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2022年10月17日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「近代日本が世界で覇権を握れなかった残念な理由 金融立国化できなかった「後発工業化国」の宿命
ユネスコの世界文化遺産にもなった明治日本における近代化の象徴・富岡製糸場(写真:masa /PIXTA)
明治日本は、繊維産業により産業革命に成功した。しかしそれは、日本の産業革命が欧米より遅れ、欧米の先進国では生糸や綿糸が重要ではなくなり、天然繊維を用いた工業にそこまで力を入れていなかったからこそ生じた現象でもあった。このことが意味することとは何か。
このたび『手数料と物流の経済全史』を上梓した経済史家の玉木俊明氏が読み解く。
■日本の産業革命とは?
経済学の通説では、遅れて工業化した国は、政府がリーダーシップを握り、経済を発展させる。これは、ロシア生まれのアメリカの経済学者ガーシェンクロンが主張したことであり、一般にはガーシェンクロンモデルといわれる。
後発国は、最初から最新式の機械を導入することで、急激な経済成長を可能にする。この点に関連して、殖産興業という言葉がある。殖産興業とは、明治政府が、欧米と比較した産業の遅れを取り戻そうとして、欧米の先進的な産業・技術を導入して、政府による発展を意図した政策であった。日本の産業革命を成功させたもっとも重要な産業は、繊維産業であった。
産業革命には、多額の費用がかかる。それを少しでも減らそうとすると、まず軽工業による産業革命をめざすほかない。そのなかでも日本が着目したのは繊維工業であった。群馬県にある有名な富岡製糸場は、生糸を生産していた。富岡市には生糸の原料となる繭がつくられており、ここで好立地を生かして製糸業が発展した。
また、生糸についで日本の重要な輸出品となったのは綿糸であった。
綿糸の生産については、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた(おそらく自称した)大阪が重要である。1882年に、渋沢栄一らの提案により、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(現・東洋紡)が設立された。それ以降、大阪にはいくつもの紡績会社が生まれることになった。
すなわち、三重紡績(現・東洋紡)、鐘淵紡績(旧・鐘紡)、倉敷紡績、摂津紡績(現・ユニチカ)、尼崎紡績(現・ユニチカ)をはじめとして、20におよぶ紡績会社が次々と設立されたのである。
【2022年10月17日19時49分追記】記載に一部誤りがあり修正しました。
このように日本は、繊維産業により産業革命に成功した。しかしそれは、日本の産業革命が欧米より遅れていて、欧米の先進国では生糸や綿糸が重要ではなくなり、天然繊維を用いた工業にそこまで力を入れていなかったからこそ生じた現象であった。それはいったい、どういう意味をもつのだろうか。ここでは、それについて見ていきたい。
■ドイツの産業革命
イギリスの産業革命は、18世紀後半に綿織物の生産を大きく増加させたことで生じた。それに対し、19世紀末のドイツでは化学工業と電機工業が大きく発展した。そのためドイツで高等工業専門学校や工科大学が発展し、科学技術教育がさらに進み、専門的な知識を持つ技術者が育成されることになった。
ドイツとイギリスの工業化の大きな違いは、植民地の存在であった。すなわち、イギリスは広大な植民地をもち、新世界から輸入される綿花を本国で完成品である綿織物にするというシステムを形成したが、植民地をあまりもたないドイツにはそれができなかったのだ。
そのためドイツは重化学工業に投資し、人工的にナイロンなどの化学繊維を開発したのである。綿は自然界にあったものであったが、ナイロンは自然界には存在しない。ここに、また、そういうものに知識をもつ技術者を養成するために、大学では、専門的知識がある技術者が養成された。
さらに化学工業で化学繊維が生産されることは、生産物と土地との関係が綿織物よりもはるかに希薄になるということを意味する。ナイロンの生産には、広大な土地は必要とはしなかった。繊維生産は、毛織物(動物性繊維)→綿織物→(植物性繊維)→化学繊維(人工繊維)と変化するにつれ、土地との関係を薄くしていった。人工繊維の生産に農地は必要とされず、繊維製品の生産で耕地が減少するということはなく、人口の増加はより容易になっていった。
当然のこととして、ドイツの工業化にはイギリスの工業化以上の資金が必要であった。そのために必要な資金は、巨大な銀行が提供した。
