🗡20〗─2・C─日本陸軍の輸送潜水艦。三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」。~No.63No.64 

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 三式潜航輸送艇は、日本陸軍の潜水艦。通称のまるゆ(○の中に「ゆ」(ゆ⃝)と書く)で知られる。「ゆ」は「輸送用」の頭文字。1型と2型があり、主に輸送任務で用いられた。計画時の呼称は「イ号特種艇」。 レイテ島の戦い(多号作戦)で3隻が実戦投入され、輸送任務に成功した艇もある。陸軍は最終的には400隻以上の建造を計画していたが、終戦までに完成したのは38隻に留まった。
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 2025年1月21日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「陸軍に「潜水艦」配備なぜ!? 旧日本軍が欲した切実な理由 極秘にし過ぎて「トホホな顛末」も
 凪破真名(歴史ライター・編集)
 陸軍にとっては海上輸送の安全性は切実
 旧日本軍の陸軍と海軍は仲が悪かったことで有名です。よく「仲が悪すぎて独自の空母や潜水艦まで作った」との逸話がありますが、このうち潜水艦は「まるゆ」と呼ばれ、角川ゲームスが制作した某ブラウザゲームなどで知名度が高まりました。ただ、潜水艦とは呼ばれてはいるものの、同艦の建造の理由は“メンツ”という意地の張り合いではなく、かなり切実なものでした。
 【画像】洋上を航行する三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」(画像:パブリックドメイン)。
 洋上を航行する三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」(画像:パブリックドメイン)。
 陸軍と海軍は、長らくライバル関係で基本的な戦略すら一致していなかったため、平時ですら予算や人事、内閣でのパワーバランスなどで張り合っていましたが、困ったことになったのが太平洋戦争時です。
 同戦争は太平洋の島々を戦場に行われたため、史上かつてないほど海路での補給確保が重要になりました。なお、経緯は諸説ありますが、1874年の台湾出兵の時代から日本では海上の物資や兵員の輸送はなぜか陸軍の担当でした。
 開戦当初こそ、海軍は陸軍の輸送にも快く護衛の艦艇を派遣してくれました。しかし、戦況が徐々に悪化するとそうはいかなくなり、護衛なしの輸送船団は甚大な被害を受けることになります。
 次第に戦争の主導権をアメリカに奪われ、増える一方の輸送船の損害に陸軍は一計を案じます。なんと、アメリカ軍の軍用機や潜水艦などに発見されないよう、潜水艦を輸送船代わりに使おうと考えたのです。こうして生まれたのが、三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」でした。ちなみに、「ゆ」は輸送艇を表わしています。
 もちろん海軍に秘密で建造計画を立ち上げる
 「まるゆ」は1943年初頭に計画が始まりますが、その情報は極秘扱いとされます。その徹底ぶりは味方である海軍に対しても行われ、設計・建造の一切について海軍に協力を得ず、陸軍単独で進められました。そのため、第一次世界大戦でドイツが海中輸送を想定して開発した潜水艦、SMU-151を参考とされました。
 【画像】建造中の「まるゆ」大きそうに見えるが潜水艦としてはかなり小型(画像:パブリックドメイン)。
 建造中の「まるゆ」大きそうに見えるが潜水艦としてはかなり小型(画像:パブリックドメイン)。
 しかし、国内の造船所は消耗した海軍艦艇の建造だけでなく、損傷を受けた民間の輸送船や商船、漁船などの修理で手一杯であり、陸軍の潜水艦など作る場所はありません。
 仕方なく陸軍は、通常の艦船よりも高度な技術が必要なはずの潜水艦を、民間のボイラー工場などに依頼したのです。
 設計は陸軍の技師、建造は民間のボイラー会社、まったくの素人たちによる潜水艦建造計画は、困難を極めたといいます。しかも、そこまで秘匿したにもかかわらず、陸上兵器では必要のない潜望鏡を発注したのが原因で海軍に計画が露見。最終的に、試作1号挺の潜航試験には、海軍関係者も招いています。
 素人集団が建造した1号艇の潜航試験はトラブルの連続であったとか。トリム(潜水艦の水平バランス)のコントロールが非常に難しく、頭が沈めばお尻が浮き、お尻が沈めば頭が浮く、という状態になり最初は全く潜水できなかったそうです。ただ、最終的には、時間をかけてようやく完全な潜水状態にまで到達しました。
