🍠20〗─1─歴史教科書は逆差別として日本人「からゆきさん」を認めず切り捨てている。~No.60 * 

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 日本人のからゆきさん、ジャパゆきさん、娘子軍慰安婦
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 歴史教科書は朝鮮人慰安婦を記載しても日本人「からゆきさん」は切り捨てている。
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 現代の日本人は、朝鮮人慰安婦には同情するが、日本人の慰安婦、からゆきさん、ジャパゆきさんには同情しない。
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 2022年7月17日 MicrosoftNews BOOKウォッチ「売られた少女。戸籍まで......。教科書に載らない日本の女性たちの歴史
 © BOOKウォッチ
 「からゆきさん」という言葉をご存じだろうか。明治から大正、昭和の初め頃まで、九州の西・北部で使われていた言葉で、海外に出稼ぎに行く日本人労働者を指した。
 「からゆき」の「から」は「唐」のことだが、その行先はさまざまで、大正に入る頃には朝鮮ゆき、シナゆき、シベリアゆき、アメリカゆきなどに分かれた。男性も商人や土工・石工などとして働きに出たが、さかえたのはもっぱら娼館の女性たちだった。それで、「からゆきさん」は海外で性労働に従事する女性たちを意味するようになった。
 今年6月に亡くなったノンフィクション作家・森崎和江さんの代表作、『からゆきさん』の文庫判が緊急重版となった。教科書に載らない女性たちの壮絶な歴史を伝える、貴重な作品だ。
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 身近にいた「からゆきさん」
 森崎さんが出会い、本書を書くきっかけとなった「からゆきさん」は、友人の義理の母・おキミさんだ。本書は、おキミさんの「からゆき」体験や森崎さんから見た当時の姿を追いながら、膨大な資料をもとにさまざまな境遇の「からゆきさん」を描いていく構成となっている。
 現代の私たちから見ると、戦前の出稼ぎ労働者というととても遠い存在に思える。しかし本書の「わたし(=森崎さん)」からすれば、友人の母という身近な存在だ。「わたし」の目を通して「からゆきさん」の歴史を追うと、一人一人の体験がまったく他人事でないように思えてくる。
 本書の初版は1980年だ。森崎さんがおキミさんを見知っていたのは、執筆時から見て「二十年ほどむかしのこと」だそうなので、1960年より少し前ということになる。おキミさんが朝鮮へ渡り「からゆきさん」となったのは、1912年、16歳のときだった。
 あのおっかさんが、わたしを棄てた......
 おキミさんは5歳か6歳の頃、見世物小屋へ養女に出され、16歳のときにまた小屋から朝鮮の男のもとへ養女に出された。当時は貧しい家の子どもが売られるのは当たり前で、奉公に出るのは生みの親に対する孝行だという価値観もあった。
 しかし、売られるといっても、国内の奉公であれば生みの親との縁は切れず、「育ての親が増える」という感覚だったそうだ。ところが、おキミさんや一緒に朝鮮へ行く少女たちが船に乗り込んでしまったあと、悲しい事実が判明する。「からゆき」となった彼女たちは戸籍上でも生みの親との繋がりを抹消され、朝鮮の男の娘になっていたのだ。
 (以下引用)
 死んでもゆくところがない......。これは売られたのでなくて、棄てられたんだ。あのおっかさんが、わたしを棄てた......。
 (以上引用)
 「からゆき」の少女たちは、1人500円(現在の約1000万円)で売られた。彼女たちを売る人々は暴利を貪るのだった。娼館での労働は過酷だ。おキミさんは当時、自分が20歳になることが想像できなかったという。「からゆき」の少女たちは、ほとんどが20歳になる前に命を落としていたからだ。
 歴史の背後に、このような女性たちの犠牲があったという事実は、フェミニズムの機運が盛り上がっている今こそ広く伝えられるべきだろう。
 「からゆきさん」は、あたたかいふるさとの言葉
 「からゆきさん」は、当時の新聞上では「密航婦」「海外醜業婦」などと記されていた。金儲けのための密航であることに変わりはなく、「密航婦」という呼称に間違いはない。それでも、ふるさとの村ではどんな密航でもあたたかく「からゆきさん」と呼んだ。
 本書の中でも、森崎さんは「からゆきさん」を、単なる事実の羅列ではなく、一人一人の「からゆきさん」にクローズアップして生身の女性の体験として描いている。
 朝鮮へ渡ったおキミさん。上海の娼館からシンガポールを経て、インドで財を成したおヨシさん。プノンペンでフランス人と結婚したおサナさん。そのほか、成功したり、若くして亡くなったりと、さまざまな運命をたどった「からゆきさん」たち。もし時代が違えば、私も......そんな実感とともに、かつて日本の女性たちに何があったのかを、目を背けず知ってほしい。
 (以下引用)
森崎和江(もりさき・かずえ)さんプロフィール
