🗡19〗─1─日本海軍の一点豪華主義。戦艦三笠。正規空母鳳翔。大空母。航空戦艦。航空巡洋艦。~No.59 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本の一点豪華主義とは、ナンバーワンであり、オンリーワンである。
 一点豪華主義とは、その分野を匠の技で「極めた」証である。
 日本の技術力とは、如何なる分野でも、日本一・世界一として職人技で「極める」ことである。
 「極める」と言う事は、これまでになかった価値及び文化で最高品を創作する事であって、二番戦術として誰かの出来の良い品物を真似て作る事ではない。
 新たな価値と文化を生み出すのが、職人技による「極める」である。
 一点豪華主義とは、そう言う事である。
 だが。極めたモノは完成したら、文化は残っても価値を失った。
 新たな価値と文化を求めて連続して挑戦しなければ、本当の意味での一点豪華主義とはいえない。
 見果てぬ夢を追い求めるのが、価値と文化を「極める」一点豪華主義である。
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 持たざる国・日本は何もなかった為に、文化・芸術から科学・技術そして資源も全て海外から輸入し、寸分違わず忠実に摸倣し、現物と瓜二つの複製を造っていた。
 実状から言えば、純国産といってもそれは日本基準による物で、国際基準からすればしょせん偽物・贋作であった。
 純国産が本物に成る為には、世界でナンバーワンとなり、日本基準を世界基準にする事であった。
 地域のオンリーワンとは、輸入された世界基準の複製であり、偽物であり、贋作に過ぎない。
 オンリーワンは、ローカルとして地方で価値があっても、グローバルな中央では無価値である。
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 日本は、食糧・資源・エネルギーがない小国であった。
 日本は、自国防衛の為に世界を相手にしても負けない優秀な人材を育てる必要があった。
 日本の底力・凄技は、少ない人口の中に埋もれた極僅かな名人級の職人であった。
 子供は、国の宝で、日本天皇・日本国・日本民族そして郷土・家族を護る守護神であった。
 それ故に、大人は自分の命を犠牲にして子供を守り、心を鬼にして厳しく教育と躾を行った。
 日本男子は、女性と子供を護る為に命を捨てた。
 それが、日本流の男尊女卑である。
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 1900年11月 イギリス、イングランド北部バロー・イン・ファーネスの造船会社ヴィッカースは、日本海軍に引き渡す最新鋭戦艦の進水式を駐英日本大使が出席する中で行った。戦艦「三笠」の誕生である。
 地元紙「アジアの最新興国の列強国日本の発注を受け、最大の戦艦を建造した事は、英国さらにバローのヴィッカースの誇り」
 日本海軍艦艇の9割が、イギリスで建造されていた。
 日本は造船技術を学ぶ為に、イギリスが建造した軍艦から学び、技術者をイギリスに派遣していた。
 1902年3月1日 日本海軍は、イングランド南部のサウサンプトンで兵器などを装備した戦艦を受け取り、艦名を「三笠」と命名した。
 1904年2月 日露戦争
 1905年5月 日本海海戦日本海軍は、英国製の軍艦でバルチック艦隊を撃破した。
 1913年8月 バローのヴィッカースは、日本海軍に引き渡す超弩級巡洋戦艦「金剛」を最先端技術を投入して竣工させた。
 日英同盟に従って、イギリス海軍は最高軍事機密を、ヴィッカースは最先端造船技術などの企業秘密を、日本に教えた。
 日本は、イギリスで学んだ造船技術で戦艦「大和」などの巨大戦艦や正規空母などを建造して造船国家に成長した。
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 日本は、世界初の正規空母を建艦し、空母大国となった。
 1910年 アメリカ人飛行家ユージン・エリイは、カーチス複葉機を操縦して、アメリカ海軍巡洋艦バーミンガムの甲板に仮説した滑空台から発艦に成功した。
 後に、着艦も成功した。
