🍠25〗─1─大正7年の大豪雪。雪崩の惨死者発掘、死屍累々、生存わずかに。~No.75No.76No.77 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年1月16日 MicrosoftNews 文春オンライン「「雪崩の惨死者発掘 死屍累々 生存わずかに…」史上ワースト級の雪崩事故が続発した“1918年の大豪雪”
 この冬も厳しい寒さに見舞われ各地で豪雪が記録されているが、いまから1世紀以上前、1918(大正7)年はそれをはるかに上回る大豪雪の冬だった。積雪が最大20丈(約60メートル)という新聞報道も。新潟県の集落と山形県の鉱山では、いずれも犠牲者が150人を上回る、日本で1、2番目の規模の雪崩事故が発生した。
 © 文春オンライン 新潟・三俣の雪崩第1報(東京朝日)
 そんな中、富山県との県境に近い岐阜県の山奥の集落が豪雪で孤立。住民約300人が餓死して全滅したというニュースが新聞数紙の紙面をにぎわせた。現地は、大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」の舞台のモデルになったとされる場所にも近い。ところが、それほどの大事件なのに続報はなし。各紙を点検すると、誤報ならぬ全くの虚報だったことが分かった。なぜ、そんなことが起きたのか。
 2件の雪崩事故にもそれぞれ、その時代ならではの“背景”があった。この年、日本政府はロシア革命に伴う軍事行動としてシベリア出兵を決定。富山県を端緒に米騒動が各地で広がった。国内でもスペイン風邪が流行。死者は約7万人に上った。時代のうごめきを予感させる年に起きた豪雪のてんまつは――。文中、現在は差別語・不快用語とされる言葉が登場。新聞記事などは見出しのみ原文のまま、本文は現代仮名遣いに統一する。
 「全線運転不能となり、吹雪猛烈にして当分開通の見通し立たずという」
〈 吹雪列車 至る所で立往生
 旧臘(前年12月)来、吹雪のため運転休止となりいたる信越線は昨今いよいよ猛烈を極め、5日夜8時、上野発新潟行き列車は6日午前9時ごろ、塚山―来迎寺間にて運転不能となり、直江津、長岡方面より救援におもむきつつあるも、吹雪激しくしていつ開通するか計り難し。同列車は全部140名の乗客あり。来迎寺より1日2回の炊き出しを運び、7日朝、来迎寺より駅夫来たりて排雪に努めたる結果、右乗客は半道ぐらいの徒歩にてようやく来迎寺に引き揚ぐるを得たるも、列車と排雪車はそのまま立ち往生をなしおれり。なお5日から6日にわたり直江津―新津間全線運転不能となり、吹雪猛烈にして当分開通の見通し立たずという。 〉
 1918年1月8日付の夕刊紙・都新聞(現東京新聞)は社会面トップでこう報じた(当時の新聞記事はまだ文語体だった)。前日1月7日付の大阪毎日も「列車が雪に埋没 北陸、信越線不通に」と報道。同日付の都には「雪中に進退谷(極)まりたる北陸線の列車」という説明付きの写真が載っている。
 中央気象台(現気象庁)発行「気象要覧」第218号の大正7年1月全国気象概況は「総概」で「高気圧はおおむね大陸方面に占拠し、低気圧は日本海方面を通過するもの多く、本州日本海方面、北海道、樺太(現サハリン)などにては連日降雪を見、積雪深く暴風雪、崩雪(雪崩)などのために多大の惨害をかもせり」と記述。
 「気候的状況」の「積雪」では「北陸道、奥羽西部、北海道などに多大の積雪を見、福井にては積雪の深さ100センチ以下なる日とては1日もなく、9日には実に深さ170センチを観測し、伏木(富山県)にては7日148センチ、金沢にては8日133センチ、網走にては11日103センチを測れり」とした。
 このころの新聞には「平地において積雪7尺8寸(約2.4メートル)に達している」「ラッセル式除雪車2台を連結し、2丈(約6メートル)余の積雪突破をなしたるに……」「滋賀県伊香郡・土倉鉱山、積雪1丈5尺(約4.5メートル)に達し……」などの状況が続出。「一家三名壓(圧)死」「遂に工兵隊の出動か」という事態に。恐ろしいほどの“雪魔”の中で惨事が起きる。
