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大久保利通は「大久保神社」に神として祀られている。
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農林水産省
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安積疏水(福島県)
安積疏水の歴史
安積疏水は、古来より水利が悪く不毛の大地だった郡山の安積原野に、猪苗代湖から湖水を引いた一大事業です。この安積疏水の開削は、明治12年から始まり、日本で初の国直轄の農業水利事業となりました。
当時、日本の技術者として最高位の職にあったオランダ人技術者ファン・ドールンが政府の命で実地調査を行い、その調査の結果から安積疏水の開削実行を政府に決断させました。
そして約3年の年月を費やし、延べ85万人の労働力と、総経費40万7千円(現在の貨幣価値に換算すると約400~500億円)を投じ、明治15年8月、幹線水路の延長52km、分水路78kmに及ぶ安積疏水が完成し、約3,000haの水田が新たに造成されました。
安積疏水は、農業以外にも電力の供給源(日本で最も早い時期の水力発電所「沼上水力発電所」)として利用され、製糸業を発展させるとともに、その後の化学工場の進出をもたらし、現在「経済県都」と呼ばれる郡山の礎をつくりました。
その後、安積疏水は国営新安積土地改良事業(S16~S41)、国営安積疏水土地改良事業(S45~S57)により農業水利施設の増改修及び延伸が行われ、水田約9,570haに用水を供給し、稲作を中心とした県内有数の農業地帯となっています。
また、安積疏水は、那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖-京都市)と並ぶ日本三大疏水の1つに数えられ、疏水百選にも選出されています。
なお、平成28年4月には、猪苗代湖・安積疏水・安積開拓を結ぶストーリー、未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通”最後の夢”と開拓者の奇跡 郡山・猪苗代-が日本遺産に認定されました。
さらに、平成28年11月には、「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
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明治の近代化が成功したのは、日本の価値観を羅針盤として護りながら、西洋から流入した数学による破壊的イノベーションと日本の和算による改善的リノベーションを両輪としたからである。
近代日本の強みは、数学知識であった。
バブル経済・バブル崩壊後の日本と日本人には、明治の近代化を成功させた算術による日本式開拓魂を持っていない。
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暗殺テロを称賛するリベラル左派やエセ保守は、日本民族史における最悪で醜悪な存在である。
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2022年6月12日 Nnipon.com「日本遺産「安積疏水」:不毛の地・郡山を潤した猪苗代の水と開拓者魂
福島県郡山市はかつて、水不足に悩まされ続けた土地だった。明治期の安積疏水(あさかそすい)開削事業によって、猪苗代湖の水が引かれ、今では米や果物の名産地になり、経済的にも発展を遂げたのだ。日本遺産に登録される文化財を巡りながら、そのフロンティアスピリッツに触れる。
不毛の地を潤し、郡山を発展させた安積疏水
福島県郡山市は、東北地方において経済規模で宮城県仙台市に次ぐ2位、人口では仙台、同県のいわき市に次ぐ3位の中核市。農業も盛んで、ブランド米「あさか舞(まい)」を代表とする米の生産量は県内トップで、野菜や果物の産地としても知られる。
しかし、江戸時代までは農作物が育たない“不毛の地”であった。奥州街道の宿駅が置かれたが、当時の地図を見ると、宿場町の周囲には「不毛」と記された土地が広がっている。その理由は、慢性的な水不足。年間降水量は平均約1130ミリと全国平均の3分の2程度で、南北に走る阿武隈川は低地を流れるため、用水路が引きづらかった。そのため、当時は安積原野とも呼ばれた郡山盆地では、作物が育たないどころか、飲料水の確保にすら苦労し、水をめぐって村同士が争うこともあったという。
