🍙29〗─4・A─歌舞伎・片岡仁左衛門一家殺害事件。食糧難・食糧不足での人情が仇。昭和21年3月。~No.192 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 食糧難・食糧不足によるひもじさから生まれた、他人への「食べ物の恨み」は怖い。
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 2022年2月6日号 サンデー毎日サンデー毎日が見た100年のスキャンダル
 1946(昭和21)年 深刻な食糧難
 歌舞伎『片岡仁左衛門』一家殺し『凶行の原因は食の恨みから』
 ラジオから『♪カムカムエヴリバディ~』の節が流れ始めた1946(昭和21)年、終戦後の日本に吹いた新風は半、庶民の骨身に応える冷たさがあった。極端なインフレと深刻な食料難の中、一見世俗とは別世界と映りがちな梨園で生臭い事件が起きていた。
 本誌こと『サンデー毎日』の創刊から半世紀の歩みを記した『週刊誌50年』に昭和20年代からの定価が載っている。1946(昭和21)年1月は35銭、前年8月の終戦時点から5銭の値上げだ。だが早くも2月には60銭、9月に1円の大台に乗り、47年新春は3円と1年間で10倍になった。
 46年の本誌2月10日号では『10円の値打』と題し、東京の闇市で10円払えば何が買えるかを特集した。卵2個、海苔1帖(じょう)、イワシ丸干し7匹・・・。海苔の2枚で週刊誌が3冊買える値段に記事は『ベラ棒』と怒る一方、闇市を〈一面必要欠くべからざるもの〉と書く。配給制度が破綻する中、闇市は後ろ暗さを脱ぎ捨て、『人民市場』と呼ばれた。
 政府は同じ頃、インフレ抑制の目的で『新円切り替え』を実施。1世帯の生活費を月500円とする『500円生活』が強いられた。
 〈最低生活はどうにかできたが、いままで余裕のあった階級の人々の生活はひどく窮屈に〉なった(前掲『週刊誌50年』)。その窮状を象徴する事件が同年3月16日に起きた、歌舞伎の12代片岡仁左衛門(当時63歳)一家5人殺しである。逮捕されたのは、殺された子守の女性の実兄で、仁左衛門宅に同居していた22歳の男だ。当時の新聞記事によると、男が語った犯行の動機は食事での『差別待遇』だった。仁左衛門夫婦が3食を食べているのに、男は昼抜きの2食。しかも1食は粥(かゆ)だった。つまみ食いをして夫人に叱られたり、配給の酒やたばこを取り上げられ、日ごろから反感を募らせていたという。
 当時でも〝ありえない〟事件
 本誌同年4月14日号の記事の見出しには〈〝仁左殺し〟顚末記 凶行の原因は食の恨みから〉とある。今時分、『食の恨み』と大量殺人を一直線に結ぶことにはためらいが残る。同7日号で本誌次長の千歳雄吉はこう書いた。〈殺された人物が梨園の大立者であり、社会的に知名な人であったというばかりでなく、(中略)、加害者の殺害動機が食糧不足にあったという点で、これはいままでに見られない社会問題を提起した〉
 当時でも〝ありえない〟事件であり、そこに時代の狂気を嗅ぎ取っている。また千歳は男が粗末な2食しか与えられなかったことに注目する。〈仁左衛門の家庭では、配給量の食糧でぎりぎりの食事をしていたということになる。(中略)現在の配給食では、もし正確に計量生活をするならどんな家庭でも、この仁左一家の食事より余計には食べられぬというのが本当であろう。そこに問題がある〉
 本誌記事によると、片岡家は『新円生活』で切迫し、『闇買い』もしなくなった。さらに仁左衛門が〈警察に応急米を貰いにゆくのを承知しなかった〉(4月14日号)ため、男の心が急速にこじれていったという。
 食糧不足でより困窮したのは、片岡家のように同居人を多く住まわせていた家だ。ちまたでも弟が兄の家から追い出されたり、学生が下宿を断られたりした。前出の千歳は〈人情が紙より薄いと道学者は嘆くだろうけれど、そんな人情などではどうにもならぬほど現在の食糧事情は深刻になっている〉と述べる。実際、くだんの男は事件直前の3月15日夜、仁左衛門から強く叱責され、『出て行け』と言い渡されている。
 新円切り替えが行われた同年2月は折しも、NHK朝ドラ『カムカムエヴリバディ』のモチーフの一つ、ラジオ『英語会話』の放送開始と重なる。新しい明日への期待に胸を躍らされる一方、利己的でないと今日を生きていけない時代。『カムカム』とばかりも言っていられなかった、と書くのは筆の滑り過ぎだろう。
 ライター・堀和世」
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 片岡仁左衛門一家殺害事件(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)は、1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件である。
 概要
 1946年3月16日、東京都渋谷区千駄ケ谷で歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかる。殺されたのは、片岡仁左衛門(当時65歳)、その妻で元日活女優の小町とし子(当時26歳)、四男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)である。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。特にとし子は頭部をめった打ちにされていた。
 捜査線上に浮かんだのは、殺害された女中(当時12歳)の兄・X(当時22歳)で、事件直後から行方が分からなくなっていた。捜査本部はXを指名手配。3月30日、逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕された。
 捜査によって、Xは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、戦後間もない当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、とし子との諍いや、事件直前に仁左衛門がXを「座付き作家としてセンスがない」などと罵倒したことが犯行の動機になったと伝えられている。
