🗡21〗─3・D・②─日本海軍「最強空母」は「巨大客船」を"改造"した「隼鷹」「飛鷹」。~No.67 

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 日本はアメリカに次ぐ空母保有大国であった。
 戦史で空母による海戦をおこなったのは、アメリカと日本だけである。
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 2024年11月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本海軍「最強空母」、じつは「巨大客船」を"改造"して作っていた…! その「ヤバい開発秘話」と「知られざる物語」
 潮書房光人新社
 太平洋戦争前夜、日本商船史上最大の豪華客船になるはずだった「橿原丸」「出雲丸」は、なぜそれぞれ空母「隼鷹」「飛鷹」に改造されたのかーー。正規の空母と比べても遜色のない活躍をみせた天下無双の「改装空母」を大特集した老舗軍事雑誌「丸」11月別冊(潮書房光人新社)がいま話題になっている。
 元海軍技術少佐で艦艇研究の泰斗、福井静夫氏(三男・威夫氏は元ホンダ社長)が半世紀前に同誌に寄稿した内幕は、航空機が主導権を握った第二次世界大戦下での列強による「商船空母」改造事情を生々しく伝える。世界も刮目した日本の改造技術とは。伝説の造船官が綴った手記などから一部抜粋・再構成してお届けする。
 貨物船にはない大型客船と空母の相性の良さ
 巨大船、とくに大西洋航路の大型高速客船の空母化は、第一次大戦以来、しばしば論議の対象となっていた。1923年ごろ、日本海軍の造船基本設計主任官として著名な造船少将・平賀譲博士(のちの東大総長)が第一次大戦後の欧米造船界を視察した際、旧知のイギリス海軍造船局長はさかんに、平賀に商船の空母化を勧め、自己の試設計すら提示した。空母化に向け、「適当な考慮をはらって商船を建造すれば、立派な空母になりうる」と主張した。
 そもそも大型客船と空母とは相性がよかった。空母化にはいくつかの必須条件があるが、例えば、「速力24ノット以上」であれば貨物船には望めない。飛行甲板の長さや広さにも適している。
 特設艦を艤装する際の最大の問題となる「居住区」についても、固有乗員数が少ない商船は多くの居住区を新設する必要があるが、大型客船なら新設の問題は生じない。
 空母予備軍の「日本最大級の豪華客船」
 日本海軍が有事の際に安易に空母化できる優秀客船の保有を切望するようになったのは第一次大戦後のワシントン軍縮会議以降のことだ。アメリカの客船にそれらしいものがあったことに刺激されたためもある。
 昭和のはじめにサンフランシスコ航路の新客船を建造する機運が高まり、この流れを利用したのが日本海軍と日本郵船だった。海軍は改造空母にメドをつけ、日本郵船は多大な補助金を受けて大型客船の建造が可能となった。約1万7000総トン、20ノットの「秩父丸」「浅間丸」「龍田丸」の3船が海軍の便宜を受けて建造されたが、空母化に向け改造する前に沈没した。
 日本郵船は3船の完成後、2万7000総トン、24ノット級の日本最大級豪華客船「橿原丸」「出雲丸」を計画した。これは空母としては絶好のものであり、海軍は3~4万トン、トップ・スピード25ないし27ノットを希望した。
 空母改造期間はなんと「6ヵ月」、最短で「4ヵ月」
 とはいえ、改造空母誕生までには経済的、技術的なハードルがいくつもあった。
 建造費に対し日本郵船は、全額補助金を希望したが、これは不可能であり、結局いろいろな方法がとられた。航路補助金の増額、主・補機などの経費負担、建造所での便宜……。一方海軍の要求も徹底した。ボイラー室区画の舷側の防御用として、外板に厚さ25ミリのDS鋼(軍艦のみに使用)を張ったり、その内方には重油タンクを設けて、直接ボイラー室から外板まで達しないこと、ボイラー室とエンジンルームをいずれも複数とすることなどである。
