🍠21〗─4─十津川大水害と大規模な山腹崩壊。明治22(1889)年8月。~No.66No.67 

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 現代日本人は、日本中心神話と民族主義を否定するとともに日本民族の心を捨てた。
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 2021年8月21日 MicrosoftNews 毎日新聞「130年前の大水害、記録を現代語訳 紀伊半島豪雨機に10年かけ
 © 毎日新聞 提供 「現代語訳 吉野郡水災誌 十津川村編」(中央)と擬古文で書かれた原本の一部=奈良市で2021年7月19日午後0時16分、田中なつみ撮影
 1889(明治22)年8月、奈良県十津川村で168人が死亡し、村民が北海道に集団移住するきっかけとなった「十津川大水害」を記録した明治の水災誌が今春、130年の時を経て現代によみがえった―。永井書林(同村)の松山京(きょう)代表(56)が現代語訳を手掛け、出版した。村は間もなく、死者・行方不明者13人を出した紀伊半島豪雨(2011年)から10年を迎える。【田中なつみ】
 古い文体の「擬古文」読み解く
 「現代語訳 吉野郡水災誌 十津川村編」(446ページ、税別4500円)で、原本は宇智吉野郡(当時)が編さんし、被災2年後の1891年に発表された「吉野郡水災誌」(全11巻)の十津川編。当時の様子を伝える貴重な史料として知られてきたが、古い文体の「擬古文」で書かれているため、現在は専門家を除き読める人がほとんどいないという。
 松山さんは2011年当時は村内に居住、紀伊半島豪雨を経験した。「9月初めからこれまでに見たことがない異常な量の雨が続き、あちこちで土砂崩れが起きた」。松山さんの家族や住宅に直接の被害はなかったが、ライフラインは途絶え、被害状況もつかめない。ヘリコプターで運ばれる食糧を頼りに、不安な日々を過ごした。
 そんな時、ふと思い出したのが義父宅の本棚にあった水災誌だった。結婚して村で暮らすようになり、村史を学ぼうと手にしたが、擬古文が難しく読むのを諦めた。豪雨を機に一念発起で現代語訳を決意。大漢和辞典を手がかりに、図書館と自宅を往復する日々。水災誌をひもとくと、明治の水害の恐ろしさがよみがえった。
 父を呼びながら濁流にのまれる女の子、北海道移住の際、幼い男の子が山を振り返り故郷を恋しがった場面など、読み進めるうち涙がこぼれた。また、明治の水害と紀伊半島豪雨の土砂災害の発生場所が重なっていることにも気付いた。「二度と災害で亡くなる人を出したくない。この先も、この本を読み継いでもらわなければ」
 10年かかって21年4月、ようやく現代語訳が完成した。松山さんは「明治の先人が見聞だけで作り上げ、後世に伝えようとした貴重な記録。その思いを受け継ぎ、新たな形で伝えていきたい」と話す。
 奈良市のベニヤ書店などで販売中。問い合わせは、永井書林奈良市営業所(0742・77・0758)。
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 ウィキペディア
 十津川大水害は、1889年(明治22年)8月、熊野川(十津川)流域で起きた大規模水害である。奈良県吉野郡十津川郷(現・十津川村)に壊滅的な被害をもたらした。十津川の大水災、熊野川大水害、熊野川大洪水、紀和水害もしくは紀和大水害(紀は紀州紀伊の国・和歌山県》、和は和州《大和の国・奈良県》、なお実際の死者数は和歌山県の方が奈良県より5倍多い)などとも呼ばれる。
 奈良県内の被害
 「明治二十二年八月二十日午前七時 中山は高さ三百六十メートル 幅四百八十メートルにわたって崩壊」……(奈良県吉野郡十津川村高津)
 奈良県吉野郡十津川郷(現・十津川村)では、大規模な山腹崩壊が1080か所で発生。十津川(熊野川)が刻んだ谷を土砂が埋め37か所で天然ダムをつくり、多くの堰止湖が出現。天然ダム決壊にともなう洪水により甚大な被害が生じた。土砂堆積は地形を一変させるもので、河床に堆積した砂礫は平均で30mとの推定がある。この災害は深層崩壊の典型事例として記録されている。
 北十津川村、十津川花園村、中十津川村、西十津川村、南十津川村、東十津川村の6か村からなる十津川郷は、村民12862人のうち死者168人、全壊・流出家屋426戸、半壊まで含めると全戸数2403戸の1/4にあたる610戸に被害、耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で、生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、県の役人が「旧形に復するは蓋し三十年の後にあるべし」と記すほどであった。被災者2691人が同年10月北海道に移住、新十津川村がつくられることになった。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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