🐡13〗─1─日本の巨大災害と在日外国人犠牲者の悲惨。〜No.47No.48No.49 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 外国人は、何故、日本が治安が良いのかそのわけを知らない。
 現代の日本人は、日本が治安が良い理由を忘れている。
 日本の治安は、憲法や法律で守られているのではなく、昔ながらの古い日本ルールである同調圧力・場の空気に支配されていた。
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 被災地では、英語・中国語・韓国語などの外国語は通用せず、言葉の壁で日本人と外国人の関係は悪化し、日本人を信用し協力する外国人は助け合えるが、日本人を信用せず敵意を見せる外国人とはトラブルが発生する。
 日本人にとって、数百万人が死亡し、数千万人が被災し、数十万人が災害関連死する中で、日本人被災者を助けずに数十万人の外国人被災者を特別扱い・外人枠の特権を与えて優遇する事はできない、むしろ好まない事を強要する、人権団体や差別反対主義者が偏見だ差別だと批判しても、災害が収まるまでは避難所で顧みるゆとりはなどはない。
 被災者を助けるにおいて宗教やイデオロギーは被害・犠牲者を拡大するだけで、有害であり邪魔であった。
 それ故に、日本民族は食べて生き延びる為に宗教やイデオロギーを持たない。
 その面で、日本は冷酷で薄情である。
 日本人・朝鮮人・中国人を惨殺した関東大震災の再演が起きる危険性がある。
 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本ルールである同調圧力・場の空気て生き延びてきた。
 帰化人は受け入れ、渡来人は拒否した。
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 2024年6月13日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「日本はとても良い国だと思う。でも…」外国人記者が語った日本の“悲しさ”とは?
 多くの犠牲者を出した東日本大地震だが、実は「外国人被災者」の報道は国内でほとんどされていない。誰にも知られることのなかった外国人被災者について、日本人記者が取材した。今回は、パキスタン人のトラック運転手についてお伝えする。※本稿は、三浦英之著『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』(新潮社)を一部抜粋・編集したものです。
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● パキスタン人からの突然の電話 「震災で亡くなったのは友人だ」
 「東北地方でパキスタン人が亡くなったというのは本当か?」
 私のスマートフォンに突然、パキスタンのテレビ局でリポーターをしているという男性から連絡が入ったのは、宇都宮の出張から戻って数週間が過ぎた頃だった。
 私は彼の意図がすぐにはのみ込めなかった。彼の英語が若干聞き取りにくいものであったことに加え、彼が「私はパキスタン人のラシッド・サマドです」と最初に自らの国籍と本名を名乗ったことにも若干の違和感を覚えた。なぜ私の携帯電話の番号を知り得ているのかも不審だった。
 しかし、警戒しながらしばらく会話を交わしていると、その電話の内容が彼の一方的な勘違いであることが徐々にわかってきた。サマドと名乗る男性の説明によると、彼は私が宇都宮出張の際に訪問したモスクの関係者から「どうやら東北でパキスタン人が亡くなったらしい」との情報提供を受け、私の名刺に書かれた携帯番号に電話を掛けてきたらしかった。
 「違う」と私はサマドの情報を否定した。
 「私が捜しているのは最近亡くなったパキスタン人じゃない。12年前に東日本大震災津波で亡くなったパキスタン人です」
 「12年前の津波で?」
 「そうなんです」と私は言った。
 「実は東日本大震災津波パキスタン人が一人亡くなっている。場所はわからないのだけれど……」
 「それは俺の友人だ」
 えっ、と今度は私が驚く番だった。
 「あなたはサレーム・モハメド・アヤズを知っているのですか?」
 「もちろんだ」とスマートフォンの向こう側で声が言った。
 「アヤズは俺の親友だ。津波で亡くなったとき、彼の葬儀にも出席している」
