🍙32〗─2─極寒の中、飢えに耐えかねて食料と袖を交換した…抑留者・引揚者・恩給欠格者の過酷な実態。~No.206 

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 2022年11月17日 Microsofutニュース 現代ビジネス「極寒の中、飢えに耐えかねて「食料」と「袖」を交換した…「抑留者」「引揚者」「恩給欠格者」の過酷な実態
 すっかり見なくなった戦争特番
 黙とうをする日が年に数回あります。6月23日、8月6日、9日、15日。それらの日付を私の記憶に刻みつけてくれたのは、たぶん、テレビでした。いうまでもなく沖縄慰霊の日、 広島原爆の日、長崎原爆の日終戦の日です。
 ところがいま、それぞれの日の番組表を見てみても、大きな戦争特番は地上波(特に民放)ではすっかり見ません。世間の戦争への関心が薄れ、視聴率が取れないからでしょうか。ではやめて取れたかというとそんな話も聞きません。あべこべのことを言うようですが、どうせ数字が取れないならいっそ、電波という公共物を扱っている社会的責任やプライドを、テレビはもう一度思い出して番組を作ってはどうでしょうか。
 ウェブメディアだって同じです。私程度の者でも、あの戦争を、こんな時代だからこそ誰かの記憶に残せるよう書かないといけないと思っています。目新しい話や新しい研究成果がないものでも、派手なシーンがなくても、黙とうする日を次の世代にも伝えるために。目をつむるのは、祈りのためだけではないのです――。
 お伝えしたいのは、オモテへでること。国を動かした人々がどんな法を作り、どんな作戦を立て、どんな決定を下していったかの知識を深めるのは家で本を読んでいただくことにして、我々と同じふつうの庶民がどんな暮らしをさせられたのかを「感じ」に、資料館へ行くことを今日はおすすめします。当事者の話す言葉に耳を傾ける「体験」を通すと、自分へ過去が近づいてきます。以前にもこんな記事を書きました。
 「大人に見捨てられ、国に見捨てられた…戦争で親を失った「戦災孤児」の悲しみと諦めの背中」(現代ビジネス)
 今回紹介するのは、西新宿の高層ビル街にある、〈平和祈念展示資料館〉。館内、まず目を引くのは、「抑留者」の残した資料です。終戦後、シベリアをはじめとする旧ソ連領内に連れ去られ、強制労働に従事させられた元兵士たちがいました。あまりにも乏しい食料と極寒の地での収容所生活は青年たちの体力を奪い、次々に若い命が失われました。
 © 現代ビジネス 抑留者が身に着けた防寒外套(※現在はレプリカを展示)
 抑留された元兵士が寄贈した外套は、燻蒸してから展示されましたが、70年経っても獣のような強い臭いが残っていたといいます。注目していただきたいのは、袖のない外套があること。飢えに耐えかね、食糧と袖を交換したのです。極寒の地でそこまで追い込まれた人の装い、写真でみるのとは明らかに感じるものが違ってきます。
 切実な美を感じる
 続いてはこのスプーン。収容所で支給されるのはわずかな食料です。受けた飯盒の底までをこそぎとるためのものでした。手製です。
 © 現代ビジネス 一本とて同じ形のないスプーンが並ぶ
 抑留者たちは、過酷な労働の合間にこうした食器を作りました。手を動かすことで正気を保ち、故郷に帰る日をじっと待ったのです。数あるなかから目を引いたのは、この一本。女性をかたどっているように見えます。激しい消耗のために性的欲求など消え失せていたといいますから、母のあたたかみを欲したのでしょうか。「生きたい」、強い願いが迫り、正直、アート作品よりも、切実な美、を私などは感じてしまいます。それがかえって、悲しい。スプーンに接触するほどギリギリのところにガラスを張って展示しています。顔の前数センチまで寄って、想像をめぐらせてください。
 続いて目をひいたのはこちらでした。
 © 現代ビジネス 小さなワンピース(※現在はレプリカを展示)
 子どものワンピースです。昭和21年9月、現在の韓国・釜山の港から日本へ向かう船に乗る前、4歳の娘に母親が縫ったものでした。丁寧に布をはぎ合わせているのは、おむつをほどいて作られたから。おむつを当てるべき赤ちゃんは、少し前に栄養失調で亡くなっていました。
 これは終戦後、主に中国大陸や朝鮮半島から命からがら帰国した「引揚者」の資料です。そして館内には、「抑留者」と「引揚者」にまつわるもの以外にも、千人針、赤紙(臨時召集令状)など、元兵士たちの資料も相当数が展示されています。この兵士たちは、「恩給欠格者」(恩給の受給年限に達せず、軍人恩給が受けられなかった元兵士たち)でした。
 「抑留者」「引揚者」「恩給欠格者」
 そう、こちらは三つの属性を持つ戦争被害者たちの資料展示をする資料館なのです。三者を支援する団体が国に働きかけをしたことで開館に至った経緯があります。かつて、戦争に傷付きながら戦後も報われない自分たちに補償を求め、人々は団結しました。なんとか政治家たちに耳を傾けさせる力は得たものの、求める補償までは叶いませんでした。が、80年代には彼らを「慰労」する基金は設けられ(平和祈念事業特別基金)、国は、彼らに銀杯を贈るなどの慰藉事業をおこないました。このとき軍服など資料の寄贈も募り、集まったものが展示物の中心となっています。彼らは、つぐなってもらうことと、味わった痛みを後世に伝えること、2つの動きを同時に進めたといえます。
