🌌55}─1─SDGs。持続可能性とは、環境の変化に対する生物の変化を阻害しない事である。~No.266No.267No.268No.269 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 人間が作り出している地球の温暖化は進んで行く、人ができるのは気温上昇を止める事ではなく上昇を緩やかにする事である。
 植林して自然破壊を止め、プラごみを減らす事である。
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 2022年7月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 『変化』という宿命
 錯乱する環境下での動物たち
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 人間はいま、かつてのどの生物にもできなかった速度で地球上を忙(せわ)しなく駆けめぐっている。パンデミックを通して私たちがまさに思い知らされている通り、こうした人間の移動によって動かされているのは、人間ばかりではない。植物や動物、細菌やウイルスもまた、何百年かけてつくられていく生物種の地理的な分布の壁を超え、すさまじい勢いで相互に新たな接触を始めている。
 人間の活動がどれほどの勢いで旧来の生物の分布を崩壊させているのか、正確に想像することは難しい。たとえば船舶のバラスト水だけでも、24時間で約1万種の生物を運んでいるという。観光客や旅行者が移動するときにもまた、衣服や荷物や靴に付着した種子や菌類や微生物が運ばれていく。人間の移動によって、世界中の生態系が、高速にかき混ぜられている。
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 人間によるこの放縦(ほうじゅう)の環境の撹乱(かくらん)に、生き物はただ翻弄(ほんろう)されるばかりではない。生物は新たな環境にしたたかに適応し、進化していくのだ。うまく適応に成功した場合、人間が作り出す人工の生態系は、その種にとっての新たな生存の適地となる。
 進化生物学者メノ・スヒルトハウゼンの著者『都市で進化する生物たち』(岸由二・小宮繁訳、草思社)には、人間が作り出した都市環境に適応して、見事な進化を遂げている生物たちの例がいくつも紹介されている。ロンドンの地下鉄に適応して独自の進化を遂げた蚊(か)や、向かってくる車を避けるために短い翼を獲得していったツバメなど、都市環境に生物たちは想像以上に急速に適応し、進化していることがわかる。
 『手つかずの自然』は現実的か
 かつてあった自然を懐かしむこともできるが、世界人口の過半数が都市に暮らし、地球の隅々が人間活動によって改変されていくこの時代に、『手つかずの自然』に回帰しようとする発想はもはや現実的はないのかもしれない。むしろ、人間によって撹乱された環境に生物が適応し(あるいは適応に失敗し)ていく様子をつぶさに観察することから、人間と人間でないものとの新たな協働の可能性を探し出していくことはできないだろうか。
 そもそも、『手つかずの自然』こそが、生態学的に望ましい状態であるという発想を手放すべきだと論ずるアメリカの作家エマ・マリスは、著書『「自然」という幻想』(岸由二・小宮繁訳、草思社)のなかで『多くの植物は撹乱に耐え得るばかりでなく、撹乱を受けてかえって繁茂(はんも)する』と指摘している。
 原生林のように優占(ゆうせん)する樹種が決まってしまっている生態系は、一定以上の多様性を扶養(ふよう)できない。むしろ、原生林のように『停滞』した生態系をしばしば自然災害が襲い、もしくはときに人間が大胆に手を入れていくことによって、システムに揺らぎを生じさせることができる。そうして初めて、それまでの森林では生きられなかった種が新たに生息できる可能性が開けていく。森のなかに、倒木によって樹冠(じゅかん)に隙間が生じるまで成長できない種や、火災を経験して初めて種子の発芽が可能になる種まであるという。
 都市と自然を真っ向から対立させてしまう発想は疑ってみる必要がある。意外なことに、都市はしばしば、都市周辺の農村に比べて、よち多様な生物が生息できる空間になりつつあることを示す研究もある。農業の生産性や合理性のために生態系の均質化が進む農村に比べて、都市の一見すると乱雑で不自然な環境は、多くの生物を受け入れられるキャパシティを持つ小規模な生態系の多様で多彩なパッチワークなのだ。
 たとえば銀座のビルの屋上で2006年以来養蜂(ようほう)を続けている『銀座ミツバチプロジェクト』は、都市が農村や奥山に住めなくなった生物にとって新たな生息場所となっていることを実証している。……
