🗡29〗─2─陸軍、海軍、民間の三者共同開発した日本唯一のロケット戦闘機「秋水」。~No.95No.96 

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 学者・科学者達は、国民の責任・義務と技術者の好奇心・探究心で、戦争に勝つ為に軍部に協力して敵に打ち勝つ最新兵器開発に協力していた。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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 2022年7月7日 MicrosoftNews 乗りものニュース 「›› ミリタリー ›› 日本唯一のロケット戦闘機「秋水」初飛行-1945.7.7 陸海軍がタッグ組んだ激レア機
 日本唯一のロケット戦闘機「秋水」初飛行-1945.7.7 陸海軍がタッグ組んだ激レア機
 乗りものニュース編集部
 tags: 航空, 軍用機, 戦闘機, 秋水, Me163「コメート」, 旧日本海軍, 旧日本陸軍, 三菱重工
 七夕の日にたった1回の飛行に成功。
 開発期間わずか1年、短期間で誕生した戦闘機
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月7日。三菱航空機(現三菱重工業)が開発したロケット推進戦闘機「秋水」が初飛行しました。
 「秋水」は「局地戦闘機」、いわゆる迎撃機として誕生した飛行機で、開発に際しては、1944(昭和19)年7月にドイツから潜水艦によって運ばれてきた、メッサーシュミット製Me163「コメート」ロケット戦闘機の資料が基になっています。ただ、ドイツから来た資料は機体外形の3面図と、ロケット燃料の成分表、取扱説明書などしかなかったため、日本の独自開発の部分も多々あります。
 そのため、機首部分やキャノピーの形状は異なるほか、主翼は木製に変更されており、翼幅も延長され大きくなっています。
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 旧陸軍と旧海軍が共同開発した試作ロケット推進戦闘機「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 また特筆すべきは、日本の軍用機としては極めてまれな陸海軍共同開発だという点です。旧陸軍と旧海軍は、各種新兵器の開発において共同で行った例はほぼなく、軍用機に関しても同じような機体を別々に開発・生産していました。
 そのようななか、「秋水」については比較的早い段階から合同で研究を始めており、機体製作は海軍主導で、ロケットエンジンについては陸軍主導で開発することを決めています。
 ちなみに、実機の試験飛行を行う前に、全木製の軽滑空機「秋草」が造られ、滑空テストが幾度となく実施されます。1945(昭和20)年1月にはロケットと武装がない以外、「秋水」とほぼ一緒の重滑空機が造られ、こちらも試験や乗員養成などに用いられました。
初飛行に成功、でもトラブル発生で不時着・大破
 なお、陸海軍共同開発とはいえ実験部隊の創設などを進めていた海軍が、陸軍に先んじて試験飛行を行う栄誉を獲得。こうして「秋水」は、1945(昭和20)年7月7日、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場(現在の日産自動車追浜工場)で試験飛行を迎えることとなります。
 当日の午後4時55分、試製「秋水」は滑走を開始。滑走距離約220mで離陸し、初飛行に成功しました。ただ、高度350mほどで機体後部から出る炎が黒煙になり、エンジンが停止。滑空して滑走路に戻ってきたものの、飛行場の手前を流れる鷹取川の川岸に接地し、バウンドしたのち飛行場西端に不時着します。
 機体は大破、エンジンは爆散したため、機体自体は2号機以降も造られていたものの、それらは飛行せずに8月15日の終戦を迎えています。
 旧陸軍と旧海軍が共同開発した試作ロケット推進戦闘機「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 そのため、日本唯一のロケット戦闘機「秋水」が空を舞ったのは、7月7日の初飛行ただ1回にとどまりました。
 なお、機体は終戦までに三菱航空機で4機、日本飛行機で3機の計7機が完成しています。これらのうち何機かはアメリカ本土に送られ、調査に供されています。そして2022年現在、カリフォルニア州チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に、世界で唯一となる「秋水」が保存・展示されています。
 ほかにも、名古屋市港区の三菱重工大江工場内にある「大江時計台航空史料室」に、復元された機体が展示されています。
 【了】
 ※誤字を修正しました(7月7日18時35分)。」
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 ウィキペディア
 秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機である。ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
 概要
 正式名称は試製秋水。海軍の略符号はJ8M、陸軍のキ番号はキ200である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、1943年(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、1944年(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。
 秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された[2]。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(軍用機の命名規則を参照)。
 歴史
 開発まで
 第二次世界大戦中、日本とドイツの技術交流は、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。両国の人的交流、物的交流は、インド洋を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。日本側は酸素魚雷や無気泡発射管、水上飛行艇などの海軍技術情報と、生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資を、ドイツはジェットエンジンロケットエンジン、ウランなどの兵器の技術情報を日本に供与した。
