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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
太古の昔から、日本列島は甚大な自然災害が複合的に多発する危険地帯であり、縄文時代の大噴火では西日本の縄文人の大半が火砕流や飢餓で死亡した。
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軍国日本は、打ち続く巨大地震による甚大なる被害で戦争継続は不可能になり、原爆を投下しなくても、ソ連が不法犯罪行為として参戦しなくても、無条件降伏するほか選択肢はなかった。
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昭和に発生した全ての巨大地震では、関東大震災に発生した日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は起きていなかった。
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日本国内には、反天皇反日本の朝鮮人が200万人と十数万人の中国人、そして数万人の連合国軍兵士捕虜がいた。
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日本国内には、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストが潜み、アメリカやソ連に情報を流していた利敵日本人が少なからずいた。
日本人全てが一丸となって戦争をしていたわけではない。
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2024年10月29日7:04 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「じつは「太平洋戦争」のさなかにも起きていた「南海トラフ巨大地震」…ほとんど報じられなかったその「被害の全容」
戦時下の南海トラフ巨大地震
太平洋戦争終戦の1945年前後で、1,000人以上の犠牲者を出した地震は、1943年鳥取地震、1944年昭和東南海地震、1945年三河地震、1946年昭和南海地震の4つで、戦中戦後の4大地震とも呼ばれている。鳥取地震と三河地震は内陸の都市直下地震である。
【画像】「南海トラフ巨大地震」で日本が衝撃的な有り様に…そのヤバすぎる被害規模
安政の東海・南海地震から90年後に昭和東南海地震が発生、その2年後には昭和南海地震発生という二つの地震が、最直近の南海トラフ巨大地震である。
1941年12月8日朝、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というラジオの臨時ニュースが流れ、帝国海軍がハワイ真珠湾を奇襲し、米国艦船に大打撃を与えたことを知る。太平洋戦争の開戦である。
翌1942年、1月・フィリピンマニラ占領、2月・シンガポール占領、3月・インドネシアジャワ島上陸など初戦は破竹の勢いで華々しい戦果を上げた。しかし、4月18日には航空母艦ホーネットから発進したB-29爆撃機16機が開戦後初めて日本本土に飛来。東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、津市、四日市市、神戸市を爆撃。爆撃機隊の指揮官ジミー・ドーリットル中佐から「ドーリットル空襲」と呼ばれる。この時、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は、中国大陸に不時着し機体は放棄された。その際搭乗員8名が日本軍の捕虜となっている。そして6月、ミッドウェー海戦で敗北(ハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近の海戦、日本海軍と米国海軍の機動部隊間の戦闘で、日本海軍は参加空母4隻全てが撃沈された。これが日本敗戦の契機といわれる)。にもかかわらず、大本営(戦時の天皇直属最高統帥機関)は、「わが軍の損害は少なし」と発表。新聞も「ミッドウェーの戦火拡大、わが戦果を世界に厳示」などと、あたかも日本軍が勝ったかのように報じた。その後、日本は各戦線で苦戦を強いられていく。翌年の1943年、4月・山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官戦死、5月・アッツ島玉砕、9月・鳥取地震発生(M7.2・死者1,083名)。そして、翌1944年、6月・サイパンで日本軍玉砕、7月・東条内閣総辞職、11月・米軍機B29による東京空襲。こうした敗戦気配の戦況不安と先の見えない重苦しい世情の中、12月に昭和東南海地震が発生する。
