🍠32〗─1─大正時代は人口爆発期で深刻問題は「多子化」だった。~No.103No.104No.105 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 多子化とは、若者が多く老人が少ない人口爆発期で、平均寿命は人生50年で、喜寿(77歳)は稀であった。
 多子化問題とは、食糧危機であった。 
   ・   ・   ・   
 2022年11月6日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「大正時代、日本の大問題は「多子化」だった
 大正時代の潮干狩り風景(写真:渡辺広史/アフロ)
 (真山 知幸:著述家)
 少子化がとどまることなく、私たちは深刻な高齢社会に直面している。子どもの数が減れば、深刻な労働力不足をもたらすばかりか、人口全体の減少によって、経済社会は活気を失っていく。また高齢層の割合が増えることで、年金制度は破綻に近づき、医療保険介護保険などの社会保障費が増大していく。
 大正時代の銀座
 少子化は、日本が抱える最も大きな社会問題といってよいだろう。少子化に悩まずに済んだ時代がうらやましくなるが、かつて大正時代の日本はむしろ「多子化」に苦しめられていた。
■ 多子化に悩んで「間引き」も
 令和3年に生まれた日本人の子どもは81万1604人。これは、データがある明治22年以降では最少の数である。これで6年連続の減少となり、少子化に歯止めがかからない。そんな今の日本から想像しにくいが、大正時代においては、むしろ「多子化」に悩まされていた。
 大正時代の前半には、年間約180万人もの子どもが誕生している。「ベビーブーム」と呼ばれる昭和22年の約270万人に比べると、それほど多くないようにも思えるが、大正時代の総人口は、現在の半分にも満たない。
 しかも、届出がないケースが現在よりも多かったことを考えると、実態は数字以上だといえるだろう。人口1000人あたりの普通出生率を見れば、大正9年の36.2をピークに、それ以降は下がる一方である。
 大正時代、既婚者の女性は5~6回妊娠するのが当たり前で、なかには10回以上出産する女性も決して珍しくなかった。しかも、当時は病院ではなく自宅で産むのが一般的で、死産も年間に十数万件あった。にもかかわらず、それだけ多くの子どもが生まれているのは、妊娠回数が著しく多かったということである。
 多子化で困るのは、やはり家計が圧迫されることだ。経済的な事情で、妊娠中絶の費用すらない場合は、生まれた後に窒息させて殺すといった「間引き」も行われていた。間引きは主に農村で行われており、それも労働力としての価値が低い、女児が多かったと言われている。
■ 「産児制限」の研究会まであった
 大正時代にもコンドームはあったが、ゴム素材で脆弱なものだった。そのほか、クエン酸、ホウ酸、サリチル酸などを用いた避妊薬もあったものの、コンドームと同じく、一般家庭に普及しているとは言い難かった。そのため、「多子」に悩む人のために、産児制限の研究会まで立ち上げられている。
 大正12年に発足した神戸産児制限研究会においては、次のような会員の悩みがあった。貴重な記録を、白梅学園短期大学教授の草野篤子氏が発掘している(『大正期の家庭生活』第3章「出産と堕胎・避妊」より。一部内容要約)。
 〈私の52円の給料と妻の10円とを合わせて約60円で、1カ月3人が暮らしていくのはかなりの苦痛である。そのうえ、私は身長166センチで、体重48キログラムに足らぬ者で、妻は肺炎と腎臓炎を患って、たいてい薬に親しんでいます。私にとっては産児制限は直面する厳粛な問題としているのです〉(下級官吏)
 〈私どもの生活は主人の日給2円50銭、月収62円内外で、4人の子どもを育てなければならないのです。周囲が極めて不衛生な所ですから子どもの生活もとにかく不養生がちで、随分とみじめなものでございます。またこれ以上子どもができては家族共倒れです〉(一般工)
 さらにいえば、人口増加自体は経済的に良いことだが、あまりに顕著だと社会構造がいびつなものになる。その現れとして、大正の若者たちは深刻な就職難に苦しむことになった。
■ 不妊女性へのプレッシャー
 大正時代の女性たちの不妊への悩みも深刻なものだった。たくさん産んで当たり前の多子化の社会だっただけに、子どもができにくい女性はなお大きなプレッシャーに晒されることになる。
 当時の新聞の悩み相談欄を見れば、子どもが授からないことを理由に夫が愛人を作り、そのことを妻から責められれば、暴力をふるって、暴言を浴びせるようなことも多かったことがわかる。
 子どもが生まれすぎては悩み、一人も生まれなくてもまた悩む──。亭主関白が当たり前の時代ということもあり、女性は大きな生きづらさを抱えていたことだろう。
■ 旧民法が生んだ「親父の威厳」
 「地震・雷・火事・親父」という言葉があるくらい、かつての親父は家族にとって恐ろしい存在だった。
 子どもができないことを妻だけのせいにして、自分勝手に振る舞えるのも、そんな親父の「強さ」があったからこそ。多子社会の背景にも、夫に求められれば、妻が拒否することは許されない力関係があったのではないだろうか。
 家族が親父の存在を恐れたのは、何も昔の父親に特別なオーラがあったからではない。単に法律上、強い権限を与えられていたからである。旧民法を紐解けば、そのことは明白だ。家長には、次のような驚くべき権限が与えられていた。
 「戸主の同意なしには家族は居所を決められない」
 「戸主の同意なしには家族は結婚も離婚もできない」
 「戸主は家族の結婚を取り消す権利を持つ」
 つまり、戸主は、家族の結婚も住所も思いのままにできた。家庭内ではやたらと威張るはずである。
■ ないがしろにされていた女性の権利
 その一方、旧民法においては、女性の権利はないがしろにされている。妻となったら、未成年者や準禁治産者、つまり、心神経衰弱者、ろう者、唖者、浪費者と同様の無能者と定められていたのだ。
 大正時代といえば、平塚らいてうをはじめ、女性が躍進した時代として知られている。だが、それは女性がひどく抑圧されていたことの裏返しといえるだろう。
 大正時代は「子どもが多かった」という点では、少子化に悩む私たちとは対極的だった。だが、当時を生きた人からすれば、いいことばかりではなかったのである。
 ひるがえって現代は女性の社会進出が進み、ようやく女性の権利も認められ始めた。また、へき地や小規模校がそのメリットを最大化するべく、教育分野でのICT(情報通信技術)活用を進めるなど、少子化を受け入れたうえでの施策にも注目が集まる。
 少子化に歯止めをかけるべく、子育てしやすい環境の整備は急務だが、成果が出るまでに時間がかかる。出生率の改善がみられるまでの間は、「少子化のメリット」にあえて目を向けて、今だからやれることを実践していくのが得策ではないだろうか。
 【参考文献】
 湯沢雍彦編『大正期の家庭生活』(クレルス出版)
 中野久夫、先崎昭雄、河田宏『大正の日本人』(ぺりかん社
 長山靖生『大帝没後―大正という時代を考える―』(新潮新書)」
 真山 知幸
   ・   ・   ・