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2023年5月22日 MicrosoftStartニュース 河北新報「津波で100人犠牲の「日本海中部地震」、知っていますか? 40年前の河北新報が伝えた5月26日
津波で100人犠牲の「日本海中部地震」、知っていますか? 40年前の河北新報が伝えた5月26日
© (C) KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.
1983(昭和58)年の日本海中部地震から26日で40年となります。秋田県で83人、青森県で17人、北海道で4人の計104人が亡くなり、うち100人が津波で命を落としました。40年前の大惨事を伝える河北新報の記事や写真で、地震発生直後を振り返ります。(編集局コンテンツセンター・三浦夏子)
■「M7.7 強震、東北襲う 大津波死者・不明が続出」
激しい揺れが街を裂き、津波が人をのみ込んだ。二十六日正午すぎ、東北、北海道を襲った強い地震。押し寄せる津波。秋田、青森両県を中心に大きな被害が出た。分かっただけでも両県で死者十二人、行方不明者五十九人(午後三時現在)。秋田市内では石油コンビナート内で火災が発生。国鉄も両県内で全面ストップ、電話線も寸断され、市民生活がマヒ状態に陥っている。(昭和58年5月26日河北新報号外)
■発生当日に号外発行
1983年5月26日午前11時59分、男鹿半島沖から津軽海峡の西側までの範囲を震源に、マグニチュード(M)7・7の大地震が発生しました。午後0時7分には青森県深浦町で、午後0時8分には秋田県男鹿市で津波の第1波を観測しています。秋田地方気象台のホームページでは、最大6・6メートルの津波が襲ったと紹介しています。地震発生当日の26日に河北新報が発行した号外では、被害の全容がつかめない状況の中、鉄道や電話線など人々の生活に欠かせないインフラが止まってしまったことを伝えています。
翌27日になると被害がより詳しく分かるようになりました。秋田県内では遠足で男鹿市を訪れていた旧合川南小(北秋田市)の児童13人が津波の犠牲になりました。
■「遠足の学童さらう 2人死亡、11人不明 一瞬の高波、惨事」
日本海中部地震が起きて間もなくの二十六日午後零時十五分ごろ、男鹿市の加茂青砂海岸に遠足に来ていた秋田県合川町立合川南小の四、五年の児童と引率の教師ら四十九人が津波に襲われ、大半は救助されたが、児童二人が死亡、十一人が行方不明になった。地震が静まったことで安心して海岸の岩場で昼食を取っていた時のことだった。一行がいた岩場から海岸沿いの道路までは十メートルにも満たない距離だったが、突然襲いかかった津波に逃げる間もなく、子供たちは次々と波にさらわれた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
突然押し寄せた高波に、子供たちはあっという間に二百メートル沖合に流され、海岸に居合わせた人たちが総出で小舟を出して救助に努めたが、結局、全員を助け出すことはできなかったという。
救助された子供の一人は「津波があまり急に押し寄せてきたため、気づいたときは岸からだいぶ遠いところに流されていた。小舟に乗った人に助けられたとき、友達の赤や青の帽子がいっぱい波に浮かんでいた」と当時の模様を話している。
合川南小の児童らはこの朝、マイクロバスで合川町をたち、日帰りの予定で男鹿海岸に遊びにきていた。好天に恵まれ、海辺で喜々として遊んでいた子供たちを突然襲った津波。楽しい遠足は、瞬時にして地獄に変わってしまった。
友達を魔の海に奪われ、目を真っ赤に泣きはらして帰りのバスに乗り込む山の子の姿は、周りの人々の涙を誘っていた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
男鹿市では男鹿水族館を訪れていたスイス人観光客の女性1人も津波が原因で亡くなっています。秋田県内では他に、能代市で東北電力能代火力発電所の護岸工事をしていた作業員36人が犠牲になりました。紙面では次のように紹介しています。
■「工作船、次々に転覆 能代港、42人が帰らず」
秋田県沖地震による津波で、能代港で東北電力能代火力発電所建設のため護岸工事をしていた大型工作船数隻が転覆、乗っていた作業員らが海に投げ出され、海中でケーソンの据え付け工事に当たっていた作業員も波にさらわれた。このため七人が死亡、三十五人が行方不明(二十六日午後六時半現在、秋田県災害対策本部調べ)となった。
同工事は海面を仕切る外壁護岸約三千三百メートルを造るもので、この日は約三十隻の大型工作船を動員、二百七十、八十人の作業員が護岸用ケーソン(幅十一メートル、長さ二十メートル、高さ八・五メートル)の据え付け作業を続けていた。
秋田県能代港事務所によると、津波の第一波が能代港に押し寄せたのは地震発生から約二十五分後。地震と同時に、現場では避離を図ったが、十数人がケーソン据え付けのため潜水作業中だったことと、沖合に避難しようとした工作船が津波に襲われ、転覆して惨事を大きくした。