 最も大切だったのは、商船である2船を、有事の際に6カ月(場合によっては4カ月)で空母になし得ることであった。速力については、26ノット、やむを得ぬ場合は25・5ノットを必要とした海軍と、24ノットが経済上の限度とした日本商船との間では、ボイラーを海軍式に近い大力量のものとして、それを平時は馬力を下げて使うこととした。軍用のために50%近い馬力に余裕を持たせ、25・5ノットの空母となる。これらに対する製造費用の増加は、すべて海軍の負担となった。
 魚雷攻撃にも沈まず終戦迎える
 両船は1940年の東京オリンピックに間に合うよう計画されたが、時期は遅れ、起工に至ったのは「橿原丸」が1939年3月、「出雲丸」が同年11月だった。建造は順調に進んでいたが、予期せぬ事態が勃発した。第二次世界大戦がはじまり、それを受けて米国で1940年7月に両洋艦隊法が成立したことだった。これは18隻もの空母の新造が盛り込まれており、同時期の日本海軍が建造を予定していた3隻では、到底かなうものではなかった。
 そこで急きょ「橿原丸」「出雲丸」など3隻に白羽の矢が立てられ、商船として竣工前に空母化することが決まった。この決定がなされた1940年10月当時、両船は上甲板まで建造が進んだ状況だった。両船は1941年6月に相次いで進水し、「橿原丸」は1942年5月に「隼鷹」として、「出雲丸」は同年7月に「飛鷹」として竣工した。技術的に見れば、鋲接法、区画法、可燃物使用の範囲などで純然たる軍艦とはいえないが、太平洋戦争では主力空母として活躍した。なお、両船とも煙突が外方に傾いているという大きな特徴があったが、戦後30年ほどたってアメリカの大空母「J・F・ケネディ」が同じ方法をとったのは興味深い。
 「飛鷹」は1944年6月のマリアナ沖海戦で攻撃を受け不帰の客となった。一方、「隼鷹」は完成翌月の1942年6月、ミッドウェー作戦と同時に実施されたアリューシャン作戦に、第四航空戦隊の一艦として出動した。悪天候の中で搭載機を飛ばし戦闘に参加した実績は注目に値する。この後、いくつもの作戦に従事し、攻撃を受けながらも沈まず、行動可能な空母として終戦を迎えた。
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 隼鷹型航空母艦(じゅんようがたこうくうぼかん)は、大日本帝国海軍航空母艦の艦型。同型艦は「隼鷹」と「飛鷹」。
 歴史
 日本海軍は、造船業界の不況対処および戦時の優秀船舶確保のために、一部の民間造船所および建造船舶に補助を与えていた。サンフランシスコ航路のために日本郵船が1938年(昭和13年)に計画、1939年(昭和14年)に起工した大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」は、商船としてはそれまでの日本船舶で最大で、建造にあたり大型優秀船建造助成施設を適用され、有事の際に航空母艦に改造できる設計をとることを条件として、日本海軍から建造費用の6割の補助を受けていた。1940年に開催予定だった東京オリンピックのために建造され始めたとも言われるが、起工は1939年3月である。のち対米関係が悪化した1940年(昭和15年)に、両客船は、空母への改造が決定され、1941年(昭和16年)に、海軍が日本郵船より建造中の2隻を買収。「橿原丸」は「隼鷹」(じゅんよう)、「出雲丸」は「飛鷹」(ひよう)と新たに命名された。
 当初、空母に改装した際には、九六式艦上戦闘機12機、九六式艦上攻撃機18機、九七式艦上攻撃機18機を搭載することが予定されていたが、1941年になると零式艦上戦闘機15機(補用3)、九九式艦上爆撃機20(補用2)、九七式艦上攻撃機18(甲板10機)、800 kg 爆弾54発、250 kg 爆弾198発、60 kg 爆弾348発、九一式改二魚雷27発搭載に変更となっている。
