💫21}─1─人類絶滅の原因となる「絶滅の負債」とは?〜No.135No.136No.137No.138 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 この世に存在するモノすべて寿命が存在する。
 それは、人類とて例外なではなく何時かは絶滅する。
 人類は、死に意味を持たせる為に宗教を生み出し、死への精神的恐怖を和らげる事で生きる意味を見出し、死後の世界を想像する事で絶望を回避して日々を安心して生きてきた。
 その究極の理想的生き方が、日本民族の祖先であるヤポネシア人(旧石器人=岩宿人)、縄文人(日本土人)であるが、現代の日本人とは無関係である。
 縄文人の生活とは、自給自足・地産地消における地場の原則で、農耕に過度に頼らず、周囲にある身近な森や海の自然から得られる恵みの範囲内で質素に慎ましく生きる狩猟・漁労・採集の生活である。
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 2022年9月4日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「【人類は“絶滅”する】人類が返済しなくてはいけない「絶滅の負債」とは?
 ヘンリー・ジー,竹内薫
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 Photo: Adobe Stock
 地球誕生から何十億年もの間、この星はあまりにも過酷だった。激しく波立つ海、火山の噴火、大気の絶えまない変化。生命はあらゆる困難に直面しながら絶滅と進化を繰り返した。ホモ・サピエンスの拡散に至るまで生命はしぶとく生き続けてきた。「地球の誕生」から「サピエンスの絶滅、生命の絶滅」まで全歴史を一冊に凝縮した『超圧縮 地球生物全史』は、その奇跡の物語を描き出す。生命38億年の歴史を超圧縮したサイエンス書として、ジャレド・ダイアモンド(『銃・病原菌・鉄』著者)から「著者は万華鏡のように変化する生命のあり方をエキサイティングに描きだす。全人類が楽しめる本だ!」など、世界の第一人者から推薦されている。本書の発刊を記念して、内容の一部を特別に公開する。
 「絶滅の負債」を返済するとき
 人類が地球に与えた影響のほとんどは、ホモ・サピエンスが石炭の力を大規模に利用しはじめた、約三〇〇年前の産業革命以降に発生している。
 石炭は、エネルギーに富んだ針葉樹林の遺物からつくられる。石炭につづき、人類は石油を発見、採掘する方法を学んだ。
 石油は、プランクトンの化石が、堆積した岩石によってゆっくりとしごかれ、加熱されることで変化し、エネルギー密度の高い液体炭化水素の混合物になったものだ。
 農業によって増加しはじめた人口は、化石燃料を燃やすことで拍車がかかったが、この人口爆発は、わずか数世代のあいだに起きた。
 人類による騒乱
 二酸化炭素は、二酸化硫黄や窒素酸化物などとともに、化石燃料の燃焼によって生じる重要な副産物だ。石油の加工により、鉛からプラスチックにいたるまで、さまざまな汚染物質が放出されるようになった。
 その結果、気温の上昇、動植物の絶滅、海の酸性化によるサンゴ礁の破壊などが起きている。
 これは、マントル・プルームが有機堆積物をつらぬいて燃やし、地表に到達するのと同じくらい甚大な影響だ。
 ペルム紀マントル・プルームの噴出によって苦渋の結末を迎えたのとは対照的に、今回の人類による擾乱は、きわめて短時間で終わるだろう。
 すでに、二酸化炭素の排出を減らし、化石燃料以外のエネルギー源を見つけるための対策がとられている。
 「何かが起きた?」
 人類が引き起こした炭素の急上昇のグラフは、ピークは高いが幅は針のごとく狭く、おそらく長期的には検出できなくなるだろう。
 人類が大量に存在したのは非常に短い期間であり、たとえば二億五〇〇〇万年後には、ほとんど遺骨が保存されていないはずだ。
 きわめて感度の高い検出機器を使う未来の探鉱者たちであれば、新生代氷河時代に入って少ししてから「何かが起きた」ことを示す、珍しい同位体の痕跡を検出することができるかもしれない。
 ホモ・サピエンスは消滅する