津波は目視されただけで八度も同港を襲い、沖合に避難できなかった工作船は海岸へ押し上げられ、河口付近に係留されていた漁船数十隻は、米代川を逆流する高さ約二メートルの津波にもまれながら一キロも上流の橋脚に衝突して沈没。
遭難者の救助作業は、津波の心配がなくなった午後三時半過ぎから始まった。同僚の安否を気遣う作業員らが港の高台に集まり、港内を捜し回る救助船を見守っていたが、薄汚れた海面に作業員らの姿はなかなか見つからず、人々の焦りは募るばかり。完成を間近に控えて津波に直撃された作業現場では巨大なケーソンが二十数個も大きく傾き、見る影もないありさま。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
5、6メートルの津波が襲った青森県深浦町には、記者が現地を歩きリポートしています。紙面からは経験したことのない災害が港町を一瞬で襲い、混乱に包まれたことが分かります。
■「キバむく濁流 『逃げろ』悲痛な叫び 目前で車も船もひとのみ」
青森県深浦町の深浦漁港には、地震の数分後、津波の第一波が押し寄せた。
「津波だ。逃げろ」。割れたショーウインドーの後片付けを始めたばかりの商店の主婦が叫ぶ。盛り上がった海は、防波堤にせばめられ高さ三メートルほどの岸壁をあっという間に乗り越え駐車中の無人の車が1台波にのまれた。四十トンクラスの底引船一隻は大きく傾き沈没、十五トンクラスのイカ釣り船二隻が深浦漁協事務所わきに押し上げられた。十トン未満のマス釣り船は木の葉のようにくるくる回りながら数隻が濁流にのまれた。
平和な漁港は一瞬にして混乱のるつぼに投げ込まれた。
高台にある深浦小学校では同町、消防、警察の避難命令を聞いて身一つで避難して来る人でごった返した。寝たきり老人を軽トラックの荷台に乗せて来た主婦は「こんなに怖いと思ったことはない」と余震の度に身を震わせた。一人で昼食を取っていたというお年寄りは「八十になるが、津波は初めて。何回押し寄せれば気が済むのか」と眼下に繰り広げられる津波の横暴を恨めしそうに見下ろしていた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
「初めて津波を見た」「惨事招いた津波軽視」。紙面の見出しにはこんな言葉が多く見受けられます。死者104人という大きな被害を出した原因を当時の紙面では次のように分析しています。
■「観測網に大きな穴 『まさか』低い警戒心 前兆なし戸惑う研究陣」
日本海側の地震としては、史上最大級の地震となった「日本海中部地震」(秋田県沖地震)は、観測網が貧弱でほとんど予測できなかった上、戦後、大きな津波の襲来を受けた経験がなかったことなどが災いし、悲惨な被害をもたらした。東北地方は、度重なる大地震で大きな被害を受けていながら、今回は、地震予知対策のエアポケットを狙われ、過去の教訓を全く生かせなかったと言えよう。
仙台管区気象台がまとめた「東北の地震記録」によると、東北地方の西方海上は「時々、マグニチュード(M)7前後の地震が起こり、海岸で数メートルの地盤隆起を伴うのが特徴」とされている。歴史的にみても、M5以上の地震は、記録に残るものだけでも、西暦八三〇年の大地震以来、現在まで三十六を数える「大地震多発地帯」となっている。
しかし、戦後は、新潟県沖地震(昭和三十九年、M7・5、死者二十六人)、長岡地震(同三十六年、M5・2、死者五人)などが大地震として記憶に残る程度。地震に伴う大きな津波被害を受けることも少なかった。
このため、津波常襲地帯の三陸沖や東海沖に比べると、地震・津波に対する警戒心は低く、予測体制も著しく劣っていた。今回の「日本海中部地震」は、いわばノーマーク地帯を襲った。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
■「惨事招いた津波軽視『日本海には津波が来ない』 不備な警報、避難手遅れ」
「あれだけの大地震なのに津波を予想して逃げなかったというのは、こっちでは考えられない。地震即津波という意識を持ち、防災避難訓練を重ねることが必要だ」ー。二十三年前のチリ地震津波で最も大きな被害を受けた宮城県志津川町役場では、今回の日本海中部地震の被害を津波に対する無知がもたらした”人災“ととらえている。
仙台管区気象台の調べによると、昭和になって以来、秋田県沖で発生したマグニチュード6以上の地震は計六回。このうち、津波が発生したのは三回だけで、いずれも規模が小さく、震害の大きさに比べ、津波被害は微々たるものだった。
そこから「日本海には大津波は来ない」という錯覚、迷信が生まれていなかったのか。観測網も非常にお粗末だ。今回の場合、東北地方の津波の最大波高は青森県深浦町の五十五センチ。ところが目撃者や専門家の分析では、実際の波高は三メートル以上という指摘が多く、観測数値との落差があまりに大きかった。(昭和58年5月27日河北新報夕刊)
最後に、昭和58年5月26日午後0時から午後9時10分までの各地の被害をまとめた記事を掲載します。記事からは刻々と状況が変化していく様子が分かります。
■「ドキュメント 7.7ショック」
26日午後零時0分 東北、北海道にマグニチュード7・7の地震発生。震源は秋田県沖で深さ約40キロ。秋田、むつ、青森県深浦で震度5の強震を記録。
