🐙4〗─1─日本民族は縄文時代から鯨を食べる捕鯨文化を持っていた。~No.8 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 食用動物とし、西洋や中国など大陸では馬・牛・ヒツジ・ヤギ・ブタなど数多くの大型家畜が豊富にいたが、日本には鯨と熊の大型動物と鶏・鴨、魚、爬虫類、昆虫などの小型動物しかいなかった。
 古代から近世まで、日本民族は目の前の海で鯨を捕り食べて生きていた。
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 同じ鯨食文化と言っても、日本と韓国では全然違う。
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 2021年9月23日16:05 MicrosoftNews NEWSポストセブン「ルポ日本の食文化の現在地 商業捕鯨船でクジラを追う漁師たち
 © NEWSポストセブン 提供 商業捕鯨船の漁師たちを追う
 日本では古くから捕鯨の伝統が見られ、食文化として鯨肉も親しまれてきた。1980年代後半から「調査捕鯨」が続けられたが、2019年から「商業捕鯨」が再開され、今年も漁師たちが大海原に乗り出した。商業捕鯨船「第三勇新丸」が持ち帰った鯨肉が豊洲市場で初出荷されるまでを追った──。
 大漁旗を掲げた船が、近づいてくる。シャープな船体、高いマスト、船首に鎮座する大砲。クジラを探し、追い、仕留める捕鯨船「第三勇新丸」が、東京・お台場の埠頭に着岸したのは、9月1日の早朝だった。
 大漁旗は、新たな時代の捕鯨のシンボルでもある。調査捕鯨時代は、豊漁を祝う大漁旗の掲揚すら許されなかったからだ。
 世界各国がクジラを捕りすぎた影響で、捕鯨に対して批判が集まった時代があった。そんななか、日本は1987年から調査捕鯨をスタートさせる。生息数や生態、食性……。クジラの謎を解明しなければ、商業捕鯨が再開できないと考えたからだ。南極海や北西太平洋沖合で、年間数百から千頭ほど(2018年度は510頭)のクジラを捕獲し、科学的なデータを積み重ねた。護りながら捕る。持続可能な商業捕鯨の道筋を模索してきたのである。
 しかし国際的な理解は得られなかった。調査船団に対し、環境保護団体は激しい抗議活動を繰り返した。
 そんな状況が一変したのは2年前。日本は、調査結果を一顧だにしないIWC国際捕鯨委員会)を脱退。32年ぶりに日本の沖合で、商業捕鯨を再開したのだ。
 「我々には、長年の調査で、生息数の回復を証明してきた自負があります」
 第三勇新丸の船長、阿部敦男は胸を張る。かつて捕鯨基地として栄えた宮城県女川町の出身。高校を卒業してから40年、捕鯨一筋に生きてきた。彼は笑う。
 「人生と捕鯨が、一体になってしまいました」
 調査時代、クジラの肉はあくまでもデータ採取後の“副産物”だった。一方、商業捕鯨の目的は、脂がのったクジラから上質でおいしい肉を生産すること。阿部は続ける。
「調査でも商業でも、我々は必死にやるだけです。乗組員全員でクジラを懸命に探し、クジラの性格やクセから動きを読んで“てっぽうさん”が撃つ。みんなの力を合わせないとクジラを捕ることはできません」
 初の「生肉」出荷
 これから鯨肉の生産量を上げ、新たな鯨食文化をつくっていこう……。
 捕鯨に関わる人たちが期待する矢先、新型コロナが発生した。出航前の2週間、船員を船内に隔離するなど、感染防止に取り組んだ。
 共同船舶社長の所英樹は、5か月におよぶ航海のつかの間、お台場に寄港した第三勇新丸を特別な思いで見守っていた。共同船舶は沖合で捕鯨を行なう日本唯一の企業である。所は語る。
 「今日は、特別な日なんです。日本の捕鯨の歴史で、はじめて沖合で捕獲した大型のクジラを生のまま東京に水揚げするのですから」
 第三勇新丸は、数日前に岩手県沖で捕獲した2頭のニタリクジラの肉、約600kgを積んでいたのだ。
 捕獲したクジラは、捕鯨母船「日新丸」で加工後に冷凍する。一般的に口にできるのは、解凍した肉である。だが、生の肉に比べると、味が落ちてしまう。
 「新たな鯨肉市場をつくるためにも、クジラの本当の味を知ってほしいんです」
