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・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
近代的小国家であった日本が、近代的大国の清国(中国)とロシアに辛勝できたのは、最先端技術である電信の軍事転用と軍事輸送鉄道の完成による。
つまり、近代日本は巨大軍事国家の清国とロシアとの戦争に勝つ手段・勝つ方法を真剣に考え行動した。
近代日本における戦争の危機は、江戸時代後期から始まっていた。
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日本の近代化は、ロシアの軍事侵略から天皇・国・民族を守る為の軍国主義政策であった。
侵略される危機は、江戸時代後期から始まっていた。
軍国日本の大陸進出とは、侵略を大陸で防ぐという積極的自衛戦争であった。
戦争を覚悟していた昔の日本人と、軍事・軍需・軍用・戦争に反対する平和ボケした現代日本人とは、全然違う。
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2024年10月17日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】大量輸送の重要性に目覚めた日本~極東に触手を伸ばす大国ロシアの脅威に対抗する~
明治5年(1872)10月14日に、日本で初めて新橋~横浜間に鉄道が開業した。それを記念して以後、10月14日は「鉄道の日」と制定される。開業当時の横浜駅(現在の桜木町駅)の全景。
日清戦争を体験した日本は、近代戦では兵站の優劣が勝敗を分けることを、身をもって学んだ。当初陸軍では、鉄道の利用価値は日本列島に上陸してきた敵に対して、部隊を展開するためにあると考えられていたのだ。
対外戦争を経験した日本は、部隊だけでなく大量の物資を集積場まで迅速に輸送することが不可欠だということを知る。そのため東海道線では、日清戦争後も引き続き改良工事が進められた。
中でも輸送力の向上につながる複線化には力が注がれ、交通の難所である関ヶ原も、明治33年(1900)に複線化。こうして日露戦争開戦までに、東海道線の7割以上が複線化されている。
だが戦争への備えを急ぎ、複線化を推し進めた結果、広軌(こうき/1435mm・国際的には標準軌)を導入すべきという意見は棚上にされた。トンネルの改良工事が必要になるためだ。こうして日本の鉄道は、1067mmの狭軌(きょうき)が固定化されてしまう。
東北方面の路線は、日本鉄道が上野~青森間の東北線を明治24年(1891)に全通させていたが、福島から青森へ至る線(奥羽線)の建設が急がれていた。だが福島と青森の間が全通したのは、日露戦争の講和会議が開かれている頃であった。そのため、東北からの兵員輸送はもっぱら東北線が担っている。
明治維新以来、開拓事業が進められてきた北海道は小樽、旭川、室蘭各地と札幌を結ぶ路線は、官民を合わせれば日露戦争までには運行が始まっていた。函館と小樽を結ぶ線は開戦時には間にあっていなかったものの、当初危惧された、ロシア軍の北海道上陸という事態は起こらなかった。旭川の第7師団から函館に派遣された大隊も、鉄道で室蘭まで移動した後、徒歩で函館に向かったという程度で、大きな影響は起きていない。
三国干渉により日本が遼東半島の領有権を放棄した後、ロシアは1896年に清国と「露清密約」を締結する。これは日本が再度清国に攻撃を仕掛けてきた際、ロシアが盾となる見返りに清国は満州の権益をロシアに与える、というものだ。その密約の一環として、ロシアは1898年に旅順と大連を租借。旅順に太平洋艦隊の基地を置いた。さらに旅順までの鉄道敷設権も入手する。
日本は日清戦争に勝利したことで、朝鮮を属国としていた清国を朝鮮半島から排除。アメリカ人実業家モーリスが権利を獲得していたが、建設が頓挫していた京城(当時は漢城・現ソウル)と釜山間の鉄道敷設権を、渋沢栄一らが明治31年(1898)に譲り受けた。そして渋沢らは明治34年(1901)に京釜鉄道を設立し、工事を着工する。この鉄道は建設中に日露戦争が勃発したため、一部の河川をフェリーでつなぐなどして、明治38年(1905)には暫定ながら全線開通させている。