 1927年朝鮮慶尚北道大邱府(現韓国大邱市)生まれ。詩人、作家。17歳で福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)に入学するまで、植民地時代の朝鮮で過ごす。丸山豊らの詩誌「母音」に参加し、58年に谷川雁上野英信らと雑誌「サークル村」を創刊。59年には雑誌「無名通信」を刊行。61年に初の単行本『まっくら』を出版。以後、『第三の性』『闘いとエロス』など、数多くの作品を発表する。2022年、逝去。著書に、『語りべの海』『森崎和江コレクション 精神史の旅』、中島岳志との共著『日本断層論』など多数。
 (以上引用)
 ※画像提供:朝日新聞出版
・書名:からゆきさん
・サブタイトル: 異国に売られた少女たち
・監修・編集・著者名: 森崎和江
・出版社名: 朝日新聞出版
・出版年月日: 2016年8月 5日
・定価: 682円(税込)
・ISBN: 9784022618740
(BOOKウォッチ編集部)」
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 貧しい日本は、日本人女性を売春婦として中国や東南アジアに輸出していた。
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 日本人で特に従軍慰安婦問題に関わる日本人は、おぞましいほどに冷血で薄情である。
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 日本には奴隷制度がなかったが、日本人は奴隷として中国や東南アジアその他の国や地域に売られていた。
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 世界は、慰安婦にされた朝鮮人や中国人などには同情しても、奴隷として売られた日本人女性には冷淡である。
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 朝鮮人女性や中国人女性は慰安婦であった。
 日本人女性は奴隷であった。
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 誰も、奴隷として売られた日本人女性の事は気にしない。
 奴隷として売られた日本人女性は、忘れ去られた。
 所詮、奴隷にされた日本人女性である。
 世界がよく口にする「日本人だから」という真意はそこにある。
 もし「日本人だから」といわれたら、「昔、日本人は奴隷として売買されていた」という意味がある事を思い出すべきである。
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 日本人人身売買で金儲けをしていたのは、白人キリスト教徒と中国人である。
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 現代日本ヒューマニズムジェンダーも女性の人権を求めているのも、全てが真っ赤な嘘である。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 からゆきさん
 家が貧困のため海外出稼ぎに出た多くの女性たちのこと。アメリカ大陸への出稼ぎは「あめゆきさん」ともよばれた。『天草子守唄(あまくさこもりうた)』の歌詞にある「から(唐=外国)行き」が語源で、女性哀史的存在の「天草女」や「島原女」に代表される。すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により天草女は妻妾(さいしょう)や売春婦として東南アジアなどに行ったが、明治維新以降アジア太平洋戦争の敗戦までの日本の大陸進出・南洋開発活動に伴い、シベリア、満州(中国東北)、朝鮮から台湾、東南アジア、太平洋の各地に至る外地のあちこちに日本人業者による組織的売春業が展開された。「醜業婦」として蔑視(べっし)されつつも家計への仕送りのため密航する者もおり、総計万単位の数のからゆきさんがいた。[深作光貞・滝澤民夫]
 『山崎朋子著『サンダカン八番娼館――底辺女性史序章』(文春文庫) ▽森崎和江著『からゆきさん』(1976・朝日新聞社) ▽山崎朋子著『あめゆきさんの歌――山田わかの数奇なる生涯』(1978・文芸春秋) ▽倉橋正直著『北のからゆきさん』(1989・共栄書房) ▽倉橋正直著『からゆきさんの唄』(1990・共栄書房) ▽倉橋正直著『島原のからゆきさん――奇僧・広田言証と大師堂』(1993・共栄書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 から‐ゆき【唐行き】
 明治から昭和初期にかけて、多く天草諸島あたりから南方諸国に出稼ぎに出た女性たちのこと。からゆきさん。
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 からゆき【唐行き】
 明治から昭和初期にかけて、九州の天草諸島付近から南方など外地へ、多く売春婦として出稼ぎに行った女性。唐行きさん。
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 ウィキペディア
 からゆきさん(唐行きさん)は九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことを指す(「唐」は、広く「外国」を意味する)。
 女性たちは長崎県島原半島熊本県天草諸島出身が多く、海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。