 高さ250mから幅540mの大雪崩が…
〈 大雪崩襲来 新潟県と群馬の県境 27戸を倒潰(壊)して 157名行方不明
 新潟県南魚沼郡三俣村に9日午後11時、大雪崩あり。同村59戸のうち27戸を倒壊し、157名行方不明となり、目下救護中なり(長岡特電)。 〉
 同年1月11日付東京朝日(東朝)朝刊は2段でこう報じた。三俣村は現湯沢町。同じ紙面には続報も載っている。
〈 積雪2丈の山間 郡長醫(医)師急行せるも救護は極めて困難
 新潟県南魚沼郡三俣村の大雪崩はその後、詳報に接せざるも、同村は同郡役所所在地・六日町より約8里(約32キロ)の山間にて、群馬県との国境清水峠に近く、さる3日よりの大風雪にて積雪20尺(2丈=約6メートル)に達し、通行全く途絶しおれり。9日夜の大雪崩は俗称東今野山頂より襲来せるものにて、同部落の中間なる駐在所を中心として27戸余を埋没せり。急報に接し、六日町警察署よりは巡査7名、郡役所より市橋郡長は書記4名、医師1名を率いて急行したるが、救護容易ならざるべし。県当局にありても、即時救護の手配に着手せり(長岡特電)。 〉
 六日町は現南魚沼市。同じ日付の東京日日(東日=現毎日新聞)は「30餘(余)戸倒潰し 159名埋没す 内110名を掘出せしが5名死亡5名生命危篤」の見出し。萬朝報(よろずちょうほう)は「25戸倒潰、村民125名生死不明となり、10日午後までに死体80を発掘す」という「新潟発電」の記事を載せた。
 地元紙・新潟日報も「三俣村の頽雪椿事(たいせつちんじ) 人家25戸埋没し125名生死不明」の見出しで、末尾に「三俣村の地勢」を載せている。それによれば、三俣は三国街道の宿場で民家が密集しており、それが惨事に結びついた可能性があると指摘している。「頽雪」とは雪崩のこと。寒気が一時緩んだための雪崩だったようだ。同じ時期に岐阜、石川、群馬の各県でも死傷者を出す雪崩が起きている。
 1月12日付国民新聞は「稀有の大雪崩」の見出しで現場の模様を「新潟電報」で伝えている。
〈 救助のため六日町を出発したる警官隊は積雪のため、6(時間)の道程を10時間を要して到着し、小千谷、小出の両所よりも消防組、青年団、軍人会などは結束して現場におもむき、同地にある日本水力電気会社の工夫400名と協力し、10日夜より11日午前3時までに被害者57名を発見せるが、うち34名は死亡し、同村駐在の梅澤巡査はかろうじて死を免れしが、妻女は圧死せり。同村小学校は倒壊せるも、被害者なし。3名の医師は必死となりて救護に従事し、赤十字社支部は看護婦を派遣し、県は係官を急行せしめたり。郵便局は幸いに無事なりしが、事務員の家族は全滅せり。雪崩は140間(約250メートル)の高さより幅300間(約540メートル)、厚さ30尺(約9メートル)のものにて埋没面積4000坪(約1万3000平方メートル)に達し、被害者及び救護人は糧食なく、困難言語に絶す。 〉
 「雪崩の惨死者発掘 死屍累々 生存わずかに…」
 当時、現場付近では水力発電所の工事が進んでいた。「湯沢町史通史編下巻」(2005年)によれば、三俣村は1917年末現在、101戸、人口609人で、南魚沼郡で2番目に小さい村。コメの作付け面積も郡内最小で、主要産業は林業だった。
 そこに発電計画が持ち上がった。日露戦争後、電力需要が急増。発電立地先として豪雪地が注目された。さらに1914年に第一次世界大戦が勃発。ドイツからの化学製品などの輸入が途絶した。
 小国村(現長岡市)出身の起業家親子が電気化学工業用電力供給を目的に1万キロワットの発電を計画。清津川水力電気会社(のち日本水力株式電気会社と改称)を設立。三俣村内の清津川から取水し、トンネルで湯沢村(現湯沢市)の薬師山山頂に上げる。1916年10月に起工。水路工事を請け負ったのが大倉組(現大成建設)だった。
 「工事には地元はもとより多数の“よそ者”が雇用され、飯場のほか、民家に下宿した結果、8畳1間が月4円(現在の約8000円)前後に、坪15~16銭(約305~320円)の土地が一挙に10倍もの値がついた。小料理店や飲食店も登場し……」。ちょっとした“発電バブル”だった。
