📉8】─1─現代日本人の知性では、本当の意味での多様性も多面性も多元性も理解できない。〜No.14No.15 

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 2022年9月23日 MicrosoftNews 現代ビジネス「「多様な価値観」は絵空事現代思想が犯している本質的な誤ち いま、求められる「価値の哲学」
 竹田 青嗣
 現代思想の行きづまりを打破し、根本的に刷新する——。哲学者・竹田青嗣氏が、哲学のまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学」の扉を開くための書を目指して書いたのが、現代新書の新刊『新・哲学入門』です。同書から、相対主義を批判し、現代哲学の挫折の本質を看破する第1章の一部をお届けします。
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 相対主義の根本的な誤り
 *現代思想における相対主義は、哲学の「普遍洞察」の考えを、独断論あるいは形而上学として批判してきた。理由は一つで、相対主義自身が、認識を、「本体」の認識かその不可能のいずれかしかないと考えるためだ。しかしこれは誤りである。
 人間だけが言語ゲームによって世界を描く。その意味は、言語は世界を写す「鏡」ではありえず、ただ世界の「絵」を描くことができるだけだ、ということである。独断論相対主義は、そもそもこの事態への根本的な無理解から現われる。
 *たとえば、現代の相対主義はこう主張する。哲学は普遍認識を求めるゆえに、すなわち絶対的認識を求めるゆえに誤っているだけでなく、危険ですらある。むしろ、世界観と価値観の多様性こそが存在すべきなのだと。だがこれほど顚倒(てんとう)した考えはない。
 われわれは、現代社会において多様な価値観を必須のものと考える。それは正しい。しかしそもそも価値の多様性は、絶対専制社会においては許容されえないし、それゆえ存在しえない。むしろ、こう考えなくてはならない。「自由な社会」だけが多様な価値観を可能とする。そして、いかなる社会が多様な価値観を確保する社会となるかに答えるには、必ず普遍的な社会「原理」を必要とすると。多様な価値観があるべきだという相対主義の主張は、単なる思想上の希望、絵空事にすぎないのだ。
 *現代哲学は哲学の本質的方法を継承できず、総じて相対主義哲学の罠に陥った。そのことで、現代社会について、本質的な考察をほとんど生み出すすことができなかった。ポストモダン思想がそれを象徴する。
 第一に、ポストモダン思想は、現代社会を批判するのに、近代以後の「市民社会」それ自身を矛盾に満ちたもの、ある場合には人間の自由を抑圧、排除する支配のシステムとして描いた。これが最大の誤りであり、この前提によってポストモダン思想は、ただ現状の批判のみに終始して、矛盾の克服の方途をまったく示すことができなかった。むしろ哲学の普遍洞察が示すのは以下である。近代哲学者の構想による「近代市民社会」は、人々が生き方の自由を求めるかぎり、つまり価値の多様性を望むかぎり唯一無二の社会原理である(他にはまだどこにも見出せない)。だが近代社会から現代社会への進み行きはこの根本構想から大きく逸脱し、さまざまな矛盾を生み出した。これを批判するのに、ポストモダン思想は相対主義の方法に依拠した。その批判の要諦(ようてい)をひとことで言える。一切の既成の制度は正当性の根拠がなく、誤っており、変更されねばならないと。だが相対主義の方法からは、どのように変えるべきかの普遍的な考えは原理的に現われえない。
 本質的な批判はこうでなければならなかった。近代市民社会は、人々が自由な社会を望むかぎり唯一の可能性の原理である。「自由な市民国家」は、人々の一般意志による統治をその正当性の根拠とするが、近代国家の現実は、資本主義が特定階層の独占的支配のツールとなり、その民主主義的統治の正当性を浸食し、破壊している。それゆえ「自由な市民国家」の正当性の概念にもとづいて現在の状態が批判され、克服されねばならない、と。
 現代の社会批判の本質的根拠は、自由な市民主義としての民主主義の理念にもとづかねばならず、それ以外の批判は、正当性も現実的可能性ももつことができないのである。
 こうして現代哲学は、はじめに手にした決定的な誤謬によって、社会批判の唯一の可能性である哲学の方法自体を投げ捨ててしまったのである。
 「自由な社会」を可能にする唯一の原理
 *私は、ごく手短に、現代哲学が完全に看過してきた、近代哲学者の構想による「自由な社会」の原理の要諦をここに示してみよう。
 はじめにホッブズが「普遍戦争」の原理によって、戦争の抑止の原理を確定した。つまり、強力な統治権力(国家)だけが戦争を抑止する(それ以上の普遍的原理はまだ誰からも示されていない)。つぎにジャンジャック・ルソーが、統治権力が絶対権力ではなく、各人に自由を配分する人民権力となる原理、すなわち「社会契約」と「一般意志」の原理を提示した。「万人の自由の確保」の原理についてもこれに代わる原理はまだ存在しない(マルクス主義は「平等」の原理だけがあって「自由」の原理をもたない)。この二つは、統治権力と人民意志によるそれは、近代の「自由な社会」の政治システムの根本原理といってよい。
