⚜8〗9〗─1─昭和天皇と1940年体制が共産主義の敗戦革命を潰した。~No.20No.21No.22No.23No.24No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
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 革命的祖国敗北主義とは、第一次世界大戦中のロシア帝国において、ボリシェヴィキのウラジミール・レーニンメンシェヴィキの「革命的祖国防衛主義」に対して主張した理論。言葉は似ているが、共産主義者同盟をはじめとする日本の新左翼が主張した革命的敗北主義とは別の概念である。革命的敗戦主義ともいう。
 概要
 パリ・コミューンロシア革命、ドイツ革命の例に見られるように、「祖国の敗戦」という国難が革命勃発のきっかけとなっている。
 これらの実例から、帝国主義下にある自国が対外戦争に参戦した場合、第二インターナショナルの社会民主主義者たちのように自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく(城内平和)、戦争への協力を拒否し、その混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした。具体的には、反戦運動により厭戦気分を高揚させることで自国の戦争遂行を妨害したりすることなどである。
 しかしこれは戦争犯罪である戦時反逆、また各国の国内法による処罰の対象となるどころか、国家権力に「共産主義者売国奴、敵国のスパイ(第五列)」という格好の攻撃材料を提供することになり、一般国民の共産主義に対する嫌悪感を増しかねない。事実、第一次世界大戦後のドイツにおいては「ドイツの敗戦と屈辱的な講和の原因は、革命を起こし休戦協定に署名した社会民主党や独立社会民主党スパルタクス団(後のドイツ共産党)などの共産主義者ユダヤ人による裏切り、陰謀、背後の一突きである」とする主張が右翼勢力によってなされており、ナチスもこの主張を強く支持していた。
 第二次世界大戦、特に独ソ戦が起きてからはコミンテルンアメリカ・イギリス・フランス・中国のような連合国の共産党支部に対ファシズム戦争への統一戦線、人民戦線、国共合作として自国政府の参戦を支持させて革命的祖国敗北主義は事実上放棄したが、前大戦のように右翼勢力からは枢軸国では砕氷船理論のような革命的祖国敗北主義が実行されたとする主張もある。
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 革命的敗北主義とは、日本の新左翼の政治思想の一つ。言葉は似ているが、革命的祖国敗北主義とは別の概念である。
 概要
 「革命はいつか必ず成就する」というのが、新左翼の信念である。しかし、革命に至るには多くの闘争を経なければならない。そのため個々の闘争は妥協を許さず、かつての日本軍の玉砕のように自己を犠牲にしてでも「革命的敗北」を貫徹しなければならないとする。これらの積み重ねによって、はじめて革命が成就するという考え方である。
 ブント系党派で多く唱えられたことから、別名「ブント主義」ともいう。「捨石運動論」という別名もある。
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 1940年体制とは、昭和15年に近衛文麿首相、東条英機陸相松岡洋右外相らが戦争遂行の為につくった国家総力戦体勢である。
 それは、マルクス主義社会主義統制経済・計画経済で、国家主導による対外進出の護送船団方式である。
 1940年体制のもと天皇・国家・国民=民族そして軍部が一丸となって、政府決定に従って団結し行動した。
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 リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代は、1940年体制の恩恵を受た勝ち組世代であり、日本経済を衰退させ時代遅れのアナログ社会にした逃げ切り世代である。
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 日本国内の共産主義化したキリスト教の赤い牧師・赤い神父、仏教の赤い僧侶、儒教の赤い学者は、日本を共産主義国家に改善するには日本国・日本民族の要である天皇制度の廃絶が必要であるとして、天皇の戦争責任・天皇戦争犯罪昭和天皇を追いつめて退位させ追放し、天皇家・皇室を人民の敵であるというして消滅させようとした。
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 昭和天皇が日本を共産主義化させない為に、左翼・左派やリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者らの激しい批判・非難に耐え退位しなかった。
 共産主義勢力が支配したソ連や中国では、大虐殺が繰り返されていた。
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 日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 ソ連コミンテルン中国共産党・国際共産主義勢力は、日本を転覆させ破壊しようとした日本人共産主義テロリストを支援していた。
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 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人難民(主に女性や子供)を大量虐殺して日本領北方領土4島を強奪した。
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 日本の新左翼は、日本において新左翼と呼ばれる政治思想や政治運動、政治勢力のこと。日本の場合、新左翼の対比語である既成左翼は旧日本社会党日本共産党を指す。
 1950年代以降、欧米などの先進国を中心に既存の社会主義国や伝統的な社会主義共産主義勢力などを「既成左翼」と呼んで批判する、「新左翼」(ニューレフト)運動が台頭した。日本でも1955年に当初の暴力革命路線の放棄を表明した日本共産党日本社会党などに対し、より急進的な革命や暴力革命を掲げて、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開した諸勢力が、特に大学生などを中心に台頭した。特に安保闘争ベトナム反戦運動などに大きな影響を与えたが、70年安保以降は内ゲバや爆弾闘争などのテロリズムもあり、大衆の支持を失い影響力は低下した。
 「新左翼」は「既成左翼」と対比した呼称であり、特定の思想や党派を意味するものではなく、相互に批判し合う思想・立場・党派も含まれ、その範囲は立場によっても変化する。一般には、反帝国主義スターリン主義批判などの基本路線では一致していたが、イデオロギー的にはアナキズムマルクス主義レーニン主義トロツキズム毛沢東主義左翼共産主義など)、構造改革派、などの幅をもつ。
 呼称