 1944年4月、日本海軍の伊号第二十九潜水艦は ロケット戦闘機 Me163Bと ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262の資料を積んでドイツ占領下フランスのロリアンを出発し、7月14日に昭南(シンガポール)に到着したものの、出港後バシー海峡アメリカ海軍のガトー級潜水艦「ソーフィッシュ」に撃沈されてしまった。
 しかし、伊29潜に便乗した巌谷英一海軍技術中佐が昭南から零式輸送機に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。だが、もたらされた資料は本機のコピー元であるMe163Bの機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、燃料噴射弁の試験速報、中佐直筆の実況見分調書のみであった。そのため、設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。
 1945年に入り、高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、高々度用の過給機を装備していない従来の日本軍レシプロ戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。レシプロ戦闘機と異なり、ロケット戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。したがって高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つ。そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。
 手に入ったMe163Bの設計資料が不十分であるため、日本の技術で補完する必要があった。同機の機首部に見られる発電用プロペラは搭載せず、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造やキャノピーなども日本独自の設計となる。主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。機体の特徴である無尾翼はすでに東京帝国大学航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は1940年(昭和15年)より陸軍航空技術研究所で開始されていた。この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によってイ号一型甲無線誘導弾、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。
 さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と水化ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。
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 2021年8月18日 MicrosoftNews 東京新聞「父はロケット戦闘機「秋水」搭乗員だった…75年目に息子が偶然知った死の任務 「生き残ったから私の命がある」 
 父弘一さんの写真を眺める伊東信也さん=埼玉県川口市
 終戦間際、米軍の爆撃機B29迎撃の切り札として開発されたロケット戦闘機「秋水」。埼玉県川口市の会社員伊東信也さん(65)は、20年前に亡くなった父が搭乗員だった事実を、昨年知った。エリートパイロットだったことを誇りに思う半面、死と隣り合わせの任務と分かり、複雑な思いにかられた。「父は命を懸ける気持ちで搭乗員の仕事に就いたのだろうか」 (垣見洋樹)
◆同僚から「それ、秋水じゃないですか」
 海軍時代の伊東弘一さん(伊東信也さん提供)
 父の弘一さんの任務を知ったのは偶然だった。昨年末、再就職先で会った同僚との雑談で、父が海軍で特殊な戦闘機に乗っていたことを話した。軍事に詳しい同僚が「それ、秋水じゃないですか」と指摘した。
 関連する本を読みあさると、父の名前や写真が出ていて驚いた。ある研究者からは「隊員はエリート中のエリートだった」と言われ、誇らしくも感じた。
 秋水は1944年、日本軍がドイツから持ち帰ったロケット戦闘機の図面を基に、陸海軍と三菱重工業が協力して製作した。高濃度過酸化水素を推進剤とし、B29が飛行する高度1万メートルまで約3分半で到達できる能力が特徴。欠乏する石油を使わないことから、形勢逆転を目指す軍が目の色を変えて開発したとされる。
 2001年に復元、公開されたロケット戦闘機「秋水」=愛知県豊山町三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所で
◆「生還」する想定も「敵機の餌食になるのでは」
 弘一さんは大阪出身で、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大)で学び、海軍の飛行兵を志願した。44年8月、秋水に搭乗する部隊への配属を言い渡され、訓練に明け暮れた。
 秋水は急上昇した後は短時間で推進剤を使い果たし、その後はグライダーのように滑空して「生還」する想定だった。伊東さんは資料を読むうち、疑問に突き当たった。秋水がB29を攻撃できたとして、推進剤のない滑空状態では敵機の餌食になってしまうのではないか。
 弘一さんの同僚パイロットだった男性の著作には、上官から隊員に説明があったと記されていた。「機首に爆薬を搭載し、敵編隊の真ん中でボタンを押して自爆する戦法を採る」。伊東さんは衝撃を受けた。
◆実戦に使われることなく終戦
 お国のために命をささげるのが当然の時代ではあった。それでも、20代だった父の心境は想像がつかない。「なぜ海軍の飛行兵を志願したのか」「生きて帰ってこられるとは思っていなかったんじゃないか」
 秋水は45年7月、初の試験飛行にこぎ着けたものの、不時着して大破。実戦に使われることなく終戦を迎えた。
 弘一さんは戦後、埼玉県内で市会議員を務め2001年に81歳で死去した。戦争体験を話すことはなく、子育ては自由放任だった。
 「父が生き残ったからこそ、私の命がある」。その幸運は偶然にすぎないのだと、父の経歴を知った今はより強く感じている。
 秋水 ドイツのメッサーシュミットMe163Bロケット戦闘機の設計図を基に、旧日本軍が開発した日本初のロケット戦闘機。推進剤は過酸化水素ヒドラジンなど。乗員1人、全長9・9メートル。最高速度時速800キロ。30ミリ機関砲2門を備え、B29迎撃のため高度1万メートルまで上昇し、上空で5分半の動力飛行が可能という仕様だった。
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ファインモールド 1/48 日本海軍 局地戦闘機 試製秋水 プラモデル FB19