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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
護憲派、人権派が守ろうとしているのは、人命・人道・人権ではなく理想的平和主義に基づいた日本国憲法とその法律であり、政府や国が理想に燃えた自分達の意向に逆らうような現実に即した行動を取らないように縛る事であった。
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令和4年7月号 正論「現行憲法では人命は失われる
河田恵昭
わが国おける過去30年間の災害による年間平均死者数は、約1,000人である。でも、1995年阪神・淡路大震災では、6,400余人、2011年東日本大震災では、行方不明者も入れると2万2,000余人と、1災害で一気に20倍にも膨れ上がる。これが火災や交通事故死とは違うところである。しかも、将来、首都直下地震や南海トラフ巨大地震が起これば、政府発表によれば前者で2万3,000人、後者で23万1,000人にもなると想定されている。最近の筆者の研究によればさらに数倍にも膨れ上がる。だから、何としても阻止しなければならないのだ。
筆者は、防災研究を47年継続し、研究成果は実践的でなければならないと考えている。成果が実用レベルで共有されておれば、2つの大震災で失ったおよそ2万6,000人の命の大半が助かったのだ。人命救助の壁になっているのは憲法だ。だから、憲法改正を実現しなければならない。
災害多発国・日本
なぜ日本国憲法に緊急事態条項が必要なのか。理由は簡単である。制度は形と明確な機能を持っている。そして、緊急事態条項のない日本国憲法は、形もおかしく、大災害に国民を助けるという機能も不全に陥っているからである。国政を担う政治家や法律学者の多くは、この事実に気がついていない。災害の現場で何が起こっているかを知らないからである。大災害時に国会議員の任期延長や国政選挙をどうするのか、内閣総理大臣の権限を拡大し、有効期限を延長する事案は、これに比べると大した問題ではない。
もっと議論が必要だと主張する国会議員は、自分自身に直接関係するから、かまびすしいのだ。法律学者は、世界の憲法の約90%には緊急事態条項が明記されているが、災害を視野に入っているものは約50%であると報告している。世界の約200ヵ国のうち、災害が多発する国は、およそ60ヵ国で30%である。災害多発国では、例外なく緊急事態条項を備えていると考えてよい。しかも、過去約30年だけを取り上げても、先進国の中でわが国は災害による犠牲者が断然多く、社会経済被害は米国に次いで2位に位置する災害大国であるにもかかわらず、条項として明記されていないことが問題なのである。 子のような事情があるから、たとえば2011年東日本大震災が発生し、直後に約1万6,000人が犠牲になっても、想定外の巨大津波に対して、津波防波堤が低く脆弱だったことを理由に挙げてている。原因はそうではないのである。地震が起こり第一波の津波が来襲するまで、最短でも約30分も避難に使える時間があったことがわかっている。しかし、津波水域に住んでいた住民のおよそ27%は避難しなかった。なぜか。私たちは『正常化のバイアス』という本能をもっている。嫌なことは起こらないという偏見である。気象庁からの大津波警報情報発令下で、市町村から避難指示や勧告が発表されても、住民は、自分は関係がないとか、死ぬわけはないという類の盲信である。
なぜ、支持や勧告よりも強い意味をもつ避難命令という言葉が使えないのか。それは日本国憲法に明記されている基本的人権の尊重に反するという理由があるからだ。避難命令に従わなければ死ぬかもしれないという緊急時に、基本的人権を優先するというのはどう考えてもおかしいのである。
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1961年災害対策基本法が施行されるまで、避難命令という言葉が使われ、それに従う住民は30%を超えていたのである。最近の筆者の研究によっても、東日本大震災時の大量死は、社会現象の『相転移』が発生したことが原因であることが明らかになった。社会現象であれば、事前対策が可能であるはずだ。
災害時も基本的人権を優先?