1944年12月7日午後1時35分ごろ、熊野灘沖を震源とするM7.9の地震が発生。震源の深さは約40キロメートル。震源域は紀伊半島東部の熊野灘・三重県尾鷲市沖約20キロメートルから静岡県浜名湖沖とみられている。震度7は愛知県西尾市、静岡県菊川市、袋井市などと推定されている。津波は8~10メートル。南海トラフの東南海領域で発生した海溝型地震で、南海トラフ巨大地震の一つである。
地震の翌日12月8日は、日米開戦3周年にあたる「開戦記念日」であり、翌日の新聞各紙一面は昭和天皇の軍服姿の立像が飾った。唯一被災地の新聞「中部日本新聞(現在の中日新聞)」には三面の隅に、「天災に怯まず復旧、震災源は遠州灘」の見出しがあり、続けて「(中央気象台15時50分発表)本日午後1時36分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起こって強震を感じて被害が生じたところもある」と書かれていた。しかし、被害の全容や詳細な報道はなく、救助・復旧作業が急速・万全に進んでいるようにのみ報じられている。全国紙の扱いはもっと小さく、中には全く報道していない新聞もあった。つまり、ほとんどの国民には昭和東南海地震によって大きな被害が出ていることは知らされていない。こうした報道管制や災害隠ぺいで、全国からの救援物資や義援金は得られず、被災地の復旧復興を大幅に遅らせることになった。
「敵に弱みを見せるな」と、日本政府が国を挙げてこの大地震をひた隠ししている最中、米紙「ニューヨークタイムズ」は翌日の1面で、「真珠湾攻撃から3周年の昨日、日本で大地震が発生。地球全体が6時間近く震動。観測者が『壊滅的』と表現した猛烈な地震」などと報じ、続報では「大軍需産業が被災地に含まれるが、日本は損害を軽微に見せようとしている」と全て見透かしていた。
地震発生当初は一時「遠州灘地震」と呼ばれていたが、東海地域の軍需工場が壊滅的被害を受けたことを隠蔽するために「東南海地震」と名称変更したという説もある。そして、その後も災害と被害全容は国家機密として公表されることはなく、終戦間際に多くの資料が焼却され「隠された大地震」とも呼ばれている。
この地震による被害は死者・行方不明1,183人、負傷者2,964人、全壊家屋18,008戸、半壊家屋36,554戸、流失家屋3,129戸、浸水家屋3,129戸、焼失家屋3,129戸、火災発生26カ所とされている。この数値は、戦後に見つけ出された限られた資料から推計されたものだ。
震源地から約160キロメートル以上離れた愛知県半田市は震度6以上と推定される強い揺れに見舞われた。半田市内のあちこちで地割れが生じ、阿久比川(あぐいがわ)と半田港に囲まれた低湿地帯では大量の水と砂が噴き出す液状化現象がみられた。そこは主に大正時代に堤防を造って干拓した地域で、山方新田・亀洲新田・康衛新田などと呼ばれ、被害の多くはこうした脆弱地盤地域に集中している。
紡績工場を改築して造られた中島飛行機半田製作所山方工場には、各種部品工場、主翼塗装・鍍金工場、燃料槽防弾加工等の特殊加工工場、艦上攻撃機「天山」の胴体組立工場、艦上偵察機「彩雲」の胴体組立工場、油庫、講堂兼食堂、寄宿舎、郵便局、病院などがあった。その山方工場や葭野工場が昭和東南海地震の激しい揺れに見舞われ、建物の多くが倒壊し多数の犠牲者を出す。
半田市全体の死者数は188人だったが、その81%にあたる153人が中島飛行機で働いていた人たちだった。その中の96人は動員学徒(労働力不足を補うため動員された中学生以上の生徒・学生)、37人が従業員、17人が徴用工(国民徴用令によって強制的に動員された人)、3人が挺身隊(自ら進んで軍需工場などに勤務する人)だったという。
これほど被害が多かったのは、「軍事機密を守るため、工場の出入り口を一カ所にしていたこと」と「紡績工場から軍用機工場へと改築する際、耐震性を考慮せずに工場内の柱を切り取ったこと」が要因とされる。地震に驚き、一カ所の出入り口にみんなが殺到し「団子状態」になっている所へ建物が倒壊、そこで多くの人たちが生き埋めになったといわれる。犠牲者の約三分の二は戦争さえなければ死ななくて済んだ中学生や高校生たちだった。痛ましい限りである。