郡山市西部にある御霊櫃峠(ごれいびつとうげ)から、田園地帯に囲まれた郡山中心地を望む
明治時代に入り、不毛の地を潤し、経済の発展にも大きく寄与したのが、猪苗代湖(標高514メートル)がたたえる清らかな水だ。
郡山中心地から西へ25キロほどに位置するが、水が流れ出すのは西側の会津方面に向かう日橋川だけだった。その水を郡山方向に引く安積疏水は、1882(明治15)年に完成。幹線水路の長さは52キロ、分水路は78キロで、約3000ヘクタールの土地を潤したという。明治後期には、水路の高低差を利用した水力発電所も建造されたことで工業化が進み、郡山の経済成長も促したのである。
現在、安積疏水は琵琶湖疏水(滋賀県-京都市)、那須疏水(栃木県)と共に日本三大疏水に数えられる。2016年には、開拓時の遺構や記念碑を結ぶストーリーが『未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-』として、日本遺産にも登録された。
郡山には南北に東北新幹線と東北自動車道が通り、東西に走る磐越自動車道は東のいわき、西の猪苗代湖や会津若松を結ぶ。県内きっての交通の要所なので、福島観光に訪れる際には、不毛の地を潤した安積疏水の関連施設を巡ってみるのも一興だろう。
江戸時代の安積地方の人々が憧れた猪苗代湖の水。奥に見えるのは磐梯山
安積歴史博物館に展示される安積疏水の模型。左の猪苗代湖から奥羽山脈を抜けて郡山盆地に注ぐ
三穂田町の田園地帯を通る安積疏水の水路
開拓を国家事業にした大久保利通
安積開拓は1873(明治6年)から始まり、岩倉使節団の一員として欧米を視察した福島県令・安場保和の命を受け、県の典事(課長職)だった中條政恒が主導した。開拓の必要性を説いた県の告諭書には「一尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を懇すれば一寸の幸あり」と記されていたという。
地元商人らが開拓組織「開成社」を設立し、江戸時代に郡山を治めた二本松藩の旧藩士19家族が入植。現在の開成山公園辺り(当時は安積郡桑野村)で、かんがい用のため池の整備や西洋農法の導入を進め、200ヘクタール以上の土地を開墾した。
安積開拓時の郡役所だった開成館。安積開拓に関する資料を展示しているが、2021年2月の地震の影響で現在は休館中
郡山市役所の向かいにある開成山公園は、開成社が造った五十鈴湖を中心とする公園。写真は疏水をイメージしたモニュメントで、塔下部には「開拓者の群像」がある
開成山公園にある告諭書の一節が刻まれた石碑
開拓を加速させたのは、安場と共に岩倉使節団に参加し、国の近代化を進めていた内務卿・大久保利通だった。76年、天皇の東北巡幸の下見に郡山を訪れた際、官民一体での開拓に感心したのに加え、中條から安積開拓に関する請願も受け、頭を悩ましていた士族の救済策にすることを思い付く。当時は、廃藩置県によって職を失った元武士が、困窮した末に全国各地で暴動などを起こしていた。広大な安積原野に猪苗代湖の水を引けば、仕事と土地を与えられるので、「士族授産」のモデルケースになると考えたのだ。
政府は78年、オランダ人技術者のファン・ドールンを現地に派遣。調査の結果、安積疏水の開削を国直轄の農業水利事業第1号に決定し、翌年に着工した。そして、地元の二本松藩や会津藩に加え、九州の久留米藩や四国の土佐藩など9藩から、元武士の500家族、2000人が移り住んだ。
この事業に力を注いだ大久保は、調査段階で暗殺されたため、郡山の発展を見届けることはできなかった。
開成山公園の「開拓者の群像」。左から安積開拓の父・中條政恒、大久保利通、ファン・ドールン
開拓者の心のよりどころとするため、1876年に創建した「開成山大神宮」。伊勢神宮の分霊を祭るため「東北のお伊勢さま」とも呼ばれる
「安積野開拓顕彰碑」の台座の石には、左から松山藩、米沢藩、久留米藩、鳥取藩、二本松藩、会津藩、棚倉藩、土佐藩、岡山藩と、開拓に従事した藩の名が刻まれている
電力も生み出して郡山、東京の発展を支える
初めに着手したのは、日橋川への流出口で猪苗代湖の水位を調整する十六橋水門。すでに猪苗代湖の水を利用する会津方面への配慮もあり、流域の洪水を防ぐ役割も持つ水門の建造を優先したようだ。
現在の十六橋水門。大正期の発電所建設時に大規模改修された