わが国は戦後の1945年から59年に到る『災害の特異時代』の15年を経験している。そのうち、13年間にわたって自然災害による毎年の死者が1,000人を超えたのである。その最後が1959年伊勢湾台風であった。死者は5,098人、経済被害は当時の金額で約5,000億円、国家予算のおよそ17%であった。この15年間は、大災害を経験するごとに、その復旧をどうするかが政治的に大きな課題であり、何らかのルールが必要ということになって、1961年に『災害対策基本法』が施行されることになった。
この法律の成立過程から考えて、災害後の社会的混乱をいかに早く沈静化するのかを目標とした法律であった。したがって、事前対策は不可能で、しかも原形復旧が基本であった。そして、この法律と日本国憲法との関係から、それまで使われていた避難命令という言葉は使えないことになった。
……
この法律が施行されて1995年阪神・淡路大震災が起こるまでの約30年間は、幸いなことに死者数が1,000人を超えるような大災害は起こらず、並行して高度経済成長を経験し、わが国の防災力も格段に大きい国になったと誤解した。これは政治家や経済人だけでなく国民の多くもそのように考えた。ところが、この震災で6,000人を超える犠牲者が発生し、被害額が10兆円に達する巨大災害となって、たちどころに防災力が不足していることに気づかざるを得なくなった。ところが、この防災力の不足は災害対策基本法の限界でもあることに気づかなかった。
その証拠に、この法律の附則は施行後60を超えているが、内容の変更に係る改正は、この震災後に激増しており、さらに2011年東日本大震災以降も抜本的な改正を重ねてきているのである。これは基本法の改正によって何とか対応できると考えているからである。災害対策基本法は、災害時の人的、物的被害を小さくするのではなく、災害後の円滑な復旧が目標で、しかも大災害が必ず発生するという前提に立った法律ではないということに気づいていない。気づいていないから、現行の基本法の改正でお茶を濁すのである。気づけば、当然、日本国憲法を改正しなければならないはずである。
大災害時の国民主権
日本国憲法では、基本的人権の尊重のほか、国民主権が謳われている。わが国は民主主義国家である。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって、改めて専制主義国家でないことの幸せを享受している。民主主義とは、〝自助〟、すなわち自分でできることはじぶんでやる、ということである。これが根底にあってこそ国民主権が担保されると言ってよいだろう。
東日本大震災から11年を経過したが、被災地の復興は道半ばである。なぜか。
災害対策基本法は復興が最重要課題という位置づけではないからである。防災基本計画は、災害対策基本法第34条の基緹に基づく政府の防災対策に関する最上位計画である。ここに『復旧』についで『復興』が加えられたのは阪神・淡路大震災後である。しかもその内容は抽象的であり、かつ非常に簡単に記載されている。復興の目的は、被災者の生活再建である。何が困るのか。災害時の国民主権の具体的内容が記述されていないために、結果的に生活再建が無視されていることである。
その一つは、災害時の自助努力の重要性が指摘されていないこと、ほかの一つ再来が視野に入っていないことである。……
……災害が再び起こると考えれば、当然ながら事前対策が必要であろう。ところが災害対策基本法ではこれができないのである。これに関して、現在、政府は国土強靱化を集中的に実施しているが、これはわざわざ期限付きであると断っている。大災害が発生した時の国民主権の具体的な内容が日本国憲法に記載されていないからだ。
災対法で対処可能という誤解
すでに、首都直下地震や南海トラフ巨大地震が起これば、現在の災害対策基本法下では対処できないことを示した。これらの災害が起これば国難災害となることはおよそ20年前から開始した筆者が中心になって解析を進めた結果わかっている。……
地震や台風は自然現象である。これが私たちの生活する地域で発生し、あるいは来襲すると被害が発生する。災害は社会現象である。……社会現象であれば、私たちはその減災努力が功を奏することを期待できる。わが国ではかつて〝天災〟という言葉を使った。それは私たちの防災・減災努力が及ばないという意味を強く有していた。……
……
前述したように災害対策基本法の上位に、大災害を想定していない日本国憲法が位置するという構図が、逆にわざわざ憲法で明記するほど重大な被害が起きないという考えつながっている恐れがある。繰り返すが、私たちは誰もが正常化の偏見のバイアスをもっているから、災害は起こった欲しくないと考えている。それに従えば、憲法に明記する必要はないとなってしまうのである。
このようなバイアスに負けないためにも日本国憲法に明記し、詳しくその内容を記述して重要性を認識する工夫が必要だろう。仮に改正するとなれば、緊急事態条項の発令基準やその具体的な内容も同時に示し、間違っても詳しい内容は法令で対処するような構造になってはいけないのである。しかも、災害後の最重要課題が被災者の生活再建であることを明記して、それが国民主権と深く関係していることも具体的に説明しなければならない。そうすると、大災害に際して発令する緊急事態条項は、事前対策から災害直後に留まらず、事後対策までの全課程を対象としたものであらねばならない。