 そう考えた所たちは、捕鯨を一時中断し、生肉をお台場に運び、豊洲市場に出荷する計画を立てたのだ。
 捕鯨の存続が危ぶまれた時期もあったが、共同船舶は2024年3月までに捕鯨母船を新造するプロジェクトを公表した。国の補助に頼らず、鯨肉の売り上げなどで費用をまかなう。
 最後の希望──。阿部は新造母船をそう表現した。
 「新母船がこれから続く捕鯨の象徴になるはずです」
 航海は11月末まで続く。第三勇新丸は、5か月で、212頭を捕獲する予定である。
 取材・文/山川徹
 ※週刊ポスト2021年10月1日号」
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 9月23日 05:57 MicrosoftNews SankeiBiz捕鯨事業を行う共同船舶、クジラの生肉をネット販売
 捕鯨事業を行う共同船舶(東京都中央区)は、今年の商業捕鯨で捕獲した大型のニタリクジラの生肉の販売予約をインターネット通販サイトで26日まで受け付けている。「鯨食」の普及が目的で、冷凍していない生の鯨肉は貴重。28日に仙台市中央卸売市場に出荷し29日に配達する。間宮商店(https://mamiyaenzo.shop-pro.jp/)と仙台海鮮市場(https://sendaisuisan.com/)の2つのサイトを通じ、希少部位の尾肉と赤身のセット(消費税・配送費込みで1万800円)を60セット限定で販売する。」
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 一般社団法人 日本捕鯨協会
 鯨食文化
 鯨食の始まり
 四方を海に囲まれた日本では、古来より鯨を重要な食料資源として利用してきました。日本の近海が鯨の回遊路に当たり、多種の鯨類が資源豊かに生息している環境が日本人の鯨食文化を育む要因になったと考えられます。
 少なくとも縄文時代には、沿岸に流れ着いた寄り鯨を海からの恵みとして利用していたと考えられています。また、縄文時代の史跡から、すでにこの頃から海に出て積極的に鯨を捕獲していた可能性も考えられています。捕獲した鯨は食用として利用されたほか、不可食部位の骨なども土器の製造台などとして有効利用していたことが分かっています。
 鯨食の始まり
 四方を海に囲まれた日本では、古来より鯨を重要な食料資源として利用してきました。日本の近海が鯨の回遊路に当たり、多種の鯨類が資源豊かに生息している環境が日本人の鯨食文化を育む要因になったと考えられます。
 少なくとも縄文時代には、沿岸に流れ着いた寄り鯨を海からの恵みとして利用していたと考えられています。また、縄文時代の史跡から、すでにこの頃から海に出て積極的に鯨を捕獲していた可能性も考えられています。捕獲した鯨は食用として利用されたほか、不可食部位の骨なども土器の製造台などとして有効利用していたことが分かっています。
 日本では飛鳥時代に仏教が伝来すると、その影響から一般に肉食が禁止され、主に魚食から動物性タンパクを摂取してきました。当時は鯨も海の幸として魚と同類と見なされていたため、貴重な食材として取り扱われ、江戸初期までは饗応料理や献上品として用いられていたことが当時の文献などから分かっています。
 組織的捕鯨と消費の拡大
 江戸時代の初期になると鯨組による組織的な捕鯨が始まり、その後網取り式捕鯨と呼ばれる効率的な漁法が開発されると鯨の供給量は大幅に増加します。
当時は生肉類の保存技術がなかったため、赤肉や皮類は塩蔵して全国の消費地へと出荷され、内臓類等は主に産地で消費されていました。

 鯨食文化 略年表
 縄文時代前期(約5,000年前)
 寄り鯨を食料として利用し始める【縄文時代前期(約5,000年前)の石川県真脇遺跡からイルカの骨が大量に出土】
 縄文時代中期(約4,000年前)
 鯨の積極的な捕獲が始まる【約4,000年前の九州の遺跡から鯨の椎骨を製作台にした「鯨底土器」が発見される】
 飛鳥時代 
 仏教伝来の影響から肉食が禁止されるが、鯨は魚と同類に位置づけられ対象外
 室町時代後期 
 料理書「四条流包丁書」の中で鯨が他の魚をしのぐ最高位の献立として紹介される
 江戸時代初期
 1606年…紀州の太地で鯨組による組織的な捕鯨が始まる