 だが、それが何なのか正確にいうことはできないはずだ。
 今後数千年のあいだに、ホモ・サピエンスは消滅するだろう。
 その原因の一つは、長いあいだ未払いになっていた「絶滅の負債」を返済しないといけないから。
 人類の生息域は地球全体だが、人類は積極的に生息に都合の悪い環境をつくってきた。
 絶滅の理由
 人類絶滅の最大の理由は、人口の移り変わりがうまくいかないことだ。
 人類の人口は今世紀中にピークを迎え、その後減少へと転じる。
 二一〇〇年には、現在の人口を下回るだろう。人類の活動によって地球が受けたダメージを回復させるために、さまざまな工夫がなされるだろうが、人類は、あと数千年から数万年以上は生き残れないだろう。
 人類は、もっとも近い親戚の類人猿と比べると、遺伝学的にすでに著しく同質だ。
 これは、人類史の初期に何度か、遺伝的ボトルネックが生じ、その後、人口が急増したことを示している。まさに、何度も絶滅の危機に瀕した過去の置き土産だ。
 先史時代、太古のむかしの出来事により、遺伝的な多様性が足りないこと、現在の生息地の喪失による絶滅負債、人間の行動や環境の変化による少子化、より局所的な、小さな集団が直面する、ほかの集団から孤立する問題などが組み合わさり、人類は絶滅するのだ。
 (本原稿は、ヘンリー・ジー著『超圧縮 地球生物全史』〈竹内薫訳〉からの抜粋です)」

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 2022年9月5日 YAHOO!JAPANニュース 47NEWS「沖縄の人々が感じ取る、日本の政権幹部の変化 「苦難の歴史」に対する無理解を隠さない政治家たち
 政府の主権回復式典に抗議して開かれた「4・28屈辱の日沖縄大会」=2013年4月28日、沖縄県宜野湾市
 太平洋戦争に敗れた日本が、主権を回復したのは約7年後、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日だ。一方、沖縄は日本から切り離され、アメリカの施政権下に置かれた。このため沖縄では、4月28日は「屈辱の日」と呼ばれる。日本政府は今年の4月28日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、沖縄県の対応を是正するよう指示。神経を逆なでするような措置に、沖縄県関係者からは「あえてこの日にやったのでは」と不満が渦巻いた。
 今回の件だけでなく、近年、沖縄の「苦難の歴史」を知る政治家が少なくなったせいか、政府側の無理解や冷酷さが指摘されるようになった。以前の政権幹部には、考えや立場が違っても、根底にはある種の信頼関係があったという。「溝」はいつの間にこんなに広がってしまったのか。(共同通信=西山晃平)
 ▽少女暴行事件
 2013年4月28日、東京で政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が初めて開かれた。「天皇陛下、万歳」。安倍晋三首相は、出席者の声に呼応する形で両手を上げた。ただ、沖縄では式典に合わせて抗議大会が開かれ、主催者発表で約1万人が「県民の心を踏みにじり、再び沖縄を切り捨てるものだ」と怒りの声を上げた。沖縄と政府の認識の違いが、あらわになった象徴的な1日となった。
 政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で万歳する安倍晋三首相(左端)=2013年4月28日、東京・永田町の憲政記念館
 どう受け止めたのかを聴こうと、米軍キャンプ・ハンセンを抱える沖縄県金武町の吉田勝広元町長(77)を訪ねた。かつて米兵向けバーだった雰囲気の残る事務所で、椅子に深く腰かけた吉田氏は「苦しめられた日に、なぜ式典をやったのか。現場を見ない、知ろうとしない国会議員が増えた」と語り、1995年の少女暴行事件を回想した。
 事件は、米兵3人が少女を暴行。95年10月、事件に抗議し、沖縄県宜野湾市海浜公園を約8万5千人(主催者発表)が埋め尽くした。1972年の日本復帰後、残り続けた米軍による事件・事故に怒りのマグマが噴出した。
