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2024年11月21日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「司法はもはや「物事の理非で決着がつけられる世界」ではない…日本のヒエラルキー的官僚組織の「深い闇」
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。
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残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。
裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。
『絶望の裁判所』 連載第16回
『“裁判所所長”による「法律」も「憲法」も無視したパワハラ…日本中に蔓延する“問題の大きい管理者裁判官たち”の実態』より続く
正義を失いつつある日本の司法
判事補時代の最後のころに、後に最高裁判事になられた、そして、私の知る限り最もすぐれた最高裁判事であった大野正男弁護士から、次のような言葉を聴いたことがある。
「瀬木君ね。司法は小さいと思うでしょう?全体として、小さな、狭い世界ですよ。でもね、そうはいっても、今の日本で、情実や力に関係なく、物事の理非で決着がつけられる世界は、もしかしたらここしかないかもしれないんですよ」
はしがきに記した「大きな正義とささやかな正義」に通じる言葉だが、日本の司法においてそれが実現される余地は残念ながら徐々に小さくなりつつあるのではないかというのが、私の率直な感想である。
かつて、倉田卓次という有名な学者裁判官がいた。私より30年余り年上で、思弁的SM小説『家畜人ヤプー』の著者ではないかということで一時一般的にも話題になった方である(もっとも、御本人は否定されている)。この方も、晩年に、「判決も論文も私的な文章も書けるという後輩は30年ぶりです。がんばって下さい」といった内容の、私を励ます手紙とメールをいくつも下さった。『対話としての読書』(判例タイムズ社、2003年)という書物に収めた私の文章のいくつか、また、創作『映画館の妖精』(騒人社、1998年)を高く評価して下さったことを懐かしく記憶している。
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
日本のヒエラルキー的官僚組織の『深い闇』
この方は、もちろんその本質においては繊細であったと思うが、外面的には、きわめて個性的、積極的、豪快で、一見するとおとなしそうにみえる私などとは違って、議論も論争も派手にやった。当然、裁判官の中には、彼をきらう人や嫉妬する人も多かった。それでも、倉田さんは、61歳で身体をこわして公証人となるまで、みずからの意思で裁判官を続けた。エッセイを読むと、色々不快なこともあったようだが、裁判官という職業には最後まで満足されていたように思われる。
しかし、その30年後、外からみれば倉田さんよりははるかに普通の裁判官にみえたに違いない、また、研究、執筆についてはかなり先鋭であっても、裁判実務においてはおおむね良識派のレヴェルを守っていた私は、裁判所、裁判官に絶望し、40代の終わりから転身を考えざるをえなかった。
正直にいえば、アメリカの裁判官であればまだしも、日本のヒエラルキー的官僚組織において官僚裁判官を務めるのは、学者肌の私には、元々無理があったのかもしれないと思う。私が徐々に研究、執筆に打ち込むようになった経緯と、私が徐々に組織から締め出されていった経緯とは、明らかに照応しているからである。
しかし、一方、裁判所が少しずつ悪くなっていったという時代の流れもまた、否定できないように思われる。キャリアシステムの中で育ち、かつてはそれに一定の愛着をも抱いていた私が、本書で論じるとおり、法曹一元制度をできる限り早期に実現するための基盤作りに着手すべきだと考えを変えるに至った一番の理由は、もはや、現在の裁判所に、ピラミッド型のキャリアシステムに、そして、それに馴れ切ってしまった多数派の裁判官たちに、制度の自浄作用を期待することは到底無理ではないかという現実認識による。
『事務総局の方針に意見を述べただけで「不利な人事」…良識派ほど上に行けない、裁判所の腐りきった「実態」』へ続く
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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11月21日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「事務総局の方針に意見を述べただけで「不利な人事」…良識派ほど上に行けない、裁判所の腐りきった「実態」
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。
残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。
裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。
『絶望の裁判所』 連載第17回
『司法はもはや「物事の理非で決着がつけられる世界」ではない…日本のヒエラルキー的官僚組織の「深い闇」』より続く
裁判所における人事の実情
キャリアシステムにおける裁判官上層部人事の実情について分析しておこう。
良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない。しかし、企業であれば、上層部があまりに腐敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用がはたらく。ところが、官僚組織にはこの自浄作用が期待できず、劣化、腐敗はとどまるところを知らないということになりやすい。だからこそ、裁判所のような、国民、市民の権利に直接に関わる機関については、こうした組織の問題をよく監視しておかなければならないのである。また、だからこそ、裁判所の官僚組織からの脱却、人事の客観化と透明化、そして法曹一元制度への移行が必要なのである。