猪苗代湖と安積地方の間には奥羽山脈が立ちふさがるため、37カ所ものトンネルを築くなど、工事期間は3年に及び、延べ85万人の労働力、総費用40万7000円(現在の貨幣価値で約400億円)が費やされた。その結果、米の生産量は10倍以上に増え、今では郡山の名産品となったコイの養殖なども始まった。
1899(明治32)年には、安積疏水の落差を利用した沼上発電所が運転を開始。高圧電力の長距離送電に日本で初めて成功したことで、郡山は繊維産業を中心に工業や商業でも発展していく。大正時代には、十六橋水門のある猪苗代湖の西側にも発電所が建設され、東京を中心に関東地方にも電力を供給した。
安積疏水の通水を記念して1882年に築かれた「安積疏水麓山(はやま)の飛瀑(ひばく)」
郡山市と猪苗代町の境にある沼上発電所。現在も電力を供給し続けている
現在も稼働している郡山市と猪苗代町の境にある沼上発電所
郡山に今も宿るフロンティアスピリッツ
明治期の名建築と知られる安積歴史博物館の建物は、「旧福島県尋常中学校本館」として国の重要文化財に指定される。当時、福島県唯一の中学校だったが、桑野村の農民が学校用地と校舎建設の労働力を提供し、1889(明治22)年に福島市から移転した。そうした地域の協力もあって、「開拓精神」が校風として根付いていったという。
旧福島県尋常中学校本館と「安積健児の像」
開拓者への尊敬の念を伝えるのが、十六橋水門近くに立つファン・ドールンの銅像だ。第2次世界大戦における金属類回収令で、学校などの銅像まで壊される中、「恩人の銅像を砲弾なんかにしてはならない」と地元農民が山中に隠したそうだ。その足先には、再設置の際にコンクリートで補強した跡が残っている。
この逸話が1973年、テレビ番組で紹介されたことがオランダにも伝わると「敵国の人間だったのに」と感動を呼んだ。その後、郡山市はファン・ドールンの出身地、オランダのブルメン市と姉妹都市関係を結んでいる。
戦後に通水した新安積疏水などによって、現在の安積疏水のかんがい面積は1万1000ヘクタールに及ぶ。不毛の地を実り多き土地に変えた開拓精神は、今でも郡山の人に流れ、全国から入植者が集まったことで、産業や技術、文化は多様性に富むといわれている。
ファン・ドールン像の足先には、コンクリートで修復した部分が残る
開成山公園にある日本遺産認定の記念碑と水橋のモニュメント
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
バナー写真:猪苗代湖の清らかな水が流れる三穂田町の水橋
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2023年10月31日15:02 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「不毛の原野を肥沃な土地に変えた数学知識―福島に門人2000人の和算塾 : 平和な時代だからこそ旅修行や他流試合
阿部 治樹
明治の文明開化で、日本は西洋に学び、さまざまな分野で近代化が始まった。しかし、数学は江戸時代から独自の発達を遂げ、西洋に劣ることのない高度な水準を誇っていた。コンピューターも電卓もない時代に、大学レベルの数学に学者ばかりでなく、庶民も挑んでいたことは、難問を解いた記念に寺や神社に奉納された「算額」から読み取ることができる。各地に伝わる「算額」の写真をまじえ、女性や子どもも含めた庶民も担い手となり、地方でもレベルの高い研究が進んでいた和算の歴史をたどる。
福島の山里に隆盛を極めた和算塾
佐久間庸軒が主宰した和算塾の入塾誓約書。「他人の失敗を嘲ること」「自分の技量を誇ること」を戒めている(筆者撮影)
福島・郡山駅から車で1時間近く東へ走り目的地に着いた。田村市船引(ふねひき)町石森、山あいに田んぼが広がる日本の山里を代表するような景色の中に、幕末から明治にかけて2000人余もの門下生を擁する和算塾があった。主宰したのは和算家・佐久間庸軒(ようけん)。今も彼の書斎だった建物が残っている。
庸軒は1819年に、この地で和算家・佐久間質(ただす)の息子として生まれた。本名は纉(つづき)。幼少期から父に手ほどきを受け、18~21歳のころには北に約20キロ離れた二本松の最上(さいじょう)流の和算家・渡辺一(かず)に学んだ。