 ビルの屋上とミツバチという組み合わせは一見意外に思えるが、ミツバチの視点になってみると納得がいく。ビルの屋上とはいえ、そこは浜離宮や皇居などの豊富な蜜源が飛行圏内にある良好な環境だ。山村に比べて農薬も少なく、熊に襲われる心配もない。スギやヒノキなど蜜を出さない人工の針葉樹林で覆われた奥山に住めなくなりつつあるミツバチにとって、ここは魅力的なすみかなのである。
 人間の活動が、地球環境をかき乱し、多くの生物種の生存が脅かされていることは紛れもない事実だ。他方で、人間が作り出した環境が、他の動物の生息場所を奪うだけでないことも忘れるべきではないだろう。人間が作り出す空間が、他の動物にとってもまた、新たな生息場所となる可能性があるのだ。
 このような可能性を極限まで考えてみるとどうなるだろうか。建築家の竹村泰紀は、著書『地球第三の森』(紫州書院)のなかで、未来の都市が、森林やサンゴ礁などと連携しながら、気候変動のなかでも生物圏全体の成長に貢献する『第三の森』になる可能性大胆に構想している。その出発点にあるのは、『環境負荷を縮小するばかりが生態系に貢献するとは限らない』という認識だ。
 たとえば『森』はいまでこそ豊かな自然の生態系の象徴のように思われているが、森を構成する樹木はもともと極めて環境負荷の大きな植物であった。実際、樹木はその巨大でしなやかな構造を支えるためにリグニンと呼ばれる木質成分を多く含んでいる。樹木が登場してからおよそ1億年の間、リグニンを含む植物遺体をうまく分解できる生き物はなかった。だから、倒木や落ち葉などはひたすら大地の上に蓄積されていく一方であった。まるで現代のプラスチックのように、ほろびた樹木は自然によって分解できないゴミとして土の上に堆積していったのである。
 樹木はこうして、大規模に環境を侵害する一方で、多くの生にとっての生息地や栄養の供給源ともなった。したがって、『環境負荷はその方向性によっては、その負荷がない状態より豊かな生態系を育(はぐく)むことがありうる』のだと竹村は語る。『人工的な環境が場合によっては自然状態以上に豊かな生態系を形成する』可能性だってあるかもしれない。
 現状の『持続』が本当に正しいのか
 『持続可能性』という言葉に私がどうしても違和感を覚えてしまうのは、ある特定の生物種にとって都合のいい生態系が、いつまでも『持続』することは決してあり得ないからだ。環境も、そこに住む生物も変わり続ける。生物の歴史は、いつまでも『持続』するものなどないことを教えてくれる。仮に真に持続するものがあるとするなら、それは、生物の絶えざる『変化』そのものだろう。
 人間がこれまでの生き方や価値を手放すことなく、いままでと同じように暮らせる環境を求めてそれを持続させようとするだけなら、それは生命の尊重どころか、生命の生命たらしめている変化そのものの拒絶にもなりかねない。
 私たちはこれまで経験したことがないほど、急速な環境の変化に直面していく。すでに、地球史上6度目の大量絶滅の時代が始まっているとも言われる。死を直視することなく生を考えることができないように、絶滅を直視することもなく、生命を考えることが不可能な時代がすでに始まってしまっているのかもしれない。
 私たちは死とともに、絶滅とともに、つまりは、自分がやがては自分ではくなるというラディカルな変化の可能性とともに生きていく必要がある。だとすれば、試されているのは、『変化』という宿命を、どこまで受け入れていくことができるかなのだろう。
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 変わることは容易ではないのだ。だがそれでも、変化を拒(こば)むのではなく、現状を『維持』させるだくでもなく、大胆に変わり続けることに耐えられるような、自己と生き方を編み出していきたい。」
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 自然の見方は、日本と西洋とでは違う。
 西洋の自然とは、絶対神が創った原生自然と科学研究で解明される自然環境である。
 日本の自然とは、人=俗と神=神聖の境界・間にある人の手が加わっている里山環境(林)と神々が宿る・鎮座する神聖不可侵の原生自然(森)であった。
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 日本民族にとって自然とは、「生」として全ての始まりであり、「死」として全ての終わりであったが、過去も現在も未来もこの自然の中にあった。
 里山は、穢してはならない宗教儀式の場であった。
 原生は、神話がいきづく冒してはならない神聖な場であった。
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