 「新左翼」は、日本では日本共産党日本社会党などの「既成左翼」と対比させた用語。マスコミ用語では、1967年の羽田事件の頃は「反代々木系」、その後は「新左翼」、更に武装闘争など過激な路線を採用した一部に対しては「過激派」と呼んだ。警察白書などでは「極左集団」「極左暴力集団」など。日本共産党はこれらの団体を、当初は「トロツキスト」または「トロツキスト暴力集団」、1980年代以降は「ニセ「左翼」集団」または「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んでいる。
 概要
 日本においては、ヨシフ・スターリンが創設したコミンテルン第三インターナショナル)日本支部の系譜であった日本共産党による方針や、同党の二段階革命論及び一国社会主義論、日本社会党の平和革命論を拒否し、独自の社会主義運動を追求すると主張した。
 コミンテルン系譜の共産党を、スターリン主義として批判する立場に立っているタイプは、「一国社会主義」を掲げるヨシフ・スターリンと敵対し、「世界革命」を主張したレフ・トロツキートロツキズム)の復権や、「真のマルクス・レーニン主義」あるいは「反スターリン主義」を思想的旗印にする(主に革命的共産主義者同盟系各派、あるいは共産主義者同盟系各派)。また、スターリン主義発生のルーツをレーニン主義にまで遡って批判する解放派は、「前衛党指導主義」を批判し、「大衆の自然発生性」を評価した「ローザ・ルクセンブルク主義」を掲げている。新左翼は、理想主義的ラジカリズムを掲げ、社会党共産党の「議会革命」方針に「暴力革命」を対置・強調した。
 新左翼の運動は、世界的に「スチューデント・パワー」が高揚した1968年を頂点に一定の大衆的支持を得たが、70年代に入り支持が離れていくにつれて、爆弾闘争などのテロリズムと激しい左翼運動内部の抗争(いわゆる内ゲバ)を繰り広げていくことになる。
 また、共産主義が持つ「独裁主義体制」を批判し、共産主義新左翼の側からは「反共的極左」と呼ばれる無政府主義アナキズム)が存在し、共産主義者と抗争を繰り返した。彼らは、カール・マルクスと敵対したミハイル・バクーニンの影響を受けている。
 警察調べで、2010年代を迎えた現在、日本の新左翼(過激派)の構成員は全ての党派を合わせて約2万人いるとされる。ピークは1969年の5万3500人であり、2014年現在はその半分以下ほどの人員である。
 なお、右翼団体(主に街宣右翼)と異なり日本の新左翼組織は「政治団体」として総務省に届け出をしていない組織が多い(日本労働党などは届け出をしている)。政治資金規正法では、(1)「政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること」、(2)「特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対すること」といった活動をしている組織は全て政治団体であり、届け出をしなければならないことになっている。すなわち、この時点で政治資金規正法違反であるし、また、政治資金収支報告書も存在しないため、組織の活動資金の収支や出所が判然としない。
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 産経新聞iRONNA
 関連テーマ
 共産主義の戦争責任を問う
 戦後70年を迎え、改めて注目される日本の「戦争責任」。本当に、日本だけが悪かったのか。日本は侵略国家だったのか。この問題を考える一助として、近年保守論壇を中心に注目されている「共産主義の戦争責任」についてシリーズで論じたい。
 「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略
 『月刊正論』 2014年6月号
 福井義高(青山学院大学教授)
 {「レーニンに比べたら我々は皆ひよっこだ」ヨシフ・スターリン
 コミンテルン陰謀史観と反共資本主義陰謀史観
 20世紀前半の日本の歴史にソ連共産主義が多大な、場合によっては決定的影響を与えたとする歴史認識が、保守言論界に広まっている。
 それによれば、支那事変は日本軍を中国に釘付けにして中国国民党との戦いで疲弊させ、弱体化を図るとともに「北進」を妨げてソ連を防衛し、国民党に追い詰められていた中国共産党を助けるために始められた。あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。
 さらに、日本が「南進」からアメリカとの戦争に至ったのも、ソ連を日本の攻撃(北進)から守り、日本を対米戦に仕向けて敗北させ、その混乱に乗じて共産主義革命を起こすという「敗戦革命」謀略だった──。
 一方で、そんな議論は妄想にまみれた「コミンテルン陰謀史観である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。
 コミンテルン第三インターナショナル、国際共産主義組織)の陰謀ないしは謀略は、本当に実在したのであろうか。
 ヨシフ・スターリン治世下のソ連において、ごく少数のトロツキスト等を除けば、スターリンと別の意思を持った共産主義者の組織など世界中のどこにも存在しなかった。コミンテルン諜報機関も、はたまた日本を含む各国共産党もすべてスターリンの手駒に過ぎなかった。「コミンテルン」という形容詞は、スターリン時代の共産主義の本質を見えにくくする。したがって、上述のような歴史観は、「コミンテルン」ではなく、「スターリン」、「ソ連」あるいは「共産主義陰謀史観ないしは謀略史観と呼ぶべきであろう。
 米露の著名なソ連研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが指摘しているように、スターリン以下共産党幹部は、十月革命(1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、自らが歴史の産婆役であることを確信し、共産主義の理想と、その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。自分たちの政策が誤っていると想像することなど心底不可能だったのである。もし思わしくない事態が生じたら。それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces”)が働いているに違いないのだ(『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。
 ウラジーミル・レーニンの指導下、十月革命を成功させ、その死後、スターリンに率いられた共産主義者が「反共資本主義陰謀史観」の虜であったことは確かである。当然ながら、この「労働者階級の前衛」たちは、相手が邪悪な陰謀をしかけてくる以上、それに対抗せざるを得ない。しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しいのだから、謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝までどのような手段も許される。
 共産主義者が世界共産革命実現を目指すうえで、謀略工作あるいは陰謀を主要な手段の一つとしていたことは否定できない事実である。近年世界各国で進められている、ソ連崩壊後の資料公開に基づく研究がそのことを明らかにした。検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、実際にどれだけ有効に機能したか否かであろう。
 ここでは、共産党による政権奪取直後から1939年9月の第二次大戦勃発(欧州戦線)までの対日を中心とするソ連外交と世界史の流れを、レーニン及びスターリン自身の発言に沿いながら見て行きたい。