 もう一つ、近代社会の経済システムの原理が、これは事後的に、アダム・スミスによって見出された。
 スミスは、ヨーロッパの自由市場経済の進展から、自由貿易の促進、つまり国家間の財の普遍交換こそが諸国民の富を増大するという原理(「レッセ・フェール」)を見出した。この国家間の普遍交換のシステムは、市民国家の登場によって資本主義に転化する(これを私はスミスから受け継いで、「普遍交換−普遍分業−普遍消費」の原理とする)。
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 経済システムとしての資本主義は、人類史上はじめて登場した「生産性を持続的に拡大する」経済システム、と定義することができる。さらに重要な点は、普遍交換によって諸国家を互いに富ませるこの経済システムは、やはり人類史上はじめて現われた、国家間の共存を可能とする経済システムでもある、ということだ。
 多くの人々はこれに異議を唱えるにちがいない。かつての資本主義は、むしろその闘争的本性を露わにして世界戦争を引き起こしたし、現代の資本主義は、その競合的本性を剝(む)き出しにして共存どころかマネーの覇権ゲームとなっている。このことは誰も知っており、それゆえ資本主義システム自体への強い疑念が現われている。
 しかし、にもかかわらず私はこう主張する。「近代市民社会(国家)」の原理は、歴史上はじめて登場した、万人に自由と価値の多様性を保証する社会システムである。その政治原理は一般意志統治(民主主義)であり、その経済システムは普遍市場(資本主義)経済であって、この組み合わせは代替不可能である。
 現在の資本主義はたしかに不当な独占的経済ゲームとなっている。しかし、にもかかわらず、資本主義の普遍市場経済だけが諸国家の共存を可能にする唯一の経済システムの原理である。必要なことは、資本主義を正当な経済ゲームとして持続させることであって、それを否定することではないことを理解しなくてはならない(それは自由な社会の可能性を否認する)。
 すなわち、「近代市民社会」の政治原理だけが万人に自由を与える唯一の原理であり、また普遍市場経済の原理だけが国家間の敵対関係を宥和(ゆうわ)するはじめての原理である。そして、この二つの原理の連繫が、歴史上はじめて、「普遍暴力」の縮減の可能性の原理を示したのである。
 哲学を再生するために必要なカギ
 *くり返しいえば、現代哲学(現代思想)は、この近代社会の政治と経済の「原理」の意味を、完全に誤認し、理解しなかった。
 現代の資本主義社会が直面している大きな困難は、「近代市民社会」の原理の本質的な欠陥に由来するのではなく、むしろ「自由な社会」の原理が本質的な仕方で歪曲されていることに由来する。その最大の理由は、現代の資本主義システムが、市民社会による制御の手を離れて、覇権の原理として自らを貫徹しつつあるという点にある。この現代社会の大きな矛盾に対抗するためには、批判的像とレトリックの洗練ではなく、哲学の普遍洞察の方法に立ち戻ってその可能性の条件を捉える以外にはないのである。
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 *さて、はじめの主題にもどろう。この本の主題は、あくまで哲学の普遍洞察の方法の再生、つまり「新しい哲学」の方法原理を基礎づけなおす点にあって、当面、社会哲学の再生の試みにはない(これは拙著『欲望論』第三巻の主題となる)。
 すでに触れたが、哲学の問いの根本領域は、認識論、存在論、そして価値の哲学である。価値の哲学がとくに重要なのは、近代以後、自然哲学は自然科学へと発展的に解消し、哲学の中心主題が人間と社会の領域に移ったからである。人間と社会は、自然世界の固定的な「事実」の領域ではなく、いわばたえざる「価値生成」の領域、つまり「本質」領域である。それゆえ、近代哲学にとって、この領域における普遍認識の可能性の問いは大きな困難として現われた。人間と社会の領域でいかなる方法が普遍認識を可能とするかについて、幾度か大きな試みが現われている。まずオーギュスト・コント以後の実証主義科学、つぎに現代論理学による哲学的普遍認識の試みである。しかしこれらの試みは挫折に終わり、ここから、反哲学、反普遍認識を主張する相対主義哲学が隆盛となったのである。
 *現代哲学が哲学の本義を喪失しているのは、それが普遍認識の可能性に挫折し、それを断念しているからである。そして哲学的な普遍認識の可能性のカギを握るのは、価値の哲学の方法的な基礎づけである。『道徳の系譜』でフリードリヒ・ニーチェはこのことを指摘し(《哲学者は価値の問題を解決せねばならない》)、自ら「価値の哲学」の新しい創始者たろうとしたが、彼にその時間は残されていなかった。
 われわれの「新しい哲学」の第一の中心主題は、こうして、ニーチェの「価値の哲学」の現代的継承、すなわち哲学における普遍認識の方法の再生の試みにほかならない。
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