 欧米列強の海軍は、海上に於ける航空機の将来を否定し、航空母艦の開発に否定的であった。
 1914(大正3)年 日本海軍は、貨物船「若宮」を水上機母艦に改造し、世界で初めて正規空母とした。
 4ヶ月後 イギリス海軍は、水上機母艦アークロイヤル」を建造した。
 航空母艦の将来性を確信して開発建艦に取り組んだのは、日本海軍とイギリス海軍のみであった。
 1917年 イギリス海軍は、正規空母ハーミーズ」を起工したが、第一次世界大戦によって完成が遅れた。 
 1919年 日本海軍は、世界初の正規空母「鳳翔」を完成させた。

 伊号400型潜水艦は、1943年に決戦兵器として、呉海軍工廠戦艦大和を建造したドックで建造された。
 1945年8月29日  三陸沖で米駆逐艦「ブルー」に発見、捕獲された。
 1946年1月 アメリカ海軍は、伊400をアメリカ本土に回航し徹底的に技術調査を行い、海洋戦略として大型潜水艦その後の原子力潜水艦建造の参考とした。
 6月4月 大型潜水艦建造技術を独占する為に、伊400をハワイ近海で実艦標的として魚雷で撃沈処分した。
 アメリカは、日本の研究開発・科学技術・工業技術の実力を恐れ、日米安保条約で全てを破壊した。
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 朝日新聞デジタル 「幻の巨艦「信濃」-dot(ドット)
 「戦艦大和」と「武蔵」には“妹”がいた! 幻の巨艦「信濃」とは!?    
 太平洋戦争で沈んだ巨大戦艦「武蔵」の発見が世界を震撼させている。発見者である米マイクロソフト・共同創業者のポール・アレン氏は今も続報を伝え続けており、その全貌解明に胸を膨らませている人もいることだろう。
 戦艦「大和」と「武蔵」は、日本がかつて世界に誇った“姉妹艦”だった。だが、「大和」と「武蔵」に、実は「信濃」という“妹”がいたということは、あまり知られていない。
 「信濃」とはどんな軍艦だったのだろうか。1940年5月に、「大和型戦艦3番艦」として、横須賀海軍工廠で建造が始まった。これは「武蔵」の建造開始から2年もあとのことだ。当初、45年3月末の完成を予定していたが、翌41年12月になると、太平洋戦争が始まってしまう。そして真珠湾攻撃マレー沖海戦など緒戦の結果で、もはや戦艦は時代遅れで、これからは空母を活用した航空機の時代だということがわかると、「信濃」の建造は途中でストップしてしまう。
 「信濃」の完成は幻に終わるかに見えた。だが、42年6月のミッドウェー海戦で、日本は主力空母4隻を失う大敗を喫し、新たな空母を急造する必要に迫られた。
そこで浮上したのが、「信濃」を空母に改造する計画だった。一説には、大和型戦艦の象徴である、主砲の「46センチ砲」を、呉から横須賀に運搬する専用輸送船が米潜水艦に沈められてしまったため、もはや戦艦としての建造は困難になってしまったとも言われている。
 こうして「信濃」は航空母艦に生まれ変わることになった。だが、戦争が激しさを増すに従って、軍艦の修理が増えてしまい、人手不足で信濃の工事はなかなか思うように進まなかった。その一方で、海軍首脳部から「1944年10月までに工事を完成させよ」との命令が下る。当初の予定よりも半年近く前倒しされた形だった。このため、工事には門外漢の女性なども動員された。
 44年10月には進水式が行われ、正式に「信濃」と命名され、横須賀での工事は完了した。全長266メートル、基準排水量6万2000トン―当時、世界最大の空母が誕生した。信濃は、1961年に米海軍の「キティホーク」が登場するまで、世界一だった。皮肉なことに、「信濃」が完成した時、日本には搭載できる航空機が残っていなかったとも言われている。
 44年11月28日、「信濃」は残りの工事を行うために、呉に向けて横須賀を出港した。この時、搭載していた飛行機は特攻兵器「桜花」だけだったと言われている。
 だが、当時、日本近海の制海権は米軍の手に渡っていた。「信濃」は、外洋に出てすぐに米潜水艦「アーチャーフィッシュ」に捕捉されてしまう。