 この時代の共産主義者による数々の謀略工作あるいは陰謀については、すでに日本でも多くの文献がある。しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、レーニン及びスターリンという謀略工作の最高責任者の言動の検証が疎かになっていたからである。
 レーニンの基本準則
 レーニンは1920年12月6日の「ロシア共産党ボルシェビキ=以下「ボ」)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、全世界で共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。
 {二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することができなければならない。}
 このくだりはコミンテルン謀略史観の「バイブル」である『戦争と共産主義』(昭和二十五年、三田村武夫著、のちに『大東亜戦争スターリンの謀略』として復刊)にも引用されている。ただし、右記に続けて、レーニンが資本主義社会において共産主義者が「利用すべき根本的対立」として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。
 {第一の、われわれにもっとも近い対立──それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない。…地球は分割ずみである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。アメリカは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか? 強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべてその手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。…このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、そして共産主義者として、「われわれはこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう」と言うだけですまされるであろうか。これは正しいことではあるが、これがすべてではない。共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせることである。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、略奪する権利をめざして、たたかうであろう。…われわれ共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない。…
 もう一つの矛盾は、アメリカと、残りの資本主義世界全体との矛盾である。…アメリカはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で略奪している。アメリカは植民地をもっていない。…イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治…をアメリカに提供したが、アメリカはそれを受けとらなかった。…しかし、この植民地を他の国々が利用するのを彼らが容認しないことは、明らかである。…
 第三の不和は、協商国とドイツとのあいだにある。ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約でおさえつけられているが、しかし巨大な経済的可能性をもっている。…このような国にたいして、同国が生存していけないようなヴェルサイユ条約がおしつけられているのである。ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、ヴェルサイユ条約を耐えることはできない。だから、ドイツは、それ自身帝国主義国でありながら、圧迫されている国として、世界帝国主義に対抗して同盟者を探しもとめなければならない。}
 歴史は第二次大戦まで、ほぼこのレーニンの基本準則に従って推移した。「自然」とそうなった、あるいはレーニンの「科学的社会主義」に基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。次節以下で示すように、レーニンの「遺言」を継いだスターリンが自覚的にそのように仕向けたのである。
 臥薪嘗胆、好機を待つスターリン
 1923年のドイツでの武装蜂起失敗が象徴するように、欧州赤化の可能性が遠のくと、レーニンの後釜に座ったスターリン主導の下、ソ連は内向きになったかのように見えた。いわゆる一国社会主義路線である。しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわちソ連以外の国々との対決に備えた臥薪嘗胆の時期であった。ソ連の第一次及び第二次五カ年計画では、軍備増強がすべてに優先した(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。
 もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、共産主義者を使った破壊工作は継続していた。コミンテルンは1928年に、そのものずばり『武装蜂起』(Der bewaffnete Aufstand)と題する各国共産主義者に向けた「実用的」な教科書を編集、(偽名で)発行している。執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される赤軍の「ナポレオン」ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ錚々たる顔ぶれであり、失敗に終わった中国共産党の広東蜂起(1927年)や上海自治政府樹立(同)の事例が詳細に分析されている。
 そして、スターリンが決してレーニンの基本準則を忘れたわけではないことは、1925年1月19日、「ロシア共産党(ボ)中央委員会総会での演説」を見ればわかる。いずれ必ず来る戦争を前に共産主義者はどう行動すべきか。
 {そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。…われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。}
 資本主義国が内ゲバで弱ったところに、最後の一撃を加えて世界革命を完遂するという大原則に、最初からスターリンほど忠実な革命家はいなかったのだ。そしてスターリンが仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、資本主義列強を弱らせる「内ゲバ」だったのである。
 日本を翻弄するスターリン
 満州問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、スターリンは側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、日本に対して英米とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、アメリカへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。日米対立の利用である。