 原計画が最大24ノットの高速客船であったこともあり、空母改装後は25ノットを出すことができた。この規模の空母としては低速だが、竣工当時には作戦行動上十分な速度と見なされていた。ただし、大戦中期から登場し始めた大型、高速の新型機の運用にはやや困難が伴うものであった。艦載機用カタパルトを実用化できなかった日本海軍にとって大型高速化しつつあった艦載機(彗星、天山)の発艦問題、特に無風時は深刻であり、1944年(昭和19年)8月以降、発艦に補助ロケットを用いたケースがある。
 艦橋は、当初の計画では、「龍驤」のように飛行甲板先端下部に設け、飛行甲板上には何も設けない予定であったが、設計中の正規空母大鳳」が、従来の舷側から湾曲して出す煙突をやめ、飛行甲板上に設けた煙突と艦橋とを一体化する構造となることが決定したので、その事前試験の意味も含めて、欧米の空母では標準の、煙突と一体となったアイランドを日本空母として初めて採用している 。ただし、排煙による気流の乱れが艦載機の着艦を妨げないよう、煙突上部を右外側へ26度傾斜させており、この点は英米空母と異なる。この斜め煙突と艦橋が一体となったアイランドは、のちに大和型戦艦から改造された空母「信濃」にも採用されている。「飛鷹」は竣工時から艦橋に二号一型電探(対空レーダー)を装備している。格納庫は二層で、エレベーターは飛行甲板の前部と後部に一基ずつ設置されている。
 太平洋戦争においては、「飛鷹」、「隼鷹」の両艦により第二航空戦隊を編成、ミッドウェー海戦以降の空母機動部隊を支える中核戦力として活躍した。大戦後半の搭載機は零戦21、彗星18(9機は飛行甲板繋止)、天山9の合計48機だったという。これは、アメリカ海軍のヨークタウン級空母の搭載機の約半数で打撃力も半分であった。
 特徴
 機関に日本海軍としてはトップクラスの性能のボイラーを採用した。隼鷹(橿原丸)の三菱水管缶は 420℃、飛鷹の川崎ラモント缶は 420℃、蒸気圧はそれぞれ 42気圧・40気圧で、駆逐艦島風の機関を上回り、アメリカ海軍のエセックス級空母に匹敵するスペックであった。一方で、下部格納庫は缶室の真上にあって温度上昇に悩まされ、すのこを敷きつめて解決を図っている。2軸推進であったが、スクリューの直径は日本海軍最大の直径5.5 mであった。「飛鷹」は1942年(昭和17年)10月20日に機関故障を起こし、日本海軍は南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦を前に貴重な航空戦力の一角を失っている。
 本型は商船改造空母ではあったが、当初から空母への改造が念頭に置かれていたために、装備された装甲は「蒼龍」に準する内容(水中防御の装甲は劣る)となっており、商船改造空母としては世界的に見ても異例の防御力を持っていた。弾薬庫甲板、後部舷側、ガソリンタンク甲板が25 mm DS鋼板、機関室舷側のみ20 mm+25 mm DS鋼板で構成されている。機関部分も2重底とされていた。ミッドウェー海戦に連動したアリューシャン作戦直前、佐伯湾に停泊していた「隼鷹」に転勤した山川兵曹によれば、「変てこな煙突」の空母の艦首に、乗っていた内火艇が衝突した。すると「隼鷹」の外舷が凹んでおり、同乗者と共に不安を抱いている。また珊瑚海海戦で損傷した空母「翔鶴」から「隼鷹」に転勤した河野茂(三等飛行兵曹)は、「いままでに乗ったどの艦よりもゆったりして、優しい感じだった」と述べている。
 「飛鷹」副長によれば、燃料満載・燃料未載の場合、艦橋が右舷にあるため右舷に7度傾斜した。1943年末に「飛鷹」では副長の主張により、左舷空所にバラストをつめて満載時傾斜が右3度に減っている。また軍艦のように区画が細分化されておらず、被害を受けた際に区画的に防御を行う能力には劣っていた。
 アメリカ海軍はマリアナ沖海戦で「飛鷹」を撃沈した際に「迅鷹(はやたか)級航空母艦」の表現を使った。
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 改造空母、または改装空母とは、他艦種や商船等を航空母艦(空母)に改造した艦船の総称である。 大型軽巡洋艦を改装したインディペンデンス級軽空母、貨客船や商船を改装した護衛空母(補助空母、特設航空母艦)などが 、代表例である。
