🗡20〗─2・A─アメリカ軍は日本陸軍を「上陸作戦のプロ」と認めていた。~No.63No.64 

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 特殊揚陸艦神州丸」。
 上陸用舟艇「大発」「小発」「装甲艇」。
 陸軍空母「あきつ丸」。
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 2022年4月6日 MicrosoftNews 乗りものニュース「米軍も認めた「上陸作戦のプロ」旧日本陸軍 なぜ太平洋戦争で崩壊? 空を押さえられた兵站の末路
樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター) 洲
 昭和初期の揚陸作業の実態
 太平洋戦争中のアメリカ軍は、日本陸軍のことを「船から陸地(Ship to shore)への上陸作戦技術を完全に発展させた最初の国」と、高く評価していました。しかし、上陸作戦は戦闘部隊を敵地に上陸させるだけでは完結しません。戦闘部隊の機能をフルに発揮させるために後方支援部隊を揚陸させ、さらにそれが島であれば、海上輸送によって部隊を維持するための物資を常に送り込まなければならなかったのです。ここでは、日本陸軍が行っていたそれらの作業の実態を見ていきます。
 【写真】空の守りのないなか、敵の攻撃にさらされる上陸部隊
 © 乗りものニュース 提供 フィリピンのレイテ島オルモック湾の泊地付近で激しい爆撃を回避する旧日本陸軍の特殊船(輸送船)「高津丸」(画像:アメリカ陸軍)。
 今でこそ、海上流通の主力は大型コンテナ船になっていますが、それ以前はコンテナに収納されていない様々な貨物を積む「バラ積み船(bulk carrier)」が海上流通の中心を担っていました。旧日本陸軍の輸送船として活躍した高速貨物船の「ニューヨーク・ライナー」もこうしたバラ積み船です。
 また港湾荷役は、直接岸壁に船を付け、岸壁のクレーンか自船のデリック・クレーンを使用して荷の積み下ろしをする接岸荷役と、港の沖合に船を泊めて、デリック・クレーンなどで艀(はしけ)に荷物を積みかえる沖荷役のふたつがあります(より正確には艀荷役)。
 アジアや太平洋の島々は港湾能力が低いか全くなかったことから、それら地域を主戦場にした旧日本陸軍は、この沖荷役をもっぱら揚陸作業の主体としてしました。
 そのため、旧日本陸軍は上陸作戦の基本的教範となった『作戦要務令第四部』をもとにして、様々な教範を制定するとともに、いくつかの港湾作業を行うための部隊を編成しています。
 代表的なものは、大発などを運用する船舶工兵部隊を集約した「揚陸団」、港湾業務全般を仕切る「停泊場司令部」または「停泊場監部」。港湾作業を行うとともに桟橋や倉庫を仮設する「水上勤務隊」「陸上勤務隊」などです。また、よりローカルな輸送を行う、「海トラ」とよばれた小型貨物船や、漁船を徴傭(ちょうよう、チャーターの意)した「海上輸送監視隊」や「海上輸送隊」も編成されました。これらは地味な部隊でしたが、揚陸作業にはなくてはならない部隊だったのです。
 太平洋戦争時の荷役効率はどの程度?