 概要
 からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ぴんぷ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。女衒の記録として長崎出身の村岡伊平治による『自伝』がある。女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。
 こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女らの存在は「国家の恥」として非難されるようになった。英領マラヤの日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し、やがて海外における日本人娼館は姿を消していった。からゆきさんの多くは日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
 からゆきさんの主な渡航先は、シンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地である。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。また、さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。

 からゆきさんの労働条件
 『サンダカン八番娼館』に描かれた大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。
 普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。
 現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

 語源
 森崎和江によれば明治時代の九州で、娼婦に限らず海外へ出稼ぎに行った男女を「からゆき」と呼んでいた(シベリア鉄道建設の工夫やハワイ移民も含む)。大正時代頃から主に東南アジアへ行った娼婦を呼ぶようになった。
 昭和10年代には映画『からゆきさん』(1937年)の上映があり、また第2次世界大戦後は評論家大宅壮一のルポに「からゆきさん」の紹介があるが、一般的に知られた言葉ではなかった。広く知られるようになるのは山崎朋子『サンダカン八番娼館』(1972年)以降である。
 派生語の「ジャパゆきさん」は1980年代初めの造語で、20世紀後半、逆にアジア諸国から日本に渡航して、ダンサー、歌手、ホステス、ストリッパーなどとして働く外国人女性を指して使われた。
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 ジャパゆきさんとは、アジア各国から日本に出稼ぎに来る女性のことを指して呼んだ語である。1983年頃、流行語になった。

 語源
 明治時代以降、九州島原などの貧しい女性が、経済的に繁栄する東南アジアの港湾都市などに送り込まれ、娼館で娼婦として働き、郷里に送金していた。九州ではこれらの女性を「からゆきさん」と呼んだ。
 山崎朋子のノンフィクション文学『サンダカン八番娼館- 底辺女性史序章』や、その映画化作品である1974年公開の映画『サンダカン八番娼館 望郷』(東宝、原作山崎朋子)の中で、まずしい田舎の女性がボルネオの娼館で働く「からゆきさん」が描写され、よく知られるようになった。日本から東南アジアへ渡った「からゆきさん」との対比で、アジア各国から日本(Japan)へ出稼ぎに来た女性に対して「ジャパゆきさん」という造語が生まれた。

 背景
 日本への出稼ぎ女性が増えた背景として、日本の経済が伸び、世界的な経済格差が大きくなったことがあげられる。日本で半年も働けば国へ帰って家が建てられると言った話が広がり、日本で働くことにあこがれや夢を抱く女性が増えた。
 日本の水商売にエンターティナーとして女性達を連れて来るプロモータービジネスが、利益の高い商売であったことと合致し、当初はフィリピン、後に東南アジア各国の女性をタレントとして来日させるようになった。

 社会問題
 当時はまだ外国人女性がめずらしいこともあり、とまどいと好奇程度であったが、1980年代前後から急激に増えた事で、多くの問題が出てきた。具体的には、風俗への流出、不法滞在(いわゆるオーバーステイ)、売春強要、タコ部屋労働、給与不支払い、暴力団介在などである。これらによって、悲惨な状況に追い込まれた女性も多くある。
 こうした被害女性は不法滞在が多く、被害を警察に訴えられないため、潜在的には相当の数に上ったと見られ、こうした人たちの人権を守るため、1980年代以降、多くのボランティア団体が人権保護のために活動している。

 現在
 日本で働く外国人女性の数が非常に増え、すでに珍しい存在でなくなったこともあって、「ジャパゆきさん」という言葉も死語になりつつある。
 また、雇用する側、される側において人権問題への認識が高まり、法体制の変化もあって前述の様な被害に遭うケースは減少してきている。しかし、不法滞在や差別、法的不備など、解決すべき問題も残されている。

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