🍠20〗─2─日本人女衒は15歳娘を中国人富豪に売っていた。からゆきさん。~No.61No.62 

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 歴史を教訓として学ぶとすれば、日本は昔でも現代でも非人道的にブラックである。
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 日本人のからゆきさん、ジャパゆきさん、娘子軍慰安婦
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 歴史教科書は朝鮮人慰安婦を記載しても日本人「からゆきさん」は切り捨てている。
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 現代日本人のエセ保守やリベラル左派は、朝鮮人慰安婦には同情するが、日本人の慰安婦、からゆきさん、ジャパゆきさんには同情しない。
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に商品として輸出していた。
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 2024年9月23日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「 「無恥な父母を持ったのが不幸だ」15歳娘を中国の富豪に売り飛ばし…“からゆきさん”にまつわる残酷な真実
 小池 新
 〈 “田舎の貧しい少女”をだまして誘拐→海外で売春させ…「国辱」といわれた“日本人女性密航事件”のおぞましい手口 〉から続く
 「からゆき」とは元々、日本から海外への出稼ぎ者全体を指す、九州の一部で使われた言葉。それがいつからか、東南アジアなどの現地で娼婦として働いた女性の総称として定着した。その大半は、貧しい生活の中で親たちから売られた女性たちだったといわれる。一体、彼女たちはどのようにして海を渡ったのか。故郷をはるか離れた異郷の地で、何を目にしたのか――。
 文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の4本目/ はじめ から読む)
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 1917(大正6)年のインドネシアをはじめ、各地で日本の在外公館と植民地政府の協議のすえ、「廃娼令」が出されるようになった。「からゆき」の一大拠点だったシンガポールでも1920(大正9)年10月、山崎平吉・総領事が脅迫を受けながら女性たちの追放を断行した。
 「しかしながら、一片の廃娼令によって在南邦人社会の先陣を切った『からゆきさん』が、一夜にして忽然と消えたわけではない。中に帰郷した者、あるいはヨーロッパ人や富裕な華人(中国人)に連れ添った者もいたが、多くは南洋の地に留まり、さまざまな形で『営業』を続けざるを得なかった女性(密娼)の方が一般的であった」=後藤乾一『日本の南進と大東亜共栄圏』。
 「密航婦」を題材にした小説がいくつも出版された
 1936年、鮫島麟太郎の小説『からゆきさん』が週刊朝日の懸賞小説に当選。この間にも「密航婦」を題材にした読み物小説がいくつも出版された。翌1937年、木村荘十二監督、入江たか子主演で映画化され、主題歌「からゆきさんの唄」も歌われた。しかし、戦時色が濃くなる中、「からゆき」の存在はやがて人々の記憶から薄れていった。
 雑誌「太陽」の創刊者で政治家の坪谷善四郎は『最近の南洋』(1917年)でマレーシア・サンダカンの墓地を訪れたときのことをこう書いている。
 マレーシア・サンダカンの日本人墓地 ©時事通信社
 © 文春オンライン
 〈200坪(約660平方メートル)ばかりの日本人墓地は、100余りの墓の主が大抵女で、古きは土まんじゅうばかり、そうでなければ木の標柱に風雨に打たれて文字の定かでないものが多い。
 中で最も新しいのを見れば、高さ2尺(約60センチ)ばかりの細い四角の杭に「大日本廣(広)島縣(県)甲奴郡吉野村(現府中市)小塚71 只宗トヨ 行年19歳」などと書いてある。累々たるこれらの墓は、いずれも熱帯の瘴癘(しょうれい=伝染性の熱病)に触れて盛りの花を散らしたのかと思えば、心の持ち方とはいいながら、この同胞のやまとなでしこに、おもむろに同情の感が切々と湧き上がる。〉
 「英語学校に入る」と信じシンガポールに渡った1人の少女
 長くシンガポールで開業していた医師の西村竹四郎は、「からゆき」たちを診療することも多かった。その1人の政代、通称「まあちゃん」のことを『在南三十五年』(1936年)で印象的に描いている。
 〈まあちゃん(政代)は、それはそれは丸顔の愛くるしい、あどけない小娘であった。彼女の両親は、3歳の時まあちゃんを姉の養女にやって、郷里丸亀(香川県)からこの南洋に渡ってきたのだ。
 彼女の父親というのは人品卑しからぬ温厚らしい人であり、母親は縫い物にいそしんで生計を立てていた。時には(自分の)医院の用事も手伝ってもらった。彼女の両親は考えた。「国に残した女の子は今年15になる。姉から取り戻して連れてきたのなら、女の子だから玉の輿に乗るようなことでもあれば、自分たちは左うちわで暮らせる――」。そこで、相談のうえ、母親が国に帰り、姉と仲たがいまでして無理に娘を引き取り、当地へ連れて来たのである。