そして、それぞれに関して具体的内容も記述する必要がある。そうしないと政府の裁量の内容がその時の価値観によって大きく変化するという危険が内在することになろう。要は、災害対応の全過程に対する政府の構え方が、日本国憲法に緊急事態条項として明記され、それを実行すれば防災・減災に寄与することを明確にすることである。
防災省創設で減災に効果
……災害時に発生する『相転移』現象の発見と減災の実用化である。水が温度によって、固体の氷、液体の水、気体の水蒸気に急変するように、災害時に社会的条件によって相転移が起こっていることを発見したのである。
たとえば1923年関東大震災で10万5,000人も犠牲になったのは、首都圏では江戸時代からの木造密集市街地のまま都市が膨張したから、広域延焼火災を起こしたのである。阪神・淡路大震災は、地震時の老朽木造家屋の全壊・倒壊が直後の犠牲者約5,000人をもたらした。2011年東日本大震災では、浸水域の約27%の住民が避難しなかったのが原因である。
……
このように考えると、災害時に社会現象としての相転移が起こるかどうかを事前に調べ、起こるとすればそれを事前対策で起こらないようにすればよい。……そして、相転移の原因は一つとは限らず、複数あるとすれば、より事前対策は効果を発揮することになろう。
……」
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自然災害に対する科学的合理的的防災思想において置かれた自然条件が違う為に、日本、アメリカ、欧州は三者三様で異なって当たり前である。
その象徴的被害が、東日本大震災における福島第一原発事故で、防災対策はアメリカの暴風と竜巻対応であって、地震・津波、台風・洪水ではなかった。
フランスやイギリスなどの欧州も異なった防災思想で防災対策を行っているが、日本では採用できない。
建設当時の日本は、自然災害の違いという事実を忘れていた、さもなくばアメリカの建設計画書に異議や反論を申し立てられなかった、の何れかである。
何れにせよ、戦後の日本人から民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力による災害史が欠落していた証拠である。
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日本は日本に何時核ミサイルを撃ち込んでくるか分からない中国共産党政府・ロシア・北朝鮮に包囲されているのに、日本人は何時起きるか分からない核戦争に備えた核シェルターを各地に建設して普及させようとはしない。
現代日本では「備えて憂いなし」は各種の安全神話で死語となり、現代日本人は「備えなければ何も起きない」と確信している。
その考え方は、理想的平和主義憲法の根幹となっている。
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現代の日本人は、自然災害・疫病・飢饉・その他が起きて生活基盤が破壊されたら、政府・国や自治体が助けてくれる、救済してくれる、保護してくれると確信している。
その為に、自分から無理して何かをしない方がいいと。
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2022年7月号 Voice「独裁国家と闘う
経済制裁ではロシアを止められない
吉崎達彦
用心深いロシア人と『甘ちゃん』の西洋諸国
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その若き日の佐藤氏が日本に帰ってきて語ってくれた感想は、『こんなに油断をしている国で良いのか』ということであった。『たとえばモスクワの普通の市民だと、3DKくらいのアパートのうち一室は食糧倉庫ですよ。そしてダーチャと呼ばれる別荘で家庭菜園をやって、野菜は自給しています。それくらい用心深い』と話していた。
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とはいえ、これは後年になってロシアの地で実体験して初めてわかったのだが、あの過酷な自然環境のなかで生きていくためには、『コストを度外視して安全保障重視』にならざるを得ないのだ。日本のようなのどかな国に居るから、われわれは効率性を追求できる。そのうえで、『起きてほしくないことは考えない』という呑気な国民性を醸成(じょうせい)されるのである。
……エネルギーも食料も自給できないうえに、日米同盟がなければシーレーンの確保もおぼつかない。
さらに他国から攻撃を受けようものなら、狭い国土に戦略的縦深などもとめるべくもなく、人口が密集した都市部はまことに脆弱である。が、この国はしんあことは気にかけずにやってきた。あまり痛い目に遭っていないからだろう。なにしろ『よその国が攻めてきたら、降伏すればいい』などと真顔で言う人が居るくらいだ。」
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架空・幻想・ウソ「安心神話」と悪しき「言霊」には、嫌なことは起こらないという偏見の「正常化のバイアス」という本能が働いている。
ユリウス・カエサル「人派みたいと思う現実しか見ない」(『ガリア戦記』)
