑張れ。応援したくなる。
こうした光景、皆さんの周りにでもたくさん起きているのではないか。
子どもの「考えたい」という気持ち
私は、この原因は、子どもたちが小さくても既に「自分で考える生き物」だということを、親が認識するのが少し遅いからだと思っている。
彼らは体は小さくてももうりっぱなひとりの人間。逆に言うと、彼らは本当は最初は自分で「考えたい」のだ。
しかし、日々、すべてを先に決められてしまう生活を繰り返していると次第に他に頼るようになってしまう。プリントやワークシートの試験問題などの時だけ考えさせようとするけど、そうはいかない。
他の人に決めてもらう方が楽な時間をたくさん過ごしていた子どもは、こうしたテストのような問題の時にも、自分で決めないですぐに他の誰かを頼るようになる。
頭ではわかっているのに、できない親たち
さて、そう考えて、先ほどの親子喧嘩の原因を見てみると、せめて参加するイベントぐらい子どもと話し合って決めてもよかったことがわかる。でも、このぐらいのことはみんな頭ではわかっている。だけどなぜできないのだろう。
実は、大人の価値観と子どもの価値観がまだ一致していないことが、こうした判断のずれを生む。
親はよかれと思って環境づくりにせっせと励むのだけど、子どもにとっては何でも勝手に決めてしまう大人と映っていて、素直に従えないでいる。大人の動きが一歩速いことが原因。
これは学校でも同じ。
担任の先生がいつも説明調になってしまうクラスは、子どもたちはいつも自分たちで決められないでいてストレスがたまる。次第に受け身になり覇気のないクラス集団になる。担任はその原因を子どものせいにするが、実はそうではない。この悪循環は、もしかしたら職場でも同じだろう。
決めさせること、選ばせること
親子関係に話題を戻そう。
先の親子の例は特別かもしれないが、たとえば次のようなことは、書店に行くと必ず出会う光景。子どもが本を買ってくれと親にせがむ。でも親が読ませたいコーナーには子どもは興味を持ってくれなくて、読ませたくないものばかりに目が向いてしまい。「そんなのたくさん持っているでしょ」の一言でまたまた喧嘩の原因をつくる。
どうだろう。これなら皆さん覚えがあるに違いない。少し焦らないで、子どもの価値観が親に近づくのを待ってみたらどうだろう。いやそもそも高度な本や問題集にあせって出会わせなくても、考える子に育つ環境づくりはもっと身近なところにちゃんとあると思ってほしい。
まずは日々の手伝いやお出かけの時の小さなことで、子どもたちに試しに「決めさせてみよう」「選ばせてみよう」。
たとえばお出かけの時。
丁寧な親は靴まですべてそろえてしまっていないだろうか。
たまにはいじわるして、とってもいい天気なのに長靴を置いてみたりする。我が子がどのように動くか少し離れて観察してみると面白い。もしも、何も疑わず長靴をはいて天気のいい日にでかけていったとしたら、少し我が子への接し方を見つめなおした方がいいかもしれない。これではどんなにペーパーテストでいい点がとれる子だったとしても生きる力としては課題が残る。
もしも、長靴を見て、「お母さん、どうして長靴なの」と尋ねたり、「玄関のドアをあけて、外を見て「これだと暑いんじゃないの」と言い出したら自分の子育てはまだバランスはいいかなと自信を持とう。たったこれだけでも、子どもとの付き合い方が変わるきっかけになる。
食事の準備を手伝わさせている時に、わざとスプーンや食器を足りなくしておく。子どもが数が合わないよと言い出したら、「えー、ごめん。じゃあ、お願いしていい?」と頼む。
友達が来ていたりお客さんがいて人数が多い時ほど面白い。「えーと、スプーンは4つで出てるから、あと3つかな」と指で確かめたり、コップに対応させたりして子どもなりの工夫をする。この時も親は少し引き下がって、わざと準備していたものを一つずつ運んでみせて忙しくしてみせる。
子どもが「足りないものを数えて一度に持っていけばいいのに」と言ってくれたらまたまたそれを頼む。こんな小さな小さな場面が毎日の中にはたくさんある。ただし、親が任せてもイライラしないことにしておかないと、せっかくの場面も台無しになるからご用心。
身の回りに子育ての教材はいくらでもある
先日は、飛行機の中で通路を通る親子連れの会話を聞いていて面白かった。父親が後ろから来る子に「かばんは体の前だよ」という指示をしつこいくらい繰り返しながら通っていく。後ろの子どもはもううんざりという顔。お父さん、そのぐらいその子も考えられるから任せてみれば……と言いたくなった。
でも、ふと思う。私も自分の家族といる時はきっとこうして口やかましく指示を出し続けていることがあるかもしれないなあと。他人のことならば大人と子供のこうした会話を冷静に見守ることができるのに、自分のこととなるとできないのが人の常。
つまり誰もが評論家のようなコメントはすぐに言えるようになる。でもその時、批判だけでなく自分だったらどうするかなといつも考えてみるように努めていくと、身の回りは子育てのためのいい教材がたくさんあることに気がつく。
我が子が考える子になるように日常の接し方をこうして少しずつ変えていくことができたら子どもが知的に動けるようになる。
プリントやワーク問題を面白がって解く子どもはこの次のステップにいる。逆にプリントやワーク問題をいくら得意気にさくさく解いても生活力のない子のままでは社会に出て役に立たない。そんな張りぼての様な知識をあわてて詰め込まなくても、毎日のバランスの良い子どもとの接し方の中で子どもの考える力はちゃんとつく。
大切なのは、その子の傍に一番長くいる大人自身のバランス感覚かもしれない。
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