その頃の清朝政府は腐敗しきっていた。そのうえ列強から侵略され、国が分裂する危機に見舞われていた。また諸外国から安い商品が大量に流入したことで、農民の生活は完全に行き詰まってしまう。さらにキリスト教徒が我が物顔で布教する行為に、多くの民衆が怒りを覚え排外的な気運が高まった。
こうした不満を抱えた民衆や破産した農民らは、義和拳(ぎわけん)という反キリスト教の秘密結社と結び付き勢力を拡大する。清国政府の守旧派も義和拳を弾圧しきれないと判断し、逆に列強に対抗させるため農民の自衛組織である団練(だんれん)に組み込み、名称も義和団と改称させた。
こうして半合法化された義和団は、華北一帯に波及し、遂には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃した。ここに至り日本、ロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアの8カ国が連合軍を形成し、義和団を鎮圧した。この時、連合軍の主力となったのは日本とロシアであった。
日本軍の目覚ましい働きぶりは欧米列強から高く評価された。だが、極東に食指を伸ばすロシアは警戒心を強めた。ロシアは義和団の完全な鎮圧を口実に満州全土を占領。日英米はこれに強く抗議した結果、ロシアは撤兵を約束。ところが期限を過ぎても居座り続けるどころか、駐留軍を増強していた。
ロシアの勢力が極東地域で拡大ことを危惧したイギリスは明治35年(1902)、日本との同盟に踏み切った。こうして日本は、イギリスという大きな後ろ盾を得たのであった。
野田 伊豆守
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2024年8月6日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】鉄道に目をつけたプロイセン王国─普仏戦争は日本の鉄道建設に多大な影響を与えた─
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第1回】
野田 伊豆守
昔から戦争は、さまざまな技術を進歩させると言われている。産業革命により生み出された鉄道も、例外ではなかった。その機動力に目をつけ、いち早く戦争活用に成功させたのが、普仏(ふふつ)戦争におけるプロイセンであった。
明治初期の列車。蒸気機関車は国鉄の前身である鉄道院に在籍していた160形蒸気機関車。明治5年(1872)に日本で鉄道が開業するにあたり、イギリスから輸入された5形式10両の中の1形式。京浜間の主力機関車だった。
明治2年(1869)、成立して間もなかった明治政府内で、鉄道や通信の建設に関する論議が起こった。その時は政府高官の誰ひとり、鉄道を軍事利用することなど考えていなかった。その翌年、新橋〜横浜間の建設工事が決定したことで、イギリスから建設師長としてエドモンド・モレルが招聘される。その際にモレルは大隈重信(と伝えられている)に、ゲージ(線路の幅)をどうするか尋ねた。大隈は「幅が広いと建設費がかさむ。日本は狭いし贅沢はできないから狭いゲージで十分」と答えた。こうして日本の鉄道は、3フィート6インチ(1067mm)で建設されることになった。
普仏戦争当時のフランス兵。フランス軍は常備兵で構成されていたので、徴兵制のプロイセン軍より動員は早かった。しかし最前線まで距離が近かったにもかかわらず、鉄道の輸送力が貧弱で、移動にはプロイセン軍よりも時間がかかってしまった。
ちょうど同じ時期の1870年7月、ヨーロッパで普仏戦争が勃発した。これはドイツ統一に邁進していたプロイセン王国と、その障害となっていたフランスとの間に起こった戦争である。戦争が始まる前、プロイセンは参謀総長モルトケ(大モルトケ)の命で、戦争に使えるように国内の鉄道を9条に増強していたのである。
この戦争に際して、フランス軍は7月15日から兵の動員を開始していた。一方のプロイセン軍は、翌16日から動員を開始。そして鉄道網をフルに活かし、プロイセン軍38万人が最前線に集結したのが8月3日であった。鉄道を4条しか持っていないフランスは、1日早い動員をかけたうえ、移動距離が遥かに少ないにもかかわらず、集結した兵力は25万人に過ぎなかった。こうした輸送能力の違いも要因となり、普仏戦争はわずか10カ月という短期間でドイツ帝国(1871年1月18日に成立)が勝利した。
