🗡46〗─1─日本陸軍の手堅い技術力。国産四輪駆動車。~No.146No.147No.148 @ 

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 日本陸海軍は、科学技術を軽視していたわけではなく、大国ソ連の軍事力に対抗する為に国力の範囲内でできうる限りに努力はしていた。
 その成果として、幾つかの兵種で最先端の兵器を開発していた。
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 2016年9月 産経WEST「幻の国産四輪駆動車「くろがね四起」“ほぼスクラップ”から「新車」に復活 25日に一般公開
 2年前、修復作業が始まる直前の「くろがね四起」(岡田敏彦撮影
 昭和初期に日本が初めて開発した小型四輪駆動車「くろがね四起(よんき)」が約2年間にわたる修復作業を経て“新車”によみがえった。さびと破損でスクラップ寸前の状態から歴史的な名車を復活させた「NPO法人・防衛技術博物館を創る会」では、70年前のオリジナルエンジンの音を響かせて走る姿を披露しようと、25日に御殿場市内のホテル駐車場で一般公開イベントを行う。入場無料。
 日本の〝技術遺産〟
 くろがね四起は東京都にあった自動車メーカー「日本内燃機」の創業者の蒔田鉄司氏が昭和9(1934)年に開発、第二次大戦終結までの約10年間に約4500台が生産され、陸海軍で使用された。小型車の量産化はくろがね四起が世界初で、有名な米国の「ジープ」(バンタムBRC)より約6年も早かった。
 くろがね四起の現存車は、国内ではトラック型の後期型1台だけとされてきたが、平成26年に京都市の自動車修理会社「日工自動車」に現存車があることが判明、同会が引き取った。各部が破損しサビだらけという状態で修復(レストア)には多額の資金が必要とみられたため、同会ではネットを通じて不特定多数の人に小口で募金を募る「クラウドファンディング」で支援を呼びかけたところ、カーマニアや軍用車両に興味のあるネットユーザーの共感を得て、わずか3カ月で1300万円以上の寄付が集まった。
 約60年ぶりに地を駆ける
 実際の修復では、破損部分をオリジナルの状態にするための調査や研究も重視された。修復担当者がロシアのモスクワに赴き、同地の現存車の所有者と情報交換するなど、正確な考証のもとに復元されている。
 修復車は昭和30年ごろに故障してから長く眠りについていたとみられており、今月に入って約60年ぶりにエンジンに火が入れられ、試走も無事にこなした。
 25日の一般公開イベントは、静岡県御殿場市の「御殿場高原ホテル時の栖」内の特設会場で午前9時から午後2時半まで実施する予定。くろがね四起のほかアメリカのジープやドイツの同様の軍用車両も展示し、各国の開発思想や技術の違いを見ることができる。
 イベントの詳細は、NPO法人 防衛技術博物館を創る会(http://www.tank−museum−japan.com)
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 ウィキペディア
 九五式小型乗用車(九五式小型乘用車)は、大日本帝国陸軍の小型軍用乗用車。通称・愛称はくろがね四起(-よんき)。
 日本初の国産実用四輪駆動車として日本内燃機(のちの東急くろがね工業、現日産工機の前身)が開発し、日中戦争支那事変)・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力乗用車として使用された。「くろがね四起」の通称は、日本内燃機のオート三輪車ブランドとして当時著名だった「くろがね」と「四輪起動」にちなむ。
 九五式小型乗用車は戦前の日本が作り上げた全く独自の自動車で、量産された軍用四輪駆動乗用車としては、1936年の統制型乗用車 (ドイツ国防軍)、1938年のダイムラー偵察車とGAZ-61(英語版)、1940年のシュビムワーゲン、1941年のウイリス・MB(英語版)のどれよりも早い時期に登場した。
 概要
 1934年(昭和9年)、帝国陸軍は不整地走行性能に富む小型の偵察(斥候)・連絡(伝令)・人員輸送用車両(軽四起)の開発を、日本内燃機(現:日産工機)・豊田自動織機自動車部(現:トヨタ自動車)・発動機製造(現:ダイハツ工業)・岡本自転車自動車製作所の各自動車メーカーに依頼した。試作型の評価の結果、最も優れていた日本内燃機製が制式採用され、1936年(昭和11年)から量産された。当時の量産軍用車としては国産初の四輪駆動機構を備え、道路整備状況の悪い中国大陸や東南アジア方面などで極めて良好な走破性を発揮した。