同 東北新幹線の有壁地震計が40ガル、新水沢変篭所で82ガルを記録して一ノ関ー盛岡間の送電がストップ。走行中の下りやまびこ15号が盛岡―北上間で、上り同20号が一ノ関ー北上間でそれぞれ緊急停止。
零時2分 青森、秋田、山形の3県で計3万6千戸が停電。
零時5分 秋田市の石油コンビナートにある東北電力秋田火力発電所の重油タンクで火災発生。私鉄局管内の全線区で運転を中止、線路の点検を開始。東北自動車道全線50キロ規制。
零時7分 青森・深浦で津波第1波を観測。
零時10分 東北管区警察局が「秋田沖地震、津波対策本部」を設置。
零時15分 東北の日本海側に大津波警報発令。
零時18分 気象庁は北海道、東北、中部地方の日本海沿岸に津波警報を発令。
零時25分 第2管区海上保安本部(塩釜)が青森、秋田、酒田の各保安部に非常配備体制を指示。
零時30分 青森県北津軽郡小泊村が住民に避難命令。小泊川河口近くの村役場は津波のため床上皮水。消防庁が「秋田沖地震災害対策連絡室」を設置。
零時50分 気象庁は津波の最大の高さは青森・深浦の41センチで、当初予想された大津波は来なかったと発表。秋田県警に男鹿半島の加茂青砂海岸に遠足に来ていた同県合川町・合川南小の生徒、先生ら計43人が津波にさらわれ生徒2人が死亡、11人が行方不明の連絡。
1時15分 青森県警に同県北津軽郡郡市浦村・十三湖で魚釣り中の十数人が波にさらわれ5人が行方不明の連絡。全線ストップの秋鉄局管内で長井線、米坂線が運転再開。
1時17分 秋田県警に秋田市の雄物川河口付近でボートが転覆、子供2人が行方不明の連絡。
1時20分 青森県警に同県鰺ケ沢町で防波堤改修工事中の作業員10人が海中に転落、3人死亡との連絡。
1時22分 酒田で津波の高さ120センチ(目視)を記録。
1時35分 盛岡ー古川間が不通となっていた東北新幹線が上下線開通。
1時36分 青森・深浦で津波の高さ55センチを記録。
1時40分 青森県警に同県北津軽郡小泊村袰内漁港でワカメ取り中の女性が波にさらわれ行方不明との連絡。
2時 秋田県警に能代市の東北電力能代火力発電所の護岸工事現場で作業船数隻が転覆、5人死亡、35人行方不明との連絡。
2時5分 政府は関係19省庁による「秋田沖地震対策本部」の設置を決定。
2時20分 東北電力秋田火力発電所の火災鎮火。
2時30分 青森県警に同県北津軽郡小泊村の小泊漁港で漁網修理中の男性ら2人が波にさらわれ行方不明との連絡。
3時 警察庁が死者20人(秋田15人、青森3人、北海道2人)、行方不明者75人に上っていると発表。
4時30分 酒田の津波の高さ47センチに。東北管区警察局の集計によると死者18人(秋田15人、青森3人)、行方不明者は78人(秋田68人、青森10人)に。
5時20分 青森・深浦の津波の高さは35センチに。
6時 東北管区警察局の集計によると、死者は秋田23人、青森三人、行方不明者は秋田52人、青森11人に。
7時 余震続く。仙台管区気象台によると、余震回数は計172回を記録、うち有感地震が39回。男鹿市の加茂青砂海岸と能代市の護岸工事現場の捜索打ち切り。
8時 秋鉄局管内の奥羽線(秋田―青森)、五能線、男鹿線、阿仁合線と盛鉄局管内の大畑線、津軽線が依然不通。
8時40分 気象庁は震源地を秋田市西方沖約160キロと発表。
8時58分 東北沿岸の津波警報解除。
9時 秋鉄、盛鉄両局管内で不通となっていた計6線区のうち大畑線は29日復旧の見通しが立ったものの残りの5線は依然メドが立たないまま。
9時10分 阿仁合線が開通。
(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
20代の記者にとって津波と言えば、東日本大震災が一番に思い浮かびます。日本海側にも津波が襲ったと知ったのは、新潟市内の大学に進学した際、父親からなるべく海から離れたアパートを選ぶよう教えられた時です。日本海中部地震という名前を知ったのも恥ずかしながらその時でした。
今年3月まで赴任していた秋田総局では、日本海中部地震に関する取材をしましたが、風化を強く感じました。「日本海側は災害少ないから」「日本海には津波が来ないから」。秋田県内で何度か耳にした言葉は、40年前の紙面に掲載されていた「俗説」と似ていると思います。
5月5日に石川県珠洲市で震度6強の地震が発生するなど日本ではどこに住んでいても災害のリスクはついて回ります。26日を前にいま一度、防災グッズを確認するなど災害への備えを考えてみませんか?
日本海中部地震が発生した昭和58年5月26日の号外
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40年前に発行した号外では地震により崩れた建物や陥没した道路が伝えられている
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火災が発生した東北電力秋田火力発電所(秋田市)のタンク(昭和58年5月26日河北新報号外)
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