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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の樹木は海の外から侵入してくる病虫害に襲われて立ち枯れ、生命力と繁殖能力の高い外来種樹木は生息環境に適応し日本固有の在来種樹木の生息地域を奪い、駆逐し、増殖して、日本の環境を破壊し自然を作り変えていく。
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古代から、猛毒を持った害虫・細菌・ウイルスは中国や朝鮮から日本に侵入し、日本全国へ感染を広め、パンデミックによつて夥しい日本人の命を奪っていた。
歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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2024年5月25日9:50 YAHOO!JAPANニュース 埼玉新聞「大調査の結果を公表、被害は832カ所に 中国や朝鮮半島から侵入か 特定外来生物クビアカツヤカミキリ「さらなる対策必要」 発生市町村は6年で4倍以上
被害を受け根元にフラスが散らばる県北の桜=2023年11月(県環境科学国際センター提供)
桜などの樹木の枯死を招く特定外来生物クビアカツヤカミキリの拡大に歯止めがかからない状況となっている。県環境科学国際センター(埼玉県加須市)は、県民から情報提供を募る「クビアカツヤカミキリ発見大調査」の2023年度の結果を公表。人気の花見スポットがある川越市や北本市など13市町で新たに被害が報告され、県内の被害箇所数は22年度の約1・4倍の832カ所に増加した。
被害が報告された県内市町村は22年度より14カ所多い36市町。報告が多かったのは熊谷市(153カ所)や本庄市(97カ所)、草加市(90カ所)。新たに報告された市町の中で最も多かったのは嵐山町(20カ所)だった。川越市と秩父市では、幼虫が排出する「フラス」ではなく、成虫のみがそれぞれ1カ所で確認された。一方、前年度に成虫のみ1カ所で確認された滑川町では、23年度は37カ所に拡大した。
何が起きた?!憩いの水辺に異変 古代蓮、今年は「全滅」 川越・伊佐沼、特定外来種の食害原因か
クビアカツヤカミキリはもともと中国や朝鮮半島、ベトナムに生息し、日本には輸送資材に紛れ込んで侵入したとみられている。桜などバラ科の樹木の樹皮に卵を産み付け、幼虫は木を食べながら侵入する。ふんや木くずが混ざったフラスが根元に積もり、被害の目印となる。
食害が進行した樹木は枯死する場合がある。防除には、成虫を見つけたらすぐに補殺することや、農薬の注入、成虫の拡散防止のため樹木にネットを巻き付けるなどの方法がある。同センターは新たに被害が報告された市町と連携して現地での確認や防除を検討するという。
県民から情報提供を受け付ける発見大調査は2018年度から行われ、今回で6回目。成虫が発生し、被害が増える6~8月に行われた。被害が報告されたのは18年度に8市だったが、6年間で4倍以上となった。
同センターの担当者は「一般の人からの報告なので、見つかっていない被害が出ている可能性もある」としつつ、「被害が広範囲に及んでいることは確か」と説明。「ネットでの防除では対処が追いつかない。補殺を含め、さらなる対策を考えなくてはならない」と危機感を強めている。今年も大調査の実施を予定しており、期間中以外でも被害を発見した場合は写真や場所などの報告を求めているという。
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2023年9月6日 YAHOO!JAPANニュース 埼玉新聞「サクラの名所がピンチ! 埼玉・久喜で新たに68本の食害被害を発見 高校生らスマホ・SNS活用で発信も
クビアカツヤカミキリの被害について発表する高校生=2日午後、埼玉県久喜市菖蒲町のショッピングモール「モラージュ菖蒲」
埼玉県久喜市清久町でサクラの名所として知られる清久工業団地内のサクラの木計68本にクビアカツヤカミキリによる被害が出ていたことが分かった。市内在住の高校生13人が調査、発見し、2日、結果を発表した。
ワークショップは市、日本大学が連携し「次世代を担う若者に市の環境情報を届けたい」(同大学理工学部田島洋輔助教)と6月から実施したもの。環境への関心を促そうと取り組んだ調査によって、逆に自治体が大規模な被害を知ることにつながった。
クビアカツヤカミキリが食害したサクラ、ウメ、モモなどの樹木は枯死や倒木の危険を伴う。県内では、2013年以降、被害が拡大し、自治体が被害の発見、報告を呼びかけている。
ワークショップでは、生徒が大学生とともに地域の環境問題について学習。7月下旬、実際に清久地域で、クビアカツヤカミキリの被害について調査した。
生徒は、被害木やクビアカツヤカミキリの成虫、排出する糞(ふん)と木くずが混ざった「フラス」などを多数発見。スマートフォンで計205枚の写真データを撮影した。それまで複数箇所の被害しか認められていなかった地域で、新たに68本の被害木を確認した。スマートフォンの位置情報機能を使い、被害マップを作成した。