津波研究家の山下文男氏が書いた『戦時報道管制下 隠された大地震・津波』には、俳優だった田村高廣氏(1928~2006年・田村正和氏の兄)の話が書かれている。田村氏は当時京都三中在学で、学徒動員により中島飛行機で働いていて、九死に一生を得た当時のことを次のように語っている。「ぼくは偶然にも、その時『天山』という組み立て中の飛行機の胴体の中に入って仕事をしていました。そのため助かったのですが、もうあっという間のことでした。あの戦争と地震による惨禍は切り離して考えられない。戦争がなければ『学徒動員』もなかったし、半田まで行って学友13人も死ぬことはなかった」と。
地震で火葬場が損壊したため、ほとんどの遺体は近くの北谷墓地(現柊町市営墓地)で野焼きに付された。丘の麓に溝を掘り藁や木材を並べた上に遺体を置いて点火。しかし、空襲警報が鳴るたびに作業が中断され、火葬終了までに丸2日間かかったという。ちなみに昭和東南海地震で名古屋市内も大きな被害が出したが、死者数は半田市より少なく、121人だった。
昭和東南海地震から6日目(12月13日)から、米軍は名古屋地域に対しB-29の大編隊で大規模空襲を執拗に繰り返す。標的は日本の航空用発動機の40%以上を生産していた三菱重工業・名古屋発動機製作所大幸工場だった。以来、翌年7月26日までにB-29・2,579機が来襲し大量の爆弾を投下した。名古屋空襲による死者は7,858人、負傷者10,378人、被災家屋135,416戸に及んで、名古屋市は壊滅状態になる。
半田空襲と名古屋空襲の1か月後、1945年1月13日午前3時38分に三河地震(M6.6)が追い打ちをかけ、半田市でまた12人が犠牲になる。震源地は三河湾内で、37日前の昭和東南海地震の誘発地震として、当初は「第2地震」と呼ばれた。被害全貌は報道管制で隠蔽され、新聞などではほとんど報道されなかったが、昭和東南海地震の時と同じように、地元の「中部日本新聞」が報じている。「再度の震災も何ぞ、試練に固む特攻魂、敵機頭上、逞しき復旧」「決戦に手を抜くな、比島思えば増産一途(吉野愛知県知事の声明)」といった見出しだった。このころ本土空襲は全国に及んでおり、災害調査などに取り組める状況ではなくなっていた。その30年後、被害調査をまとめた飯田汲事名古屋大学教授によると、三河地震による死者は2,306人、負傷者3,866人、家屋全壊7,221戸とされている。
2度の地震で疲弊した半田市をさらに米軍の凄まじい空襲が襲う。とくに終戦1か月前の7月15日、硫黄島から飛来した小型機P-51十数機が半田市を空襲。同月24日にはB-29大型爆撃機が大規模空襲を仕掛けてきた。78機のB-29が数波に分かれ約2000発の250キロ爆弾を雨のように投下。その直後から無数の小型機が消防隊・救助隊や逃げ惑う市民に機銃掃射を浴びせた。空襲の攻撃主目標となった中島飛行機半田製作所は、本工場へ81発、山方工場へ35発の爆弾を被弾、地震で壊れなかった施設も大半が損壊焼失し、壊滅的打撃を受ける。2度の空襲で半田市民は少なくとも264人が死亡し、多数の重傷者を出すことになる。
当時は戦時下であったため報道管制は厳しく、地震災害だけでなく空襲被害も隠蔽され、全容・詳細はほとんど発表されなかった。終戦(半田空襲)から50年目の1995年7月、戦争の歴史を後世に伝え、犠牲者の慰霊と平和祈念のため、戦災(地震・空襲)犠牲者の名を刻んだ石碑が半田市の雁宿公園(かりやどこうえん)内に建てられた。
さらに続きとなる記事<「太平洋戦争敗戦直後の日本」に追い打ちをかけた「南海トラフ巨大地震」…そのあまりに「甚大すぎる被害」>では、過去の南海トラフ巨大地震について引き続き解説します。
山村 武彦(防災システム研究所 所長・防災・危機管理アドバイザー)
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2023年8月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「太平洋戦争敗戦」直後の「日本」に追い打ちをかけた「南海トラフ巨大地震」…そのあまりに「甚大すぎる被害」
山村 武彦防災システム研究所 所長
防災・危機管理アドバイザープロフィール
戦争末期、大空襲(焼け野原)後の大地震
現時点における直近の南海トラフ巨大地震は太平洋戦争終戦翌年の昭和南海地震である。その昭和南海地震の前年、1945年7月3日午後4時23分、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの基地から出撃したB-29爆撃機501機が、硫黄島を経由して翌未明、姫路・高松・徳島・高知に向かった。4日午前1時52分ごろ、高知市上空に飛来したB-29大型爆撃機125機は、約1時間にわたって1,060.8トンの焼夷弾を投下。この凄まじい空爆で、高知市では死者・行方不明者423人、重軽傷者289人、全焼壊1万1,840戸、半焼壊108戸という被害を出し、ビルも民家も跡形もなく高知市街地の約70%が焦土と化した。