 {政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下しはじめたことである。これはきわめて重要な情勢だ。これに応じて、アメリカ合衆国ソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つ[ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行]の代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。}
 そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと首相ヴャチェスラフ・モロトフに今度は日中対立を利用して、日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。
 {もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させることを望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てるために、対中交渉を継続して長引かせる必要がある。}
 この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。バルト三国フィンランド後述するポーランドなど、不可侵条約を結んでおいて、侵略(スターリンから見れば解放)するのがソ連の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。
 満州国との領事交換に同意するなど、アメリカとは異なり、表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、スターリン反日キャンペーン強化を指示する。
 {私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった(声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。…日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある。}
 実際、10月26日からプラウダ反日プロパガンダ記事が次々と掲載される。「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家である。それにしても、具体的にパンフレットの名前(『日本における軍国ファシスト運動』)まであげるなど、その指示の細かさには驚かされる。日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された偽造文書「田中上奏文」が世界中で急速に浸透した背景に、こうした日本重視のブラック・プロパガンダ戦略があったことは間違いないだろう。
 しかし、スターリンを激怒させる事件もあった。朝鮮人を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。スターリンは1932年7月2日(より以前)、カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。
 {さる朝鮮人爆破工作員たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。…この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。}
 ここにも、スターリンの「反共資本主義陰謀論」が表れている。自国諜報機関が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と考えるのである。
 ところで、日本ではソ連スパイというとリヒャルト・ゾルゲを過大視する傾向があるけれども、実際、ゾルゲは数あるスパイの一人に過ぎない。諜報活動にも詳しいソ連研究者、黒宮広昭インディアナ大教授も指摘しているように、支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント(本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。ヴェノナ文書が明らかにしたアメリカでのソ連スパイ活動の規模から考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。
 支那事変に至るまでの共産主義者の策動については多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。支那事変以降のスターリンの対日政策については、黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。「スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、ソ連から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」
 スターリンに翻弄される日本とは対照的に、我が国の対ソ政策はソ連側に筒抜けであった。ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、ソ連は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。
 盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、ソ連は中国(国民政府)と日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、ソ連に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。11月18日にスターリンは、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる中国代表団に、ソ連だけでなく、アメリカやドイツからの武器調達の必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。
 {ソ連は現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連は戦争に突入する。}
 ソ連参戦が蒋介石政権を助けるためではなく、日中が疲弊し切ったところで、両者に最後の一撃を加えるためであることはいうまでもない。
 スターリンはさらに1939年7月9日、蒋介石にこう語った。
 {今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。}
 まさに、スターリンの高笑いが聞こえてくるかのようである。日本が対米英中のみならず、ソ連に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという東京裁判史観は、とりわけスターリンにとって片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。1938年2月7日、日本について立法院長孫科にスターリンが語った次の言葉の方が真実に近いであろう。