 「葬儀も行われたのですか?」
 「ああ、坂東市のモスクでね。100人を超えるパキスタン人が参加して、彼の遺体に別れを告げた」
 私は突然飛び込んできた情報をうまく整理することができないまま、気が付くと、「もし可能ならば、詳しく話を聞かせていただけないでしょうか?」とスマートフォン越しに取材を申し込んでいた。
 「まあ、良いけれど……」と少し沈黙があってサマドが応じた。
 「俺も忙しいから、短めに頼むよ」
 私は面会取材を希望した。もともと電話取材を是としていない、時間を取ってもらって面会し、人間関係を作ってからでないと、うまく質問ができないタイプの取材者なのだ、と彼に電話で説明をした。
 「わかったよ」とサマドはスマートフォン越しに笑って言った。
 「報道関係者ってのはどこも同じだな。時間を作ってしっかり対応するよ。でも、なんだか不思議な気分だぜ。俺が取材をしようと思って電話を掛けたのに、逆に取材を受けることになるなんてな……」
● 思い違いからかけた電話 それが被災者へとつながった
 久しぶりに訪れた東京都荒川区は、私がかつて東京で勤務していた約20年前とそれほど変わっていなかった。新築のタワーマンションの林立により空の線こそいくぶん変容しているものの、足元には中小の工場群が軒を重ね、小型トラックがエンジンをうならせて裏路地を通り抜けていく。その騒々しさと排ガスのにおいは、未来永劫変わらないこの町のアイデンティティーであるようにも思えた。
 駅前のスーパーに入ると、「最安値!」と手書きされた札が野菜売り場のあちこちに貼り出され、大勢の女性客らが忙しそうに手を伸ばしている。昭和的ともいえる風景の中には、少なくない数の東南アジア人や南アジア人の親子連れが紛れ込んでおり、見慣れた下町の風景に新たな活気を生み出していた。
 スーパーの駐車場で待ち合わせたサマドは、上背が185センチ以上もある50代後半のパキスタン人だった。黒のジャケットに身を包み、声が極端に低いので、若干威圧感があるが、短く雑談を交わした後はお互いメディア業界で働く者同士、すぐに打ち解けた関係になった。
 「いやあ、本当に申し訳なかったね」とサマドは最初に英語で謝った。
 「モスクの知人から『東北でパキスタン人が亡くなった』って聞いたものだから、慌てて電話を掛けてしまって。でも、もしそれが『日本人の記者が津波で亡くなったパキスタン人を取材で探しているので協力してほしい』という話だったら、おそらく電話はしなかったと思うな。君もそうだと思うけれど、ほら、俺たち、忙しいからさ」
 私は小さく笑って頷きながら、彼に取材に応じてくれたことへの感謝を伝えた。
 彼が案内してくれたのは駅から十数分ほど離れたタワーマンションの高層階だった。彼はそこをオフィス兼住居として使っているらしく、窓からは薄曇りの東京の下町の風景を一望することができた。ローテーブルの上には南アジア産のナツメが置かれ、リビングには中東のペルシャ絨緞が敷かれている。
● 「日本は時間の流れが速すぎる」 パキスタン人記者の思い
 インタビューはその南アジア風のリビングの床にお互い向き合って座りながら実施することにした。彼は時折、大型テレビから流れるパキスタンのニュース番組に目をやりながら、私の質問に日本語と英語のミックスで答えた。
 「この国で一人の命が失われたのに、ほとんどの日本人がそれを知らない。それはあまりに悲しいことだと、俺はこの国で暮らしながら時々、外国人の一人として思うんだ」
 取材の冒頭、彼は私ではなく、床の上に据えられた録画用のデジタルカメラを見つめながら言った。
 「日本はとても良い国だと思う。世界的に見ても平和だし、治安も維持されている。でもね、ここで暮らしていると時折、あまりにも悲しくなるというか、時間の流れがちょっと『速すぎる』と感じるときがあるんだよ」
 サマドへのインタビューはそんな少し棘のある言葉のやりとりから始まった。
 サマドがパキスタンから日本にやって来たのは1980年代だった。1989年まではパキスタン人にはビザの免除措置があり(以後は停止)、当時は多くの若者がパキスタンから日本に渡ってきていた。
 彼を含めた多くのパキスタン人にとって、当時の日本は世界でも経済成長が著しい、マルコ・ポーロが記した「黄金の国ジパング」そのものだった。パキスタンの高級店で売られている電気製品はどれもがソニー、カシオ、パイオニアであり、街中の道路はトヨタ、ホンダ、日産の車で溢れかえっていた。
