🗡19〗─3・E─日本海軍は発想の転換で廃棄未完成戦艦「加賀」を正規空母に大改装した。~No.61 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 発想の転換、破壊的イノベーション、リノベーションは、戦前日本と1980年代頃までの日本にはあったが、1990年代以降の日本にはない。
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 日本海軍は、一点豪華主義大艦巨砲主義固執していたわけではなかった。
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 加賀型戦艦は、日本海軍が八八艦隊計画で考案した戦艦。長門型戦艦の拡大改良型である。 なお土佐の方が起工が早かった事から『土佐型戦艦』と呼称されることもある。 加賀(第7号戦艦、八八艦隊第3番艦)と土佐(第8号戦艦、八八艦隊第4番艦)とも、ワシントン海軍軍縮条約により建造中止となった。 標的艦として実験に使用したあと処分する予定だったが、空母改造予定の天城型巡洋戦艦「天城」が関東大震災で損傷・廃棄されたため、代艦として「加賀」は航空母艦に改装された。 同型艦「土佐」は進水後に予定どおり標的艦として使用され、1925年(大正14年)2月9日に自沈処分となった
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 2023年3月31日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース「戦艦から転身 空母「加賀」竣工-1928.3.31 廃艦の危機を乗り越え主力艦へ
 なぜ三段式の飛行甲板をやめたのか
 1928(昭和3)年の3月31日は、旧日本海軍航空母艦「加賀」が竣工した日です。ただ旧海軍では原則として、旧国名を艦名としたのは戦艦に限られます。加賀国は現在の石川県。なぜ、空母なのに「加賀」という艦名になったのでしょうか。
 それは同艦が当初、戦艦として建造されたから。進水は1921(大正10)年11月ですが、同じころに発効されたワシントン海軍軍縮条約により軍艦の保有数が制限されると、一旦は未完成のまま廃艦になることが決定します。
 【写真】真珠湾へ向け航空機を満載する「加賀」
 旧日本海軍航空母艦「加賀」(画像:Flickr/public domain)。
 © 乗りものニュース 提供
 しかし転機が訪れます。それは1923(大正12)年9月1日の関東大震災でした。空母化に向けて改装中だった別の戦艦が被災すると、これに代わり「加賀」を空母とすることが決まったのです。
 「加賀」はまず、三段式(ひな壇式)の飛行甲板を搭載します。先述の通り1928年3月末に竣工すると、上段を離着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を戦闘機などの発艦用として運用しました。現代の視点では何とも手狭に見えますが、当時は航空機が海戦の主力になるとは想定されておらず、航続距離も短く小型な機体は、勝敗を左右するような戦闘はできないと考えられていたのです。
 しかし、航空機の性能が想定を上回る早さで向上し機体も大型化すると、三段式の空母は飛行甲板の短さなどから使い勝手が悪くなりました。「加賀」は再度大掛かりな改装を受け、艦橋を右舷に、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母に生まれ変わりました。1935(昭和10)年6月のことでした。
 改装により艦の重量を大幅に軽減できたほか、中段と下段の飛行甲板だったスペースを格納庫に転用でき、艦載機も100機へ増大しました。
 最期はミッドウェーの海
 太平洋戦争が始まる前の戦歴としては、中華民国軍と戦った1932(昭和7)年の第1次上海事変、1937(昭和12)年の第2次上海事変にそれぞれ出撃しています。偵察機攻撃機を発進させ、杭州などを爆撃しました。
 1941(昭和16)年12月、太平洋戦争開戦の契機となった真珠湾攻撃に参加。ほかの日本空母5隻とともに、作戦を成功させます。その後は、西太平洋のトラック島へ進出し、ラバウルやポートダーウィン攻略など、南方作戦に従事しました。