 1675年…太地で網取り式捕鯨が始まると、その漁法が全国に伝播し、捕鯨が一大産業として発展を遂げる
 江戸時代末期 
 1853年…米国のペリー提督が来航し、捕鯨船の補給基地として日本に開国を要求
 明治時代 
 1899年…日本にノルウェー式近代捕鯨が導入される
 昭和時代初期 
 1932年…日本は母船式の南氷洋捕鯨に出漁を開始する
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 マル幸商事株式会社
 捕鯨の歴史・伝統・食文化について
 捕鯨の伝統と食文化
 日本における捕鯨の歴史と文化
 海とともに生きてきた日本人は、大昔から鯨を食べてきました。
 それは、貴重なタンパク源であるととともに、生活道具の材料として、全てムダなく大切に使われ、いまでも、捕鯨をしていた港近くのお寺には、鯨を供養する塚や墓が残っています。
 私達にとって、捕鯨と鯨食は太古から続く大切な文化なのです。
 捕鯨の歴史①:古代の捕鯨
 捕鯨遺跡:石川県真脇遺跡縄文時代の遺跡から、イルカやクジラの骨が大量に発掘されたり、鯨の骨を使って作られた土器や骨を加工して作った道具や装飾品などが多数発見されています。また、日本最古の歴史書古事記」の中にも鯨が登場します。
 日本近海では、親潮黒潮が合流するため、多くの魚があつまり、それを追いかけてたくさんの鯨もやってきていました。古代の捕鯨は、湾内に紛れ込んで動けなくなったものを獲っていたと考えられています。
 捕鯨の歴史②:中世~近世の捕鯨
 捕鯨の歴史:小川嶋捕鯨絵巻平安末期から鎌倉のころになると、「突き取り式捕鯨」と言われる、船で漕ぎ出して銛で突いて獲る漁をしていたようです。
 江戸時代に入ると、現在の和歌山県太地で日本初の捕鯨専門業組織「鯨組」が設立され、1675年には「網取り式捕鯨」の技術が生まれ、全国に広がり、捕獲量が一気に増加してゆきました。
 それまで、貴族や武士など有力者でないと食べられなかった鯨が庶民の食卓にも載るようになり、米との相性もよいため非常に多く食べられるようになりました。当時の料理本ブームの中で、「鯨肉調味方」という本も出版されています。
 捕鯨の歴史③:近代の捕鯨
 江戸時代料理本「鯨肉調味方」日本の江戸時代後期から明治初期にかけて、鯨の肉を食べない欧米でも、照明用の油をとるためだけに鯨を乱獲していたため、日本近海のクジラ資源が激減し、日本の捕鯨も衰退してゆきました。
 明治後期の1899年に、「ノルウェー捕鯨」が導入され、日本の捕鯨も再び活気づきました。これが日本における近代捕鯨のはじまりでした。私達、マル幸商事のある山口県下関市は「近代捕鯨発祥の地」です。
 昭和の初め1934年には南氷洋へも進出するようになりましたが、外国の大規模な母船式捕鯨による乱獲によって、またしても資源が減少方向へ向かい、1948年には「国際捕鯨委員会(IWC)」が設立されました。
 やがて、油を取っていただけの欧米諸国は採算が合わなくなり撤退してゆく中、日本にも商業捕鯨から撤退するよう圧力が次第に大きくなり、1980年代の半ば過ぎ、とうとう商業捕鯨を停止してしまいました。
 くじらの資源管理と鯨の増加
 調査捕鯨
 商業捕鯨が禁止されたのは1986年からで、シロナガスクジラナガスクジラを始めとする13種類の鯨類が管理対象となりました。
 以来、現在まで調査捕鯨と一部の地域での捕鯨・イルカ漁だけを行っています。
 「鯨は増えている」事が公式確認
 ミンククジラの増加
 商業捕鯨を停止してから、鯨は増え続け、ミンククジラにおいては現在、南極海には76万頭以上、オホーツク海や北西太平洋には2万5千頭以上の生息が確認されています。
これは、毎年2000頭を100年間撮り続けても資源の減少に影響がない数値です。
また、鯨は、世界中で食べられている魚の量のなんと3~5倍もの量の魚をエサとして食べています。
 これは、私達人類の食糧不足の問題に直結しています。特定の生物資源だけを利用しないという施策は、生態系のバランスを崩すこととなり、却って資源量を不安定にしています。
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