2日、市内のショッピングモールで開かれた発表会で、生徒は「清久さくら通り」沿いに被害木が集中していると調査結果を発表した。交流サイト(SNS)を通じて情報を発信したことも報告。「今後は継続的に調査し被害抑制を図りたい。調査ボランティアを募り、現地調査の質的向上を目指したい」とまとめた。
ワークショップに参加した県立久喜北陽高校の増田渉太郎さん(17)は「普段見ているサクラが危ない状況で守りたいと思った」、同久喜工業高校の渋井優輝さん(17)は「ワークショップに参加し情報を共有することが大切」など感想を話した。
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2021-01-10
🎍2〕─1─倭国大乱(弥生の大乱)は気候変動で食べ物がなくなったからであった。環濠集落は城。146年〜189年。~No.2
2021-03-23
🎌2〕─1─万世一系の男系父系天皇は心柱論。世界最古の法隆寺五重塔。〜No.2No.3No.4
2022-01-16
🎍16〕─3─聖徳太子の第1回宗教改革とは日本の仏教国家化と仏教寺院の総合病院化であった。~No.48
2024-01-22
🎍25〕─2─6世紀半ばに感染症「天然痘」は朝鮮から日本に伝来した。『古事記』『日本書紀』~No.76
2021-03-29
🎍29〕─2─聖武天皇は自然災害の「責めは予(われ)一人にあり」との詔を宣布した。自然災害は神の天罰。~No.91
2018-04-21
🗾2〕─2─日本民族日本人は、性善説ではなく、性悪説でも性強説でもなく、気弱・軟弱・ひ弱な性弱説である。~No.5No.6No.7 @
2018-07-16
🎍29〕─1─天平9(737)年の疱瘡(天然痘)大流行(パンデミック)。死屍累々の死の島国日本。~No.90 @
2023-11-30
🎍29〕─3・B─奈良時代に100万人以上が病死した経済を回復させたのが『墾田永年私財法』である。 ~No.92
2024-04-22
🎍45〕─2─天然痘で平安時代の人口の30%前後が死亡。正暦4年(993)。~No.142
2024-05-04
🎍45〕─3─平安時代の深刻な衛生問題。平安京は不潔で疫病が蔓延していた。~No.143
🎍45〕─1─平安時代は魔界の時代で、都大路には無数の死体が転がる地獄であった。安倍晴明。~No.141 @
2024-02-06
🏹4〕─2─鎌倉時代に日本総人口の3分の1が死に絶えた。寛喜の大飢饉と念仏宗教。〜No.9
2021-11-21
🏹14〕─1─感染症と災害、飢饉、元寇に苦しんだ武家政権の鎌倉時代。〜No.35No.36No.37
2020-01-30
🏹8〕─1─末法の地獄から日本を慈悲仏教で救おうとした鎌倉新仏教。~No.20・
2020-06-16
☱6〕7〕─1─日本は朝鮮の疫病感染爆発を封じ込め朝鮮人の生命を守っていた。〜No.12No.13
2020-06-27
💖5)─5─日本人は朝鮮人やアイヌ人を感染症から救っていた。江戸時代。~No.18No.19No.20No.21
2020-05-08
☱9〕10〕─1─大正8年のコレラ日本陰謀説。英字紙による反日フェイクニュース。〜No.16No.17No.18No.19 ②
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国立公文書館
天下大変
資料に見る江戸時代の災害国立公文書館年表資料一覧ホーム
流行病 飢饉 火災 風水害 地震と噴火
平穏な生活を破壊し多くの人命を奪ったのは、地震・噴火・火災・水害そして飢饉だけではありません。江戸時代にはまた痘瘡とうそう(疱瘡ほうそうとも。天然痘)、麻疹(ハシカ)、風邪(インフルエンザ)等の折々の流行によって、短期間に想像を絶する数の人命が失われました。
天然痘が多数の幼い命を奪い江戸時代の平均寿命を引き下げていた事実はよく知られていますが、インフルエンザも、劣らず猛威を振るっています。享保元年(1716)、江戸の町で流行した風邪はインフルエンザと推定され、ひと月で8万人以上を死亡させたと記録されています。
面白いのは流行の年によって風邪に異なる名が付けられたこと。明和6年(1769)に流行した風邪は「稲葉風」と呼ばれ、安永5年(1776)の風邪は「お駒風」。ほかに「谷風」「ネンコロ風」「ダンホ風」「琉球風」「アメリカ風」というのもありました。江戸の人々は、数年おき(長くても十数年おき)に襲いかかる風邪(インフルエンザ)の流行に異名を与えることで、その悲惨さを記憶に刻もうとしたのでしょう。江戸末期にはコレラという新種も加わります。コレラは安政5年(1858)に大流行し、各地でパニックを引き起こしました。
51. 安政箇労痢ころり流行記51. 疫毒えきどく予防説(『視聴草』続8集の3)
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HITACHI
江戸時代の意外な話
第5回 江戸時代の感染症