 そして翌29日には「アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受けて、和歌山県の潮岬沖で沈んでしまった。これが「信濃」の最初で最後の航海だった。
 沈没の際、「信濃」に積まれた特攻兵器「桜花」が大量に海面に浮かんだことで、乗組員の生存に役立ったという。
 「信濃」の沈没は、護衛していた駆逐艦など数隻に記録されており、その地点は詳細に残されている。だが、沈没現場は南海トラフと呼ばれる6000〜7000メートル級の深海のため、今日に至るまでその船体は発見されていない。
 「武蔵」を発見したポール・アレン氏は今後も沈没船の調査に投資するとみられており、深海に眠る「信濃」を呼び覚ます日は来るのだろうか。彼は、その存在をきっと知っているに違いないだろう。(ライター・河嶌太郎)」
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 信濃は、日本海軍の航空母艦。建造中の大和型戦艦3番艦(110号艦)を戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである。 艦名は旧国名信濃国から採られた。1944年(昭和19年)11月下旬、未完成のまま回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没した。
 1961年にアメリカ海軍最後の通常動力推進空母キティホーク(満載 83,30183,301t)が登場するまでは史上最大の排水量を持つ空母だった。
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 航空戦艦(こうくうせんかん)とは、戦艦としての大口径砲を装備し、かつ航空母艦又は水上機母艦に準じた航空機運用能力を有する軍艦の通称である。
 世界の建艦史上に当初から航空戦艦として建造された艦は存在せず、公式な艦種として存在したこともない。 また、竣工・実戦投入された唯一の例である伊勢 (戦艦)も戦艦からの改装であり、公式には戦艦のままであった。
 なお、同様に巡洋艦としての火砲を装備し、かつ航空母艦又は水上機母艦に準ずる航空機運用能力を有する軍艦の通称として航空巡洋艦と呼ばれるものもあり、これについても当項目で併せて記述する。            
 概要
 20世紀初頭から半ばにかけての海軍戦力の中核は、大口径の砲とそれに耐えうる装甲を備えた戦艦であったが、第一次世界大戦における航空母艦の誕生とその後の航空機の発展により、「戦艦の砲撃力と空母の航空運用力を併せ持てば、万能艦となるのではないか?」という発想が各国の海軍関係者や造艦技術者に産まれることになった。
 各国の計画した航空戦艦
 日本
 扶桑型戦艦、伊勢型戦艦はあらゆる面で他国新鋭戦艦群に劣っていることから最有力候補となり、当時伊勢型2番艦「日向」が5番砲塔を事故で失っていたことなどから、伊勢型の2隻(「伊勢」・「日向」)の空母への改装が決定した。
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 航空巡洋艦
 戦間期においては巡洋艦において航空戦艦と同様の設計とした艦種である“航空巡洋艦”が、航空戦艦と並んで多数が構想された。
 日本
 艦の後部を航空艤装に充て、多数の水上偵察機を搭載する「航空巡洋艦」としては、水上機6機を搭載可能な利根型重巡洋艦や、後部主砲を撤去して航空艤装を装備し水上機11機を搭載可能な航空巡洋艦に改装された「最上」、潜水艦隊旗艦として水上偵察機6機を搭載可能な「大淀」などがこれに当たる。
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 最上型重巡洋艦(もがみがたじゅうじゅんようかん)は大日本帝国海軍重巡洋艦同型艦は4隻。最上型と利根型は軽巡洋艦『二等巡洋艦』『乙型巡洋艦』として計画・建造され喪失まで書類上の変更はなかった。最上型は15.5cm砲塔を20.3cm砲塔に換装して重巡洋艦となり、「最上」はさらに航空巡洋艦に改装されたことで有名である。


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