【第1回から読む】「次は西日本大震災」…まさに次の国難「南海トラフ巨大地震」は本当に起きるのか
米軍データによると、爆撃部隊はアメリカ陸軍航空軍・第21爆撃集団所属・第73爆撃団だ。爆撃に加わった将兵1,527人。爆撃目標は高知市市街地とされ、軍需産業や軍隊ではなく、都市の住宅や民間人が攻撃目標だったという。もうそれは戦争ではない。すでに制空権も防空戦闘能力も失った丸腰の寝静まった町と人々を焼き払う暴挙、それは正気を失った無差別殺人に他ならない。どれほど恐ろしかったことか、どれほど口惜しく無念だったことか。こうした無差別空襲は高知だけでなく全国で行われていた。
太平洋戦争終戦の翌年、昭和南海地震が発生した1946年は、1月1日・昭和天皇のいわゆる「人間宣言」から始まった。同月・秋葉原電気街が露店として開業、2月23日・山下奉文元陸軍大将の絞首刑執行、3月21日・宮城県女川港で巡航船金華丸転覆(22tの小さな船に、食糧買い出しの約230人が乗船・103人死亡)、4月19日・GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が東京湾海底から旧日本軍の金塊など(数十億ドル?)引揚げ、5月3日・極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、5月22日・第一次吉田茂内閣成立、5月31日・昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問、7月1日・米国信託統治領ビキニ環礁で原爆実験、8月1日・闇市の全国一斉取り締まり、10月1日・上野駅前に引揚げ者マーケット「アメ横」誕生、11月3日・日本国憲法公布、11月23日・青森県五所川原大火(841戸焼失)、12月7日・シベリア引揚げ船第1船が舞鶴入港など。
終戦から一年、時の大蔵大臣渋沢敬三が「米が1千万人分不足で、1千万人が餓死するかもしれぬ」と外国人記者クラブで不用意発言をするほどの厳しい食糧難の中、人々は生きることに必死の時代だった。大空襲で焼け野原になった高知市街地に、ようやくバラック建ての家が立ち並び、食料不足・物資不足にあえぎつつ廃墟から懸命に立ち上がろうとしていた人たちを、震度6の大地震が追い打ちをかける。
地盤沈下と堤防決壊
1946年12月21日午前4時19分過ぎ、潮岬南方沖78キロメートル、深さ24キロメートルを震源とするM8.0の昭和南海地震発生。2年前の昭和東南海地震と同様に陸のプレート(ユーラシアプレート)の下に、海のプレート(フィリピン海プレート)が沈み込む南海トラフ沿いの西側領域が動いた地震。当初は「南海道地震」とも呼ばれた地震で、この領域が動いたのは1854年安政南海地震から92年目。破壊開始点でもある震源は、2年前の昭和東南期地震(潮岬沖)に隣接していて、東南海地震は東側へ「半割れ」が起き、南海地震は西側へ向かって断層破壊が進行していったと推定されている。高知測候所で記録された震動時間は約9分間だったが、とくに激しく揺れていた時間は1~2分といわれる。
震度6は西大寺(さいだいじ・岡山県岡山市東区)、五郷(いさと・三重県熊野町)、郡塚(ぐんげ・兵庫県淡路市)、津田(つだ・香川県大川郡)、下高瀬(しもたかせ・香川県三豊町)、野根(のね・高知県安芸郡)、沖ノ島(おきのしま・高知県南西部)など。震度5は、福井(福井県)、岐阜(岐阜県)、津(三重県)、尾鷲(三重県)、彦根(滋賀県)、洲本(兵庫県)、橿原(かしはら・奈良県)、和歌山、潮岬(和歌山県)、境(鳥取県)、徳島(徳島県)、高松(香川県)、多度津(たどつ・香川県仲多度郡)、宿毛(すくも・高知県)、大分(大分県)など、九州・四国・紀伊半島・中国地方・信州・北陸など広い地域で強い揺れが観測されている。
この地震による死者・行方不明者は1,443人、家屋全壊11,506戸、半壊21,972戸、流失2,109戸、浸水33,093戸、焼失2,602戸の深刻な被害を出した。また、震源から遠く離れた長野県でも家屋全壊2戸、半壊4戸。滋賀県で家屋全壊8戸、半壊2戸。岐阜県で家屋全壊547戸、半壊751戸。鳥取県で家屋全壊22戸、半壊13戸。島根県で家屋全壊139戸、半壊308戸。岡山県で家屋全壊1,092戸、半壊3,757戸など、震害による被害は太平洋沿岸だけでなく、内陸部、瀬戸内海、中国地方、日本海側にまで及んでいる。