新型コロナウィルスの感染症は、3年以上経ってもなかなか終息する気配がない。こうした感染症のパンデミックは歴史上たびたび発生し、多くの人びとの命を奪ってきた。江戸時代も同様で、風邪、インフルエンザ、麻疹(ましん)、赤痢、梅毒といった感染症が波のように何度も襲った。あの5代将軍徳川綱吉も、麻疹によって命を落としている。
ただ、最も致死率が高かったのは天然痘である。当時は疱瘡(ほうそう)や痘瘡(とうそう)などと呼ばれ、多くの乳幼児が犠牲になった。たとえ健康を回復しても、顔にひどいあばたが残ることも少なくなかった。
しかも発症したら、効果的な治療法は存在しない。寛政10年(1633)刊行の志水軒朱蘭(しすいけんしゅらん)著『疱瘡心得草』を紐解くと、「疱瘡にかかったら酢、酒、麺類、餅類、脂っこいものは食べてはならない」といった根拠のない迷信が記されている。
だから人びとは感染しないよう、子どもに疱瘡絵をお守りに持たせた。疱瘡絵とは、鍾馗(しょうき、厄除けの神様)や源為朝といった強い武将を赤一色で描いたもの。疱瘡は疫病神(疱瘡神)がもたらすとされ、武将の絵が厄除けになると信じられていたのである。
だが、19世紀になると、この状況が変わる。1798年、イギリスのジェンナーが、牛にも天然痘に似た感染症(牛痘)があり、感染した牛の膿(牛痘苗)を人体に入れると水疱性の発疹が現れるものの、彼らは決して疱瘡に罹患しないことを知り、牛痘種痘法を考案したのだ。
まもなく日本にもその知識が伝わり、やがて佐賀藩主の鍋島直正が長崎在住の佐賀藩医・楢林宗建(ならばやしそうけん)にオランダ人から牛痘苗を手に入れるよう命じたのである。
そこで、宗建は出島のオランダ商館長に依頼し、嘉永元年(1848)、商館医モーニッケがバタビアから運んできた牛痘苗を子どもに接種したが、水疱は現れずに失敗に終わった。しかし、宗建は諦めず、翌年、今度はモーニッケから痘痂(とうか、牛痘苗でなく瘡蓋〈かさぶた〉)を手に入れ、3人の乳児に接種した。すると、1人に水疱が現れたのである。これが日本初の牛痘種痘法の成功例であり、なんとその乳児は宗建の子・建三郎だった。宗建は次々と乳児に種痘を行い、水疱が現れた子どもたちを痘苗として佐賀へ送った。藩主の直正は領民が接種を恐れぬよう、嫡男の淳一郎に牛痘を接種。これにより藩内では急速に種痘が広まったのである。
長崎ではさらに痘苗の植え継ぎが行われ、越前藩、薩摩藩、水戸藩などに運ばれて多くの領民に接種がなされた。いずれも松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭など名君がいる藩だった。このように藩主のリーダーシップのもと、当該藩の接種が進んだが、例外として幕領である大坂でも、庶民の多くが牛痘を接種した。これを実施したのは、蘭学塾「適塾」を営む緒方洪庵だった。
長崎の痘苗を京都の日野鼎哉(ていさい)や越前の笠原良策が入手したことを知った洪庵は、頼み込んで苗を分けてもらい、大和屋喜兵衛(豪商で薬種問屋)の協力で家を借りて除痘館(じょとうかん、種痘所)を設け、無償で種痘を始めたのである。施設の開所にあたり、洪庵は喜兵衛と日野葛民(かつみん、鼎哉の弟)と3人で「種痘は仁術のため。謝礼を受け取ることもあろうが、個人の利益とせず、仁術を広めるための費用にしよう」と誓いあった。そして、町医者たちにも種痘免状を与え、大坂各地に分苗所(除痘館の支部)をつくらせていった。
だが、しばらくすると、除痘館に人が全く来なくなってしまう。というのも「牛痘を接種すると健康を害する」という流言が広まったためだった。
それでも洪庵は疱瘡の病没者を無くすため、貧しい人びとに米や銭を与えて来館を促したり、各地で種痘の効能を説いたのである。こうした苦労の末、ようやく信用を得ていったのだった。ただ、種痘をさらに広めるには、幕府の公認が必要だと考えた洪庵は、大坂町奉行所に「除痘館を公的な施設にしてほしい」と嘆願した。だが、許可が全く降りる気配はない。それでも彼は諦めず、何十度も嘆願し続けた結果、とうとう除痘館を開いてから9年後の安政5年(1858)に幕府の公認を得られたのである。これにより、除痘館に人びとが集まるようになり、その2年後、除痘館をさらに広い屋敷に移転させた。
幕府はこうした功績を高く評価し、文久2年(1862)に洪庵を奥医師(将軍家侍医)として江戸へ招き、西洋医学所の頭取に任じた。が、残念ながら翌年、洪庵は54歳の若さで亡くなってしまった。「道のため」「人のため」「国のため」。それが洪庵の口癖だったという。
このように江戸時代にも、政治的リーダーシップを発揮した名君や優れた医師が、感染症から多くの人びとを救ったのである。
[河合 敦 記]
参考文献
深瀬泰旦著『わが国はじめての牛痘種痘 楢林宗建』(出門堂)
緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館記録」を読み解く』(思文閣出版)
『御触書天保集成 下』(岩波書店)
酒井シヅ著『絵で読む江戸の病と養生』(講談社)
石島弘著『水戸藩医学史』(ぺりかん社)
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