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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
・昭和4年の米
前年からの持ち越し、784万石。
生産高、6,030万石。
輸入量、127万石。
移入量、763万石。
供給量、7,705万石。
消費量、6,946万石。
人口、6,316万人。
戦前日本は、慢性的食糧不足で、東南アジア諸国から外米を輸入し台湾や朝鮮から植民地米を移入し、満州や中国から大豆などの農産物とアメリカ・オーストラリア・カナダから小麦などの穀物を輸入していた。
日本国内で売られていたパン用の小麦は、全て外国からの輸入であった。
つまり、日本は大正時代から食糧輸入国で、食糧は在米日本資産である米ドルで購入していた。
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昭和初期の農村は、好天気による大豊作で豊作飢饉と異常気象による大凶作で凶作飢饉になって困窮を極めていた。
政党、政治家は、世界恐慌からの回復の為に経済対策を優先して地方救済を後回しにした。
日本の軍国主義の実体は農村にあった。
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2024年9月17日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実【昭和の暴落と恐慌】
1930(昭和5)年、山形で撮影。世界恐慌による価格低下と冷害凶作が重なり娘を売る農家も
第1回【「とうとう銀行が破綻しました」蔵相の失言が取り付け騒ぎの引き金に…それでも当の銀行幹部が「笑みを浮かべた」は本当か】のつづき
【写真】世界恐慌の濁流に飲まれた日本…混乱を見事に鎮めた蔵相とは?
8月に起こった日経平均株価の乱高下。2008年9月15日のリーマン・ショックをはじめ、株価の暴落はこれまで何度も起こっているが、中には大恐慌という“地獄”への号令となった例もある。「世界的な大恐慌は再来する」という主張が以前から見受けられるだけに、何がその引き金になるのか、投資に熱心ではない層も気になるところだろう。
本シリーズでは、昭和初期の日本が見舞われた恐慌と暴落を振り返る。第一次世界大戦後、日本を襲った恐慌は戦後恐慌と震災恐慌、昭和金融恐慌、世界恐慌の4つ。そのうち1929(昭和4)年の世界恐慌は、日本で昭和恐慌とも呼ばれる。世界的に見てもいまだに過去最大とされるこの恐慌は、米ウォール街の株価暴落が引き金だった。
ただし識者によれば、当初の日本は暴落を「あまり深刻に受け止めていなかった」という。そのはずがなぜ、街に失業者があふれ、農村から少女の姿が消え、国民が食うや食わずの生活を送る羽目になったのか。
(全3回の第2回:「週刊新潮」2008年10月23日号より「ドキュメント『大恐慌』1929年の日本」をもとに再構成しました。文中の年代、役職、年齢などの表記は掲載当時のものです)
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未曽有の世界大恐慌の幕開け
昭和初期に日本が見舞われた世界大恐慌とは、果たしてどんなものだったのか。まず、1927(昭和2)年の「昭和金融恐慌」が、日本には伏線として存在していた。
「当時の片岡直温蔵相の失言をきっかけに、東京渡辺銀行が休業に追い込まれ、昭和金融恐慌が起きた。2年後の1929(昭和4)年は、まだその傷跡が完全には癒えていなかった」(高木勝・明治大学政治経済学部教授)
そして、その1929年の10月24日木曜日、ニューヨークの株式市場は12.8%の下落率を記録。突然の惨劇に自ら命を絶つ者も続出したという、のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれることになる日を迎えたのだ。未曽有の世界大恐慌の幕開けであった。
「当時、米国は第一次世界大戦の敗戦国・ドイツに投資していましたが、株価暴落のためそれをやめます。結果、ドイツの銀行が次々に破綻。イギリス、北欧諸国にも広まり、その影響がまた米国に逆流していき、世界が大不況になっていったのです」(日本近現代史学者の中村正則・一橋大学名誉教授)
この濁流に日本も飲み込まれていったのだった。
深刻に受け止めていなかった日本