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現代日本では、科学的合理的各分野の安全神話で、「備えあれば憂いなし」や「情けは人の為ならず」はもはや死語となっている。
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2022年6月24日号 週刊金曜日抜粋「ジェンダー情報 国連女性の地位委員会報告会 災害リスクの削減にもジェンダー平等が必要。」
森友里歌『(竹林保全活動をよおしての女性のリーダーシップ論)集団活動をする中でスキルや能力について、男女の差はないと実感しているが、社会にはジェンダーの壁があり、女性自身も消極的になってしまうのが現状。女性がリーダーシップを発揮するためには、自己肯定能力の形成と多様性が大切になっくる』
大村昭子『東日本大震災避難所運営に女性の視線が入らなかったことで、「生理用品を男性が配布しているので取りに行けなかった」「女性だからと一日中炊き出しに駆り出された」など、さまざまな問題が浮き彫りになった。』
堀内光子『日本は災害大国であるにもかかわらず、災害時におけるジェンダー平等という視点が足りていない。意思決定の場にもっと女性を増やしていかなければいけない』
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日本人の女性は、体力では男性にはかなわないが、その他多くの面では男性より優れている。
が、全ての女性が男性より優れているわけではなく、全ての男性が女性に劣っているわくではない。
昔から、女性は山の神であり夜叉であり、男が最も恐れる色香を振り回す傾国の美女も存在する。
男性は、亭主関白でありダメ亭主であった。
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常在戦場と覚悟をしていた大名・武士は、平時であっても戦時を想定し、いつ合戦・戦争が起きてもいいように3年分の軍資金と兵糧を備蓄していた。
甚大な被害と夥しい犠牲者を出すような自然災害・疫病・飢餓・その他が発生すれば、軍資金と兵糧は領民とくに年貢を納める百姓(納税者)や特産品を作る技能集団である部落民達の救済に当てられた。
納税義務のない町人達を救済したのは、幕府や大名ではなく町の豪商や仏教寺院であった。
つまり、持てる者(金持ち・お大尽さん)が、お天道様・世間様への恩返し、いい事をすればいい事がめぐってくる(善因善果・情けは人の為ならず)という宗教心・公徳心・道徳心、助け合いの精神から、持たざる者・貧しい者を助けた。
それは、西洋のキリスト教的ボランティアとは違っていた。
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縄文時代。阿蘇山や桜島などの九州火山群の度重なる大噴火による大火砕流と大量の火山灰そして地球規模の気象異常で、西日本に住んでいた縄文人の大半が死滅し、東日本の縄文人は幸運にも生き延びた。──それは偶然・まぐれであって必然・当然ではなかった──西日本で辛うじて・幸運にも助かった縄文人達は生きる為に難民となって東日本へと移住し、東日本の縄文人は彼らを温かく受け入れて雑居し乱婚して混血児を産み人口を増やしていった。
それは、大陸の宗教的国家的、政治・軍事・経済・外交の要請による人口問題としての「産めよ、殖えよ、地に満ちよ」とは本質的に違う。
そして、海面が下がって陸続きとなった大陸や半島から、数多くの人や動物が移動してきた。
縄文時代が争いのない平和な時代であったのは、巨大な自然災害で幾度も絶滅の縁に追い込まれながらも生きてきたからである。
昔の日本民族の遺伝子には、自然災害の中を逃げ回った縄文人の「共に助け合いながら生きる・生き残るという生き方」が刻み込まれていた。
日本列島の自然は恵として、生き残った縄文人に十分な食べ物を与えていた。
そこには、宗教的な絶対神の奇跡や恩寵はなく、ただただ自然の営みだけが存在していた。
生んで増え自然の食べ物を有り難く頂き食べて生きる、それが日本列島に生きる日本民族の宗教的自然的人間的な神聖な行事・祭祀・儀式であった。
それが、日本の自然崇拝宗教であり、啓示宗教や信仰宗教が生まれず根付かなかった原因でもある。
つまり、幾ら絶対神を信仰して熱心に祈った所で、火山の一つが突然消えるという奇跡は起きず、大地震や大津波に襲われても必ず助けて貰えるという恩寵はないのである。
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現代日本人が好んで語る、「歴史を教訓とする」や「温故知新」そして「イノベーション」は空念仏で現在の現実の日本(1990年代以降の日本)には存在しない。
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理想的平和主義の9条憲法とは、魚が棲めない栄養素や不純物のない透明度が高い清き流れである。
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理想的平和主義憲法では、戦争を食い止めて国を守る事はできないし、自然災害・疫病・飢餓・その他から国民を守り助ける事はできない。