 では、実際の荷役効率はどの程度だったのでしょうか。
 太平洋戦争劈頭のマレー半島上陸作戦では、シンゴラで第一線の戦闘部隊である歩兵6個大隊を約30分で揚陸させています。ついでタペーでは3個大隊を1時間で。強襲上陸になったコタバルでは3個大隊を4時間かけて揚陸しました。かなりのスピードのように思えます。では師団全体で、戦闘部隊の人員だけでなく、すべて上陸させるには、どのぐらいの時間がかかったのでしょうか。
 まず接岸荷役です。これは港湾設備が貧弱なアジア・太平洋地域では、ほとんどが船のデリック・クレーンを使用して行われました。この場合の荷揚量は、1隻あたり1日で1000tでした。これが沖荷役の場合は約800tに低下します。また軍隊輸送船に取り付けた荷重20tのデリック・クレーンだと、1時間あたり馬30頭、一般的な貨物40t、火薬類で15tが荷揚できました。
 なお1個師団の軍需品は、「一会戦分」と呼ばれる、師団が3~4か月の間戦うことができる目安とされる量は、各種弾薬・食料・馬料などの軍需品のみでおよそ1万tにのぼりました。
 師団全部と軍需品を積んだ輸送船団(排水量15万総トン)からすべてを沖荷役で揚陸するためには、海岸から2~3kmのところに泊地を置き、5日ほどの日数が必要でした。「大発」と呼ばれる上陸用の舟艇などを使用してどんなに素早く戦闘部隊を上陸させても、そのあとに続く、部隊の能力をフルに発揮させるための後方部隊や物資を揚陸させるには、これぐらいの時間がかかったのです。
 戦場で崩壊する揚陸作業
 当然ながら、こうした揚陸作業には、味方の航空部隊が上空で航空優勢を確保していることが前提になります。太平洋戦争においてそれが崩れ始めるのが、1942(昭和17)年の8月からはじまったガダルカナル島をめぐる戦いからでした。
 このとき、同島の飛行場が完成直前にアメリカ軍に占領されたことから、日本軍は、はなから敵の航空優勢下での強行輸送が求められました。このため、最後は、輸送船が沈まないように海岸に擱座させるという手段まで取られましたが、たとえば10月10日に行われた第三十八師団の輸送では、揚陸のための泊地を中心に11隻中7隻が沈没し、残りも5日後の15日までにすべて失われています。
 © 乗りものニュース 提供 フィリピンのリンガエン湾に上陸する旧日本陸軍の部隊。逆光だが、手前に大発が、後方の洋上に輸送船が見える(画像:大東亜戦争写真帖)。
 旧日本陸軍にとっては、これがガダルカナル島への最後の大規模な輸送船団を使用した作戦となりましたが、それよりも先にガダルカナル島へ上陸した第二師団も同じような目にあっており、さらには補給も満足に届かない状態でした。使用した輸送船は排水量換算でのべ95万総トン。隻数にして157隻でしたが、その損失は約50%にのぼっています。
 よく知られるように、前線の兵士は飢え、「ガ島(ガダルカナル島)」は「餓島」となりました。そして、これはガダルカナル島だけではありませんでした。1942(昭和17)年の終わりから翌年までのニューギニアへの軍隊輸送は、揚陸のための泊地で船が撃沈されるだけでなく、すでに輸送途中にも沈められるようになったのです。ここでは3万68総トンの船が失われました。
 使える荷役時間は「1日4時間」
 その後、「国軍決戦」とよばれたフィリピンのレイテ島を巡る戦いでは、旧日本陸軍は同じように敵の航空優勢下を強行輸送し、数多くの輸送船を失いました。
 1944(昭和19)年10月末から始まった「多号輸送作戦」では多号第二次輸送が、味方の航空優勢下で実施されて成功したことから、次々と行われ、のべ11万4008総トン24隻が使用されましたが、喪失割合は65%、海軍の輸送艦艇も入れると75%が帰って来ませんでした。そして、ここでも多くの兵士が戦うまえに飢えて死んでいったのです。大岡昇平の小説で二度にわたり映画化された『野火』の戦場が、ここレイテ島でした。
 ガダルカナルニューギニア方面の船舶参謀であった三岡健二郎は、戦後、次のように述べています。敵の航空優勢下で海上輸送をする場合、月のない夜を選ぶため「一ヶ月は15日」。敵の行動半径外から日没後に泊地に進入し、日の出前に離脱するため「一日は四時間」。そしてこの短い時間で揚陸するため排水量1万トンの船を使っても240tの物資しか陸に揚げることができないため、「一万トンは二四〇トン」と――。
 優れた揚陸能力を持っていた旧日本陸軍でしたが、安全な揚陸作業の前提となる航空優勢を失ったときから、兵士を飢えさせ、満足に戦えない状況に陥ったといえるでしょう。敵であるアメリカ軍から高い評価を受けていたにもかかわらず、旧日本陸軍海上輸送だけでなく、それを締めくくる(そしてもっとも危険な)揚陸作業にも最終的には失敗したのです。」
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