イギリスの工業化でも鉄道は重要であったが、ヨーロッパ大陸においては、鉄道はさらに重要性を増した。鉄道によって、ヨーロッパ大陸のあちこちから物資を輸送することができたのみならず、その鉄道は各地の港と直接つながっており、世界各地の商品を直接いろいろな土地へと輸送することができたのである。ヨーロッパ大陸の市場は、鉄道によって統一されていくことになった。
工業化による革新は国境を越えて広がり、地域から地域へと新産業が広まり、市場が拡大・進化していった。一種の市場統合が発生し、ほとんどすべての地域で一人あたりの所得が増大した。ヨーロッパ「大陸」では市場が一つになっていったのに対し、イギリスは植民地との絆を深め、イギリス帝国の一体化を増す傾向が見られたのである。
■コミッション・キャピタリズムの成立
18世紀後半に綿織物工業の発展により世界最初の産業革命を成功させたイギリスであったが、イギリスの貿易収支が黒字であったことは1710-1900年において、ほとんどなかったのである。「世界の工場」といわれ、綿織物工業によって世界最初の工業国家になったイギリスであったが、貿易収支から判断するなら、それはイギリス経済に大きなプラスを与えてはいなかったのだ。
19世紀後半以降、海運業からの純収入、保険や貿易による利益、サービスからの収入が増えていった。それが、イギリスが覇権国家になることに大きく貢献したのだ。19世紀のイギリスは世界最大の海運国家であり、海上保険は大きく発展した。もっとも大事だったのは、電信であった。
世界の商業取引の決済がなされる場所こそ、世界経済の中心となる。そのために、決済の中心地となる国に多額の手数料収入が流れる。国際貿易の決済ができる都市はかぎられており、その都市が、世界金融の中核であり、その都市が属する国家は、膨大な手数料(コミッション)収入を手に入れることができる。
国際貿易の決済の多くは、イギリス製の電信をもちいて、ロンドンでなされた。諸外国は、イギリスにコミッションを支払わなければならなかった。電信は、イギリス資本主義の象徴であったのだ。
■世界経済のなかの日本の産業革命
日本の産業革命は、19世紀末にはじまったとされる。しかしこの時点ですでに世界の繊維の中心は化学(人工)繊維に移りつつあり、イギリスは工業国ではなく金融立国になりつつあった。日本の産業革命は、いわば遅れた産業革命でしかなかったのである。
日本は、まだまだ欧米先進国の多くの先端技術には追いついていなかった。金融システムの発展は、さらに遅れていた。逆にいうと日本の産業革命とは、先進国が注目しなくなったニッチを巧みに利用したものともいえるのである。
言い換えるなら、日本の産業革命とは、確かにアジア最初の産業革命として重要であったが、あくまでイギリスのコミッション・キャピタリズムのなかで生じたものにすぎなかったことは認めるべきであろう。
1870年代から1930年代にかけ、アジア域内交易が盛んになり、アジア内部の交易量は大きく増えた。日本の経済成長は、アジアにおいても非常に目立った。ただし、中国とインドでも、綿織物工業は発展した。
日本の重工業化が目立ったのは、1930年代のことであり、それは軍事産業の発展がプル要因となったからだ。消費財が大きく経済を牽引して成長率を高めたのは、おそらく高度経済成長期のことであったろう。
アジア域内交易では、欧米の船舶が活躍した。アジア域内の交易の増大は、欧米の船舶と日本船に依存していた。日本郵船を創設した日本は、アジアで唯一、欧米と対抗できるほどに海運業を発展させた国であった。しかし、もっとも活躍していたのは、イギリス船であった。
19世紀初頭から第2次世界大戦勃発に至るまで、イギリスは世界最大の商船隊を有する国であった。世界経済が一体化していったのは、イギリスが世界に植民地をもっていただけではなく、世界の商品をイギリス船で輸送したからだ。
世界の貿易決済は、イギリスの電信を使ってロンドンでなされた。日本も、そのシステムに従わざるをえなかった。日本はそのために、イギリスに多額の手数料を支払うことを余儀なくされた。
日本はまだ貧しく、科学があまり発展していなかったが、おそらく賃金が欧米よりも低かったことをうまく利用し、先進国ではあまり利益が出ない天然繊維を生産したことにより産業革命が発生したのである。
すなわち、日本の産業革命は、イギリスのコミッション・キャピタリズムのシステムのなかで生み出されたのである。日本経済は、イギリスの掌に乗って成長したというべきであろう。だが、日本はイギリスの掌をうまく利用したともいえるのである。イギリスがもし世界経済の覇権を握っていなかったなら、日本の産業革命それ自体が、不可能だったと考えられるからである。
玉木 俊明 :京都産業大学経済学部教授」
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