 「加賀」を攻撃し損傷したアメリカ軍の急降下爆撃機。空母「ヨークタウン」の艦上とされる1枚(画像:アメリカ海軍)。
 © 乗りものニュース 提供
 しかし1942(昭和17)年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。5日朝、ミッドウェー島の攻撃へ向かった味方機から相次いで「敵艦隊発見」が報告されると、「加賀」の飛行甲板では艦載機に対し、陸上攻撃用の爆弾から艦船攻撃用の魚雷へ転換が行われました。続く攻撃隊の発進は大きく遅れます。
 慌ただしい「加賀」に、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中し、兵器や機体に次々と誘爆。さらには航空機用の燃料タンクにも爆弾が命中し、「加賀」はあっという間に炎に包まれます。
 消火活動もままならず、およそ9時間後に大爆発を起こしながら沈没。この海戦に参加した4隻の空母の中で、「加賀」は最も大きな人的被害を出しました。なお結果的に、参戦した日本の全空母が撃沈されています。
 戦艦として生まれ、一度は廃艦が決定するも空母として再出発を果たした「加賀」は、今もミッドウェー島沖の海面下5200mという深海に眠っています。
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 2022年11月17日 乗りものニュース編集部「廃艦予定から奇跡の復活! 戦艦→空母「加賀」進水-1921.11.17 きっかけは関東大震災
 tags: ミリタリー, 船, 艦艇(軍艦), 空母, 戦艦, 加賀, 旧日本海軍, 歴史
 旧日本海軍の軍艦「加賀」が1921年の今日、進水しました。当初は戦艦として完成する予定でしたが、軍縮条約のあおりを受けて一度は廃艦に。ただ、関東大震災で無傷だったことから空母へと姿を変えて竣工しました。
 飛行甲板の変化
 1921(大正10)年11月17日、旧日本海軍の戦艦「加賀」が進水しました。同艦はそれから7年後の1928(昭和3)年3月31日に竣工しています。
 実は「加賀」、この7年のあいだに戦艦から空母へと姿を変えています。ただ、その経緯も歴史の荒波をいくつも乗り越えた結果といえるものでした。
 旧日本海軍の空母「加賀」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 そもそも「加賀」は、従来の長門型戦艦を拡大発展させた新型艦として設計され、建造がスタートしています。
 旧日本海軍が当時策定していた、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる、いわゆる「八八艦隊」計画の主軸となる艦として戦力化が期待されていた「加賀」ですが、その直後から始まったワシントン海軍軍縮条約の討議の中で、この条約の会議開催日、すなわち11月11日までに完成していない戦艦や巡洋戦艦などは廃艦とすることが決まったため、「加賀」は一転して未完成のまま廃艦となることが決まります。
 こうして、一度は軍艦として就役できないことが決まった「加賀」ですが、1923(大正12)年9月に関東大震災が起こったことで、その運命は一変しました。
 このとき横須賀のドックで空母への改装工事中だった「天城」が被災によって修理不可能な損傷を受けます。これにより旧日本海軍は「天城」を廃艦に回し、代わりに「加賀」を空母に改装すると決めました。
 こうして、半ば放置状態にあった「加賀」は空母へと改装され、進水から7年の時を経て軍艦として竣工するまでに至ったのです。ただ、当時は空母も黎明期で構造や運用法で試行錯誤が続いていました。そのため、世界でも稀な三段式(ひな壇式)空母として就役しています。
 しかし、航空機の性能が想定を上回る早さで向上、また機体も大型化すると、三段式の空母は飛行甲板の短さなどから使い勝手が悪くなります。そこで、再度大掛かりな改装を受けた「加賀」は1935(昭和10)年6月、艦橋を端(「加賀」は右舷)に配置し、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母へと大変身を遂げ、以後はこの姿で活動し続けました。
 ミッドウェーの海に没す