1929年の日本の政治情勢は、4月に共産党員一斉検挙、前年の張作霖爆殺事件の処分に関連し7月、田中義一内閣が総辞職。新たに「男子の本懐」で有名な浜口雄幸内閣が誕生したが、12月には思想対策の強化を図るため、憲兵司令部に思想研究班が編成されるなど、1931(昭和6)年の満州事変へと続く道をひた走っていた。
経済に目を向けると、発足した浜口内閣は、金解禁による、国際金本位制への復帰を志向する。すなわち、世界経済への門戸開放、多くの国民もこれに賛同し、金解禁を歓迎する空気に包まれていた。実際、1929年10月26日付の朝日新聞は「暗黒の木曜日」を、 〈ニューヨーク株式市場大混乱〉と報じているものの、米英の利下げを受けて、
〈総ての意味で日本へは好影響 大蔵当局談〉(同年11月2日付朝日新聞、以下新聞引用は同紙)
とする紙面から、さほどの切迫感は伝わってこない。
「ウォール街の暴落のニュースが日本に届いた時、最初、日本はあまり深刻に受け止めてはいませんでした。景気循環の波に従って米国経済の長期好況が終わり、その反動がやってきただけ、という程度の認識だったんです」(『金融崩壊』の著書があるノンフィクション作家の塩田潮氏)
デフレ不況で失業地獄
しかし、翌1930(昭和5)年1月11日、金解禁が実施されると、
「『荒れ狂う暴風雨に向かって雨戸を開け放した』と評され、デフレ不況に陥っていきます。何十万人もの失業者が溢れました」(前出の中村名誉教授)
確かに、年が変わると、次第に庶民の生活が困窮していく様を綴った記事が増えていく。まずは、深刻な就職難について。
〈校門を出る若人に暗い影さす就職難 官庁も会社も皆人減らしに〉(1930年1月25日付)
〈珍業「大学出のくづ拾ひ」高女出も交るこの失業地獄〉(1930年6月25日付)
1914(大正3)年生まれで、世界大恐慌発生当時、中学生だった猪木正道・京都大学名誉教授(93)が振り返る。
「私と2歳違いの叔父は、京都大学の前身である三高を出て、恐慌後に就職をしました。しかし、就職難で希望の会社に入れず、やむなく外資系の会社に入社したんです。そこでの過労、そして栄養失調もあったのでしょうか、ほどなく亡くなってしまいました」
また、1918(大正7)年生まれで、日本画家の堀文子氏(90)も、当時の学生就職事情を身近で実感していた。
「私の父は歴史学者で、中央大学の教授を務めており、我が家にも学生さんがたくさん来ておりました。そのため、大学を出てもどこにも就職できないと、学生さんが騒いでいたのをよく憶えております。世の中、とにかく不景気、不況で、私の従兄弟も就職が決まらないと困っておりました」
涙で語る失業苦難、大東京はかく無情
庶民生活が逼迫の度を深めていった1930年。経済の雲行き同様、4月に統帥権干犯問題が起き、11月には浜口首相が右翼青年に狙撃され、政治の世界も、きな臭さをいや増していくばかりだった。
ちなみに、小津安二郎監督の名作映画「大学は出たけれど」が封切られたのは、小林多喜二の『蟹工船』の発表と同じこの前年、1929年のことである。
就職難が生じている世相であれば、当然、失業者も町に溢れる。
〈職も無く食も尚無く 涙で語る失業苦難 押寄せた登録者三千名突破 大東京はかく無情〉(同年5月20日付)
〈あはれな行倒れ 失業して三日間食へず 帰国しようと駅まで出て〉(同年6月7日付)
〈仕事と言つて家は出たが……月島海岸にうさを晴らす失業者〉(同年6月27日付)
勤め人に限らず、商売人とて厳しい生活を強いられていたのには変わりない。同年5月号の「文藝春秋」は、「不景気の真相」と題された記事の中で、ある葬儀のこんな証言を紹介している。
〈随分立派な葬ひを出して置いて、夜逃げする人がある〉
隣の声が壁越しに聞こえる長屋に転居
1919(大正8)年生まれで、東洋大名誉教授の岩井弘融氏(89)の夜逃げ目撃談。
「当時、私は佐賀県の唐津におりましたが、親類の者が近くで小さな銀行をやっており、私もよく遊びに行っていました。ある時、その銀行に大勢の人が集まり、ワイワイと騒いで行列を作っているのを、私は見ております。農家の方やサラリーマンが押し寄せ、取り付け騒ぎになっており、子供心にもその光景は脳裏に焼きついています」
そして銀行を経営していた岩井氏の親類は、
「いくらで買い取ってもらっても良いからと、銀行の跡地を私の父親に押し付け、宮城県の仙台まで、夜逃げ同然に慌ただしく引っ越していきました」(同)
さらに、1918(大正7)年生まれで、東大名誉教授の大田堯氏(90)は、ご本人が家を追われる体験をしたと語る。