 1月14日付国民は「雪崩の惨死者発掘 死屍累々(ししるいるい) 生存僅(わずか)に廿四人」の見出しの「長岡発」記事でこう記している。
 「三俣村大雪崩の大惨事は12日午後、ようやく遭難者の発掘を終わりたるが、遭難者は176名の多数にて、うち生存者はわずかに24名にすぎず、全遭難者中、村民は110名にて、長岡・日本水力電気会社の清津川発電所工事に従事中なる工夫は42名なり。中にも悲惨を極めたるは常磐屋の火災にして、同家には折柄、工夫20名宿泊しおり、同家の家族7名とともに惨死せり。火災の原因は、発電所工事に用うる多量のダイナマイトが雪崩のために爆発せしためなり」
 「この雪崩の原因に2説あって、いまだに結論には到達せぬらしい」
 結局、この雪崩事故は後日の死者も含めて158人が死亡する国内史上最大の雪崩事故となった。「湯沢町史通史編下巻」によると、飯場1棟が倒壊。大倉組と下請け労働者46人も犠牲になった。
 この雪崩事故の原因をめぐって、地元ではとんでもない説が出た。山岳遭難に関する多くの著述がある春日俊吉の「山岳遭難記第3」(1959年)は「発生原因の学的研究はついになされなかったと聞くが、推定ではやはり例の“表層陥没雪崩”の一種に相違ない」と推定。十日町森林測候所の観測記録として、1月1日に145センチだった積雪量が4日に152センチ、7日には233センチ、そして雪崩発生当日の1月9日には297センチに達していたことを挙げた。
〈 「こうして積もりに積もった雪が9日の午後11時30分、ついに自らの重さを支えきれなくなって堪忍袋の緒を切ったものとわれわれ素人は想像するのだが、当時は村にもこの雪崩の原因に2説(もちろん学的なものにあらず)あって、いまだに結論には到達せぬらしい」
「原因2説のうち1つは“崩落説”であって、もう1つが“震動説”である」 〉
 “崩落説”は、当夜は強風が吹いていて、固い地雪に大量の粉雪である新雪が積もって浮いていたところに、強い風が吹きつけて山頂に近い斜面で崩落が始まり、全山に波及した、とする。事故直後に現場を視察した新潟県の調査官も明確にこの説を主張。一般に承認されることとなった。「だがしばらくして、風ではなくて“ハッパ”の震動によるものではないか、という新説が現れて、これがまた相当に有力であった」と同書は次のように述べる。
 「交代時間の知らせに毎夜ダイナマイトをぶっぱなす。かなり大きな音響が出る。空気の震動がなかなか強い」
〈 当時、宿場から山頂「前の平」までのちょうど中央地点で日本水力電気KKが発電用のトンネル工事を進めていた。昼夜兼行の突貫作業で、ちょうどこの11時30分が工員の交代時に当たっていた。交代時間の知らせに毎夜ダイナマイトをぶっぱなす。かなり大きな音響が出る。空気の震動がなかなか強い。工事現場から約550メートル離れた三俣宿の人家の戸障子もビリビリする。山頂付近には所々に相当の雪庇が発達していたし、爆薬の震動で空気が圧搾されてそれで陥没大雪崩が起きた、という見方である。 〉
 十日町森林試験地に勤務していて春日とも知人だった高橋喜平「日本の雪崩 雪崩学へのみち」(1980年)も2つの説を紹介している。さらに詳しいのは「湯沢町史通史編下巻」。「新潟県警察史」が事実関係を記すだけで原因に全く触れなかったのと対照的に、同書のこの事故の記述は自治体の史書とは思えないほど踏み込んでいる。
〈 村の背後で、日本水力電気の水路(隧道=トンネル)工事が進められていた。(昼夜兼行で合図の)ハッパは(作業員)交代の30分前が原則だ。昼夜12時が交代時間だから、雪崩はまさにハッパの時間だったことになる。
 当初より住民側にはハッパ原因説があった。住民は日常的に震動を体感していた。 〉
 一方で「新潟県統計書大正7年」で県の技師はダイナマイトのハッパについて「毎日3回、6個の薬筒を用いて爆破するにもかかわらず、今回の大頽雪を除けば、1回の頽雪をも生ぜざるがごときこの例なり」と指摘。原因は「一陣の大暴風雨、これなり」と“崩落説”を支持している。