 学生時代に父親からヤシカのカメラを買ってもらったサマドも、やがて日本行きを夢見るようになった。メイド・イン・ジャパン──それは高級品の証であり、輝ける未来を約束する神話でもあった。
 サマドは知人を頼って来日した後、関東近郊の印刷会社や中古車販売会社などを転々としながらお金を貯めるために必死に働いた。その際、埼玉県越谷市で開かれていた中古車のオークション会場で、同年代のパキスタン人とよく顔を合わせるようになり、親しくなった。
 それがラホール出身のサレーム・モハメド・アヤズだった。
 ひょうきんでいつも笑顔を絶やさないアヤズは、周囲を笑わせるのが大好きな青年だった。爽やかで誰からも好かれるお調子者。何度か一緒に食事をするうちに、すぐに携帯電話で中古車の情報をやりとりするようになった。
 その後、サマドはパキスタンのテレビ局と契約し、リポーターの仕事を請け負うようになった。大使館が開催する交流イベントの運営にも携わり、それを映像におさめて祖国へと送る。取材や編集には膨大な時間を必要としたが、パキスタン人にとって憧れの国である日本の姿を祖国の視聴者に伝えられる喜びは、彼にとって何物にも代えがたい経験だった。
● トラック配送中に被災したパキスタン人 記者は支援を呼びかけ続けた
 そんなリポーターの仕事を始めて数年が過ぎた春の日に、あの震災は起きた。
 2011年3月11日。
 サマドは東京都港区のパキスタン大使館で職員とイベントの打ち合わせをしていた。地球の地軸が突然傾いたのではないかと思えるほどの激震に大使館のパキスタン人スタッフはパニック状態に陥ったが、日本人職員の誘導によってなんとか近くの公園に避難することができた。
 以来、混乱の日々が長く続いた。大使館には国内外から日本にいる約1万人のパキスタン人の安否を問う電話が殺到し、大使館員は不眠不休で対応に当たらなければならなかった。
 国民の9割以上がイスラム教徒であるパキスタン人は、日本の各地に点在するモスクを中心にコミュニティーを形成している。間もなく、ほとんどの在住者の安全がモスク経由で確認されたが、安否のわからない人が何人かいた。
 そのうちの一人が親友のアヤズだった。震災当日はトラックの運転手の仕事を請け負っていたらしく、大使館には職場から「アヤズさんが東北地方に配送に行ったまま、帰って来ていない」との連絡が寄せられていた。
 震災から約10日後、一通の連絡が入った。
 「福島県の沿岸部で、パキスタン人とみられる遺体が見つかった」
 すぐさま大使館のスタッフとアヤズの顔を知る茨城県坂東市のモスクの関係者が現地に向かい、遺体がアヤズであることを確認した。
 数日後、坂東市のモスクでは「アヤズの死を悼む会」が催された。100人以上のパキスタン人が集い、祖国から遠く離れた異国の地で命を落とした同胞の死を深く悼んだ。
 サマドはその際、パキスタンのテレビ局から葬儀の様子をカメラで撮影し、本国へと送る仕事を請け負った。同胞たちが棺に納められたアヤズの顔を拝み、別れを告げていく。でも、彼はいつも笑っていた親友の顔をどうしても見ることができず、人々が棺の中をのぞき込むシーンだけは撮影することができなかった。
 そのとき、サマドは初めて気づいた。「報道」というものは、人に見せたいものを見せる「娯楽」ではない。むしろ人に見せたくないものを撮影し、その事実を伝えるための「装置」なのだ、と。
 同胞を失い、悲しみに暮れるパキスタン人たちは、その日のうちに「今、日本のために何ができるだろう」と話し合い、できる限りの救援物資を集めて被災地に送ることを決めた。
 パキスタン本国からはすでにたくさんの水や牛乳、ビスケットや毛布、子どもたちのためのノートやクレヨンが送られてきていた。2005年にパキスタン地震が起きた際、日本の救援隊が支援にかけつけてくれたことを多くの国民が覚えていたのだ。
 東京で暮らしている同胞に呼びかけたところ、1日で100万円を超える義援金が集まった。サマドをはじめとするパキスタン人たちは本国からの支援物資を4トントラックに積み込んで、福島県宮城県などの避難所を回った。
 各地でカレーやケバブを作って被災者に提供し、彼はその映像をパキスタンのテレビ局へと送り、日本へのさらなる支援を呼びかけ続けた。
 三浦英之
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