プロイセン陸軍は、当時ヨーロッパで唯一参謀本部を有していた。参謀本部は作戦を立案するだけでなく、兵站や通信など戦争全般を指導した。プロイセン軍はヘルムート・フォン・モルトケ元帥(大モルトケ)と参謀本部が戦争を指揮した。
明治11年(1878)、山県有朋(やまがたありとも)が参謀本部長に就任すると、普仏戦争の結果を受け鉄道を軍事利用することを強く意識し始めた。さらに明治18年(1885)、ドイツ陸軍を模範とするために、モルトケ参謀総長が推薦してくれたメッケル少佐を教官として招聘。明治20年(1887)には「鉄道論」が天皇に上奏された。
これは「鉄道は戦時輸送に配慮してルートを決める」ということと、さらに「単線の鉄道は軍事輸送に不適切」という2点が骨子となったものであった。補足で「軍用列車は広軌で機関車は馬力が強く、客車は兵士の個人装備も積める構造に」と記されていた。
明治維新の功労者でもある山県有朋は、ドイツに倣って参謀本部を創設し、初代参謀本部長に就任している。第1次伊藤博文内閣では内務大臣を務めている。東西交通の要となる路線建設では、初め中山道案を推した。
写真:国会図書館蔵
当時の日本には、軍隊を海外に派遣する思想はなかった。日本に攻め寄せてきた敵軍を、東京湾の入口など主要な場所に建設した要塞で迎撃する、という考えだったのだ。そのため外国の軍隊がどこかに侵攻して来た際、鉄道網を使い防衛軍を素早く展開することを一番に考えていたのである。
そのためにも大動脈となる関東と関西を結ぶ鉄道整備は、焦眉(しょうび)の急とされていた。加えて参謀本部では、大量輸送に向いた広軌を希望した。また陸軍は、敵艦の艦砲射撃や破壊工作に晒(さら)される恐れがある海沿いのルートにも反対であったため、内陸部を通る旧中山道沿のルートを要望している。
しかし山岳地帯を通すには、莫大な予算と時間を要してしまうため、鉄道建設の責任者であった井上勝(いのうえまさる)は、総理大臣の伊藤博文に中山道から東海道へのルート変更を訴えた。参謀本部長から内務大臣となっていた、山県の説得も願い出ている。財政難は政府全体が抱える問題なので、内務大臣の山県にも責はある。鉄道建設の緊急性を考慮し、山県も妥協せざるを得なかった。
こうして中山道案は東海道案に変更され、明治22年(1889)7月1日に新橋〜神戸間が全通した。その頃、日本は朝鮮半島の主権を巡り、清国との関係が悪化し始めていた。奇しくも開通したばかりの鉄道が、すぐさま戦争の帰趨(きすう)を左右することになるとは、思ってもいなかったのではないだろうか。
井上勝の父は萩藩士で、若い頃には伊藤博文らとイギリスへ密航。ロンドン大学で鉱山・土木工学を習得している。明治政府ではおもに鉄道建設に関する仕事を担っていたため、「日本の鉄道の父」とも呼ばれている。
写真:国会図書館蔵
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8月20日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【鉄道と戦争の歴史】間に合った「東海道本線全通」─日清戦争の勝敗を左右した輸送力
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第2回】
野田 伊豆守
明治22年(1889)7月1日、念願であった東西交通、東海道本線新橋〜神戸間が全通した。鉄道は国内の人や物の移動を飛躍的に高める目的に加え、有事には軍の人員や軍需品を素早く移動する目的を果たすことが期待されたのである。
明治維新後、急速に近代化を進めた日本軍はすでに武士の時代とはまったく違う戦い方を見せた。号令に合わせ一斉射撃を行う兵士は、ほとんどが職業軍人ではなく、徴兵により各地から集められた一般人だった。
東海道本線が全通した頃、日本は朝鮮半島の主権を巡って清(しん)国との関係が悪化していた。そうした情勢から、路線はさらに西へと延伸しなければ中途半端なものになってしまうと考えられた。ところが財源の関係で、山陽線は官設では敷設が難しかった。結局、神戸から先は民間が出資して設立した、山陽鉄道会社の手により建設されたため、政府の鉄道局はあまり関与できなかったのである。