 歴史というのは冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、間抜け(дурак)を選ぶ。
 戦争挑発に舵を切るスターリン
 極東及び欧州で風雲急を告げるなか、共産党中央委員会名で1938年に刊行された『ソ連共産党小史』に見られるように、スターリンは、アドルフ・ヒトラー政権成立以降の民主主義対ファシズムという構図に基づく人民戦線路線から再度転換し、共産主義と資本主義の対立軸を前面に打ち出す。
 『共産党小史』刊行を受けたプロパガンダ担当者会議開催中の1938年10月1日、スターリンは大演説を行う。以下はその一部である。
 {戦争の問題に関するボルシェビキの目的、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。それは、ボルシェビキは単に平和に恋焦がれ、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ。それは全く正しくない。ボルシェビキ自らが先に攻撃する場合がある。戦争が正義であり、状況が適切であり、条件が好都合であれば、自ら攻撃を開始するのだ。ボルシェビキは攻撃に反対しているわけでは全然ないし、全ての戦争に反対してもいない。今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。全ての国家が仮面をかぶっている。「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて、手の内を明かすとしたら、それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる。…
 実は、レーニンは資本主義の跛行的発展状況の下、個々の国での社会主義の勝利が可能である、なぜなら跛行的発展つまり遅れる国がある一方、先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、レーニンはまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。…
 異なった国の間で社会主義への成熟度合いが異なっており、この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義が勝利する可能性があるなどとどうして語りうるのか。全くばかげている。そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義の勝利が可能であることだけに言及することは、レーニンの立場を完全に伝えていない。}
 革命家スターリンの面目躍如たる発言である。レオン・トロツキーのような世界同時革命論ではなく、機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していくという自らの方針こそ、レーニンに忠実な真の世界革命への道であるという強い自負が示されている。
 さらにスターリンは、1939年3月10日の第18回共産党大会における報告でも、社会主義すなわちソ連と資本主義の対立という構図を前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。
 慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる(загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。
 五か年計画による軍備増強で世界最大の軍事強国となり、大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリンは、この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、戦争を煽るるべく行動を開始する。
 共産党大会直後に起こったドイツのチェコ併合にも、ソ連は形式的抗議を行っただけで、英仏の宥和政策から強硬姿勢への転換とは好対照であった。英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、イギリス人を妻とし英米仏で受けがよかったユダヤ人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、首相のモロトフが外相兼務となり、独ソ連携の動きは加速する。
 ノモンハンでのスターリンの謀略
 さらに、極東では同じ時期、ノモンハン事件が勃発する。上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文「一九三九年ノモンハンの謎」で明示した。関東軍の第二十三師団長小松原道太郎中将がソ連のエージェントだったというのである。
 黒宮教授は次のようなスターリンの演説(1937年3月3日)からの引用で始める。
 {戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍兵士が必要であろう。しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ。}
 したがって、「ハイラルに小松原がいることは、日本の行動を挑発し、厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。これこそスターリンが考えていたことだったように思える。」。
 スターリンの狙いはずばり当たった。「ノモンハンは、ソ連に敵対する北方ではなく、米英蘭の権益に敵対する南方に向かうというその後の決断に決定的影響を与えた。ノモンハンは日本の対ソ野望に対するスターリンのとどめの一撃(coup de grace)となったわけである。モスクワがノモンハンで攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは日本の致命的誤りであった。」
 最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。「ノモンハンはスパイの重要性に関するスターリンの発言が正しいことを示した。小松原がいなければ、ノモンハンは起きなかったかもしれない。ソ連の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。小松原のおかげでそのとき赤軍は戦闘に勝利したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、ノモンハンの歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」
 日米戦実現に向けたソ連の謀略といった場合、尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを使った南進論への政策誘導や、アメリカにおける「雪作戦」(エージェントの名前が財務省高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。その重要性は疑いないけれども、陸軍内に一種の対ソ恐怖症を植え付け、対ソ北進論の勢いを削いだノモンハン事件は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。