中でも四国高知県の被害は甚大だった。高知県の主な被害は、死者・行方不明679人、家屋全壊4,865戸、半壊9,073戸、流失566戸、浸水5,608戸、焼失196戸に上る。とくに高知市へ津波第1波が地震発生約20分後に襲来し、一番大きかったのは第4波で、それでも浦戸湾奥で約60センチメートルとさほど高い津波ではなかった。しかし、もともと海抜ゼロメートル地帯だった上、地震によって約1.2メートルも地盤が沈降。また、地震の揺れで河川堤防が約11カ所で決壊し、長期にわたり下知地区や潮江地区を中心に約1,000ヘクタール(10㎢)が浸水。当時の高知市の人口約14万人のうち約2万人が被災したといわれている。戦時中市外へ転出していた約4万3千人のうち、3万2千人ほどが終戦後高知市に戻ってきていて、食料品や日用品の不足だけでなく、深刻な住宅難にも陥っていた。そこへ巨大地震が襲い、多数の住宅損壊と長期床上浸水が発生してしまったのだ。市は昭和国民学校や神社、劇場など21カ所を避難所にしたという。
空襲被害を免れた高知県東部でも家屋の倒壊が多かった。須崎市では家屋全壊198戸、入野(黒潮町)では家屋倒壊率70%、中村市(四万十市)では地震動やその後の火災などで家屋損壊率80%以上と推定されている。また、四万十川に架かっていた四万十鉄橋も両端を残して落橋。
震源に近い和歌山県では死者・行方不明269人、家屋全壊969戸、焼失2,399戸。とくに新宮市では地震直後に出火した火災が16時間燃え続け、家屋焼失2,398戸、全壊600戸、半壊1,408戸に及んだ。
持ち出すものは「いのち」だけ
昭和南海地震における津波は、房総半島から九州に至る沿岸に襲来した。最も津波高が高かったのは紀伊半島南端に位置し和歌山県東牟婁郡串本町(ひがしむろぐん くしもとちょう)の北にある袋港(ふくろこう)で、6.57メートルの津波と記録されている。この津波の特徴は、「第1波到達の早さ」である。前述した和歌山県串本町には、地震発生後約10分で第1波が襲来。また、和歌山県田辺市と高知県安芸郡東洋町には地震後約15分で第一波が到達している。
安政南海地震で得た教訓として高知県須崎には津波に関する伝承があったという。それは「大地震後、必ず津波が来るが、その津波は地震後直ぐ来るのではない。ゆっくり飯を炊くだけの余裕があるから、あわてず落ち着いて充分の用意をして避難せよ」(南海大震災誌)というものだった。しかし、昭和南海地震の津波にその言い伝えは当てはまらず、それを信じた人は、地震後15分ほどで押し寄せた津波で逃げ遅れた可能性もある。
災害はどれも同じではない。その都度顔(様相)が違う。ひとつの災害の教訓が次の災害に当てはまらない場合もある。地域によっては、「津波はいったん引いてからやってくる」という言い伝えもあるが、それは必ずしも正しくない。引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり大津波がやってくる場合もあるからだ。そうした俗説にとらわれず、最悪を想定して(地震後津波はすぐ押し寄せると思って)行動する必要がある。
現在想定されている南海トラフ巨大地震の想定津波最短到達時間で、1mの津波高第1波が一番早く到達するのは、静岡県静岡市清水区と焼津市で、最短で地震発生2分後とされている。そのほか和歌山県東牟婁郡太地町と串本町で、最短で地震発生3分後、高知県室戸市と安芸郡東洋町で最短5分。その時34メートルの津波が押し寄せると想定されている高知県幡多郡(はたぐん)黒潮町に、1メートルの津波高第1波の最短到達時間は地震後10分と想定されている。これは内閣府の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」が公表している数値だ。
全体として静岡県、和歌山県、三重県、高知県、徳島県の外洋に面した多くの地域が、最悪の場合、1メートルの津波高第1波の最短到達時間が10分以内と想定されている。これはあくまで1メートル津波高第1波の最短到達時間であって、一定時間後の津波高はさらに高くなる。例えば静岡県下田市の場合、1メートルの津波は地震発生最短13分後と想定されているが、それから4分経過した17分後には20メートルの津波高と予測されている。これはあくまでも津波到達予測時間であるが、南海トラフ巨大地震の震源域が陸域に近い分、津波が早く到達する可能性が高いとみられている。
ともかく、海岸近くにいて地震の揺れが収まったら、「持ち出すものはいのちだけ」「遠くの避難所より近くの高いビル」と思って、一目散に高台に避難することが大切である
さらに連載記事<「次は西日本大震災」…まさに次の国難「南海トラフ巨大地震」は本当に起きるのか>では、南海トラフ巨大地震について引き続き解説します。
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