佐久間家はこの地区の有力農家で、父も渡辺一に学び、地域の農家の人たちに算術を手ほどきしていた。庸軒は家業を終えてからほぼ毎日歩いて通い、夜に学んで朝帰る生活を送ったという。そうした父子の和算の伝承と教育が、ここを幕末から明治にかけて日本でも指折りの「和算の聖地」にした。
田村市教育委員会によると、庸軒の編・著による和算の著書・教科書は「和算教授法」や「当用算法」など百数十冊に及ぶ。今で言う問題を解きながら習得する「演習テキスト」のようなものが中心で、四則演算やそろばんの使い方から「√」の開平法、体積の求め方、級数、利息の計算など千数百問が収録されている。
どうした人たちが学んだのだろうか。庸軒の4代目子孫にあたる佐久間求(もとむ)さんが今も現地で農業を営みつつ書斎跡や関係資料を守っている。ご好意で田村市指定文化財になっている入門帳を見せていただいた。多くは船引町や隣の三春町など近隣の農民や商人で、何十人かに一人の割合で女性の名前もある。入門帳は4冊あり、父・質のころからの人数を数えた書き込みがあってその数は2100人を超えていた。
「船引町佐久間庸軒和算保存会」の仲澤市雄氏によると、庸軒の塾は、身分や性別に関係なく広く教育することを目的とした「義塾」で、入門者には学ぶ意志の強いことが求められたという。入門を認められた人は血判を押した誓約書を提出した。そこには誓いのことばとして「師弟の儀を失ってはならず、人の成功や失敗を嘲(あざけ)ることや自分の技量を誇ってもいけない」などが記されている。
安積疏水事業成功の原動力に庸軒門人の測量技師
庸軒は和算の能力を買われて農民から武士になり、三春藩の藩校でも教授役を務めた。明治維新後にも一時期、浜通りを中心とした磐前(いわさき)県の職員として測量にも携わった。教え子たちには後に測量技師になった人物も多い。不毛の地とされた郡山の安積(あさか)原野へ猪苗代湖の水を流す安積疏水事業は、監修役のオランダ人技術者ファン・ドールンが功績者とされるが、庸軒の門人だった伊藤直記らも入念な現地測量で事業を成功に導く原動力になった。
ところで、庸軒自身は算額を奉納したのだろうか。仲澤氏によると、1837年、19歳のときに東堂山満福寺観音堂(福島県小野町)に円と三角形の問題を載せたものを掲げた。残念ながら焼失したが、記録が残っている。先に掲げられていた算額に対し、より簡単な解法があることを示したものだという。
一方で、門人たちが県内の寺社に奉納したものはいくつか残っている。そのうち、田村市の秋田山龍穏院と猪苗代町の小平潟天満宮の2面は保存状態がいいので参考までに紹介しておこう。
旅修行する和算家たち 庸軒も6度の大旅
もう一つ、庸軒について語るべきことがある。和算の道を究めようと旅修行に出たことである。和算には、「芸術の都パリ」や「音楽の都ウィーン」のような格別の「都」がなく、日本各地に和算家が割拠していたため、和算を究めようと思い立って各地の有名塾や道場などに「他流試合」や「武者修行」をしに行く和算家が少なからずいた。庸軒の師の渡辺一も、著名な和算家だった会田安明の「道場破り」を経験している。渡辺が名を上げつつあった22歳のとき、評判を耳にした会田が江戸から山形へ帰郷の途中、渡辺を訪ね高次方程式の難問を出して力量を見極めようとした。渡辺はすぐにこれを解き、自らも難問を返したところ会田は即座に回答を示した。「あり得ない、間違いだ」と詰め寄ったものの、中座してしばらく検討して正しいことを悟った。これで渡辺は会田の学力に伏して門弟となった、と伝えられている。
仲澤氏の調べによると、庸軒は6度の大きな旅行をした。①仙台刈田山金華山参詣(1840年)、②伊勢・熊野・四国三十三(観音)カ所・金毘羅山・善光寺参詣(1842年)、③富士石尊参詣(1844年)、④山形算術修行(1846年)、⑤九州・天草算術修行(1858年)、⑥酒田・越後算術修行(1862年)で、このほか江戸にも何度か行っている。寺社に掲げられている算額を見ることや、日ごろから観音信仰に篤かった庸軒は各地の観音様に和算の道を究めることへの祈願と感謝を伝えることも旅の目的だったようだ。
こうした旅の中で仲澤氏が注目するのは⑤の九州への修行旅行である。9月から翌年2月までの長旅で、旅の出来事や会った和算家たちを6冊の旅日記に記録している。36人の和算家の名前が確認できるというが、仲澤氏はこの旅の核心は長崎にあると見る。旅の期間の中で最も長い12日間を長崎で過ごしている。ここの和算家たちとの交流を通して、長崎にあった幕府の海軍伝習所経由で入ってきた西洋数学を学んだことが最大の収穫だった。庸軒は自分の塾でも、西洋数学の学習に全体の半分の時間を充てた。