 また、Xは薪を使った炊き出しをさせられていたのに対し、夫妻は電気コンロを使って蓄えた米をたくさん食べていた。さらに事件前日にはこれまで渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられたうえ、夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られた。そしてせっかく出した原稿も「これでも作家か!」と罵倒され、憤激を抱えたままXは床に就いた。その翌日の早朝便所に行った後、薪割り用の斧につまずいた後で5人を殺害したという。そしてXは台所にあった米飯とザラメを食べ、国民服に着替えたうえ家にあった現金を盗んで現場から逃走した。
 Xはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時から逃走に至るまでの記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学医学部精神科教授の内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。
 1947年10月22日、Xは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。それにも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Xの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。
 Xのその後については明らかにされていない。
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 日本民族は、自然で採れる、自然で作られる、自然の食べ物で生きていた。
 儒教で生きる中国人や朝鮮人は、信、義、礼、孝などの徳目を食べ物よりも優先して生きていた。
 キリスト教を信じる西洋人は、パンよりも信仰を優先していた。
 マルクス主義共産主義を信ずる人々は、イデオロギーを優先していた。
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 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
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 アメリカが唯一の大国と言われる理由は、他国に頼る事なく自国内だけで食糧、物資、エネルギーを輸入せず自給できるからであり、もし足りないものがあれば北米、中米大陸、カリブ海で他国の妨害を得ずに手に入れる事ができる。
 アメリカは、地理的条件、地政学から唯一侵略されない絶対安全国家である。
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 江戸時代までの日本は、外国から生存に必要な物資を輸入しない、頼る事がない地産地消の完全自給国で、その為に気象異常で凶作が起きると飢饉が発生して夥しい人々が餓死していた。
 日本は近代化と共に食糧・物資・エネルギー(石油)の輸入国に転落した。
 明治から昭和前期にかけて、日本は、経済が発展し産業が盛んになると大量の石油と資が必要となり、人口爆発で人口が急速に増えると国内生産では賄えなくなった。
 明治以降の日本は、大凶作に襲われても食糧を緊急輸入して餓死者を出さなくなった。
 輸入国家日本は、食糧・物資・エネルギー(石油)を外国で購入する為に外貨を稼ぎ、アメリカやイギリスなど西洋諸国内で日本資産を増やしていた。
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 国際通貨は米ドル貨・英ポンド貨・仏フラン貨などで、日本円貨は通用しなかった。
 日本の貿易で重要であったのが、アメリカとイギリスに貯めた在外日本資産であった。
 アメリカ・ウォール街、イギリス・シティー、オランダ・アムステルダムの金融を支配していたのは、ユダヤ系国際金融資本であった。
 そして、世界の食糧・物資・石油などを支配していたのは、アメリカとイギリスの国際資本であった。
 世界戦略からいえば、食糧・物資・石油は最有力な武器であった。
 輸入国家日本の命綱 は、輸出産業で稼いだ外貨を貯めた在外日本資産であった。
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 日本は、アメリカに依存し、アメリカ経済に寄生して生きている。
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 日本が大国になれない理由は、生きる為に必要な食糧と経済に必要な物資・資源生産と生活に必要なエネルギーを自給できず海外で米ドル建てで購入し、金融・経済、情報・サービス、インターネット、運輸、輸送、その他の各種サービスをアメリカに頼り、海上輸送・空輸の安全をアメリカ軍に依存しているからである。
 日本は、何一つとして自国だけで自力で賄えない。
 つまり、日本は如何にアメリカに抗(あらが)おうとも日米安保体制という軛(くびき)から逃げ出せない。
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 戦前の日本はその深刻な現実を自覚するが故に、経済安全保障として、自給自足の大東亜共栄圏(円貨ブロック経済圏)を自力で作ろうとした。
 太平洋戦争とは、軍国日本の領土拡大の為の侵略戦争ではなかった。
 事実、昭和前期は人工爆発と凶作続きで食糧輸入国に転落し、昭和16年は異常気象で約1,000万人分の食糧不足となり仏印(現ベトナム)から大量の外米を緊急輸入して飢餓・餓死を防いだ。
 外米を買うには米国ドルが必要であり、輸送船を動かす為には石油が必要であった。
 が、アメリカ、イギリス、オランダは中国侵略を続ける日本に対する経済制裁として、在外日本資産の凍結と日本に対する石油全面禁止を断行した。
 同じような深刻な事態が、コロナ禍2021年末のコロナ禍と2022年2月のウクライナ戦争で発生し、世界的な原油高で輸入資源不足と輸入代金高騰で日本国内のガソリン代や食品の値上が始まっている。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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