「加賀」は中華民国軍と戦った1932(昭和7)年の第1次上海事変や、同じく1937(昭和12)年に起きた第2次上海事変にそれぞれ参加し、偵察機攻撃機を沖合から発進させて、杭州などを爆撃しています。
 その後、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まると、ハワイの真珠湾攻撃を皮切りに、ラバウルやポートダーウィン攻略など、南方作戦に従事しました。
 1936年に撮影された空母「加賀」。建造当初から大きく改装された後で、一段全通式の飛行甲板となっている(画像:アメリカ海軍)。
 しかし1942(昭和17)年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。5日朝、ミッドウェー島の攻撃へ向かった味方機から相次いで「敵艦隊発見」が報告されると、「加賀」の飛行甲板では艦載機に対し、陸上攻撃用の爆弾から艦船攻撃用の魚雷へ転換が行われました。続く攻撃隊の発進は大きく遅れます。
 慌ただしい「加賀」に、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中し、兵器や機体に次々と誘爆。さらには航空機用の燃料タンクにも爆弾が命中し、「加賀」はあっという間に炎に包まれます。消火活動もままならず、およそ9時間後に大爆発を起こしながら沈没。なお、この海戦ではほかに3隻の空母も撃沈されています。
 戦艦として生まれ、一度は廃艦が決定するも空母として再出発を果たした「加賀」は、今もミッドウェー島沖の海面下5200mという深海に眠っています。
 【了】
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 2021年6月13日 乗りものニュース「「大和」だけじゃない!「世界最大最強」の称号が付いた日本のNo.1戦艦列伝
 安藤昌季(乗りものライター)
 tags: 歴史, 船, 艦艇(軍艦), 金剛, 扶桑, 伊勢, 長門, ドレッドノート, クイーンエリザベス, ペンシルヴァニア, ニューメキシコ, コロラド, 加賀, 旧日本海軍, アメリカ軍, イギリス軍
 世界最大最強の戦艦として知られる旧日本海軍の大和型戦艦。しかし、日本の戦艦建造そのものが、「世界最大」「世界最強」を目指した歴史でした。史上初めて世界最大最強になった戦艦から旧日本海軍の象徴となった戦艦までを振り返ります。
 日本戦艦で初めて世界最大最強となった戦艦は?
 旧日本海軍は創設以来、「世界最大」と称される戦艦や巡洋戦艦を、幾度となく保有してきました。
 最初に保有した世界最大最強の戦艦は、日露戦争で活躍した敷島型戦艦です。イギリスで建造され、1900(明治33)年に竣工した1番艦「敷島」は、スエズ運河の通行制限を考慮する必要がなかったため、同時期のイギリス海軍マジェスティック級戦艦よりも大型で、砲身の長い主砲を搭載していました。
 この傾向は日露戦争後も続き、1906(明治39)年にイギリスで建造された、香取型戦艦は、同じくイギリスで建造中であったキング・エドワードVII世級戦艦よりも砲身の長い主砲を備え、中間砲(主砲より小さく副砲より大きい砲)も同級の23.4cm砲に対して、より大きな25.4cm砲を搭載していました。香取型戦艦は防御力では同級にやや劣るものの、砲撃力は上回っていたため、当時世界最強の戦艦でした。
 曳航される戦艦「土佐」。長崎市端島の通称である「軍艦島」の由来となった艦。
 旧日本海軍は、翌1907(明治40)年の筑波型装甲巡洋艦で、主力艦の自国建造を実現します。筑波型は装甲巡洋艦として初めて「戦艦と同じ30.5cm砲を搭載し、戦艦の18ノット(約33.34km/h)を上回る20.5ノット(約38km/h)を発揮する」画期的な性能を持つ艦でした。
 香取型に次いで国内建造された薩摩型戦艦では、25.4cm中間砲を香取型の4門から、一挙に12門に増加させ、防御力も強化して、世界最強の戦艦を目指します。しかし、1910(明治43)年に竣工した薩摩型は、完成当時、世界最大でしたが、最強ではありませんでした。
 なぜなら、筑波型装甲巡洋艦、香取型戦艦の高性能を知ったイギリス海軍が、画期的な戦艦「ドレッドノート」を1906(明治39)年に建造したからです。「ドレッドノート」は中間砲を廃止し、大口径砲を統一したことで、主砲をこれまでの戦艦の4門から一挙に倍以上の10門へと増やしました。推進機関も、より高出力な蒸気タービン機関を搭載することで、「筑波」を上回る21ノット(約38.9km/h)の高速を実現しました。