 まあちゃんはこの地に着くと、すぐわが家を訪ねて来た。十分に伸びそろわぬ髪に赤いリボンを付け、みずみずしく美しい容貌にあふれるような愛嬌をたたえ、紫の袴をはき、学校道具をそろえ、「ここの英語学校に入るために来た」とうれしそうに語る。彼女は本当にそれを信じているらしい。「かわいそうに。おまえの背後には悪魔が毒牙を磨いている。無恥な父母を持ったのが不幸だ」と心は暗然としないわけにはいかなかった。〉
 まあちゃんはやがて中国人の富豪の息子に見初められて「妾」となり、父母も同居して、思い通りになったように見えたが、彼女の運命はそれに留まらなかった。悪性の病気に感染して西村医師の手術を受け、その後、「赤い友禅に細帯姿で媚(こび)を売りに出た」。やがてスマトラ島に渡ってコーヒー店を経営。金を稼いでシンガポールに戻ってきたが……。
 「世を諦めて死んだ」
 1921(大正10)年6月14日、「政代が世を諦めて死んだ」。西村は「可憐な花であったが、風雨に傷められ、悩まされ、ついに泥土に托すに至ったのは痛ましい」と次のような詩を作って追悼した(要旨)。
 〈新嘉坡(シンガポール)へ来たのは 叔母さんの家から英語學(学)校に入る為めと 彼女の小さい行李*には 教科書だけが這入(入)つてた
 繼(継)母の云ふ(言う)叔母さんとは 有名な女郎屋のミセス
 彼女は海老茶の袴を脱ぎ 赤い友禪(禅)(を)まとひ
 白粉に涙かくして 異国人を迎ふ(う)る身となつた
 處(処)女の誇りも自尊心も 路芝のごと蹂躙(ふみにじ)られて
 流れてメダンに入つた時 少女の心は
 茨(バラ)の棘(とげ)のように尖つてた 神(神)を恨み又自分を恨んだ
 彼女は吐息を毒瓦斯(ガス)と化し すべての人を殺さん事を願つた
 彼女の胸の焰(炎)は生物を煆(や)き盡(尽く)さんと祈つた
 木の香も高い墓標の上を 名も無い鳥が啼き
 護謨(ゴム)の枯葉が 音もなく落ちた
 あゝ「まあちゃん」よ お前の名を呼べば 涙がとめどなく流れる〉
 *行李=竹や柳で編んだ箱形の物入れ。旅行にもっていく荷物などを指す
 「からゆき」にまつわる多くの言説
 「からゆき」にはさまざまな形態があり、多くの言説もある。研究者の中には「彼女たちはだまされ、汽船の船底の石炭倉に隠れて東南アジア方面に密航したといいならわされてきた」が「これらは神話であって、事実ではない。虚構である」とする見解=倉橋正直『従軍慰安婦公娼制度』(2010年)=もある。
 「ほとんどの場合、彼女たちは外地で売春をして稼ぐことをあらかじめ承知して出かけていった。長崎港から合法的に出入国した」、「密航はたしかにごく少数、例外的に行われた」と同書は言う。
 山室軍平も「中には石炭の中に隠れて密航するものもないではないが、これは極めて少数で、大部分は官憲も見て見ぬふり、大目に通してやるのである」(『社会廓清論』)としている。ただ、既に見たように、日本政府は密航や「醜業」目的の渡航の取り締まりを繰り返し命じている。
 「売春を承知していた」といえるのか
 さらに、例えば #2で触れた「伏木丸事件」 が発覚した直後の1890(明治23)年4月13日付鎮西日報には「海外密航者の数」という記事が載っている。
 長崎県梅香崎警察署と同署出島分署による同年1月1日から4月10日までの海外密航の人員は梅香崎署が男20人、女49人。出島分署が男12人、女44人の計125人。件数でいえば梅香崎署8件、出島分署3件の計11件だった。3カ月余でのこの数字をごく少数といえるかどうか。それに森崎和江『からゆきさん』には12歳の少女も売られたことが出てくるし、もっと幼い子もいたはずだ。それで「売春を承知していた」といえるのだろうか。事実の解明は今後の研究に委ねるしかない。
 「廃娼令」からも1世紀余り。「からゆき」は遠い存在になったが、その根底に広がっていた貧困と女性に対する差別、冷遇はなくなったといえるのだろうか。 
 【参考文献】
森崎和江『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)
山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(筑摩書房、1972年)
伊東忠太建築文献編纂会編『伊東忠太建築文献第5巻』(龍吟社、1936―1937年)
▽吉川利治編『近現代史のなかの日本と東南アジア』(東京書籍、1992年)
加藤久勝『甲板に立ちて』(海文堂書店、1926年)
▽金一勉『日本女性哀史 遊女・女郎・からゆき・慰安婦の系譜』(現代史出版会、1980年)
村岡伊平治村岡伊平治自伝』(南方社、1960年)
▽村上信彦『明治女性史下巻』(理論社、1972年)
▽北野典夫『天草海外発展史 下』(葦書房、1985年)
▽山田秀蔵『ビルマ讀(読)本』(寶雲社、1942年)
矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)
▽藤田敏郎『海外在勤四半世紀の回顧』(教文館、1931年)
▽南洋及日本人社編『南洋の五十年』(南洋及日本人社、1937年)
山室軍平『社会廓清論』(警醒社書店、1914年)
▽後藤乾一『日本の南進と大東亜共栄圏』(めこん、2022年)
坪谷善四郎『最近の南洋』(博文館、1917年)
▽西村竹四郎『在南三十五年』(安久社、1936年)
▽倉橋正直『従軍慰安婦公娼制度』(共栄書房、2010年)
▽『ドキュメント日本人第5(棄民)』(学芸書林、1969年)
木村健『近代日本の移民と国家・地域社会』(御茶ノ水書房、2021年)
 (小池 新)
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