遊歴算家・山口和 ウクライナの数学まんが主人公候補に
庸軒のように旅する和算家は「遊歴算家」とも呼ばれるが、代表格として挙げられるのが山口和だ。1780年ごろに現在の新潟県阿賀野市水原で生まれ、江戸で和算を学んだ。1850年に亡くなるまで北東北から九州にかけて大旅行を6回行った。特に第2回は約1年間、第3回は2年半近くの長きに及ぶ。これらの旅の様子は「道中日記」として残されていて、各地の和算家たちとの交流や見学した算額も多数記録されている。現存しない算額も多く、道中日記は失われた算額を今に伝える貴重な資料でもある。一方で山口自身についての記録はほとんどない。
2022年8月から今年7月まで東京大学のニューロインテリジェンス国際研究機構(IRCN)BABYLAB(赤ちゃんラボ)に客員研究員として在籍していたウクライナのガンナ・マモノバ博士は、そんな山口を自分の著作に登場させようと考えている。
マモノバ氏はキーウ国立経済大学の数理科学系准教授(確率論)で、数学教育におけるまんがの有用性を研究している。「赤ちゃんラボ」では、博士原作のコミック「楽しい『場合の数』」を和訳するプロジェクトに取り組んだ。その過程で、多くの人の目に訴える算額のことを知った。和算研究家の深川英俊氏の「聖なる数学:算額」(英語版、プリンストン大学出版)を読み、遊歴算家の山口和の存在に引かれたという。
コミックには17世紀フランスの哲学・数学・物理学の天才ブレーズ・パスカルが登場し、日常の様々なシーンから、色々な物の組み合わせや考えられる場面の数が何通りあるかという問題と解答を提示する。マモノバ博士は、次のコミックも企画していて、そこでは日本の和算家を取り上げ、メインキャラクターを山口和にするつもりだ。「数学の探究のために旅することができた平和な江戸時代はとても貴重です。人々が理性的でいられる時代だった。山口はそれを象徴する人物。できれば私も京都などを訪れて、山口の足跡や算額をもっと調べ、構想を練り上げたいと願っています」と話す。
実はマモノバ博士は、2022年までロシア軍による住民の虐殺があったブチャ近くに住んでいて、ロシア軍から逃れる科学者と学生のための東大の緊急受け入れプログラムで来日した。ウクライナに戻った今は比較的安全な場所にいるというが、インタビューは空襲警報が鳴ったらすぐ中断するということで行った。
マモノバ博士によると、滞日中に和訳されたコミックは学研教育総合研究所とGakkenが、破壊されたブチャなどの教育施設再建支援のために行うクラウドファンディングの返礼品になる。マモノバ博士は「多くの人に協力してもらえたらうれしい」と話す。
観音様の境内で和算史上最大⁉のドタバタ論争劇
大須観音(PIXTA)
最後に、和算史上最大かもしれないドタバタ劇を紹介しよう。舞台は尾張名古屋の大須観音。1799年に名古屋城近くに住む和算家が掲げた算額が発端だった。深川氏によると関係する算額は残っていないが、経過は1812年に書かれた「北野算経」に記されているという。
算額に書かれていた内容は、円に内接する3個の楕円があり、楕円の長軸と短軸が分かっているときの外接円の直径を問うもの。その答えに別の和算家がいちゃもんをつけたのだが、深川氏によるとこのいちゃもんが実は間違っていたため、さらに別の和算家が非難する算額を掲げた。ところが、この時に表示する図に誤りがあったことが、さらに事態をややこしくする。
ここからは遊歴算家や素人も入り乱れ、「流派」のメンツがむき出しになり、「狂言」「恥さらし」「笑止」といった言葉が飛び交い、「論争」の体をなさなくなった。結局、ののしり合いの算額掲示は少なくとも6年間は続いた。結果は記録がなく不明だというが、庶民は名刹で繰り広げられた泥仕合を大いに楽しんだという。世が太平であったからこそである。
【Profile】
阿部 治樹 ABE Haruki
1977年北海道大学工学部応用物理学科卒。米国留学を経て1983年に朝日新聞入社。横浜、札幌で事件記者や市役所担当を経験後、主に東京本社で、暮らし、文化・芸能ニュースをカバー。1996年~1999年ニューヨーク支局員。2013年~2020年はシニア地方記者として岡山、滋賀両県で地域・行政ニュースを追いかけ、選挙取材もこなした。朝日新聞退社後はフリーランス記者として活動。
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