 旧日本海軍 最後の外国製戦艦「金剛」の誕生
 さらにイギリス海軍は1908(明治41)年に、最大速力25ノット(約46.3km/h)を発揮し、主砲も30.5cm砲8門を搭載した、装甲巡洋艦「インヴィンシブル」を建造します。
 とはいえ、インヴィンシブル級も筑波型も画期的な大型の高速艦であることには変わりなかったため、両艦とも装甲巡洋艦から、新たな艦種である「巡洋戦艦」に変更されています。
 こうした短期間での技術進歩を受け、旧日本海軍は筑波型、鞍馬型に次いで、新たな巡洋戦艦保有しようと計画、世界最新の軍艦技術を手に入れるために国産ではなく、再びイギリスに建造を依頼しました。こうして誕生したのが金剛型巡洋戦艦です。
 イギリス海軍の戦艦「ドレッドノート」(画像:アメリカ海軍)。
 1913(大正2)年に竣工した1番艦「金剛」は、イギリスのライオン級、ドイツのデアフリンガー級の両巡洋戦艦を上回る、完成時、世界最大最強の巡洋戦艦でした。イギリスは翌1914(大正3)年に、金剛型よりやや大型で防御力の強い巡洋戦艦「タイガー」を竣工させますが、主砲は34.3cm砲8門で、世界で最初に35.6cm砲8門を採用した金剛型と比べると劣っていた部分もありました。
 さらに旧日本海軍は、金剛型巡洋戦艦と同じ35.6cm砲を12門、主砲として搭載した扶桑型戦艦を、日本国内で設計・建造し、1915(大正4)年に竣工させます。扶桑型は世界で初めて常備排水量が3万トンを超えた、竣工当時、世界最大の戦艦でした。扶桑型は1914(大正3)年に竣工したアメリカ海軍のニューヨーク級戦艦、1916(大正5)年に竣工した同ネヴァダ級戦艦を攻撃力と速力の両面で上回る、有力な艦でした。
 なお、イギリス海軍は扶桑型よりやや小型であるものの、38.1cm砲を搭載し、速力および防御力でも扶桑型を上回るクイーンエリザベス級戦艦を1915(大正4)年に竣工させています。
 アメリカ海軍も1916(大正5)年に竣工したペンシルヴァニア級戦艦で、扶桑型に主砲門数で並びます。旧日本海軍は1917(大正6)年に伊勢型戦艦を竣工させて、これに対抗しますが、アメリカは1918(大正7)年竣工のニューメキシコ級戦艦で長砲身の35.6cm砲を搭載、旧日本海軍の扶桑型および伊勢型戦艦の攻防性能を上回りました。
 世界最強戦艦として完成した「長門
 イギリス海軍は、1920(大正9)年に、常備排水量4万トンを超える、世界最大の巡洋戦艦「フッド」を就役させます。「フッド」はそれまでのイギリス戦艦と同じ38.1cm砲を8門搭載し、速力も31ノット(約57.4km/h)という快速性を備えていました。防御力も戦艦に近かったことから、実質「高速戦艦」といえるものでした。
  これに対し、旧日本海軍は「フッド」と同じ1920(大正9)年に戦艦長門を就役させます。長門型は、当時、世界最大の41cm砲8門を搭載し、戦艦としては世界最速の26.5ノット(約49.08km/h)を発揮しました。常備排水量3万3800トンは、巡洋戦艦フッドよりやや小型ながらも、当時の戦艦としては世界最大。日本は「長門」を造ったことで、世界最強戦艦のタイトルを奪い返したといえます。
 旧日本海軍の戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)。
 翌1921(大正10)年に、アメリカが40.6cm砲8門、速力21ノット(約38.9km/h)の性能を有するコロラド級戦艦「メリーランド」を就役させますが、日本の「長門」の方が、主砲口径、排水量、速力、水平防御などの点で上回っていました。
 長門型やコロラド級の就役後、ワシントン海軍軍縮条約により戦艦の新規建造はストップとなり、旧日本海軍で建造中だった加賀型戦艦および天城型巡洋戦艦アメリカ海軍で建造中だったコロラド級戦艦やサウスダコタ級戦艦といった、多くの艦が竣工せずに廃艦となったり、または空母に転用されたりしました。
 では、もし加賀型戦艦と、天城型巡洋戦艦、そのライバル戦艦が予定通り建造されていたなら、世界最強の戦艦はどの艦型になったでしょうか。
 未完成で終わった加賀型戦艦と天城型巡洋戦艦 性能は?