 ただし前者は、戦後65年を経過した2010年、一区切りをつけています。多くの兵士たちは鬼籍に入り、2013年、基金は解散しました。それでも後者は国(総務省)に引き継がれました。寄贈資料ははじめ百貨店などで巡回展示され、その後こうして常設展示されるようになり、現在を迎えています。「伝える」ことは途切れていません。
 それでももう、戦後80年に迫ろうという時代。戦争当事者自身の声を聞きにくくなった時代ですが、同時に、いくつもの団体が解散している時代でもあります。私はこう思います。いまこそ戦争被害者を限定しない展示ができるのでは、と。空襲被害者、戦災孤児、旧植民地にいた人々も、忘れてはいけない戦争被害者だと思います。
 加えて、現在の資料館の見せ方も一考してほしいと思います。私個人が感じた限り、こちらの施設は西新宿の高層ビル群のなかにまぎれ、目立てていません。それに、風化や汚損を防ぐため仕方ない面があるのだと思いますが、実物ではなく複製品の展示が目立ちます。また、基金はかつて前述三者に聞き取りを行い、「平和の礎」(沖縄の同名施設とは別)という冊子にまとめていますが、せっかく全巻分の証言が公式サイトにもアップされているのに、記事にアクセスするまでの導線がわかりにくいです。
 それでも、知らせたい、知ったほうがいい事実はあります。引揚者女性の記事を、ひとつ抜粋します。旧満州に渡り晨明開拓団員として働いていた女性。終戦すると着の身着のままソ連兵に追われ、一日も早い帰国を待っていた仮住まいでの娘との思い出。四歳の娘・芳子さんは、重度の麻疹にかかりましたが医療は受けられていません。
 芳子が首に掛けた笛を「ピーピー」と吹いて私を呼びました。芳子は声が出なくなっていたので、笛でいろいろと合図をしていたのです。「なに、芳ちゃん、おしっこ?」と聞くと、芳子は私を見て首を振り、両手を出して、抱っこしてもらいたいというしぐさをしました。やせて軽くなった芳子を抱き上げると喜んで「おっぱいが飲みたい」と言いました。ああ、もう駄目なんだなあと思い「はい、おっぱいよ」と乳房を出し芳子の口にくわえさせたところ、芳子は赤ちゃんのような顔をして私を見つめ、一生懸命に吸いました。「甘くておいしかったよ」と言って満足そうな顔をしました。思い出したように、小さな手で私の顔をなでながら、「お母さん、かわいいね」と言います。さらに、「芳ちゃんね、お花がたくさん咲いている遠い所へ行くのよ」(後略)
 これ以上はここに写し取るのも正直、苦しいものがあります。「目は片一方がつぶれ、唇は半分腐れおちて声もでなくなって」いた芳子さんは、「赤い足袋と花模様の着物を着ていく」と言いながら、お母さんの胸の中で亡くなりました。
 どうか、広く、多くの人に目立つ見せ方を。それがこの子を弔い、思い出したくない過去をあえて綴ったお母さんを癒やすことになると私は思っています。本記事冒頭で触れた他の国営戦争施設と併せて見せていくことなどできないでしょうか。限られた公金を、効果的に使っていただきたいと願っています。
 二枚の写真
 最後に、資料館が保存する二枚の写真を紹介します。釜山で引揚船に乗る人々をバックアップした三宅一美氏が撮影したものです。
 © 現代ビジネス (提供:平和祈念展示資料館
 やせ細って横たわる女性は、亡くなっています。おそらく若い方ですが栄養失調のため老人のようにも見えます。霊前に、何もわからず座る赤ちゃんは、その人の子。引揚港までたどり着きながら亡くなった女性の無念が、何十年経とうと写真から立ち上ってきます。そしてこの子は、どんな戦後を生きたでしょうか。
 © 現代ビジネス (提供:平和祈念展示資料館
 もう一枚に写る子は、日本人の孤児。日々、引揚船の出る埠頭をうろついていた子だといいます。日本人世話会の最後の四人のスタッフとして現地に踏みとどまった三宅氏。彼が帰国直前に撮ったのがこの一枚。つまりは誰も、この子を船に乗せることができませんでした。ピントがぼけて細かな表情までは読み取れないのに、写真からはたしかに、諦めと悲しみがまじった視線がこちらへ届いてきます。
 冒頭、黙とうは祈るだけではない、と書きました。オモテへ出て、時を超えてこの子たちに出会い、どうか一度目を閉じて、彼らを思い、誰がこんな目にあわせたか、もう二度と起こさないためにはどうするか、それをまぶたの裏の闇の中で、いったん落ち着いて、考えていただきたいのです。
 平和祈念展示資料館
 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル33階
 開館時間:9:30~17:30(入館は17:00まで) 入館料:無料
 定休日:月曜日、祝日または振替休日の場合はその翌日、年末年始、新宿住友ビル全館休館日」 
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