 沖縄に向き合ったのが、1996年1月に就任した橋本龍太郎首相だった。沖縄入りした橋本氏は予定時間を大幅に超過し、吉田氏ら首長の訴えに耳を傾けた。金武町の米軍ブルービーチ訓練場を視察した梶山静六官房長官も、吉田氏に「素晴らしい海だ。何とか返還を実現したい」と熱く語り、抱き合った。
 ▽摩文仁の丘
 橋本氏らの脳裏にあったのは、日米双方で20万人超が死亡し、うち一般住民が推計約9万4千人を占める沖縄戦と、その後の米統治だった。
 梶山氏は1997年に書いた当時未発表の論文に、沖縄のことを考えて眠れなくなることがあるとして「決まって目の前に浮かんでくるのが、沖縄の摩文仁の丘である。多くの犠牲者を出したこの丘を訪れた時、私は抑えようにも涙を止めることができなかった」とつづった。
 橋本氏は米軍統治を詳細に調べた大田昌秀知事の著書「沖縄の帝王 高等弁務官」に付箋を付けて読み込み、大田氏との会談に臨んだ。日米両政府は1996年4月、米軍普天間飛行場宜野湾市)の全面返還で合意する。
 吉田氏は、1970年代に社会党上原康助氏の秘書として政治キャリアをスタートさせた。橋本氏ら保守系の政治家と政治信条や政策スタンスは異なる。ただ「沖縄問題をどうにかしないといけないとの考えは同じだった。地元の声を真摯に聴く態度があった」と指摘した。
 米軍普天間飛行場の移設先、沖縄県名護市辺野古沿岸部。左は辺野古の南側の海域、手前は大浦湾=2月
 2014年12月、普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する翁長雄志知事が誕生。15年、梶山氏を「政治の師」と仰ぐ菅義偉官房長官と向き合った。翁長氏の著書「戦う民意」によると、翁長氏は、苦難の歴史に対する理解を求め「県民には『魂の飢餓感』がある」と訴えた。しかし、菅氏の応答は「溝の深さ」を感じさせるものだった。「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困りますよ」
 沖縄振興予算の性格も徐々に変容していった。「沖縄の苦労に対する祖国の償い」(初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏)とされていたはずが、基地の受け入れ態度で額が増減し「アメとムチ」とも評されるようになった。こうした政府の態度には、辺野古移設容認派の保守系政治家でさえ「沖縄は地上戦で焦土と化し、戦後は米統治下に置かれ、高度経済成長から置いていかれた。基地問題とのリンクは違うだろう」と漏らした。
 ▽祝賀とはほど遠く
 沖縄は今年、日本復帰から50年の節目を迎えたが、祝賀ムードとはほど遠かった。4月28日、沖縄県北端の国頭村と、鹿児島県南端の与論町与論島)を出港した船計約20隻が海上に集まる集会があり、基地負担解消などを訴えた。
 ただ、国頭村辺戸岬で開かれた「祖国復帰50周年記念式典」では、頭上を米軍機が何度も飛来。騒音で関連の催しが一時中断する場面もあり、復帰後も残ったままの負担を印象づけた。日没後、かがり火をたく集会で、復帰運動で歌われた「沖縄を返せ」を合唱していた女性は「日の丸を振り、祖国の誇りを持って復帰した。米軍基地を減らさないといけない」と語った。
 一方、政府はこの日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、県が不承認とした「設計変更申請」を認めるよう是正を指示。辺野古反対派の1人は「あえてこの日を選んで命令したのではないか。国は冷酷で非情だ」と話した。
 「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」から3年後の16年4月28日には、元米海兵隊員で軍属の男が、うるま市で20歳の女性会社員を殺害した。遺族と交流のある吉田氏は、命日には基地に隣接した遺体発見現場に献花台を設置し、祈りをささげる。
 吉田氏は、草の生い茂る遺体発見現場に記者を案内した際、こう嘆いた。「沖縄でこんな事件や事故が繰り返されているのに、政府は解決策を示さない。日本の主権は本当に回復したのか」(肩書は当時)」
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