 旧日本海軍が建造を進めていた加賀型は、従来の長門型戦艦が前出のとおり、41cm砲を8門装備していたのに対し、それを上回る41cm砲10門を備え、速力については同等の26.5ノット(約49.08km/h)を維持しています。
 また天城型巡洋戦艦は、加賀型戦艦の発展型として、同じく41cm砲10門を備えながらも、速力は30ノット(約55.56km/h)と速く、船体は加賀型よりも大きな常備排水量4万トン超で計画されていました。
 アメリカ海軍の戦艦「コロラド」(画像:アメリカ海軍)。
 では、ライバルになりうる外国艦を見てみましょう。
 イギリス海軍は45.7cm砲9門を搭載したN3級戦艦と、40.6cm砲を9門搭載し、32ノット(約59.26km/h)の速力を発揮することが期待されたG3級巡洋戦艦を発注しています。しかし、これらの艦は、造船所での準備中にワシントン海軍軍縮条約で建造が中止されたので、建造途中だった旧日本海軍加賀型戦艦および天城型巡洋戦艦と同世代といえる艦ではありません。
 ではアメリカはどうかというと、加賀型戦艦の1番艦「加賀」と2番艦「土佐」が進水した1921(大正10)年の時点でアメリカ海軍が進水させたのは、コロラド級戦艦の「ワシントン」と「ウェストバージニア」でした。加賀型は傾斜装甲の採用により防御力も「長門」と同等以上でしたから、コロラド級を上回る性能なのは間違いありません。
 コロラド級戦艦の次級であるサウスダコタ級戦艦(第2次世界大戦中の1942年に就役した同名戦艦とは別の艦型)は、1922(大正11)年に建造中止となりますが、この時点で進水していないため、就役は1923(大正12)年から翌1924(大正13)年ごろと考えられます。
 サウスダコタ級は40.6cm砲12門と強力な防御力を備えていたことから、加賀型戦艦を上回る性能と目されますが、加賀型は1922(大正11)年に就役していましたから、その時点での世界最強戦艦は加賀型になったでしょう。
 そして、加賀型の10か月遅れで起工した天城型巡洋戦艦は、前述したように攻撃力で加賀型と互角。防御力でやや劣り、速力ではやや上回る艦型でしたから、サウスダコタ級が就役するまでの短期間、世界最強のタイトルを分け合ったものと考えられます。
 結論として、加賀型戦艦が就役した時点では、加賀型が世界最強戦艦。天城型巡洋戦艦が就役した時点では、総合的に見て、加賀型と並び世界最強だったといえるのではないでしょうか。
 この後、日本海軍は軍縮条約後の1941(昭和16)年に、世界最大最強を誇る大和型戦艦「大和」を就役させます。近代的な日本戦艦の歴史は「世界最大」「世界最強」とともにあったといえるでしょう。
 【了】
 ※誤字を修正しました(6月14日18時00分)。
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 2019年6月6日 月刊PANZER編集部「旧軍空母「加賀」の一部始終 廃艦寸前の元戦艦はなぜ空母になり精強を誇るに至ったか
 tags: ミリタリー, 歴史, 船, 艦艇(軍艦)空母, 加賀, 旧日本海軍
 旧日本海軍の「加賀」といえば、同「赤城」と共に最精鋭として知られた「第一航空戦隊」を組み、大艦巨砲主義に終止符を打った空母の1隻です。ところが元は戦艦で、しかも廃艦寸前でした。その数奇な運命を追います。
 イレギュラーな名前にも見えるその数奇な運命
 空母「加賀」、この艦名は石川県南部の旧国名である「加賀」から名付けられました。でも考えてみると、旧日本海軍の空母は「鳳翔」や「飛龍」「瑞鶴」「隼鷹」など、「龍や鳥など空を飛ぶ縁起の良い動物」の名前か、もしくは「赤城」「葛城」など山の名前がほとんどです。そのような日本海軍の空母のなかで、旧国名が付けられたのが「加賀」と「信濃」です。