 ただ、それまでの経緯ゆえに、水面下で航行を停止したままの潜水艦を見て、海軍将校たちは「落ちた(沈没した)!?」と騒然になったそう。その一方で、陸軍の技師らは、満面の笑みで「潜水成功」を喜んだといいます。
 なぜ、このような認識のギャップが生まれたのかというと、その要因として「まるゆ」が海軍の常識では考えられない潜航方法を採用していた点が挙げられます。
 通常、潜水艦は航行しながら潜航に移る方式を取るのが当時の常識でした。しかし、陸軍の試作1号挺は停止した状態で潜航し、その後航行に移るというシステムを採っていました。ゆえに、海軍将校が慌てて「沈没、試験停止!」と叫ぶのを、陸軍関係者が「違う、沈没ではない」となだめたという逸話まで残っています。仲の悪い陸軍と海軍ですが、さすがに浮上した「まるゆ」を確認したときは海軍将校たちも胸をなでおろしたといわれています。
 味方の民間船に敵と勘違いされ体当たりを受ける
 ある意味、喜劇のような混乱を挟みながらも、なんとか任務遂行は可能であると判断され、「まるゆ」は38隻が建造されました。なお、1隻の乗員は26名でしたが、そのほとんどは、陸軍の軍港である宇品で鍛えられた船乗りではなく、元戦車兵だったといいます。戦車兵は暗くて狭い場所での操縦に耐性があるだろうと思われたからだとか。また、魚雷もなく戦車砲が防御火器として用いられていたため、その点でも都合がよいとされた模様です。
 【画像】アメリカ海軍に調査される「まるゆ」(画像:アメリカ海軍)。
 アメリカ海軍に調査される「まるゆ」(画像:アメリカ海軍)。
 海軍は当時、約100m近い大型の潜水艦を建造していましたが、この「まるゆ」は半分以下の約41mしかありません。全幅も3.9mしかありませんでした。また潜水航行に必要な最低限の計器もほとんど搭載されておらず、乗員の付け焼刃のような技術でカバーしていました。そのため急速潜航時に安全深度を突破してしまい圧壊しそうになった話なども数多く残されています。
 スピードも遅く、素人のような操艦でのろのろと航行する様子は、敵である米英軍だけでなく、日本海軍や民間船にも不気味な存在にうつったようです。1944年には、海軍の艦から「汝はなにものなるや?」の打電を受けたほか、日本郵船所属の戦標船に体当たり攻撃を受けて損傷するなど珍事もおきました。徹底的に存在を秘匿した影響なのか、それだけ「まるゆ」は陸軍の船として一般には浸透していなかったということになります。
 取り立てていいところもなかった「まるゆ」でしたが、最大の活躍は1944年11月にやってきました。1944年10月頃から行われたレイテ島輸送作戦です。フィリピンのマニラに到着した3隻の「まるゆ」は、レイテ島地上戦に伴う輸送任務を行うことになります。すでに制空権、制海権ともに連合軍に掌握され、海軍の第二水雷戦隊に護衛された第三輸送部隊が全滅するなど、事態は悪化の一途をたどっていました。マニラも攻撃を受け、巡洋艦やスタンバイしていた輸送船団も全滅。そこで、レイテ島で戦い続ける陸軍に物資を届ける役として、「まるゆ」に白羽の矢が立ちます。
 3隻の「まるゆ」は、激しいアメリカ軍の攻撃にさらされ、1隻を失うも何とかレイテ島に到着。米やバッテリーなどを届けました。これは陸軍潜水輸送艇の最初の戦果であり、大本営陸軍部は感涙したとか。しかし、輸送には成功したものの、マニラに戻るとすでにそこは連合軍が占領しており、港湾機能は喪失していました。なんとか「まるゆ」も近くに港に退避しますが、連合軍の爆撃を受け、残った2隻も失われてしまいます。
 その後は、大きな活躍もなく、400隻建造される予定だった「まるゆ」は、最初の38隻だけで終わりました。終戦時に現存していた船体もその多くは日本を占領したアメリカ軍の命令により解体処分となりました。
 【元ネタあったのか…】これが「まるゆ」の参考にされた輸送潜水艦です(写真)
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 歴史人
 2023年7月4日 歴史人「フィリピンでの「日本陸軍初陣」は成功するも戦局の悪化により活躍の場は広がらず
 陸軍、海に潜る! 試作艇、完成す
 野田 伊豆守
 海軍の顔色を伺うことなく、自前で物資運搬を行いたい。こうした陸軍の悲願、自前の潜航輸送艇「まるゆ」が遂に完成した。いよいよ実戦に投入となるが、戦場はすでにフィリピン攻防という段階となっていたのである。
 艇尾に旭日旗ではなく日章旗を掲げて航行するまるゆ。海軍には「どのような形で、大きさはこれくらい」というような詳細を伝えていなかったため、敵艦と認識されたこともあった。輸送船に体当たりされたこともある。