 概要
 剣埼型潜水母艦として竣工した「剣埼」
 空母改装後「剣埼」から「祥鳳」に改名
 航空母艦という艦種が出現する以前、第一次世界大戦においては既存の軍艦や商船を小改造して水上機を運用することが行われ、やがて本格的な水上機母艦が出現した。航空母艦の開発も水上機母艦の延長線上にあり、他艦種の改造から始まった。 ワシントン海軍軍縮条約の結果、飛行甲板を備えた「航空母艦」の定義が定めらる。同軍縮条約では規定枠内において巡洋戦艦や戦艦を空母に改造することが認められたが、いずれも排水量に基づく容積と本来の艦種における高速力が艦上機の発着に有利であったためである。これらは海軍の主戦力と認められ、機動力に優れることから当初から空母として建造されたものとあわせて艦隊空母(正規空母)とも呼ばれる。 その一方で、平時には貨客船として、有事には徴用したのち簡易的な航空母艦仮装巡洋艦へ改造しようという機運もあり、こちらは補助空母、改装空母特設空母などと呼ばれる。
 日本海軍において航空母艦とは、軍艦としての航空母艦と、特殊艦や商船を改造した特設航空母艦に大別されていた[14]。これは軍縮条約における空母の保有制限に端を発する。ワシントン軍縮条約においては制限外とされた排水量1万トン以下の補助空母(軽空母)を増勢する目論見は、ロンドン条約において制限の対象となったことから、空母「龍驤」1隻で終わった。 日本海軍は、開戦後に短期間で空母に改造できる特殊艦を保有したり、空母改造を前提とした貨客船を民間に保有させるというアイデアへ転換した。言い換えれば平時から条約制限内の空母として公表できるものが「正規空母」であり、戦時における空母の増勢を図ることを秘匿しつつ平時から条約制限外の「改造元」として予め軍艦あるいは商船を建造し、かつそれを空母へ改造したものが日本海軍における「特設航空母艦」となる。
 第二次世界大戦の直前から戦時中にかけて、航空戦力不足を補うため、あるいは短期間で空母を取得することを意図して他艦種や商船等を航空母艦に改造することは、枢軸国や連合国の双方で計画され[注釈 10]、いくつかの事例で具現化した。 第二次世界大戦の開戦後にアメリカ海軍やイギリス海軍では多数の護衛空母が就役した。これらは商船を改造あるいは商船の線図を流用したことで知られるが、実際に完成している商船や貨物船から改造工事を行ったものは初期の艦で(イギリス海軍のオーダシティ、アメリカ海軍のロング・アイランドなど)、ほとんどの艦は建造途中で護衛空母に切り替えられるか、新規の護衛空母として建造された。護衛空母は高速力の発揮はできなかったが、カタパルトを装備することによって大型機の運用にも耐え、また低速であるがゆえに高価で製造に手間のかかる大出力が不要であることも大量建造に有利に働き、戦争に勝利する原動力とも評された。
 一方大日本帝国海軍では、空母改造を前提にした潜水母艦に加えて、建造に際して補助金を交付した商船(浅間丸級、新田丸級、あるぜんちな丸級など)からの改造艦で劣勢な空母戦力を補うことを意図したが、カタパルトの開発に失敗したことも相まって商船としては高速であっても大型化する艦上機を運用するには速度が不十分であることから期待した戦力とするには足らず、実際に改造された春日丸級特設航空母艦(大鷹型航空母艦)3隻は、航空機輸送などに用いられることとなった。 隼鷹型航空母艦(飛鷹型)2隻は橿原丸級貨客船を出自とするが、艦隊型軽空母として建造されたコロッサス級よりも大型、高速であり、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍空母機動部隊にとって、貴重な戦力となった。隼鷹型(飛鷹型)は正規空母として扱われることもある。
 艦種を変えず艦体の一部を改造して航空機運用能力を付けたものは別の通称があり、航空戦艦(Battleship - Carrier)、航空巡洋艦(ゴトランド、最上など)と呼ばれる。
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