 この2隻だけイレギュラーな理由は、両方とも戦艦からの改造だからでした。旧日本海軍において「戦艦は旧国名を付ける」と規定されていたため、進水にともない名付けられた名前が、そのまま空母になっても引き継がれたのです。ではなぜ、戦艦として生まれたにもかかわらず空母に改造されたのでしょうか。それは「加賀」自身の数奇な運命が大きく影響したからでした。
 1936年に撮影された「加賀」。建造当初から大きく改装された後で、後に続く日本空母のスタイルが見てとれる(画像:アメリカ海軍)。
 そもそも「加賀」は、長門型戦艦を拡大発展させた後継艦として1917(大正6)年に帝国議会の予算承認を受け、建造が開始されました。
 「加賀」の速力は、戦艦としては当時、最高レベルの約26ノット(約48.1km/h)で、それまでの日本戦艦が25ノット(約46.3km/h)止まりだったことを鑑みると、「高速戦艦」と呼べるほどでした。装甲も建造当時は世界最強の防御力を持ち、また武装も41cm連装砲5基10門を主砲に、副砲20門や魚雷発射管なども装備した重武装戦艦でした。
 戦艦「加賀」、空母へ
 1921(大正10)年11月17日、「加賀」は戦艦として進水するものの、その直後に不幸が降りかかります。「ネーバルホリデー(海軍休日)」と呼ばれる「ワシントン海軍軍縮条約」の締結です。
 この軍縮条約は戦艦や空母の保有数を制限するのが主目的で、1922(大正11)年2月に締結され、進水はしたものの竣工前であった「加賀」は、姉妹艦の「土佐」(加賀型戦艦2番艦)とともに廃艦となることが決定、また同時期に建造中だった巡洋戦艦の「天城」と「赤城」は、規制保有数に余裕のあった空母へと改造されることが決定しました。
 曳航される戦艦「土佐」。長崎市端島の通称である「軍艦島」の由来という。
 廃艦が決まった「加賀」は、「土佐」とともに魚雷など各種兵器の実験に使用されることになり、横須賀へと曳航されました。ちなみにその際、主砲は壊してしまうのがもったいなかったので、取りはずし、装填不良で問題のあった戦艦「長門」に付け替えられました。そして「加賀」の歴史はここで終わるはずだったのです。
 しかし、標的艦となる日を待っていた「加賀」の運命は1923(大正12)年9月1日、大きく変わることになりました。関東大震災の発生です。このとき海上にいた「加賀」は大きな被害を免れましたが、横須賀工廠の船台で改装中だった「天城」は、地震の揺れで大破、空母への改装が不可能となりました。このままでは計画から空母が1隻、足りなくなってしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが「加賀」でした。早速「加賀」は「赤城」と共に空母への改修を受けることになりました。ちなみに姉妹艦であった「土佐」は、予定通りに標的艦として使用され、1925(大正14)年、自沈処分となりました。
 大迷走した「加賀」の空母化
 空母になることが決まった「加賀」と「赤城」ですが、その計画は紆余曲折、暗中模索、大迷走しました。世界的にも空母黎明期にあって、日本軍は小型空母の建造経験しかなく、さらには戦艦から空母への改装など日本初です。飛行甲板の形状、排煙方法も二転三転し、ようやく竣工したのは1928(昭和3)年のことでした。
 当初、採用された飛行甲板は三段式(ひな壇式)で、上段を離着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用として運用する計画でした。しかし、当時は航空機の発展も目覚ましく、能力向上、大型化する航空機に空母のほうがついていけず、多くの問題が発生します。
 一番の問題は中段の甲板で、その短さから、艦上機が発艦することはできませんでした。また、艦橋は飛行甲板と船体に挟まれた位置にありましたが、そこからでは上の甲板の様子を見ることはできず、発艦、着艦の統制ができず、その後、補助艦橋が設けられることになります。そのほか排煙にも問題が起き、「加賀」は「赤城」とともに再度、大きな改修を受けることになりました。