 陸軍が悲願とした輸送潜水艇「三式潜航輸送艇(通称まるゆ)」の1型が就役し、暁部隊と呼ばれる陸軍船舶司令部直轄の第一、第二潜航輸送隊に配備されたのは、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和19年(1944)になってから。すでに当初の量産計画は、絵に描いた餅状態となっていたのである。
 なにしろ航続距離が8ノットで約1500海里しかなかったため、少し遠くに行くには給油用の母船が必要となってしまう。さらに潜航が可能だとはいえ、潜っている時はほとんど海中でじっと休んでいた。という具合に日中は潜って休み、夜間に浮上して航行するというものだったので、目的地に到達するまで多くの時間を要してしまったようだ。
 おまけに艇内にはトイレもなく、一斗缶で代用。つまり浮上して基地に帰るなり、母船と遭遇しない限り、汚物の処理もままならなかったのだ。海軍の潜水艦と比べ、機器類も圧倒的に少なかったため、経験に頼らざるを得ないという、不安だらけの船出であった。
 昭和19年5月、元戦車兵で潜航輸送教育隊隊長を務めていた矢野光二中佐は「まるゆ3隻をフィリピンのマニラに派遣せよ」という命令を受ける。1隻あたりの乗務員は26名、基地隊や交代要員223名を乗せた潜水母艦を随伴。派遣隊指揮官は、やはり元戦車兵の青木憲治少佐が任命された。
 こうして陸軍輸送潜水隊4隻は、総勢302名を乗せ、船舶司令官鈴木宗作(すずきそうさく)中将に見送られ宇品(うじな)港を出港。51日間の航海の末、7月18日にマニラに到着した。この時、マニラに在泊していた日本海軍の軽巡洋艦(球磨型軽巡洋艦大井と推察されている)から、「汝は何者なるや? 潜水可能なるや」という信号を送られた。この屈辱的な打電に対し、まるゆ側は「帝国陸軍潜水艇也。(潜水の可否については)返答の要を認めず」と返電。
 レイテ島の日本軍陣地に対し、猛烈な艦砲射撃を加えたアメリカ軍。炎上した日本軍の基地から黒煙が上がった。こうした基地への補給のため、3隻のまるゆはマニラを出撃。この初陣で2隻が無事に物資を輸送できた。
 マニラで外洋航海の際に傷付いた船体の修理や機器の調整を行っているうちに10月を迎え、アメリカ軍がフィリピンに来襲。それに伴い、大本営は捷一号(しょういちごう)作戦を発動した。まるゆはレイテ島地上戦に伴う輸送作戦「多号作戦」に駆り出されることとなる。
 しかし11月11日、レイテ島への輸送は、第二水雷戦隊に護衛された輸送部隊がオルモック湾で空襲を受け、駆逐艦朝霧(あさぎり)を除き全滅するなど、地上部隊への輸送は完全に行き詰まっていた。第14方面軍司令官の山下奉文(やましたともゆき)大将は、第三船舶司令部に対して「レイテ島への軍需品・糧食輸送」を厳命した。それにより3隻のまるゆは、レイテ島への輸送作戦を決行することとなった。
 11月26日、青木憲治少佐指揮下の3隻のまるゆはマニラを出撃。青木少佐が座乗した2号艇は、潜航装置が故障していたが、そのまま出撃している。アメリカ側はレイテ島周辺に水雷戦隊や魚雷艇を配備。PBYカタリナ飛行艇による哨戒(しょうかい)も行われていた。そのため潜航できない2号艇はすぐに発見され、11月27日午前1時30分頃、フレッチャー級駆逐艦4隻に撃沈されてしまう。
 だが残る2艇は潜航して攻撃をやり過ごし、同日中にレイテ島に到着する。届けられた物資は精米600梱、救急食50梱、バッテリー30梱、大発動艇修理部品若干であった。これはじつに17日ぶりに行われた、レイテ島への物資補給であったのだ。同時に、陸軍潜水輸送艇初の実戦使用であり、成功でもあった。
 陸揚げに成功した2艇は、その後マニラに帰投する。だが敵の空襲が激しく、港湾機能が喪失されたため、残存部隊はルソン島北西部のリンガエン湾に退避することとなる。まるゆ2艇も同地へと移動した。
 明けて昭和20年(1945)1月2日、ミンドロ島から飛来した連合軍爆撃機がリンガエン湾を空襲。まるゆ1号艇は洋上退避を試みたが、そのまま浮上してくることはなかった。そして1月5日の空襲では、3号艇も失われてしまう。生存していた乗組員は、そのまま地上戦闘員となった。
 世界で唯一といっても過言ではない、陸軍保有潜水艇まるゆ。そのチャレンジ精神は賞賛できるものの、結果的には陸海軍不和を象徴するようなもので終わってしまった。
 1943年、日立笠戸工場で建造中のまるゆ「下松型1号艇」。計画では400隻以上を建造することになっていたが、最終的には完工が38隻、未完が1隻にとどまった。うち5隻が喪失し、未完を含む34隻は引退扱いとなる。
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 陸軍
 青木憲治
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