 「湯沢町史通史編下巻」は各資料における原因説を表にして「諸説対立のままである。今後に決定的な確証が出ない限り、結論を出すのは容易ではない」としている。ということは、ハッパによる“震動説”は住民の間で語られ続けたということだろう。俗説だが、正式な原因究明が行われなかったこともあって“伝説化”したとみられる。
 その後も豪雪は続き…
 その後も豪雪は続いた。次に大規模な雪崩災害が起きたのは山形県の銅鉱山だった。地元紙・山形新聞は1月22日付で「200名埋没 大鳥鑛(鉱)山の大頽雪 飯場等11棟倒壊」の見出しで報じた。
〈 一昨20日午前4時ごろ、東田川郡大泉村(現鶴岡市)地内、大鳥鉱山機械工場の西方山上より大頽雪の襲来あり。6間(約11メートル)に14間(約25メートル)の飯場6棟その他、全壊3棟、半壊2棟、合計11棟倒壊し、同所に居住せる坑夫その他約200余名、雪中に埋没し、目下人夫250余名を繰り出し、発掘中なるも、大半は死を免れざるべく、急報に接し、本県保安課より佐藤警部、昨日同地に向け出張せり。同鉱山は古河鉱業会社(現古河機械金属)の経営に係り、昨今の使役人員は坑夫、雑役夫その他、家族を加え1130余名に達し、飯場の棟数も50以上に達し、今回頽雪に遭える機械工場付近の飯場は、事務所より約1里半(約6キロ)を隔たり、請願巡査駐在所、医務局などの設置も同所にあれば、これらの安否いかんはいまなお不明なり。しかして同鉱山は西田川郡鶴岡町(現鶴岡市)をさる西南方上約13里(約52キロ)の山中にて、同町より上田沢部落に至る約8里(約32キロ)の道程は車馬の便あれど、同部落先は全くの山道にして徒歩のほかなく、ことに昨今は積雪深く地上既に1丈5尺(約4.5メートル)に達しおる状態なれば、救護隊の出場もひとかたならず、困難を感じたるものならん。 〉
 「朝日村史下巻」(1985年)には鉱山の説明がある。「機械場(「機械工場」)というのは通称で、大鳥の部落から約8キロ上流にあった鉱山まちで、機械場川(鰍沢)を挟んで東山と西山に分かれて建物が並び、東山には製錬所、事務所、鉄索場、郵便局、診療所、販売所などがあり、西山には役員住宅、坑夫長屋、人夫長屋、合宿所、学校(分教場)などが軒をつらねていた」。山形新聞の記事は「附近の模様」についても触れている。
 死体収容所に赴くと…
〈 遭難地付近の概略につき(県)警察部・及川技手の語るところによれば、機械場は大鳥鉱山地の入り口にして、上田沢(巡査駐在所のある所にて、ここまで人車を通ず)より約5里(約20キロ)を隔たりたる山中にあり、途中の道路は山腹に沿うてわずかに通ずるも、しかも昨今の積雪は1丈5尺もあるべく、道路というもの、おそらくなかろうと思う。この間の険を冒して急遽上田沢に出で、警察電話をもって当所に報告してきたのだが、以上のごとく距離があるうえに途中危険多く、その後の消息を知るに由なきも、私は昨年11月に用務出張したときの記憶によりこの報告を総合すると、機械場の西方から大雪崩が襲来したといえば、役宅、倉庫、事務室、製錬場なども同時に倒壊したのではあるまいか。ことに午前4時ごろとあるから、まだ寝ている時刻で、一家族ことごとく枕を並べて惨死したことと想像する、うんぬん。 〉
 同じく地元紙の荘内新報は鶴岡から記者を現地に派遣。「大鳥災害視察記」を連日のように掲載した。1月26日付の「第三報」では、死亡者の姓名を載せ、27日付の「第四報」以降は、記者が到着した雪崩現場の模様を記している。
〈 眼下、幾百尺の下、機械場一帯の地区はただ一面雪に覆われ、所々に煙突、高屋根、つり橋などの見ゆるのみ。されど、大雪塊墜落の個所はいまにしてなお、当時を物語りつつあるようである。
 そこよりの急坂、真に削るがごとき所を歩々身命を賭して下れば、600尺(約180メートル)下 、すなわち惨害の小学校つぶれ跡に達した(24日正午、災害地にて)=27日付「第四報」。