 ヒトラーをけしかけるスターリン
 以下、同時期の欧州情勢について検証したい。1939年春以来、ソ連のドイツへの態度は軟化したものの、ダンチヒ自由市をめぐる争いでイギリスの「白地小切手」を得た(と思った)ポーランドの強硬姿勢に会い、ヒトラーは袋小路に入り込む。スターリンに最後の望みを託し、より踏み込んだ独ソ連携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。スターリンはより大きな「獲物」を得るべく、ドイツと英仏を競い合わせ、天秤にかけていたのだ。
 8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク駐ソ大使とモロトフの交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。ところが外交儀礼上、異例なことに、モロトフは大使を再度クレムリンに呼びつける。そして、独ソ不可侵条約を締結するようソ連政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。首相兼外相モロトフに指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、スターリンしかいない。
 一方、極東では翌20日、それまでの局地的小競り合いとは一線を画す赤軍の大攻撃がノモンハンで始まり、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。
 モスクワでは8月23日、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相とモロトフ独ソ不可侵条約に調印し、全世界に衝撃を与える。条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連の同意を得たドイツは、9月1日にポーランド攻撃を開始、ヒトラーの期待に反し、しかし、スターリンの思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。
 なぜ、スターリンは不倶戴天の敵であるはずのヒトラーと手を結んだのか。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日にスターリンがその動機を赤裸々に語った記録が残っている。
 {この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。
 権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。
 我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄することができる。不可侵条約はある程度ドイツを助けることになる。次の一手は反対陣営をけしかけることだ。
 資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。
 この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させることは全く正しかった。帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。
 この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョアジーの立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。
 かつて歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。現在、ポーランドファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョアファシスト国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。
 我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。}
 9月16日に東郷茂徳駐ソ大使とノモンハン停戦に合意したと発表した翌日の17日、モロトフポーランドの駐ソ大使に、ポーランドはもはや国家として存在しないので、領内に住む「血の同胞」であるベラルーシ人とウクライナ人をソ連が保護せねばならないと通告し、赤軍が「越境」を開始する。スターリンは決して「侵略などしない」。
 小松原師団長スパイ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、ノモンハン独ソ不可侵条約は、スターリンの戦略のなかで密接に関連していた。
 ノモンハン事件独ソ不可侵条約は、日本対アメリカとドイツ対英仏というレーニンの基本準則に沿って、スターリンが演出した一つのドラマとして理解する必要があるのだ。
 最後に躓いたスターリン
 そもそも自らが陰謀史観の持ち主であったスターリンは、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼレーニンの基本準則通りに進んだのである。
 まず、極東においては、スターリンの「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、ノモンハンで陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反英米に仕向けることに成功する。それに呼応して、アメリカでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領という「パートナー」の存在もあって、スターリンの思惑通り、日米は激突することとなった。
 しかし、スターリンは欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、予想外のフランスの早期戦線脱落で予定が狂い始め、最後の段階でヒトラーの対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。資本主義国同士を戦争で疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだったのに、ソ連は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。
 スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。
 結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義というもう一つのグローバリズムであった。
 (付記) レーニン演説及び一九二五年スターリン演説は大月書店刊『レーニン全集』及び『スターリン全集』、その他引用は拙訳を用いた。
 福井義高氏 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。
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