民間資本の場合は利益重視のため、線路は難工事となる山間部を避け海岸線に敷設された。そして明治24年(1891)には尾道、明治27年(1894)6月10日には広島まで開通する。日清戦争はその年の7月25日に開戦、兵員は広島まで鉄道で移動し、宇品港から朝鮮へと渡ることになった。そのため広島と宇品港を結ぶ線も急遽敷設された。
本線では、品川と横浜付近で改良工事が行なわれている。どちらの駅も、先へ進むには進行方向を変える必要があった。そこでいちいち機関車を付け替えていたのでは非効率なので、品川駅や横浜駅を経由せず、まっすぐに東海道線を西進できる線を陸軍が建設したのだ。これらの線は戦後、鉄道庁に移管されている。
日本軍の勝利を描いた錦絵。両軍の軍服や装備の違いがよくわかる。さらに日本軍側には新聞社の特派員が戦場を取材している様子も描かれている。
一方、東北方面は政府の手厚い援助を受けていた日本鉄道が、明治17年(1884)8月20日に上野から前橋の路線を開業。さらに明治24年(1891)9月1日、今の東北本線に相当する上野から青森の間を開通させている。こうして日清戦争が開戦した時には、青森から広島まで、本州を縦貫する鉄道が完成していた。そのため東北方面から兵員を輸送するのに、大きな力を発揮してくれた。
九州には多くの民営鉄道が敷設されていたが、これらは筑豊(ちくほう)や大牟田(おおむた)の炭鉱から産出した石炭を、門司や博多などの港湾へ輸送する役割を果たしていた。そのため、出征兵士を港湾まで輸送するのにも役立った。
そして開戦から1カ月半後、大本営は広島に移された。明治天皇も、広島城跡に設けられた御座所に鉄道で出向いている。
日清戦争が開戦する前に、大動脈となる国内の鉄道網が整備されたことは、戦争の帰趨(きすう)に大きな影響を与えた。近代化された軍隊を素早く移動させることができた日本軍は、陸の戦いにおいてまず9月15日に平壌を陥落させた。9月17日には黄海海戦が起こり、日清双方とも大きな侵害を受けてが、清国の北洋艦隊のダメージはより大きく、以降は黄海における清国艦隊の戦力は大きく低下した。
黄海海戦における連合艦隊の旗艦となった防護巡洋艦「松島」。清国海軍が誇る新鋭戦艦「定遠」や「鎮遠」に対抗するために建造された。口径の大きな32cm単装砲(カネー砲)を装備していたのが特徴であった。
さらに10月24日に日本軍は鴨緑江(おうりょくこう)を渡河して、清国内に進撃。さらに第2軍による遼東半島上陸作戦も行われ、明治27年内に旅順をはじめとする清国の拠点は、次々と日本軍に攻略された。明治28年(1895)になっても日本軍の優勢は変わらず、3月20日になると下関において講和会議が始まる。そして4月17日に「日清講和条約(下関条約)」が結ばれ、日本の完全勝利で戦争は終結した。
その条件のひとつに「清国は遼東半島を日本に割譲する」というものがあった。ところが4月23日になると、ロシア帝国とドイツ帝国、それにフランスの三国が遼東半島を清に返還するように勧告してきた。これは三国干渉と呼ばれるもので、主導国はロシアであった。ロシアは極東進出を画策していて、そのために不凍(ふとう)港を求めていた。日本が遼東半島を領有すると、南満州の海への出口を失ってしまうことになる。さらに日本が満州へ進出して来ることも恐れたのである。
まだロシアに対抗する国力がなかった日本は、やむなく勧告を受諾することにした。この一件により、日本国内では弱腰の政府に対する批判が高まった。政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉にして、民衆の不満をロシアへの敵愾心(てきがいしん)に転嫁していったのである。
フランスの挿絵画家ジョルジュ・ビゴーが描いた風刺画。日本と清国(中国)が釣り上げようとしている魚(朝鮮)を、橋の上から眺めているロシアが横取りしようとしている絵。「漁夫の利」と解説されることもあった。
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