 1941年、太平洋戦争直前に撮影された「加賀」の艦尾(画像:アメリカ海軍)。
 1935(昭和10)年、改修が完了した2隻は「一段全通式」という、その後の空母に近い姿へ生まれ変わりました。数々の不具合を解消しただけではなく、性能向上も行われたため、「加賀」の改修は日本海軍艦艇中、1、2を争うほどの大がかりな改修となります。
 一段式の全通甲板の右舷前方に最小限の艦橋が設けられました。煙突は湾曲煙突式となり、これにより100トンもの重量軽減、乗員もそれまでに比べ排煙やそれにともなう高熱に悩まされることもなくなります。中段、下段の飛行甲板が廃止されたことで、そこは艦載機の格納スペースとなり、これにより搭載航空機数は当初の60機から100機へと増大しました。
 八面六臂の勇戦と終焉の時
 1935(昭和10)年の改修と前後し、「加賀」は対中国戦線で実戦を経験します。そして1941(昭和16)年、ついに日本初の空母機動部隊(諸説あり)である「第一航空艦隊」が、「第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)」と「第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)」で編制されました。太平洋戦争の幕開けとなったハワイの真珠湾攻撃で、第一航空艦隊は無事、任務を成功させます。
 1941年12月、真珠湾攻撃に向かう途中の「加賀」(左)と、同航する空母「瑞鶴」(画像:アメリカ海軍)。
 その後「加賀」は、西太平洋のトラック島へ進出し、ラバウル攻撃、カビエン攻撃、ポートダーウィン攻撃など、「赤城」と共に太平洋やインド洋を戦い続けました。ところが、太平洋戦争におけるその奮戦は半年ほどで終わりを告げます。運命の「ミッドウェー海戦」です。
 1942(昭和17)年6月のはじめ、日本海軍はハワイ攻略の足掛かりとするために空母6隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「鳳翔」「瑞鳳」)をもって、ミッドウェー島に攻勢を仕掛けました。作戦計画においては、同島の攻略とともに、迎撃してくるアメリカ空母艦隊の補足撃滅も目的に入っていました。
 この作戦目的の複数化が、逆に日本空母機動部隊の運命を決めてしまったのです。ミッドウェー島の飛行場をたたくためには陸用爆弾が有効です。それに対し、空母艦隊の撃滅なら、軍艦用爆弾や魚雷を用いなければなりません。この、兵装転換の間隙を突かれる形で、アメリカ艦載機部隊の来襲を受けてしまいました。
 「加賀」はアメリカ急降下爆撃機隊の攻撃を受け、1000ポンド爆弾を3発回避したものの、4発目以降が次々に命中し、最初に甲板上の艦橋やエレベーターが破壊されたといいます。そして航空機用のガソリンに爆弾が命中、艦橋が吹き飛び、格納庫内の航空機や魚雷、爆弾が次々と誘爆し、甲板上は火の海になりました。
 爆発は7回にもおよび、戦艦「榛名」の副艦長は「生存者はいない」と判断したほどでした。実際、艦長以下800人以上が「加賀」と運命を共にし、生存者は40人程度だったそうです。こうして、「加賀」はその数奇な一生を終えました。
 時は流れて1999(平成11)年、ミッドウェー島沖の海面下5200mという海底に、1隻の空母が発見されました。その後、25mm機銃座や着艦誘導灯も見つかり、正式に「加賀」と認定。「加賀」は、いまも深い海の底で、静かに眠り続けています。
 【了】
 Writer: 月刊PANZER編集部
 1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。
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