 ドイツ陸軍のキューベルワーゲン(0.4t積み)、アメリカ陸軍のジープ(ウイリス・MB/フォード・GPW等。0.5t積み)に相当する車輌であるが、本車は帝国陸軍が競争試作に当たり各社に提示した「軽四起」というカテゴリ名からも分かるように人員輸送用の乗用車として性格が強かったため、搭載量は劣っており、前述の二つのような軽トラック的な貨客両用運用がしづらかった。そのため、運用もあくまで偵察・連絡用のオートバイ・サイドカー(九三式側車付自動二輪車・九七式側車付自動二輪車等)を代用する程度に留まるものであった。ただ、擁護するならば、計画段階からキューベルワーゲンジープは軽トラック的な運用を考慮して開発されたわけではない。汎用性は意識されたかもしれないが、前者はフォルクスワーゲン・タイプ1を軍用車に応用する研究として、後者は四輪駆動の小型偵察車開発計画として始まったのであり、軽トラック的な運用ができたのはあくまで副産物である。そのため、それらに先駆けて開発生産されていた点と走破性の高さを見るか、軽便な小型車両に重点を置いたがゆえに汎用性に難があったと見るかで評価が変わってくる車両でもある。 また、当時はデュアルパーパス型オートバイ(オフロードバイク)が登場する以前で、単車は大きく重いクルーザー型オートバイしか存在せず、側車駆動(2WD)のサイドカーでなければ十分な悪路走行性能が確保できなかった上に、そのような構造のサイドカーであったとしても走破可能な地形条件は今日のトライアル型オートバイと比較して格段に低い時代であった事は十分に考慮される必要はあるであろう。
 参考までに、日本陸軍は四輪駆動車の悪路走破性自体には深い理解を示しており、本車の以前には1.5t積み後2軸駆動(英語版)六輪トラックの九四式六輪自動貨車の他、当時主流であったフェートン型乗用車を六輪にして後2軸駆動とする事で走破性を高めた九三式六輪乗用車や、フェートン型四輪駆動車の九八式四輪起動乗用車を戦闘指揮車として制式採用しており、熱河作戦の追撃任務で大いに名を高めた装輪装甲車のちよだ・QSW型装甲自動車(英語版)を手がけた東京瓦斯電気工業のちよだ軍用乗用車や、三菱・PX-33(英語版)を試作した三菱重工業などのように、民間企業にも研究開発を活発に行わせていたが、これらもボディ形状が一般的な乗用車とさほど変わらないためジープのような軽トラック的な積載性能は見込めず、本車と九四式六輪自動貨車との間に不整地輸送能力の点で大きな穴が開いたまま大東亜戦争に突入せざるを得ず、結局緒戦のフィリピン戦線で1941年に鹵獲したバンタム製ジープをトヨタ自動車リバースエンジニアリングさせて製作した四式小型貨物車(トヨタAK10型)を、本車の事実上の後継車として1944に制式採用している。
 そもそも、他の列強各国に比べ工業力や生産力に劣る当時の日本は、車両類を大量生産すること自体が不可能に近かった。そのうえ、リソースも装備の共通化が行われなかったため、陸軍と海軍とで分断。さらに陸軍内部においても航空兵器等やトラック(九四式六輪自動貨車やその後継の一式六輪自動貨車等)の生産が優先されていたため、本車の総生産数は5千台以下と少なく、米独の2車のように軍事上の戦術的・戦略的影響を顕著に残すことはなかった。それ以前に、工作技術の関係からベアリングのような精度が必要な工業品を大量に確保できるのかという疑問もある。仮に質を確保して車両を生産できたとしても、当時の日本はモータリゼーションも進んでいないため、自動車免許の保有者も少数派であり、数をそろえても運転できる人物を確保できるのかという問題もある。
 本車は日中戦争ノモンハン事件を通し、太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦に至るまで陸軍主力乗用車として多くの戦線や日本内地で使用され、一部は海軍にも供与されている。基本的にフロントグリルには陸軍を表す五芒星(五光星)の金属星章を付していた。ボディの変更や座席増などのマイナーチェンジを併せて、1944年(昭和19年)までに計4,775台が生産された。

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