「恐慌ではっきり記憶に残っているのは、親父が破産したことです。広島県内の村に住んでいたのですが、親父は地元の紡織関係の会社に株主として投資していました。その会社が恐慌で潰れ、広かった家屋敷も含め、我が家の家財道具まで差し押さえられて、ベタベタと赤札を貼られていった。それを母親が辛そうに見ていたのを憶えています。その後、一家で、隣の声が壁越しに聞こえる大阪市内の裏長屋に移り住みました」
兄弟で少ないご飯を競い合って食べた
再び、当時の新聞に目を戻すと、
〈夜逃げの親達を小学校へ来て探す 米屋や酒屋に脅かされる児童 行方不明の転校続出〉(1930年6月21日付)
さらに農村でも、悲惨な光景が繰り広げられていた。
〈牛乳の飲める子は 百人にタツタ三人 思ひの外な全国農村の惨状〉(同年6月7日付)
〈廿六ヶ村の農民代表 我等を救へ と各省歴訪〉(同年7月11日付)
〈泣くに泣かれぬ 青物のメチャ取引 牛車一台に積んで僅か十円〉(同年7月21日付)
1918(大正7)年生まれで、現在、名古屋で機械加工会社の会長を務める山口義正氏(90)は、農家の9人兄弟の4番目で、
「とにかく粗食だったな。両親は朝早くから夜遅くまで実によく働いたが、カツカツの生活で、兄弟で少ないご飯を競い合って食べるのを、親は悲しげに見ていた」
また、前出の岩井氏の記憶では、
「満州事変(1931年)の頃、『農業恐慌』だと、新聞で騒がれていましたね。特に東北地方で、多くの欠食児童がいて困り果てているだとか、多額の借金を抱えて、ついには娘さんを身売りに出さざるを得ない困窮に喘いでいたとか」
「一村の少女全部が姿を消す」との報道
実際、当時の紙面にはこうある。
〈娘の身代金で 官地を払ひ下ぐ 一村の少女全部が姿を消す 山形県奥地の悲劇〉(1931年10月30日付)
〈『青春のない村』囚人以下の生活 死線にあえぐ 娘売る山形の寒村〉(同年11月12日付)
他にも、1932年2月号の「中央公論」に掲載された、作家の下村千秋氏による、その名も「飢餓地帯を歩く」と題したルポには、青森のある村の老婆の、こんなもの悲しい囁きが紹介されている。
「実は今日は、娘を、青森市のごけ屋(私娼の家)へ置いて来たのです」
このルポが発表された同年、やはり小津監督は名作を世に放っている。「生れてはみたけれど」――。
前出の塩田氏によれば、「暗黒の木曜日」で深刻化した日本の不況は、金輸出再禁止を受けて終焉に向かい始めた。
「1931年末、犬養毅内閣下、高橋是清蔵相主導で金輸出再禁止が決定されたことから収拾に向かい始めました。その高橋によって、第二次大戦以前での日本経済最良の時期と呼ばれた35年を迎えることになります」
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第3回【戦後の大衆を巻き込んだ空前の“株ブーム”に冷や水 「スターリン暴落」を予測した“伝説の相場師”が明かす「読者よ、退却の時機は近づいた」の舞台裏】では、日経平均株価の下落率が初の「最大」を記録した1953(昭和28)年3月の「スターリン暴落」を取り上げる。戦後復興と朝鮮戦争の特需による好景気を打ち砕いた暴落だったが、たった1人、これを“予測”した人物がいた――。
デイリー新潮編集部
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2024-01-08
🍙目次〗─5─昭和。飢餓状態の日本は海外で必要な食糧を確保する為に戦争を引き起こした。〜No.1 *
2018-03-08
🍙7〗─2─太平洋戦争の原因は昭和5年~16年までの人口爆発と食糧緊急輸入に対するアメリカの経済制裁であった。~No.23No.24No.25・ @ ③
2024-03-01
🍙20〗─2─戦時中、国内の労働不足を補ったのが日本人の女性と子供、朝鮮人若者であった。〜No.90No.91
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @
2018-04-22
🍙22〗─7─食糧・エネルギー・原材料を自給自足できない持たざる国・日本の戦争犯罪。川口稔『昭和陸軍全史』。No.133No.134No.135・ @ ⑧
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1929年 農耕地の48%が小作地であった。
日本農家の3分2が小作農か自小作農(主に自前の耕地で自作をしながら小作もする人)である。
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ソ連・コミンテルンによる27年テーゼ、32年テーゼ。
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