 積雪23丈(約69メートル)の底、小学校のつぶれ跡は木っ端みじんとなりて、当時の惨害を物語っている。生徒が机の2、3脚が持ち出されあるも哀れである。(29日付「第五報」) 〉
 犠牲者についての描写も詳しい。
〈 死体収容所に赴く。そこら一帯に、積雪まさに2丈5尺(約7.5メートル)、製錬所その他の建物も全く雪に埋もれて、ただ屋根の一部、煙突などの現れあるのみ。ここにて1死体をワラ俵に入れ、首はアンペラ(ござ)にて包みて背負い行くに遭う。前に坂道においても、死体をむしろ包みとしてソリにて下るもの2個に会し、酸鼻のさまはいまにして刻々と新たなるを覚ゆるのみである。
 死体収容所は雪に埋もれある4間(約7メートル)に9間(約16メートル)の粗雑なる木材倉庫を充用したるもの。「屍体収容所」と書せる立札ありて、入り口の辺り、濡れ夜具が積み重ねある。そばに既にひつぎに納められたる死体が数個並べあって、遺族にふたをはねて検分さしている。係員や稼ぎ人が死体洗浄の湯を沸かしながら暖をとっている。奥に間に合わせの形ばかりの香花を供える壇が設けられて数多のろうそくがゆらゆらとともされてある。その後方には白布に包まれたひつぎが幾十となく累積されて凄惨の影四辺に漂うておる。
 そのひつぎの後方に当たって薄暗き所に発掘せるばかりの赤裸の死体が男女老幼の区別さえなく、首にはいちいち姓名を記した木札をつるして累々と積み重ねられている。中には顔面に負傷して血痕斑々(はんぱん=まだら)たるものや、胸部や背部に打撲傷を負うて皮下出血のしてるもの、赤紫色の斑痕の存するものなど、漁猟場に生魚の積み重ねたるごとく、その惨状、凝視するに忍びぬ。
 係員はいちいち布団をはね、ろうそくの明かりに照らし見する。中に最も憐憫の情を動かさしめたるは、仁科君=倒壊して全滅した分教場の訓導(教員)の子ども=の死体より数人前方にありて、2歳か明けて今年3歳ぐらいの嬰児が母に抱かれたるまま、己が口をば母の乳房に吸いつくがようにして小さき手をば、母が抱ける手に絡ませてあるなど、他には見られぬ凄惨の状綿々として、哀愁の情は迫り、新しく涙の下るをとどめ得ない。(「第五報」) 〉
 日本の雪崩事故史上2番目の惨事
 事故の犠牲者は最終的に154人に上り、新潟・三俣村に次ぐ、日本の雪崩事故史上2番目の惨事に。特に子どもが65人を占めたのが目立った。
 「朝日村史下巻」によれば、大鳥鉱山は江戸時代の金鉱発見に始まり、明治時代に古河家個人所有から古河鉱業の経営へ。銅の鉱床発見で「次第に生産量を伸ばし、大正6(1917)年には年産約380万トンに達するなど、大正には全盛期を迎えたのである。これは日露戦争第一次世界大戦による世界的銅価格の高騰をはじめ、大鳥鉱山自体の設備改善や機械化、さらに労働力の多量の投入などによるものである」(同書)。
 最盛期、鉱山関係の人口は約1500人ともいわれ、最もにぎやかな場所が機械場だった。それが雪崩に襲われた。犠牲者の多さに仮火葬場で荼毘に付すのに4日間かかったという。
 古河鉱業は1月30日から連日荘内新報に「慰問御礼の謹告」を載せたが、その後、世界不況のあおりで銅の価格が下落。同社が1976年に刊行した「創業100年史」によれば、雪崩事故から4年後の1922年に閉山した。同書に事故の記述はない。
 「落雪で村全滅、村民300名ことごとく餓死」大雪で発生した“虚報”はなぜ起こってしまったのか へ続く  (小池 新)」
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、ヤポネシア人、石器人・日本土人縄文人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
   ・   ・   ・   
 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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