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現代日本の政府、国会、官公庁、地方自治体、企業、メディア、学者・専門家などが各分野での架空・幻想・ウソ「安心神話」と悪しき「言霊」(悪い事を口にすると悪い事が起きる)で災害に対する対応力・即応力を衰えさせている事は、平成7(1995)年1月17日の阪神淡路大震災や平成23(2011)年3月11日の東日本大震災・福島第一原発事故で明らかとなった。
起きてほしくない事は、言わないし、考えない。
何時か必ず起こるであろう首都直下大地震や南海トラフ巨大地震などの大災害に対する備えも十分とは言えない状況である。
古い言葉で言えば、必ず不測の事態は起きる、思わぬ所から敵が現れて攻めてくる、それに備える常在戦場という覚悟の「いざ鎌倉!」を失っている。
それが、平和ボケである。
つまり、現代の日本人は武士・サムライでも百姓でもなく、ただ平々凡々の有り触れたサラリーマンや労働者にすぎない。
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現代の日本人と昔の日本人とは、姿形、話す日本国語、生活習慣や風習が同じであっても別人のような日本人である。
何処がどう違うかと言えば、現代の日本人は昔の日本人のように民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、西欧キリスト教の世界基準・欧米資本主義のグローバル標準をもって日常生活から数万年前からの自然崇拝宗教と数千年前からの民族中心神話=皇室神話を無意味・無価値として排除しているからである。
現代日本で古日本人(縄文人)らしい生き方をしているのは、近現代的日本を拒否しているアイヌ民族アイヌ人だけである。
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理想的平和主義の日本国憲法とは、人災は多くあっても天災の少ないアメリカのエリート(自由・民主主義者、マルクス主義者、共産主義者)と生死を司る全知全能で天地創造の創り主・唯一絶対神を信仰する敬虔なアメリカ・キリスト教徒が、誰も反対できない絶対真理の理想主義で作りあげた倫理・人権重視、人命軽視の人工憲法であった。
つまり、「左頬を殴られたら文句も抗議もせず右頬を差し出せ」的な自己犠牲を求める憲法である。
そして、目の前の敵が最初の攻撃を仕掛けるまで一切手を出さず待ち続けるという、専守防衛(本土決戦・一億総玉砕)の真の姿である。
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日本人と中国人・朝鮮人とは違い、ましてや欧米人など大陸人とも全然違う。
同じ人間でも違う人間であり、幾ら話しても誰からも理解されないし分かってもらえない、それ故に日本人は孤独である。
理解されない分かってもらえないという悲しく哀れな状況は、現代日本の日本人の間でも起き、それはリベラル・革新・保守の政治や左翼・左派、右翼・右派などのイデオロギーに関係ない。
その主たる原因は、見たいモノしか見ていない、安心できるモノ以外は無価値として切り捨てている、からである。
この傾向は、戦争の中を生きた戦前の保守的日本より平和の中を生きている現代のリベラル的日本に強い。
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第9条の日本国憲法の存在意義とは、国家として国益や国民の人権・人命を守る事ではなく、誰も否定できない理想的平和主義というイデオロギーを守る事にある。
護憲派や人道派とは、理想的平和主義のイデオロギーを守る舶来的渡来的外来的ガードマンの事で、海外から移植された借り物の憲法精神を守るという任務は外国の誰かから授かった反天皇反民族反日本的「神聖な御仕事」であった。
つまり、在来的でもなければ、土着的なものでもなく、生え抜き的なものでもなく、民族の歴史・文化・伝統・宗教からすれば座りが悪く馴染めない異質・異物に過ぎなかった。
何故か、日本列島に住む日本民族が最も恐れ戦く本当の脅威とは、西洋や中華などの大陸とは違って、人間が願望・欲望でつく作りだ宗教・哲学・思想・イデオロギーではなく、人智を越えて防ぎようのない甚大な被害と夥しい犠牲者を生み出す理不尽な自然災害・疫病・飢餓・その他である。
その意味で、第9条の日本国憲法には、数万年前の石器時代・縄文時代から荒れ狂っている自然災害・疫病・飢餓・その他への憂慮、配慮そして対策は存在しない。
大陸国家であれば、個人主義・個人の自由・私的好き嫌いで、難民として国外へ逃げ出す事ができた。
島国国家では、難民として海を渡り海外へ逃げる事がでず、集団主義・運命共同体として皆と一緒に、好き嫌いや良い悪いに関係なく、生きるも死ぬも一蓮托生として寄り集まって動くのが定めであった。
が、現代の日本人(特に1980年代後半以降の日本人)には、そうしたジェポネシア人・縄文人(日本土人)・弥生人・古墳人から受け継いできたはずの民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない。
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