私が若かったころには、裁判官の間には、まだ、「生涯一裁判官」の気概があり、そのような裁判官を尊敬する気風も、ある程度は存在したように思う。また、裁判官の中の最多の部分、中間層には、少なくともていねいに、誠実に仕事をするという長所があったと思う。さらに、裁判官の中には、確かに、品性のある、紳士の名に値するような人物もかなり存在したと思う。
しかし、2000年代以降の裁判所の流れは、そのような気概や気風をもほぼ一掃してしまったように感じられる。現在、マジョリティーの裁判官が行っているのは、裁判というよりは、「事件」の「処理」である。また、彼ら自身、裁判官というよりは、むしろ、「裁判を行っている官僚、役人」、「法服を着た役人」というほうがその本質にずっと近い。
「先月は和解で12件も落とした」、「今月の新件の最低3割は和解で落とさないときつい」などといった裁判官の日常的な言動に端的に現れているように、当事者の名前も顔も個性も、その願いも思いも悲しみも、彼らの念頭にはない。当事者の名前などは、はしがきにも記したとおり、訴訟記録や手控えの片隅に記された一つの「記号」にすぎず、問題なのは、事件処理の数とスピードだけなのである。
{日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。}
出世できない裁判官とは
そのような裁判官の姿勢から、困難な法律判断の回避や和解の強要といった日本の民事裁判特有の問題、あるいは、令状、ことに勾留状の甘過ぎる発布や検察官追随姿勢が生み出す冤罪等の日本の刑事裁判特有の問題が生じてくるのは、あまりにも当然の結果である。
「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について、数年のうちにリベラルな人々が何となく姿を消していき、全体としてみるみるうちに腐っていったという話を聞きます。国レヴェルでもそうなのですから、裁判所という組織が全体として腐っていくのは、よりありうることだろうと思います」
というある学者のコメントが、2000年代以降の裁判所の状況を的確に表現しているように思われる。
現在の人事の状況についてある程度具体的に論じてみたい。まず、多少なりとも個性的な裁判官、自分の考え方をもちそれを主張する裁判官、研究を行っている裁判官は、高裁長官にはなれない(高裁長官は全国に8名。最高裁判事に次ぐポストである)。たとえ、上昇志向が強く、大筋では裁判所組織の要請に従い、むしろそれを主導してきたような人物であってさえもである。具体的な人選をみていると、そのことが非常によくわかる。
判決や論文等でそれなりの(つまり、最高裁が暗黙の内に公認している方向とは異なった)意見を表明してきたような人物であると、それ以前に、たとえば所長になるのが同期のほかの人間より何年も遅れ、一つの期について相当数存在する所長候補者の間で最後に回される、あるいは所長候補者から外されるなどの形で不利益を被ることになる。
自らの意見を述べるだけで不利な扱い
また、同等のレヴェルのポストにある人物について露骨に差を付けるといった、過去にはあまりみられなかった不自然な人事もある。私のよく知っているある期(司法研修所修了の「期」)の東京地裁民事と刑事の所長代行に関する人事を例にして説明しよう。一方は裁判官としての実績があり弁護士からもかなり評価されている人物、一方は追随姿勢で取り立てられた中身に乏しい人物であった。
ところが、最高裁判所事務総局に対しても自分なりの意見を述べていた前者が遠方の所長に、後者が東京近辺の所長に、それぞれ異動になったのである。この人事については、民事訴訟法学者の間からさえ奇妙だという声が聞かれた。これは一種の見せしめ人事なのであるが、「事務総局の方針に意見など述べず黙って服従しないとこうなるぞ」という脅しの効果は絶大である。なお、「事務総局に逆らうと」といったレヴェルの問題ではないことに注意していただきたい。先の人物も、ただ、「自分の意見を述べた」だけであり、ことさらに逆らってなどいない。
私は、現在の裁判所は一種の柔構造全体主義体制、日本列島に点々と散らばる「精神的な収容所群島」(なお、『収容所群島』は、旧ソ連の作家ソルジェニーツィンによる、強制収容所に関するドキュメント、ノンフィクションのタイトル)となっていると考えるが、その一つの現れがこうした事態である。自由主義、個人主義、個人の意見、創造的な研究、飾り物の域を超える教養、もっといえば、事務総局に対して単に意見を述べること、「そうした事柄自体がけしからん。そういう奴らが憎い」というところまで落ちてしまっているのである。
それでは、裁判所における上層部人事のあり方全般はどうであったか?
私の知る限り、やはり、良識派は、ほとんどが地家裁所長、高裁裁判長止まりであり、高裁長官になる人はごくわずか、絶対に事務総長にはならない(最高裁判所事務総局のトップであるこのポストは、最高裁長官の言うことなら何でも聴く、その靴の裏でも舐めるといった骨の髄からの司法官僚、役人でなければ、到底務まらない)し、最高裁判事になる人は稀有、ということで間違いがないと思う。
そんなことはないだろうと思う方は、もしも弁護士や学者のように裁判官の知り合いがいる人であれば、自分の一番信頼している裁判官や元裁判官を選んで、「本当のところどうなんですか?私を信頼して教えて下さいませんか?」と尋ねてみるといい。大筋同様の答えが返ってくるのではないかと思う。
『人間味のある人物はたったの「5%」…最高裁判事たちの知られざる「人物像」に迫る』へ続く
{日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。}
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